ある雑誌の原稿で憲法とはそもそも何なのかについて思うところを書いたのだが、いつもの如く締切が迫ってから(むしろ締切を過ぎてから)本格的に書き始めたので、趣旨がイマイチ不鮮明になってしまった。簡単にいうと、言いたかったのは以下のようなことだ。私は憲法の専門家でもなんでもないので、素人としては素朴にこう思いますと言ってるだけで、もっとマジメな議論はどっかで誰かがやってくれてれば良いと思う。
立憲主義の限界
「憲法は権力を縛るためのもの」という意味での立憲主義は、思想としては重要で、かつ歴史的意味は大きいと私も思う。
しかし、第一に憲法は制限規範であると同時に授権規範でもあること、第二に憲法には社会権の規定があって「権力による自由」の保障を行うのが現代憲法であること、第三に憲法には国民の義務規定もあること(米国憲法に義務規定がないという例がよく挙げられるが、ほかの主要国を見てみれば兵役なども含めて義務の規定があるのは珍しくない)を考えると、我々が服しているところの現代憲法を理解するための枠組みとしては不十分なのではないか。「権力を縛るための規範」だと考えると余計だと思えて仕方ない部分がいっぱいあるのだ。
憲法学の教科書にも載っている分類でいうと、「立憲的意味の憲法」のほうではなくて「固有の意味の憲法」のほう、つまり「国家統治の基本原則」という意味での広義の憲法観を念頭において憲法を語ったほうがいいんじゃないかと私は思う。
改正限界説の解釈
「憲法とは」という問いについて考えておくことが重要なのは、それにどう答えるかによって、「憲法に書いておくべきこと」と「法律で規定すればいいこと」の線引きが変わってくるからだ。こないだある本を読んでいたら、憲法9条の改正案と称するめちゃめちゃ長い条文案を見たのだが、「そんなに細かいことまで憲法で書く必要ある?」というツッコミがあり得て、このツッコミに答えるためには「憲法とは何なのか」という議論がどうしても必要になる。
では「固有の意味の憲法」について考えるのだとして、そこには何が書いてあるべきなのか。
ヒントになるのは憲法の「改正限界説」というやつで、日本の憲法学会ではこれが主流らしいのだが、要するに憲法に書いてあることのうちその趣旨の根幹部分については、96条の改正手続きをもってしても不可能であるとされている。
限界説の根拠については、たとえば憲法制定権力自身が憲法的規範へのアクセスを放棄するような改正は、背理であって論理的に無理だというような説明がされることもあるようだが、もっと素朴に解釈すれば、憲法の規定のうちいくつかの事項については「憲法制定権者の意志が変わらないはずだ」ということだろう。
要するに憲法のコアには、普遍かつ不変の、つまり国民の「全員一致でしかも時代とともに変わったりもしないような規範意識」が据えられているということになる。
一般意志
もちろん、全員が賛成できてしかもその合意が変わらないようなルールなんて、実際には制定不可能なのだが、理念的な整理としてはそういうものだと理解しようという意味だ。
これは要するにルソーの「一般意志」のようなものを、憲法の規定範囲だとみなすということである。ちなみに西部邁の『ソシオエコノミックス』という本を読んでいたら、規範には「多数決」で決めておけばよいものと「全員一致」でなければならないものがあるはずだというふうに概念整理しておくべきで、後者を規定するのが憲法だと理解するのがよいと提案されていた。
そもそも多数決で何かを決めることができるのは、多数決で決めるということそれ自体については全員が予め賛成しているからだ。そういう、「全員一致的」とか「全員一致性が高い」とでも言うべき規範ってのが、何かしらあるはずだ、あるいは社会というのはそういう建前で動いてるのだと考えておくほうが物事がよく理解できる。
しかし一般意志の何たるかは具体的にはよく分からないわけだから、そういう真の意味での憲法というのは、じつは制定されることがない。じゃあ我々が服しているあの憲法は一体、どういうものとして理解しておくのがいいのか。
英米法と大陸法
憲法に限らないが、英米法においては慣習法や判例法が重んじられていて、その積み重ねを通じて「コモン・ロー」(やエクイティ)の何たるかが明らかにされるということになっている。日本は大陸法の系譜にあって、要するに成文法主義なのだが、成文法主義おいても法の「制定」や「改廃」という作業を行う際には慣習やら社会通念やらが意識されているはずで、何も考えずテキトーにつくった法律に「俺たち成文法主義だから」と言って黙々と従っているわけではない。
成文法主義は革命によって生まれたような国において採られやすいのだけど、革命ですら、たぶん革命家自身はその路線に歴史的正統性があるという建前でやってるはずだ。
だからこの点では、英米法と大陸法には意外と根本的な違いはないとも言える(もちろん違いはたくさんあるけど)。大陸法を英米法風に理解する、というアプローチで割と色々なことがすっきりして来る予感がするな。
憲法の実際
で、成文法主義の国における憲法というのは、要するに「一般意志」の中身がどんなものであるかについて、各時代の国民が最大限頑張って作文してみた記録である、というふうに理解しておけばよいのではないか。特定の時代の特定の国民の能力は限られているから、普遍かつ不変の規範など書くことはできないのだが、そういうものを書こうと思って慎重かつ真剣に、めっちゃ頑張って書いた「憲法」は、そうでもない単なる「法律」よりは一般意志に近いはず……と期待することにするのだ。
だから憲法は当然、ちょっとずつ改正されていくのが自然だということになる。ただし気軽に改正していいわけではなく、最大限の慎重さが求められるのだが。そしてその慎重な改正作業の歴史的積み重ねを通じて、我々の根本的な規範意識がどのようなものであるかが、少しずつ浮かび上がってくる(と期待する)わけである。
憲法のコア部分は改正が不可能だとする「改正限界説」は、私は理念的には正しい思想だと思っているのだが、現実の国民には「どこからどこまでが憲法のコアなのか」を完璧に判断することはできないわけなので、改正の限界それ自体も結局は理念的なものだという理解になる。ちなみにこう考えておけば、「じゃあコア以外は憲法から削っていいんじゃないの?」というツッコミに答える必要がなくなって憲法学者も助かるはずだ。全部が「コア候補」だと思っておけばよいので。
日本国憲法はどうなのか
日本国憲法は全文からしてめちゃくちゃな文書だと私は思っている(しかし全体の骨格は大きく変える必要もない気がしているが)し、そもそも占領軍が殆ど書いたもので「歴史的正統性」という点では怪しいわけだが、占領軍の指示に寄り添っておきたいという気分を敗戦後の日本人が抱いたのは確かなのだろうし、そもそも国民が精神的に混乱していたことを想像すると、その混乱模様がよく反映されているという意味でも、これこそ憲法らしい憲法だという気もしてくる。
戦後日本人はずっと、これが我々の一般意志であると思っておきたいという気分だったんだろう。さほど慎重な努力の上で書かれたものではないから憲法失格だとも言えるのだが、70年間も改正していないのだから、結果的に「いろいろ考えたところ、だいたいこれで良い」ということになってしまってるのだ。
たとえば日本国憲法は国際協調主義をしつこく謳い過ぎで、自主独立ということの重要性を謳っていないのが私は不満だが(前文の「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国」という文言を、国家とはそういうものなのだと言っていると理解することもできるかもしれないが)、大戦争にまけた直後の国民が国際協調主義や平和主義を強調しまくった憲法を書きたくなる気持ちは理解できる。
だから、もうこれはこれで仕方なかったのだととりあえず思うことにして、戦後70年の歴史の中でもっと大事なことがあると我々が気づいたのだとすれば、それを書き加えていけばいい。
憲法とは一般意志についての仮説のようなもので、仮説をちょっとずつ修正していって現時点では最も正しそうだと思える状態に保っておくというプロセスが大事なので、肩ひじ張らずに、変えるべきところは変えればいいし、日本国憲法は酷いと血眼になって怒る必要もないのではないか。
まとめ
まとめると、
- 立憲主義も重要な思想ではあるが、憲法の性質を理解する上では、じつは「改正限界説」のほうがより重要だと思う。
- 憲法のコアを改正できないということは、そのコアは国民における「普遍かつ不変の規範意識」を明文化したものだということになる。
- しかし普遍かつ不変の規範にたどり着く能力をもった国民は実際には居ないだろうし、憲法の「コア」がどこからどこまでかというのも決められない。
- だから真の憲法、真の憲法制定権力、真の改正限界というものは具体的には明らかにならず、それらは理念的存在ということになる。
- しかし我々は、そういう理念を念頭におきながら、仮説としての憲法を制定したり改正したりすることはできる。仮にそれが国民の最大限に慎重な努力によりなされるのであれば、その歴史的な積み重ねを通じて、少しずつ「普遍かつ不変の規範意識」に接近できるかも知れないと考えておけばよい。
- そのように、大陸法的な成文法における「制定改廃の積み重ね」を英米法的に解釈することで、「憲法が究極の規範だと言いながら、改正できるというのはおかしいのでは」「なぜ特定の時代の特定の国民が、究極の規範を制定する能力と権利を持つと言えるのか」「コア以外の条文が憲法から削るべきではないか」といったいくつかの問題を解消できる。