The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

ヤスパースの『哲学入門』に関するメモ

ヤスパースの『哲学入門』(新潮文庫版)を昔読んで作ったメモを久しぶりに見つけたので、貼り付けておきます。
20世紀の哲学や認識論の到達した境地を非常によく見通せる名著だと思います。とくに、(サルトルみたいなのではなく)キルケゴールやハイデガーの意味での「実存」の哲学に関心がある者にとっては。


本書はヤスパースがラジオでしゃべった入門的な哲学講義をまとめたものですが、求められる思索の密度という意味ではぜんぜん「入門」レベルではないですね。
ただ、予備知識を多く必要とせず、じっくり考えればある程度分かるレベルのことが書かれてあるという意味で、たしかに専門的な内容ではないです。その意味ではいわば、主題もスタイルも違うものの、ウィトゲンシュタインの本を読むのに似ているかも?
ちなみに、ヤスパースの哲学を深堀りしようと思ったら、『哲学 I 〜 III』とかを読むことになるわけですが、非常に難解で私は(古本で買ったけど)途中で読むのをやめてしまいました。ヤスパースは『哲学入門』と『現代の精神的状況』しか通読してないと思いますgあ、哲学徒でない自分にとっては十分学ぶことが多かったです。


以下、抜書きと、たまに自分のメモです。


○ 確かに、私たちはギリシア時代の医者であったヒッポクラテースよりもはるかに進歩しています。しかし私たちはプラトーンよりも進歩しているとはいえないのです。(p.8)


○ 哲学において獲得される確実性は、科学的な性質のもの、換言しますと、どの悟性にとっても同様な性質の確実性ではなくて、それが成功した場合に人間の全本質が参加してともに語り合うことができるといったような確認(Vergewisserung)なのであります。(p.9)


○ 哲学の多様さ・矛盾・相互に排斥しあう真理主張、これらは根底においてある一なるものが働いていることをいなむことができない。ただ何人もこの一なるものを所有することなく、あらゆる真剣な努力がその周囲を常に回転しているだけなのであります。(p.21)


○ 私は自ら努めて状況を変化させることができます。しかし私は死なねばならないとか、私は悩まねばならないとか、私は戦わねばならないとか、私は偶然の手に委ねられているとか、私は不可避的に罪に巻きこまれているなどというように、たとえ状況の一時的な現象が変化したり、状況の圧力が表面に現れなかったりすることがあっても、その本質においては変化しないところの状況というものが存在します。私たちはこのような私たちの現存在の状況を限界状況(Grenzsituation)と呼んでいるのであります。(p.26)


○ 私たちが限界状況に対していかなる態度をとるかといえば、それはこの限界状況を糊塗するか、あるいは私たちが限界状況を本当に把握するかぎり、絶望と回生によってそれに対処するかの、いずれかであります。(p.27)


○ 哲学の根源は驚異・懐疑・限界状況の経験のうちに存するのでありますが、しかし究極的にはこれらすべては総括して、本来の意味における交わりへの意志のうちに存するのであるといわれるのです。このことはすでに最初からして、あらゆる哲学は伝達への衝動をもち、自己を語り、傾聴されることを欲するということ、すなわち哲学の本質は伝達可能性そのものであり、またこの伝達可能性は真理存在から離すことのできないものであるということにおいて明らかになっているのであります。(p.37)


包括者(das Umgreifende) このおのおのの瞬間に現れる主観=客観の分裂の秘密は何を意味するのでしょうか。しかし存在は全体としては客観であることも、主観であることもできないで、むしろ《包括者》であらねばならないということ、そしてこの包括者が分裂して現象となって現れるということは明瞭であります。(pp.41-42)


○ 包括者はそれ自らは対象とならないけれども、自我と対象との分裂において現象となって現れるのであります。(p.42)


○ このようにあらゆる対象、あらゆる思惟された内容、あらゆる客観は、いずれも二重に分裂しているのであります。第一にそれは私、すなわち思惟する主観、と関係し、第二に他の対象と関係しています。あらゆる対象は思惟された内容として、けっしていっさいであることも、存在の全体であることも、存在そのものであることもできません。思惟されているということは、すべて包括者の外へ脱落していることを意味します。(p.42)


○ 実存として私たちは神──超越者(Transzendenz)──に関係しています。そしてこの関係は、実存が暗号(Chiffre)または象徴(Symbol)たらしめるところの事物の言語によって生ずるものであります。私たちの悟性も私たちの生命的な感性も、この暗号的存在の現実をとらえることはできません。神の対象的存在はただ実存としての私たちにとってのみ一個の現実であって、経験的に実在的で、強制的に思惟可能で、感覚的に触発するところの対象とは全然異なった次元に属しているのであります。(p.46)


○ そこでもし私たちが包括者を確認しようとすると、すぐにそれは若干の包括者の様式へ分類されます。そしてこの分類はあの主観=客観の分裂の三様式を手引きとして行われます。すなわちそれは第一に、意識一般としての悟性──意識一般として私たちはすべて同一的であります。第二に、生ける現存在──生ける現存在として私たちはそれぞれ特殊な個体であります。第三に、実存──実存として私たちは私たちが歴史的であることにおいて本来的に私たち自身であります。(pp.46-47)


○ 数千年以来中国やインドやヨーロッパの哲学者たちは、たとえ伝達様式においていろいろ異なっていても、いかなる場所においても、いかなる時代においても、同じような意味のことを申しております。すなわちそれは、人間は主観=客観の分裂を越えて、主客の完全な合一へ到達することができる、そしてそこではあらゆる対象性も自我も消滅するというのであります。そのとき本来の存在が開かれ、そして目ざめたとき、それはもっとも深い、汲みつくすことのできない意味の意識を残すのであります。(p.47)


○ 語りうるようになるものは主観=客観の分裂へ陥る。そして無限に意識が明白化されていっても、けっしてあの根源の充実に到達することはないのです。しかし私たちが語りうるものは、ただ対象的な形態をとるものに限られています。根源は伝達不可能であります。(p.48)


○ これらの存在論や形而上学はしばしば対象的知として理解されているのですが、しかしこれらのものを対象的知として見ることは、絶対的に誤りだからであります。また実際において、これらの存在論や形而上学はこのような対象的知に尽きるものではなくて、むしろ存在の暗号文字であったのです。(p.49)

⇒ プラトン以来の西欧の哲学が語った形而上学も、(ハイデガーが批判した意味での形而上学としてではなく)メタファーとして受け取るべきだということか?──プラトンとハイデガーの差異の解消みたいな。


○ 包括者への人間の飛躍は、対象を規定する思惟の媒介において、しかもそれにおいてのみ、起こるものであります。

⇒ 「媒介」という言葉が重要。「対象」は所詮、真の存在ではないが、それを媒介しなければ、真の存在たる「包括者」に触れることができない。


○ それではこの信仰はどこからくるのでしょうか。それは根源的には世界経験の限界から出てくるのではなくて、人間の自由から出てくるのであります。自己の自由を本当に悟る人間が、同時に神を確認するのです。自由と神は不可分のものであります。なぜでしょうか。
 私が自由である場合、私は私自身によって存在するのではなく、私は私に授けられているのであるということを、私は信じて疑わないのであります。なぜなら、私が私のものでないことがあり、また私は強制的に私を自由たらしめることはできないからであります。私が本当の意味で私自身である場合は、私は自分自身によってそうであるのではないということを疑わない。最高の自由は、世界から自由であることによって、同時に超越者ともっとも深く結合されていることとして自覚されるのであります。
人間が自由であることを、私たちは人間の実存とも呼びます。神は、私が実存する場合とるところの態度としての決定性をもって、私にとって確信されるのであります。神は知的内容として確実であるのではない。むしろ神は実存にとって顕(あらわ)であることとして確実なのであります。(pp.64-65)


○ 私が自由において本当に私自身となる程度に応じて、神は私にとって存在するのであります。神はまさしく知的内容として存在するのではなくて、実存にとって啓示されることとしてのみ存在するのであります。(p.66)


○ 神は世界内においてはけっして把握できるものとはならないということは、同時に人間は世界内において現れる把捉されるものや、権威や、暴力などのために、自己の自由を手離してはならないということ、むしろ人間は自己自身に対して責任をもっているのであって、彼はいわゆる自由からして、自由を放棄することによって、この責任を逃れることは許されない、ということを意味するのであります。人間は、自分が決断し、道を見いだすということを、自分自身に負わねばならないのであります。(p.67)


○ ものの直観はすべて、ものを形象として示そうとすると、かえってそれを隠すからして、もっとも決定的な神への接近は、無形象性において可能なのであります。しかしながら、旧約聖書のこの正しい要求は、旧約聖書そのものにおいてすら満たされていないのであります。と申しますのは、そこには神の人格性が形象として、すなわち神の怒りや、愛や、裁きや、恩寵として残っているからであります。すなわち旧約聖書の要求は満たされえないのであります。(p.70)

⇒ 偶像崇拝の禁忌について。


○ 人間の思惟能力には、たえず形象が立ち現れるものであります。しかし哲学的思想において、直観と対象がほとんど消失するとき、おそらく究極においてあるきわめてかすかな意識が残存するでしょう。そしてこの意識こそはかすかであっても、それが活動するならば、生を創造するものたりうるのであります。(pp.70-71)


○ 「哲学すること」の究極において残るところのあのかすかな意識は、おそらく私たちがその周囲を回るだけで、直接それをとらえることのできぬものでありましょう。
それは存在の前における沈黙であります。対象となるかぎり、私たちから失われてゆくところのものの前で、言葉が停止するのであります。(p.71)


○ 一つの、ただ一つの神を信ずる人間の生活は、多くの神々をもつ生活に比べると、あるまったく新しい地盤へおかれているのです。一なるものへの集中は実存の決断に対して、はじめてその本当の根拠を与えるものであります。限りなく豊かさは究極において放散します。(p.72)


○ すなわち本来の「哲学すること」は知の確実さをもたらさないで、本来の自己存在にそれの決断の自由な空間をもたらすのであります。(p.75)


○ 哲学は与えない。それは単に覚醒さすことができるだけです(p.75)


○ いずれの場合にあっても、二者択一が、したがって決断の要求が、現れております。人間は、本質的になるかぎりにおいてのみ、これかあれかを欲することができます。彼は傾向を追うか、義務を追うかのどちらかです。彼は本末を転倒するか、自己の動機の純粋性を守るかのどちらかです。かれは憎しみによって生きるか、愛によって生きるかのどちらかです。しかしこの決断を彼は放棄することができます。私たちは、決断するかわりに、生涯をふらふらとすごしていって、これとあれを結合し、そしてこのことを必然的矛盾として承認したりさえするのです。この非決断性はすでに悪なのであります。人間は、善と悪とを区別するとき、はじめて目ざめたのであります。(p.90)


○ 実際において人間は二様の様態において──研究対象として、ならびにあらゆる研究によって知られない自由の実存として、──とらえられるものであります。(p.94)


○ 私たちは、人間とは何であるかということを、人間について「知られていること」において尽くすことはできないので、むしろ私たちの思惟と行為の根源において経験することができるだけであります。人間は原則的に、人間が自分について知ることのできるものよりも以上のものであります。(p.94)


○ 私たちは自分自身で自分を創造したのではありません。人は誰でも自分について、自分が存在しないということがありえただろう、と考えることができる。このことは動物と共通した事柄であります。しかしそれ以外に、私たちは自分の自由において存在するのです。(p.95)


○ 私たちは自分自身によって存在するのではなくて、むしろ私たちは自分の自由において自分に授けられるのです。(p.96)


○ 自由の絶頂においては、私たちの行為は必然的であるように思われるのです。しかしそれは自然法則によって不可避的に生起するという外的強制によってそうなのではなく、むしろ他に欲しようがないというような仕方で意欲する人の内的な承認としてそうなのです。ところでこのような意味における自由の絶頂においては、私たちは、自分が自由であるということにおいて、超越者から私たちに授けられているという意識をもつのです。かく人間が本当の意味で自由であればあるだけ、それだけ彼にとって神の存在が確実となるのであります。私が本当の意味で自由である場合、私は私自身によって自由であるのではないということを、私は確認するのです。(p.96)


○ 世界はけっして対象ではない。私たちは常に世界のうちに存在し、世界のうちに存在している諸々の対象を所有しますが、世界それ自身はけっして対象とはならないのです。(p.114)


○ しかし科学的な世界知の隠れた意義は、科学的研究によって、もっとも明快な知に対して無知の空間が開かれるような限界に到達するということであるように思われるのであります。と申しますのは、完全な知のみが本来の無知に到達することができるからであります。かくて知られる世界像においてではなく、むしろ充実せられた無知において、しかも科学的認識を欠いたり、科学的認識以前においてではなくして、むしろ科学的認識の途上においてのみ、本来的に存在するものが現れるのであります。認識の情熱とは、この情熱が最高度に高まることによって、まさに認識が挫折する場所にまで到達しようとすることなのです。無知において、ただし充実せられ獲得せられた無知においてのみ、私たちの存在意識の独特の源泉が存するのであります。(pp.115-116)

⇒ 科学主義は排されなければならないが、科学は、人間を、宗教的ともいうべき真理の空間の一歩手前まで連れて行く乗り物のようなものであるということ。浅田彰が、You Tubeにアップされている動画で似たような趣旨のことを述べていた。


○ これらの私たちにとって可能な知の根本的特徴は、あらゆる対象は現象であるにすぎない、認識された存在はけっして存在自体でもなければ、全体的存在でもないということを意味しています。この現存在の現象性は、すでにカントによって完全に明らかにせられたところであります。(p.119)


○ 人間は、欲すると否とを問わず、知ると知らざるとを問わず、また事を行うに当って、偶然に、しかも一定の定めなくするか、それとも決定的に、しかも永続的にするか否かを問わず、とにかく、何かを絶対的なものと見なさざるをえないのであります。人間にとっては、いわば絶対的なものという場所が存在しているのであります。(p.120)


○ 隠れた神は、私がそれを一般的にかつ永久的にとらえようとしたり、理解しようとするかぎり、ますます遠くへ退いていく、神は、そのつどの一回かぎりの状況のうちに現れる神の言葉という、絶対的に歴史的な形体を通じて、計り知れず接近しているのである(p.123)


○ 世界存在はそれ自体としては存在しない、世界存在のうちにおいては、神の言葉がたえざる多義性において現れる。しかしこの神の言葉は、一般化されることなく、ただ歴史的にのみ刹那的に、実存にとって一義的でありうる(p.123)


○ 私たちは哲学的信仰の根本原理をつぎのように表現しました──神が存在する、無制約的な要求が存在する、人間は有限的で未完成である、人間は神の導きによって生きることができる、世界の実在性は神と実存の間にはかない現存在をもつ、と。この五つの原理は相互に強めあい、交互に成長させあいます。(p.127)


○ しかし「哲学すること」はあらゆる条件のもとにおいて、その内的独立性を闘い取ることを意味します。(p.164)


○ この哲学者は感嘆の的であるとともに、また疑惑の的ともなります。……独立性が純粋であることは非常にまれでありまするから、したがってそれは未熟な、しばしば滑稽な依存性として現れるのであります。(pp.165-166)

⇒ 隠遁・厭世の哲学者について。


○ しかし存在は、単に「見ること」に没頭することによっては、顕になりません。どんなに真剣であっても、それが孤独な幻想であるかぎり、すなわちどんなに印象的な話し方や感動的な譬喩であっても──知や告知のどんなに威圧的な言葉であっても──それが交わりを欠いた伝達であるかぎりは不十分であります。(p.169)

⇒ 「見ること」とは、subjectとobjectの二元論的対立のなかでの営みにすぎない。


○ 独立ということは、私が世界を放棄するということによって、実現せられうるのではありません。この世界内において独立しているということは、むしろつぎのような世界に対する固有の関係を意味するのです。すなわちそれは、世界にかかわっているとともに、世界にかかわっていないということであり、世界の内に在るとともに、世界の外に在るということであります。(p.173)


○ 私たちの可能的な独立性の第三の限界は、私たちの人間存在の根本的性質であります。私たちは人間としてのがれることのできない根本的錯誤にとらわれています。私たちの意識が目ざめたそもそものはじめから、すでに私たちは欺瞞に陥っているのであります。
 聖書はこのことを原罪によって神秘的に説明しています。ヘーゲルの哲学においては、人間の自己疎外が大規模に開明されています。キルケゴールは私たちのうちにある悪魔的なものをとらえてきて、人が絶望的に自分自身のうちにとらえられ閉じこめられていることを深刻に描いています。(p.176)

⇒ なるほど、ヘーゲルの「疎外」論を「原罪」と重ね合わせて読むのか!


○ 私たちの可能的な独立性はいつも超越者への依存性なのであります。(p.176)


○ 哲学の財産を積み重ねないで、進行としての「哲学すること」を深めること。(p.177)

⇒ 今日における哲学のあるべき姿が6箇条ぐらいにまとめられているうちのひとつ。


○ 交わりにおいて実現されないものは、いまだ存在しないものであり、究極において交わりに基礎をもたないものは、十分な根拠をもたないものであります。真理は二人から始まるのです。(p.185)

⇒「交わり」=「kommunikation」


○ 「哲学すること」は、知的可能性の限界における徹底的に謙虚な態度をもって、知の限界において知られないものとして現れるものに対して、心がまったく開かれていることを知っています。(p.188)


○ 哲学的な思想は応用されません。むしろそれは、人間自身はこの思想を遂行することにおいて生きるとか、生活は思想をもって貫かれている、などという言葉で示されうるところの現実なのであります。(p.190)

⇒ 「思想=現実」ということ。


○ しかし重大なことはきわめて単純であって、普遍的な命題としてこそ表わされませんが、具体的な状況に対する標識として表わされるものであります。(p.192)


○ 二千五百年にわたる哲学史の全体は、あたかも人間自覚の一大瞬間のようなものであります。(p.200)


○ 哲学史の全体的発展を進歩の過程としてながめることは誤りであります。哲学史はそれがもつ最高の作品の独自性と一回性によって、芸術史に似ています。(p.208)


○ と申しますのは、「哲学すること」の意義は現在性ということだからです。私たちは「ここ」と「今」において現実をもつにすぎません。私たちが回避することによって取逃がしたものは、けっして二度と帰ってきません。しかしもし浪費するならば、私たちは存在を失います。毎日毎日が高価なのです。すなわち瞬間がいっさいでありうるのです。(p.213)


○ 私たちは自分で考えることによって真理に到達するのでありますが、しかしそれは私たちがあらゆる他の人びとの立場に立って考えてみるという努力をたえず続ける場合においてだけ、いわれることなのです。(p.223)


○ 哲学に関する著作のうちで若干の少数のものは、その思想的意義において、偉大な芸術作品と同様に無限であります。これらの著作においては、著者自身が知っていたことよりもより以上のことが思惟されています。一般にあらゆる深い思想のうちには、それを思惟した者が、帰結に関してその当座観取できなかったことが宿っています。(p.259)


○ 古くからの助言は、プラトーンとカントを学ばねばならない、それによってあらゆる本質的なことが獲得されるだろう、というのであります。私もこの助言に賛成であります。(p.261)