
- 作者: 三木清
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1978/09
- メディア: 文庫
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アマゾンレビューに昔書いたものを転載。
三木清の『人生論ノート』はまぎれもなく名著の中の名著だと思う。多くは「箴言」の形をとって人間の「生」のありように深い納得をもたらしてくれる思想書で、読んでいて震えが来るような鋭いメタファーが各章に散りばめられている。140ページ程度の薄い本で、23本のエッセイ集のかたちをとっているから、つまみ食い的な読み方をしても問題はない。
ただ、多くの人にとって読みやすいとは言えないかも知れない。
本書は、哲学者の三木清が、「死」「幸福」「懐疑」「習慣」「虚栄」「名誉心」「怒」「人間の条件」「孤独」「嫉妬」「成功」「瞑想」「噂」「利己主義」「健康」「秩序」「感傷」「仮説」「娯楽」「希望」「旅」「個性」といった人生の諸局面について、エッセイ風に論じた人生論集ということになっている。しかし、「人生論ノート」というタイトルそのまんまの内容をイメージして本書を手に取った人は、たぶん面食らうだろう。
「人生論」というよりも本書はやはり「哲学書」であって、過去の哲学者たちの「文献」のかわりに「人生」を材料にして、厳密な「哲学」を展開したものと言ったほうがいいからだ。
死について一通り思いをめぐらしてみたとか、近代という時代の貧しさや、思想することと生活することの固い結び付き等について考えてみたとか……そしてそのために、カントやらキルケゴールやらニーチェやらハイデガーやらの哲学書に触れてみたとか、そういう経験を持っていないと、スラスラとは読めないかも知れない(そういう経験を持っていないとショボい、的なことを言いたいのではない)。
だから他人に軽々しくお勧めできるものではないのだが、誤解してでもひとまず受け取っておいたほうが良いような名言が随所に登場するので、やはり名著に違いはないと言っておきたいと思う。以下、本文から私の気に入った箴言を引用しておきます。
「彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福である」(幸福について)
「私が恐れるのは彼の憎みではなくて、私に対する彼の憎みが習慣になっているということである」(習慣について)
「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる」(虚栄について)
「名誉心と虚栄心とほど混同され易いものはない。しかも両者ほど区別の必要なものはない。この二つのものを区別することが人生についての智慧の少なくとも半分であるとさえいうことができるであろう」(名誉心について)
「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にあるのである」(孤独について)
「もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である」「どのような情念でも、天真爛漫に現れる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない」(嫉妬について)
「時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終わるのはその一つの例である」(利己主義について)
「感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている」(感傷について)
「第一級の発明は、いわゆる技術においても、新しい技術的手段の発明であると共に新しい技術的目的の発明であった。真に生活を楽しむには、生活において発明的であること、とりわけ新しい生活意欲を発明することが大切である」(娯楽について)
「愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるというのは二人のいずれよりもまたその関係よりも根源的なものであるということである」(希望について)
「七つの天を量り得るとも、誰がいったい人間の魂の軌道を計ることができよう。私は私の個性が一層多く記述され定義されることができればできるほど、その価値が減じてゆくように感じるのである」(個性について)