- 作者: ハンナアレント,Hannah Arendt,志水速雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1994/10
- メディア: 文庫
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本書はアレントの主著のひとつであり、社会思想の領域で私にとってもっとも刺激的だった古典のひとつでもあり、多くの社会科学系の学生に人気の本でもある。
〈本書の目的──「われわれ」を思考する〉
以下に要約するように、「生命」「世界性」「多数性」という人間の条件から生まれる、「労働(labor)」「仕事(work)」「活動(action)」という能力がある。これら3つの活動力(activities)は、あらゆる時代を通じて人間一般に備わっている。本書の目的は、この3つの能力相互のヒエラルキーの変遷──古代における「活動」の優位から、近代における「労働」の優位に至る過程──を追うことにより、現代社会を生きる我々が「いったい何を行っているのか」を考えることである。そしてその考察を通じてアレントが伝えたいのは、現代の「大衆社会」が人間にとっていかに危機的なものであるか、という懸念である。
〈人間論──3つの活動力〉
「労働」とは生命を持続させるための活動力のことであって、人間にとって欠かすことのできない能力ではある。
しかしそれは「必要」に従属し、生命過程の反復的なサイクルに閉じ込められた、もっとも動物的な活動力にすぎない。また「労働」の生産物は、ただちに消費されて生命の糧となるのであって、自分という人間が存在したという事実を「世界」に刻み込むような、耐久性のある製作物を作り出すことはできない。
「仕事(製作、工作)」とは、この「労働」の動物的なはかなさを乗り越えることを可能にする、文化的な活動力である。つまり、「仕事」の製作物には永続的な耐久性があり、それは「消費」されるのではなく、何らかの目的のために「使用」される。このような製作物の総体をアレントは(自然とは区別して)「世界」と呼ぶ。また、「仕事」は耐久的な道具を製作することによって、「労働」の苦痛を緩和し、時には人間を労働の必要から解放さえしてくれる。
しかし「仕事」にも固有の悲しさがある。つまり、「仕事」における製作物はそれ自体としては何の意味をも持たず、せいぜい道具として「手段─目的」の連鎖関係のなかに置かれているにすぎないということである。
「仕事」が作り出す「世界」に有意味な物語を与えるのは、「活動」と「言論」の能力である。ただし、活動と言論にも「不可逆性」「予言不可能性」という困難が伴うのであって、この困難を克服するために人間は、「許し」と「約束」という救済手段を持つ。
〈活動論──社交の物語〉
「労働」「仕事」「活動」のいずれの活動力も「人間の条件」に深く関わっているが、人間の人間らしさとして最も独特なのは、「活動」の能力──意味を持った「物語」の中でユニークな個人の主体性を「暴露」し、「共通感覚」を育んで世界の「リアリティ」を作り出す能力──である。「労働」や「仕事」をしない人間というのは考えられるが、「言論なき生活、活動なき生活というのは世界から見れば文字通り死んでいる」(p.287)のだ。
「多くの活動──ほとんどの活動、といってもよいが──は言論の様式で行われる」(p.290)とアレントがいうように、「活動」とは広い意味での(非言語的なものも含めた)「コミュニケーション」活動のことである。 あるいは「社交」のことだと言ってもいい。
コミュニケーション活動が織り成す「人間関係の網の目」のなかで、人間はユニークでオリジナルな物語の主人公として、「自分は何者であるか」を暴露する。注意すべきなのは、この主体の「正体(who)」は、あくまで物語としてしか表現できないということだ。活動と言論において暴露される「正体」とは、ウィトゲンシュタイン風に言えば「語り得ないが示し得る」ようなものであって、それ自体を言葉で直接的に言い表すことはできないのである。
ところで、「仕事」の製作物(道具や芸術作品)であれば事後に取り壊すこともできるだろうが、「活動(=社交)」の場における行為の結果は、一般に不可逆的であって取り消すことができない。また、「活動」は人間関係の網の目のなかで、無際限の「リアクション」の連鎖を惹き起こす。それゆえ人間は、「活動」が招く結果を予言することはできない。(だから人間は、この不可逆性を統御するために「許し」の能力を、そして予言不可能性を統御するために「約束」の能力を持つに至ったのである。)
したがって活動する人間自身は、自らの活動の「意味」を、演じることはできても理解することはできない。活動の意味の理解は、極論すれば、活動者の死後に歴史家によって可能となるのみである。
ということは、「活動」は明確な目的=終局を設定せずに行われることが普通だということである。「活動」を「社交」と言い換えればこのことはよく理解されるだろう。「仕事」は、イデアとしての明確な完成像を念頭において製作物を作り上げる過程であるが、「活動=社交」には特定の最終目的は存在しないし、それを設定することもできないのである。
〈大衆社会論──近代への批判〉
アレントは本書を通じて、「活動」が「仕事」に取って代わられ、「仕事」が「労働」に支配されていく歴史的な過程を描いている。第3章では、富の増大と蓄積の過程を「労働」の価値をベースに説明したロック、スミス、マルクスの経済学説が検討され、第6章では、デカルト的懐疑が「生命」を最高善の地位にまで押し上げて、「労働する人間」という人間像が完全勝利をおさめるに至る哲学史的な経緯が説明される。
労働過程とは「生命」の再生産の過程にほかならないが、「生命」それ自体は人間にとって最も私的なものである。その私的なものであるはずの「労働」が、「公/私」の境界を突き破って人間生活の全面を支配する状態、それをアレントは「社会」と呼ぶ。「社会」とは、「公的領域」(典型的には「政治」の領域)と「私的領域」(典型的には「経済」の領域)の区別が曖昧化され、人間の集団全体が一個の生命過程として捉えられる状態のことであり、「近代」を特徴づける人間の生活形態である。
「公的領域」とは、差異をもった人間たちがさまざまな視点から同一のものを見ている領域のことであり、「私的領域」とは、人目に曝さず隠しておくべきものの領域のことだ。この二つの領域がともに消滅するということは、ひとつの人間集団を単一の原理が全面的に支配するということを意味する。
アレントが懸念するのは、こうして「生命過程=労働過程=消費過程」が人間の生活を支配してしまうとき、そしてその支配が進んできわめて画一的な「大衆社会」が到来したとき、人間が意味のある「世界」から徹底的に疎外されてしまうということだ。
「活動」に固有の「公的領域」を失えば、人間は世界のリアリティを手放すことになってしまう。なぜなら「リアリティ」とは、多数の異なる人間が同一のものを見つめることによって生み出され、維持されるものだからである。また、「仕事」が作り出す耐久性を持った「世界」を失えば、人間は生命力の再生産過程のひたすらなる反復に飲み込まれ、自分自身の不変のアイデンティティを持ちながらえることができなくなる。
こうして人間は、「ダーウィン以来、自分たちの祖先だと想像しているような動物種に自ら退化しようとし、そして実際にそうなりかかっている」(p.500)のである。
〈本書の意義──実存哲学と大衆社会批判〉
余談に属するかも知れないが、本書の内容を実存哲学に引きつけて解釈すれば、アレントが明らかにしたのは、「活動=社交」においてこそ「実存」(主体と世界のリアリティ)が可能になるのだということ、そして現代の大衆とは、「活動=社交」の場を失って「実存」から逃走する人々の群れだということである。
また、逆に実存哲学の趣旨を本書になぞらえてみれば、ほかならぬ「実存」こそが、人間の「活動=社交」の物語にケジメをつけるのだということである。
ちなみにハイデガーの存在論は、そこでこそ「実存」が可能となり、また「実存」こそがそれを支えているような「活動=社交」の物語というものがあって、この言葉の物語の中へうまく入り込んで演技する人間に対してのみ、真の意味での「存在」が姿を現してくるのだという趣旨であった。
「実存」がもつ二重の意味、つまり「それによって社交の物語が可能となる/社交の物語によってそれが可能となる」という二重の意味が、本書におけるアレントの「活動」論を読むとよく理解できるのである。そして、近代の実存哲学と並行してきた(キルケゴール、ニーチェ、オルテガ、ヤスパース等の)「大衆社会論」の思想の系譜が、本書における近代主義批判のなかにも力強く息づいているのである。
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ところで、残念なことに本書の文庫版解説者は、この意味でのアレントの「大衆社会批判」の部分をほとんど理解していない。アレントの言う「活動」、つまり公的領域に姿を現して物語を演じるという行為は、解説者の言うような「市民の政治参加」や「NPO」のようなもののことではない。
アレントが憂慮したのは、「社交」の延長上にある「政治」の内実が、経済力を得るための「手段」の位置に成り下がるという事態であって、「政治に市民を参加させよ」などという主張とはほとんど何の関係もないのである。
正確に言えば、この文庫版解説者の言うような「市民の政治参加」「NPOの拡充」「女性差別の廃絶」といった主張を、アレントの活動論から引き出すことも不可能ではない。しかしそうした主張が、もっとも平板な意味での「民主主義」の思想を背景にしているのであれば、本書のような近代主義批判の思想には真っ向から反すると言わざるをえないと私は思う。