The Midnight Seminar

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マーサ・スタウト著『良心をもたない人たち』("The Sociopath Next Door")が規定する「サイコパス」の特徴

 

良心をもたない人たち (草思社文庫)

良心をもたない人たち (草思社文庫)


 著者は臨床心理学者。本書の主張は、とにかく「良心をもたない人たち」ってのが一定割合は世の中に存在していて、彼らは「良心のある人たち」が期待するよりもはるかに理解し合うことが難しい(というか不可能な)相手なので、気をつけましょうということである。
 トンデモ本っぽく読むこともできると思うが、個人的には納得のいく(頭に実例が思い浮かんでリアリティを感じられる)内容だった。


 本書の中で私が主に関心を持ったのは、著者が「良心をもたない人たち」の特徴を規定している記述群で、「あーこれは当てはまる例あるわ」とか思いながら読み進めた。
 他にも、「良心」というものをめぐる哲学・心理学における学説史や、利他的行動についての学説史が紹介されており、また著者が臨床に携わった「良心をもたない人たち」の事例研究*1も含まれている。


 なお本書中では、「良心をもたない人たち」を「サイコパス」と呼んでいる。ソシオパスという呼び方もあるらしく原題の英語はそれなのだが、邦訳書では一貫して「サイコパス」と書かれている。こんなにも「サイコパス」という語が繰り返される真面目な本もなかなかないだろう、という感じがした。


 以下、著者が規定する「サイコパス」=「良心をもたない人たち」の特徴をいくつか抜粋しておく。
 どこか西の方に、これらの定義の大部分を体現したような地方政治家がいたような気がしたりしなかったり。

pp.7-8
 想像してみてほしい——もし想像がつくなら、の話だが。
 あなたに良心というものがかけらもなく、どんなことをしても罪の意識や良心の呵責を感じず、他人、友人、あるいは家族のしあわせのために、自制する気持ちがまるで働かないとしたら……。
 (中略)
 そして、責任という概念は自分とは無縁のもので、自分以外のばかなお人よしが文句も言わずに引き受けている重荷、としか感じられないとしたら。
 さらに、この風変わりな空想に、自分の精神構造がほかの人たちと極端にちがうことを、隠しおおせる能力というのも加えてみよう。
 (中略)
 言い換えると、あなたは良心の制約から完全に解き放たれていて、罪悪感なしになんでもしたい放題にできる。しかもそのうえ、良心に歯止めをかけられている大多数の人びとのあいだで、あなたが一風変わった有利な立場にいることは、都合よく隠すことができ、だれにも知られずにすむのだ。
 そんなあなたは、どんなふうに人生を送るだろう。

p.9
 IQが高く上昇志向が強い場合
 たとえばあなたが、金と権力が大好きな人で、良心はかけらもないが、IQはすばらしく高いとしたら……。
 あなたは、満々の野心と高い知能を背景に巨大な富と力を追い求め、厄介な良心の声にわずらわされることなく、成功を目指す他人の試みを片っ端から打ち砕くことができる。
 あなたは事業、政治、法律、金融、国際開発、その他もろもろの有力な職業を選び、冷たい情熱でひたすら上昇を目指し、月並な道徳や法律の足かせには目もくれない。
 (中略)
 あなたは、想像を絶した、ゆるぎない、そしておそらく世界的な成功を手にするかもしれない。それも当然だ。あなたは優秀な頭脳をもつと同時に、手綱を引く良心が欠けているのだから。あなたにできないことは、なにもない。


pp.10-11
 野心家だが知能はそこそこの場合
 (中略)
 野心は満々で、成功のためなら、良心をもつ人たちが考えもしないようなことを平気でできるが、知能的にはそれほど恵まれなかった場合。
 IQは平均以上で、人からは、頭がいい、切れ者だなどと思われることもあるかもしれない。だが、あなたは心の奥底で、自分には目立った財力や独創性がなく、ひそかに夢見ている権力の高みには手が届かないとわかっている。その結果あなたは、世の中全般に怒りを抱き、周囲の人びとをねたむようになる。
 このたぐいの人は、自分が少数の人びとをそこそこ支配できる穴場に身を沈める。
 (中略)
 あなたは自分の支配下にいる人たちを操作し、いばり散らす。
 (中略)
 あなたは多国籍企業の最高経営責任者にはなれないだろうが、少数の人びとをおびえさせ、おろおろと走りまわらせ、彼らから盗んだり——理想的には——彼らに自分がわるいのだと思われる状況をつくりあげることができる。

p.15
 精神医学の専門家の多くは、良心がほとんどない、ないしまったくない状態を、「反社会性人格障害」と呼んでいる。この矯正不可能な人格異常の存在は、現在アメリカでは人口の約4パーセントと考えられている——つまり25人の1人の割合だ。

p.16-17
一、社会的規範に順応できない
二、人をだます、操作する
三、衝動的である、計画性がない
四、カッとしやすい、攻撃的である
五、自分や他人の身の安全をまったく考えない
六、一貫した無責任さ
七、ほかのひとを傷つけたり虐待したり、ものを盗んだりしたあとで、良心の呵責を感じない


 ある個人にこれらの“症状”のうち三つがあてはまった場合、精神科医の多くは反社会性人格障害を疑う。
 だが、アメリカ精神医学会の定義は、実際のサイコパシーやソシオパシーではなく、たんなる“犯罪性”を説明するものだと考え、精神病質者(サイコパス)全体に共通するものとして、べつの特徴をつけ加えた研究者や臨床家もいる。そのなかで最もよく目につく特徴の一つが、口の達者さと表面的な魅力である。
 サイコパスは、それでほかの人びとの目もくもらせる——一種のオーラとかカリスマ性を放つのだ。
 (中略)
 この「サイコパスのカリスマ性」は、オーバーぎみの自尊心をともなうこともあり、最初のうちは相手をおそれ入らせるが、よく知るにつれて、人はうさん臭さを感じたり、失笑したりするようになる。

p.17
 感情の浅さも、サイコパスの目立った特徴である。口では愛していると言いながら、その愛情は底が浅く、長続きせず、ぞっとするほどの冷たさを感じさせる。

p.20
 およそ25人に1人の割合でサイコパス、つまり良心をもたない人たちがいる。彼らは善悪の区別がつかないわけではなく、区別はついても、行動が制限されないのだ。頭で善と悪のちがいはわかっても、ふつうの人びとのように感情が警鐘を鳴らし、赤信号をつけ、神を恐れることがない。罪悪感や良心の呵責がまったくないため、できないことはなにもない人たちが、25人に1人いる。

p.25
重要なのは、ほかの精神病(ナルシシズムもふくめて)の場合は、患者自身が実際にかなり悩んだり苦しんだりするという点だ。サイコパシーだけは当人に不快感がなく、患者が「気に病む」ことのない「病気」だ。
 良心をもたない人は、自分自身と、自分の生活に満足していることが多い。効果的な“治療法”がないのも、まさにそのためかもしれない。

p.76-77
 良心のない人びとは、自分がほかの人よりすぐれていると考えたがる。自分以外の者をお人よしで、間抜けなつまらない人間とみなし、なぜこれほど大勢の人たちが、だいじな野心のために人をあやつろうとしないのか理解できない。あるいは、人間はみなおなじだ——自分と同様、平気で悪事をする——たんに“良心”という絵空ごとを演じているにすぎないと決めつける。そして世の中でごまかしなく正直に生きているのは自分だけだとうそぶく。いんちきな社会で、自分だけが“ほんもの”なのだと。
 とはいえ私は、サイコパスも意識のずっと下のほうで、自分には何かが欠けている、ほかの人たちがもっている何かが自分にはないという、かすかなささやき声が聞こえるのではないかと考えている。というのも、実際にサイコパスたちが「むなしい」とか「うつろだ」と言うのを聞いたことがあるからだ。

p.77
 良心のない人が妬み、ゲームの中で破壊したいと望むのは、良心をもつ人の人格だ。そしてサイコパスが標的にするのは地球そのものや、物質的世界ではなく、人間である。サイコパスはほかの人びとにゲームをしかける。

p.123
矛盾するようだが、魅力はサイコパスの大きな特徴だ。良心なき人びとの強烈な魅力やいわく言いがたいカリスマ性については、多くの犠牲者が口にし、学者たちもサイコパスの診断上の特徴として位置づけている。
 私が診療にあたった犠牲者の多くは、サイコパスとつきあいはじめたのも、苦痛をあたえられながら関係をつづけたのも、相手があまりに魅力的だったからだと語った。

p.128
サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う。だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追及できなくなってしまう。あるいは逆の出方をする。追いつめられたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする。

p.135
サイコパスは“勝つ”こと、支配のための支配を目指して、人びとのあいだでゲームをおこなう。ふつうの人たちは、この動機を頭では理解できても、実際に目にすると、あまりに自分とかけはなれているため、“見すごす”ことが多い。

p.141
 多くの人は、悪しき事件をサイコパスと結びつけて考えたがらない。特定の人間だけが根っからの恥知らずで、ほかの人たちはちがうと認めるのが難しいからだ。それは人間の「影の理論」とでも言うべきもののためだ。影の理論——人はだれもみな、ふつうは表にでない「影の部分」をもっているという考え方である——は、極端に言えば、一人の人間にできることは、すべての人にもできるという主張につながる。(中略)皮肉なことに、善良でやさしい人ほど、この理論の極端な形を受け入れ、自分たちも特殊な状況に置かれたら、大量殺人を犯すかもしれないと考える。

p.171
 サイコパスとちがってナルシシストは心理的に苦痛を負い、セラピーを求めることが多い。ナルシシストが抱える問題の一つは、感情移入の能力を欠いているため、本人の知らないあいだに人との関係がこじれ、見捨てられて困惑し、孤独を感じることだ。愛する相手がいなくなったのを嘆くが、どうすれば取りもどせるかわからない。
 対照的にサイコパスは、ほかの人びとに関心をもたないため、自分が疎外され見捨てられても嘆いたりしない。せいぜい便利な道具がなくなったのを残念に思うくらいのものだ。

p.181
 残された数々の記録を調べると、サイコパスはさまざまな呼び名で、古くから世界各地に存在していたことがわかる。例をあげると、精神医学専門の人類学者ジェーン・M・マーフィーは、イヌイットの“クンランゲタ”について触れている。クンランゲタは、「自分がすべきことを知っていながら、それを実行しない人」を指す言葉だ。アラスカ北西部では、「たとえば、繰り返し嘘をつき、人をだまし、物を盗み、狩りに行かず、ほかの男たちが村を離れているとき、おおぜいの女たちと性交する」男が、クンランゲタと呼ばれた。イヌイットは暗黙のうちに、クンランゲタは治らないと考えていた。そして、マーフィーによれば、イヌイットのあいだでは昔から、こうした男を狩りに誘いだしたあと、だれも見ていない場所で氷の縁から突き落とすのが習わしだったという。

p.181
興味深いことに、東アジアの国々、とくに日本と中国では、かなりサイコパシーの割合が低い。台湾の地方と都市の両方でおこなわれた調査では、反社会性人格障害の割合が0.03から0.14パーセント。西欧世界における平均約4パーセントとくらべて、きわめて低い数字である。


p.183
個人主義と個人支配を強調する社会にくらべて、ある種の文化圏——その多くは東アジア——では、万物のあいだの相互関係が信仰として古来から重んじられている。興味深いことにこの価値観は、きずなにもとづく義務感という、良心の基本ともかさなる。
 (中略)
 他者にたいする義務感を知識として把握することは、良心という強い方向性のある感情をもつこととおなじではない。だが少なくとも、個人主義の社会に生まれたら反社会的行動に走ったかもしれない人間から、社会に反しない行動を引き出すことはできるだろう。


※メモ:もとの論文等をみていないが単なる「社会的望ましさバイアス」の出方の違いかもしれない

p.184-185
 文化圏のちがいを超え、人間社会全体の中で、愛や良心の欠如がプラスの要素、あるいは役に立つ要素とみなされる場合はあるだろうか。
 じつは、一つだけある。犠牲となるのがカエルであろうと人であろうと、サイコパスは悩むことなく相手を殺すことができる。良心なき人びとは、感情をもたない優秀な戦士になれるのだ。
 (中略)
良心なしに行動できる戦士について、デイヴ・グロスマン中佐は『人殺しの心理学』の中でこう書いている。「サイコパス、番犬、戦士、英雄と呼び名はいろいろだが、彼らは存在する。彼らはまさにかぎられた少数派だが、危機が訪れると国家は喉から手がでるほど彼らをほしがる」

p.209
サイコパスの感情は私たちとはまさに異質であり、愛や人間同士の前向きなきずなはまったく体験しない。そのため彼らの人生は、ほかの人びとにたいするはてしない支配ゲームについやされる。

p.210
(良心のない人に対処する13のルール 3)
一回の嘘、一回の約束不履行、一回の責任逃れは、誤解ということもありえる。二回つづいたら、かなりまずい相手かもしれない。だが、三回嘘が重なったら嘘つきの証拠であり、嘘は良心を欠いた行動のかなめだ。つらくても傷の浅いうちに、できるだけ早く逃げ出したほうがいい。


p.214
(良心のない人に対処する13のルール 7)
 人の心をあおるのは、サイコパスの手口だ。サイコパスの挑発にのって、力くらべをしようとか、だしぬこう、心理分析をしよう、あるいはからかってやろうなどと考えないほうがいい。そんなことをすれば、あなた自身が相手のレベルにまで落ちるだけでなく、本当にだいじなこと、つまり自分の身を守ることがおろそかになってしまう。

(良心のない人に対処する13のルール 8)
サイコパスだとわかった相手にたいする唯一効果的な方法は、彼らをあなたの生活から完全にしめだすことだ。サイコパスは社会の約束事と切り離された世界にいるので、彼らを自分の交友関係や社会的つきあいの中に入りこませるのは危険だ。
 まずは、あなら自身の交友関係と社会生活から彼らをしめだすこと。その行動はだれの気持ちも傷つけない。傷ついたふりはするかもしれないが、サイコパスに傷つくという感情はないのだ。

p.254
 良心の足かせをもたない人たちが、権力や富を一時的にせよ獲得することがあるという事実は、否定できない。人間の歴史にはその最初から現在にいたるまで、侵略者、征服者、悪徳領主、帝国の独裁者の記録が数多く残されている。(中略)くわしく記録された彼らの有名な行動を考えると、精神病質的逸脱尺度で調べなくても、人にたいする感情的愛着にもとづく義務感をもたない人物、つまりサイコパスが、かなりまじっていると想像できる。

p.246
 チンギス・ハーンは、サイコパス的な暴君のなかで、残酷で屈辱的な死に方をしなかっためずらしい例だ。彼は1227年に、狩の途中で落馬して死んだ。だが、虐殺や大量のレイプを行った者の多くは、最終的に自殺に追い込まれるか、耐えきれずに怒りを爆発させた人びとの手で殺されている。残虐なローマ皇帝カリギュラは自分の衛兵の一人に暗殺された。ヒトラーはみずから拳銃を口にくわえて発砲し、遺体はガソリンで焼かれたと言われている。ムッソリーニは銃殺され、遺体は広場で逆さに吊られた。ルーマニアのニコラエ・チャウシェスクと妻のエレナは、1989年に銃殺された。カンボジアのポル・ポトは元部下たちに捕まって二部屋しかない小屋の中で死に、その遺体はごみやゴムタイヤの山と一緒に焼かれた。

p.247
 こうしたわびしい末路の例は、枚挙にいとまがない。想像とは逆に、無慈悲な人間が最終的に人より得をすることはないのだ。

p.248
 彼らが最終的に失墜する理由のひとつは明らかだ。(中略)多くの人を迫害し、略奪し、殺し、レイプすれば、やがて団結して復讐をくわだてる人びとがでてくるだろう。
 (中略)
 だが、失墜にはもっと目立たないほかの理由もある。良心なしに生き続けるサイコパスの心理に、特有の理由だ。
 その第一が、ほかでもない、“退屈”である。


p.249
 サイコパスは、つねに過剰な刺激を求める。スリル中毒とか危険中毒など、中毒という言葉が使われることもある。こうした中毒が起きるのは、刺激への欠乏をおぎなう最良の(おそらく唯一の)方法が、感情的な生活であるためだ。
 多くの心理学の教科書には、覚醒を感情的反応という言葉がほぼおなじ意味で使われている。私たちはほかの人びととの意味のある結びつきや約束ごと、しあわせな瞬間やふしあわせな瞬間から刺激を受けるが、サイコパスにはこの感情的生活がない。人との関係の中でときにつらさやスリルを味わうという、つねに覚醒した状態を彼らは経験することがないのだ。
 電気ショックや大きな音を使った実験で、ふつうは不安感や恐怖に結びつく生理的反応(発汗や動悸など)も、サイコパスの場合はきわめて鈍かった。サイコパスが適切な刺激をえる方法は支配ゲームしかないが、ゲームはすぐに新鮮味を失ってつまらなくなる。麻薬とおなじく、ゲームをしだいに大きく刺激的にしながら、ひたすらつづけるしかないのだが、サイコパスの資力と才能しだいで、それも不可能になる。というわけで、サイコパスには退屈の苦痛がつねにつきまとう。
 化学的な手段で退屈を一時的に弱めようとするため、サイコパスはアルコールや麻薬の力に頼りがちになる。

p.252-253
ふつうの人たちにとって、しあわせは愛すること、より高い価値観にしたがって人生を生きること、そしてほどほどに自分に満足することから生まれる。サイコパスは愛することができず、基本的に高い価値観をもっていないし、ほとんどつねに自分自身に満足しない。彼らは愛も道徳ももたず、慢性的に退屈している。富と権力を手にしたひと握りの者たちにさえそれが言える。
 彼らが自分自身に満足しないのは、退屈以外にも原因がある。サイコパスは完全に自己中心なため、身体のあらゆる小さな痛みや痙攣にたいして自意識が猛烈に強い。頭や胸に一瞬感じる痛みがいちいち気になり、ラジオやテレビで聞きかじった話は、トコジラやリシン〔トウゴマに含まれる毒性アルブミン〕にいたるまで、すべて自分の身に置きかえて心配になる。その不安と警戒心はつねに例外なく自分自身に向けられるため、サイコパスは自分の健康を病的に不安がる心気症患者のようにもなる。
 (中略)
 健康状態について強迫観念に襲われたサイコパスの、史上もっとも有名な例がアドルフ・ヒトラーだろう。彼は生涯にわたって癌の恐怖にとりつかれた。

p.254
サイコパスは、仕事をさぼる言いわけに、心気症を使うこともある。元気そうに見えた一瞬後、勘定を払ったり、職探しをしたり、友人の引っ越しを手伝うなどという段になると、急に胸が痛くなったり、足が動かなくなったりするのだ。
(中略)
 一般的に彼らは努力をつづけることや、組織的に計画された仕事はいやがる。現実世界で手っとり早い成功を好み、自分の役割を最小限にする。毎朝早くから職場にかよって長時間働くことなど、ほとんど考えない。サイコパスはすぐにできる計画や一回勝負、効率のいい奇襲作戦のほうがはるかに好きだ。サイコパスが職場で責任ある地位に就いていたとしても、その地位は実際に仕事をした(あるいはしていない)量が判断しにくいポストであったり、実作業は自分が操作した人たちにさせている場合が多い。
 そんな場合、利口なサイコパスはときどき派手なパフォーマンスをしたり、お世辞や魅力を振りまいたり、脅したりすることで、ものごとを進行させていく。自分を不在がちな上司やすご腕の上司、あるいはなみはずれた“神経質な天才”に見せかける。ひんぱんに休暇や休み時間をとるが、その間実際になにをしているかは謎である。

p.256
サイコパシーのように周囲の人びとを操作するスリルにとりつかれると、ほかのすべての目標が見えなくなり、結果として性格はことなるものの「生活の破綻」が、鬱病や慢性不安や妄想症などの精神病とおなじほど深刻になる。そしてサイコパスの感情的破綻には、彼らに感情的知能がまったくないことが見てとれる。つまり人間の世界で生きていくうえでかけがえのない指標、人の心の動きを理解する能力が欠けているのだ。

*1:この種の本によくあるパターンだが、実例をそのまま掲載するのではなく、合成したりして個別のケースが特定できないようにしている。