The Midnight Seminar

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岡倉天心『茶の本』(岩波文庫)


 岡倉天心は明治時代を通じて活躍した美術研究家である。ちなみに、天心が設立に尽力し、第二代校長を務めた東京美術学校は、現在の東京芸大美術学部だ。


 「アジアは一つである」というのは天心がロンドンで出版した『東洋の理想』の冒頭の有名な一文だが、これはアジア民族の一体性を主張したというよりも、東洋文明が西洋文明に劣るものでは決してないことを主張するための前振りのようなものだ(ましてや、日本によるアジアの制覇を望んだのでは全くない)。実際、天心の生涯の仕事の半分は、アジアの芸術に見向きもしない西洋人に対し異議を申し立て、東洋的美意識の何たるかを懇切丁寧に解説することに捧げられたのであった。だからこそ、天心の主著である『東洋の理想』、『日本の目覚め』、そして『茶の本』はすべて英語で書かれ、欧米で出版されたのである。
 そしてもう半分の仕事は、文明開化とともに美意識が廃れてしまった日本に、真の芸術を復興することであった。『茶の本』のなかで天心は、「おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである」(p.23)とか、「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる」(p.23)などと言っていて、これはもちろん西洋に対する皮肉であるが、ここには、西洋の価値観に追随し、その模倣に汲々としていた日本人に対する戒めも込められているように思われる。


 本書はタイトル通り「茶(道)の本」であって、8世紀の中国に発し16世紀の日本において完成された茶道の歴史、茶道と同時に確立され茶人によって洗練された生け花(華道)の美学、簡素で独特の造りを持つ茶室の建築哲学などについて論じたものだ。テーマははじめから限定されており、分量も少ない。しかし本書には、我々が「芸術」一般について論じる際におそらく欠くことのできない重要な論点が、高い密度で詰め込まれている。


 まず本書を読んでいて目立つのは、天心が茶道の美意識を讃える際に、「生活」と「芸術」の一体性を強調しているということである。ちなみに天心によると、茶道や茶人における「生活」と「芸術」の一体性は、道教や禅宗の思想に由来するらしい。
 「茶道いっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである」(p.50)。そして日常の生活の中にも、「われらに認めたい心さえあれば完全は至るところにある」(p.84)のだが、そのことに気づく者は少なく、「名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている」(p.65)というわけである。また逆に芸術そのものも、生活と密接に交わるものでなくては意味をなさない。「茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である」(p.84)と天心は言う。
 このように考える芸術家は多く、例えば萩原朔太郎が、「詩とは……実は却(かえ)って我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである」と言い、石川啄木が、「詩人たる資格は三つある。詩人はまず第一に『人』でなければならぬ。第二に『人』でなければならぬ。第三に『人』でなければならぬ。そうして実に普通人の有(も)っている凡(すべ)ての物を有っているところの人でなければならぬ」と言っていたのが思い出される。


 天心や朔太郎や啄木が言おうとしたのは、芸術作品を「芸術作品」として特別に扱い、時間的・空間的・意味的に人間の「生」の文脈から切り離してしまうことが、芸術の本質に反するのだということだ。言い換えれば、芸術(作品)というのは“客観的対象”として取り出すことのできないものであり、それが生活の中に入り込み、生活がそれの中に入り込むことによって初めて成立する営みだということである。
 ここには芸術論的に、と同時に存在論的にきわめて重要な含意が孕まれていると私は思う。説明するのに膨大な行数を要するから結論だけ簡単に述べておくと、主客の二分法――つまり「主観」と「客観」、「主体」と「客体」、あるいは「想像」と「現実」といった区別――を超えたところにこそ、芸術は居場所をもつ。と同時に、主客が合流するこの境地は、芸術によって――ハイデガーに言わせれば芸術と哲学によって――初めて切り開かれる。この場所は「存在」一般を可能にする「現存在」という名の地平であり、「芸術」の営みによってこの地平が切り開かれて初めて、事物=世界は「存在」の明るみのうちに姿を現すことができるのである。


 「われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する」(p.65)と天心は言う。芸術作品は、「存在」するために鑑賞者を必要とする。と同時に鑑賞者は、芸術作品を通じて開示される「世界」を自分の居場所として発見することによって、初めて真の意味で――ハイデガーが「本来的」と呼んだ意味で――「存在」することができるのである。これは、美術よりも音楽や演劇などを考えた方が分かりやすい。メロディや物語は、そこに自分の落ち着くべき「住み処」を見出すことができるのでなければ、その人にとって「芸術作品」の名には値しないのだ。
 ここには一種の神秘的な循環があって、この循環の中に正しく入り込むことを、我々は「存在」によって促されている。そして正しく入り込んだとき、「彼(芸術愛好者)は存在すると同時に存在しない。……彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている」(p.67)という境地に到るのである。
(こんな説明で分かる人がいるとは思えないが、こういう風にしか私には説明できない。)


 ところで、天心は本書の中で、繰り返し芸術作品の「不完全性」を讃えてもいる。たとえば、茶室の建築は「『不完全崇拝』にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させる」(p.51)ところに美的な趣があるのだと言う。
 先に言ったような、主客の二分法を超越していることが「存在」の本来的な形式であるとすれば、そもそも作品それ自体を“客観的対象”として取り出したときには、未完成であるに決まっている。鑑賞者と一体化して初めて芸術作品は作品として成就するからだ。
 だから、天心が言うところの「不完全性」は、平凡な意味で“何かが欠落していること”と解釈するのではなく、作品が鑑賞者を吸い寄せる神秘的な“力”の別名だと考えたほうがいい。「何物かを表さずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている」(p.46)というわけである。


 (※ 存在論的には、天心はこの「不完全性」という言葉で、時間性=脱自性=差延が存在の条件の中心に据えられていることを示そうとしたとも考えておくべきかも知れない。「われわれはいずれに向かっても『破壊』に直面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である」(p.78)というあたりにそういう契機が見え隠れする。「不完全性」にはじつは二つの意味があったのだ。しかし、「存在論」とか言い出した時点ですでに天心が表現したものの範囲を大きく超えてしまっているし、私もめんどくさくなってきたので、差し当たりここではその説明は省いておく。)


 さて、以上のような芸術の本意を、文明開化後の日本人が一斉に忘却し、芸術の味わい方を見失ってしまったことを天心は嘆いている。「過去がわれらの文化の貧弱を哀れむのも道理である。未来はわが美術の貧弱を笑うであろう。われわれは人生の美しい物を破壊することによって美術を破壊している」(p.71)と。
日本人の創る作品は、「西洋」の無批判な模倣か「古典」の無反省な反復でしかなくなった。そして鑑賞者も、芸術を芸術として鑑賞する心構えを失い、「数世紀前、シナのある批評家の歎じたごとく、世人は耳によって絵画を批評する」(p.70)といった有り様になってしまったのである。
 「未来はわが美術の貧弱を笑うであろう」と天心は恥じたわけだが、天心の見た現代は未だに続いているのかも知れない。

 ○ 茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。(p.21)

 ○ もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。(p.23)

 ○ 願わくは古人を憬慕することはいっそうせつに、かれらに模倣することはますます少なからんことを!(p.59)

茶の本 (岩波文庫)

茶の本 (岩波文庫)