安保法制の問題で、こういう記事があった。
www.news-postseven.com
中身を読むと、次のようなことが述べられている。
<この国の法案が通れば、他の国の戦争に日本の若者が巻き込まれ、命を落としたり、あるいは人を殺してしまう危険性が高まるということです。そんなこと絶対、許してはなりません!>
私は、この演説からしてすでに違和感を覚える。揚げ足を取ろうというわけでは決してないと断った上で言えば、他の国の戦争に巻き込まれて命を落としたり人を殺してしまう危険性が高まるのは「日本の若者」か? 違うだろう。それは「日本の自衛官」だ。細かな言葉の問題ではなく、これは大きな認識のズレである。
記事のタイトルを見た時は、「『ぼく達は戦争に行かないぞ』というのはおかしい。アメリカの都合で戦うのはゴメンだという話しならわかるが、日本のために必要ならば戦うしかないではないか」というような趣旨の記事を想像したのだが、そうではなかったようだ。
死ぬのは若者一般ではなく自衛官なのであり、「僕たちは戦争に行かないぞ」的な叫びには、民主的な意思決定の下で*1派遣される自衛官の生命に対して国民が負うべき責任意識というものが感じられない、というほどの論旨である。
海の向こうの戦地で自衛官が亡くなったとしよう。ついに戦後の平和が終焉したと日本中が大騒ぎになるだろう。でも、亡くなった自衛官の扱いはどうなるのか。多くの日本人は悲劇の主人公としてマスコミが語るその自衛官に同情しながら、同時に、本音のところでは「自分から自衛隊に入ったのだから仕方ない」と突き放すのではないか。日本人お得意の自己責任論で。
迷彩服の自衛官の横顔の写真をバックに、「私たちは自衛隊員の皆さんが戦死するのを見たくありません。」というキャッチコピー。
そう、私たちは見たくはないのである。でもその見たくはない自衛隊員の死は、我々日本人のためにおきた出来事だ。構造的にはアメリカのご都合のために、かもしれないが、亡くなった自衛官は日本のために戦地へ赴いたに違いない。そういう大義がなければ、人は自分の命を賭すことをできない。自衛官が死んだなら、その死の責任は我々国民にあると、まずそう認識するところから始めるべきなのだ。でなければ、何をどう叫ぼうが、そんなものは被害者ぶりっ子のたわごとだ。
細かく考えるとこの筆者が何を言いたいのかは正確にはわからないのだが、一つ重要なことは、集団的自衛権の議論というのは、戦争ができる国になるかならないか、死人が出るか出ないかみたいな問題ではなく、自衛隊員をどこかに派遣して殺し合いをさせるための「大義」を適切に構成できるかどうかの問題だということだ。
いや、正しくは、「大義」のある戦いにしか自衛隊員を派遣しないように適切に政治的決定を行って行けるか、ということだ。そして「大義のある戦い」には、論理的には、集団的自衛権の行使に該当するようなものも含まれるだろう。
もちろん大義の問題とは別に、憲法に合致しているかしていないかという目先の問題もあるし、世間的にはそればかりが話題になってるわけだが。
この図でいうと*2、本来は赤い線を越えないように気をつけることが国民的・国家的課題なのだが、いま憲法をめぐって議論されているのは緑の線を越えるか否かという話だ。
赤い線の内側と外側の区別をつけるための、成熟した議論、意思決定の仕組み、そして日本国家としての経験の蓄積が「不足している」と判断すれば、今はとりあえず緑の線の内側に留まっておけ、という判断をすることはあり得るだろう。
実際、今回の安倍政権の説明をみていると、憲法解釈上の問題とは別に、赤い線がどの当たりにあるのかという認識もフワフワしている印象を受ける。国際政治学者の伊勢崎賢治氏(ネトウヨ的に言えば左翼ということになるのだろうが)がホルムズ海峡の掃海の例を挙げていて、「それって資源のため、経済的利益のために外国で武力行使しますって話しであり、そんな恥ずかしい議論を公の場でしないでもらいたい」とインターネットの動画で言っていたが、確かにこれは憲法上許されるかどうかの前に、そもそも武力行使のための大義に関する認識として適切であるのかどうかをもうちょっと慎重に議論して欲しいところだ。
伊勢崎氏はTwitterでも以下のように言っている。
民放から、なぜ安部首相がホルムズ海峡の機雷掃海にこだわるのかコメントをって。だーかーらー、資源をネタに武力行使を大っぴらに議論するなっていうの。議論していいのは、本土が武力攻撃される時の自衛のみ。国家存立危機は「電力不足の凍死」じゃダメなの。日本は「侵略」するって思われちゃうの。
https://twitter.com/isezakikenji/status/605310315408982016
「本土が」という限定がどこまで必要なのかはよくわからないが(先ほどの緑の線に関わることとして言っているのか、赤い線に関わることとして言っているのかにもよる。)。
もちろん大義の有無というのは常に曖昧なところがあるのだが、「重要な問題は“大義の有無”をきちんと判断できるかどうかであって、自衛官を派遣するかしないかはそれに従属する論点である」という認識はハッキリさせて置かなければならない。「戦争に行きたくない」とか「自衛官を戦争に送り込みたくない」とかいう叫び声は、ちょっとズレているということである。
とりあえず憲法の制約があるので、緑の線と赤い線はなるべく一致するように、解釈を変えるなり改憲を行うなりして欲しいが(私は現行憲法の解釈論争にはそこまで関心はない)、赤い線の内に留まるか外に出てしまうかというのは、人類が何度も間違いを犯してきた(しかも何が正しいのか決定が困難な)やっかいな課題だ。
しかしその判断の責任から逃れることも難しい。だからこそ、赤い線をめぐる判断のための議論が成熟している必要があり、簡単に言えば日本人が高い判断能力を持てるかどうかが重要なのである。それに比べれば、戦争に行きたくないとかいう単なる感情も、憲法に合致しているかという単なる文理上の論争も、重要度は劣ると言える。
こういう話に関連して私はよく引用するのだが、マイケル・ムーアの『華氏911』の一節に触れておこう。
この映画はイラク戦争に関するものだが、後半では、アメリカではたくさんの貧乏な若者が奨学金目的で(軍からの甘い勧誘に応じる形で)兵役に就いている実態を明らかにする取材を行っていて、彼らをイラク戦争に派遣してたくさんの死者を出していることの倫理性を問う次のようなナレーションがある。
I’ve always been amazed that the very people forced to live in the worst parts of town, go to the worst schools, and who have it the hardest are always the first to step up, to defend us. They serve so that we don’t have to. They offer to give up their lives so that we can be free. It is remarkably their gift to us. And all they ask for in return is that we never send them into harm’s way unless it is absolutely necessary. Will they ever trust us again?”
僕は、いつも感心する。
極貧の町に住み、最悪の学校へ行き、底辺で生きる人々。
彼らが率先して、その上の社会を守るために進み出る。
僕らの替わりに生命を差し出し、そのおかげで僕らの自由が守られている。
これは彼らから僕たちへの、とてつもない贈り物だ。
彼らが求める見返りはただ一つ。
彼らを戦地へ送りこむのは、それが是が非でも必要な時に限るという信頼だ。
その信頼を裏切ってないか?
大義のない戦いに自衛官を派遣するようなバカなことは、絶対にしないという信頼感。それが唯一、我々文民が命を賭けて戦う軍人に対してなし得る「見返り」であり、この信頼を失った時、安全保障の論理が根幹から崩れてしまう(イラク戦争への加担を通じて既に失ってる気もするが)。
我々市民社会の側が、自衛官に対し「大義」を与えられるだけの成熟した議論と判断能力を持ち得るかこそが問われるべきなのだという意味で、冒頭の記事が言いたかったことも同じかもしれない*3。
まぁ、安倍政権を戴いている限り無理だろう。