同級生の女の子に裁かれる犯罪者
アメリカの裁判所で、中学の同級生だった男女が、被告人と裁判官として偶然再会するという珍事があったらしい。
オレンジ色の囚人服を着たアーサー・ブース被告の顔を見て、ミンディー・グレーザー裁判官が「ちょと質問があります。あなたはノーチラス中学出身ですか?」と尋ねた。すると、ブース被告は「ああ、なんてこった!(Oh my goodness!)」と頭を抱えて号泣し出したのだ。
実は、ブース被告とグレーザー裁判官は中学校の同級生だった。この運命のいたずらに、グレーザー裁判官は「ここで会うとは残念です。いつも貴方がどうしているか気になっていました。人生がいい方向に向かうことを祈っています」と優しく声をかけたという。
英語の解説をしているブログで、たまたまこの話題が取り上げられていて、動画の日本語訳も載っていた。
http://oceanview2015.com/2342.htmloceanview2015.com
英文のニュース記事を読むと背景が少し詳しく書いてあって、ブース被告の従姉妹のコメントも紹介されている。
www.local10.com
www.nydailynews.com
グレーザー裁判官(女性)がブース被告について、「中学校では最高の少年だったのに、こんなところで再会することになって残念だ」と言っているのに呼応して、ブース被告の従姉妹も「子供のころは勉強もスポーツもできてバイリンガルで、将来有望な少年だったのだが、なぜかその後は大学へも進まず、犯罪とドラッグの道を歩むことになってしまった」と振り返っている。
グレーザー裁判官の「いつもあなたがどうしているか気になっていました」というセリフそのものは、深い意味はなく「久しぶり」ぐらいの挨拶であるような気もするが、勝手に想像すると、たとえば「あんなに優秀だったアーサー(・ブース)が中学を卒業してからグレてしまって、残念だ」という話は同級生の間でも話題になっていて、そういう噂を聞いて少し心配していたというぐらいのことはあるかも知れない。
ところでこのニュース、同級生との再会そのものはある種の「いい話」としながらも、ブース氏が犯罪者人生を歩むことになったことを「残念な話」として受け取る人が大半だろう。しかしヘンなことを言うようなのだが、私はこういう、高校ぐらいからグレていく人たちの人生に、あまり悪い印象を抱かない。好きというと語弊があるのだが、何か人生について考える上で重要なものを彼らが体現しているように思えて、気になってしまうのである。
自分の小中学校の同級生にもそういう奴らが多少いて、付き合いもほとんどないので噂で聞く程度だし、困ったことがあれば力になってやろうみたいな気も(能力も)ないのだが、感情の問題として、「グレていった奴らの人生」を他人事として突き放すことがどうしてもできない。
「人生の分岐の可能性として、自分にもあり得た」という意識がどこかにあるのだろうかとも思ったが、おそらくそんな、自分を中心にした狭い範囲の関心ではなくて、「人生とはしばしばこういうもんだ」みたいな一般性のある感覚に訴えるものがあるのだろう。
樋口一葉の『十三夜』を思い出した
このニュースを読んで、樋口一葉の『十三夜』を思い出した。(青空文庫でも読める。)
以下完全なネタバレなので、読んでない人は注意してください。
『十三夜』は、貧乏な家庭に生まれながら器量のよさで大金持ちの役人に見初められて嫁に行き、子供も一人生んでいる主人公の関子が、旦那との生活が嫌になって深夜に脱走して実家に戻ってくるシーンから始まる。教養がないから上流家庭の生活に馴染めないのだが、それを夫にいちいちなじられるので耐えられない、という話だ。関子は、旦那があまりにも非人間的だと泣くのだが、父親は同情しながら、「家としての立場もあるし、子供のこともあるから、どうか我慢してほしい」と説得する。結局関子は「自分が我慢をすればいいのだ。子供だけはしっかり育てよう」と腹をくくって、夜明け前までに急いで戻ることにする。
帰り道で関子は人力車を拾うのだが、自宅の近所に着いて降ろしてもらう時に、その車引きが幼馴染の録さんであることに気づく。車引きといえば、当時は要するに最下層クラスの“賎業”で、被差別階級の仕事でもあったはずだ。
録さんも子供の頃はとても魅力的な少年で、確かタバコ屋か何かの息子なのだが、関子は密かに禄さんに恋をしていた。「録さんのところに嫁いで、毎日、新聞でも読みながら店番をするんだ」というような将来の自分を想像していたのだが、人生そう思い通りには行かないもので、何の因果か好きでもない金持ちの家に嫁ぐことになってしまった。
そしてここからがブース被告みたいな話なのだが、この録さんがある時から飲んだくれてどうしようもなくなったという話は町でも噂になっていて、関子もずっと心配していた。それでバッタリ再会したと思ったら、噂どおり昔の録さんからは想像もつかないような薄汚い車引きになっていて、録さん本人も恥ずかしい姿を見られて恐縮している。
物語の描写では、じつは録さんも子供の頃からひそかに関子に好意を寄せていて、録さんがグレ始めたのはちょうど関子が金持ち旦那の家に嫁いでからだったようだ。
関子は変わり果てた録さんに心底同情して、車代とは別に少しお金を渡し、「久しぶりで話したいことはたくさんあるけど、そうもいかない。どうか以前のような録さんになって、立派にお店を開くところをみせてほしい。わたしも陰ながら祈っている」と言って別れるシーンで物語は終わる。
最後の「其人は東へ、此人は南へ、大路の柳月のかげに靡いて力なささうの塗り下駄のおと、村田*1の二階も原田*2の奧も憂きはお互ひの世におもふ事多し」という描写は最高に美しい。一葉の作品は『たけくらべ』や『にごりえ』のほうが有名だが、私はこの『十三夜』が一番好きで、学生時代に何回も読み返した。
ブース被告とグレーザー裁判官が子供の頃はお互い惚れ合っていて……というような想像まではさすがにしなかったが(笑)、将来有望だった少年がグレてしまい、久しぶりに再会した女の同級生に高いところから見下ろされるというプロットが重なって、思い出してしまった。
そういえば、西部邁先生が子供の頃からの唯一の親友・海野氏について書いた『友情』というエッセイがあるのだが、この海野氏も札幌南高校という超優秀な高校を卒業しながら、東大教授になる西部邁とは正反対に、ヤクザになって覚せい剤などで逮捕され、最期は自殺するという壮絶な人生を送った人だ。
西部先生は海野氏を、最後まで「唯一の親友」として描いている。結果だけ見れば一般の道徳観からは「ろくでなし」ということになるのかもしれないが、ろくでなしの人生にも正義や美しさがあって、忘れるわけにはいかないのだ。