The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

中野剛志『国力とは何か』(講談社現代新書)

国力とは何か―経済ナショナリズムの理論と政策 (講談社現代新書)

国力とは何か―経済ナショナリズムの理論と政策 (講談社現代新書)


 (送って頂いたのにきちんと読むのが遅くなりまして……。)
 中野氏はこれまでの著作を通じて、「国力」を理解するための「経済ナショナリズム」という理論の系譜を紹介してきた。本書を読んだ印象は、これまでの議論をよりコンパクトに、かつ「リーマンショック」「東日本大震災」「TPP」といった時事に則して、分かりやすく解説したという感じだ。各章で論じられている内容はだいたい以下のようなものである。


 第1章は、日本経済・世界経済が現在直面している危機の現状分析である。アメリカの過剰消費に世界経済が依存する「グローバルインバランス」(経常収支の不均衡)、大量の資本が世界を飛び回る「グローバル金融資本主義」はついに破綻した。日本においても、経済自由主義に基づく「グローバリズム」「構造改革」はデフレを招いて行き詰っている。今必要なのは、国民国家を単位とした国際収支のバランスや内需拡大策であり、その理論的背景となるのが著者のいう「経済ナショナリズム」そして「国力論」なのである。


 第2章は、「経済ナショナリズム」に関するよくある誤解を正すための概念整理である。経済ナショナリズムは多くの場合「産業政策」や「保護貿易」を志向することから、統治機構としての「国家」の権力を重視し、他国を犠牲にして自国の利益を追求するイデオロギーだと考えられてきた。しかし著者のいう「経済ナショナリズム」はそういうものではない。一般に国家の経済政策を論じる場面で、「ステイト(統治機構としての国家)」と「ネイション(共同体としての国民)」の区別、そして「支配力(他者を屈服させる外面的な力)」と「能力(何かを成し遂げる内面的な力)」の区別が行なわれていない場合が多く、概念の混同が生じている。著者のいう「国力」は、「ネイション」の「能力」のことであって「ステイト」の「支配力」ではないのである。


 第3章では、「近代国家(国民国家)」と「近代経済(市場経済)」と「近代社会(市民社会)」の三位一体の相互依存関係を、歴史的な成り立ちから解説している。社会契約論が言うように、自由で自立した近代的個人がはじめから存在し、彼らが集まって国家を形成したのではない。逆に強大な国家権力こそが、伝統的な共同体の因習を取り除き、法制度により権利や義務を定めて個人を解放したのである。そして国家は統一的な通貨を普及させ、インフラを敷設して、自由で活発な市場経済を生み出した。近代的な個人が属する市民社会は様々な「中間組織」を形成しているが、この中間組織は人々の活動の動機付けシステムとなり、また社会秩序の基盤ともなって経済活動を支えている。このように、国家と市場と市民社会が依存し合いながら発展してきたのが近代の歴史であった。


 第4章では、経済力や政治力というものが、「ネイション(国民社会、民族共同体)」を束ね、その動員力を引き出すことによって発展するのであり、市場も法制度も「ネイション」の中に埋め込まれなければうまく機能しないというメカニズムが分析される。経済活動のために人々を大規模に動員するには、多かれ少なかれナショナルアイデンティティに訴えることがどうしても必要である。とくに弱者のため、子孫のために負担を強いるような政策は、人々が「ネイションの全体的・長期的利益」を配慮しているのでないかぎり、なかなか支持され得ないだろう。また国際経済においても、たとえば戦前に比べて戦後の貿易システムは、自由な市場というよりは「国家間の妥協」によって運営され、発展してきたのである。


 第5章では経済ナショナリストの経済政策が論じられる。自由主義は「資本家」の利益増進、社会主義は「労働者」の利益増進を志向することが多いが、経済ナショナリズムは資本家と労働者の対立を招くような政策を好まない。むしろ両者が力を合わせてネイションを発展させることを目指すのである。こうした観点から、財政金融政策、産業政策、技術政策、国土政策、エネルギー政策、環境政策、農業政策、保護(貿易)政策、社会(福祉)政策、企業防衛(外資規制)、自由化政策といった一連の政策が「国力」を増進するメカニズムが、具体的に各国が採ってきた事例をまじえて説明されている。


 第6章では、経済危機に陥った際に発動される財政金融政策が、ナショナリズムに支えられて初めて機能するものであることが解説される。この章で面白いのは、国際通貨制度がいかに「国民国家」の仕組みによって支えられているかが明らかにされているところだ。とくに金本位制の兌換紙幣から政府が管理する不換紙幣へと移行すると、ナショナルアイデンティティに支えられた政府の権威がなければ通貨システムは維持され得ない。また、かつての金本位制にしても、イギリスの覇権、アメリカの覇権によって支えられていたのである。そして現在では、各国間の協調により通貨システムが管理されているわけだ。いずれにしても、通貨は国民国家が主体となって発行・管理するほかないし*1、国際経済のルールをみても、著者の整理によれば、国民国家による制約が強まる一方だったというのが戦後経済の歴史であった。


 第7章では国際組織と国民国家の関係が論じられる。戦後様々な国際機関が発達してきたが、たとえば国連は「民族自決」の原則を謳うことによって成り立っているのであり、国民国家を不要にするような世界機構ではない。それはあくまで、国民国家間の利害調整の場である。「普遍的人権」の理念とともに、「ナショナリズム(民族自決)」の理念こそが、戦後の国際秩序を支えてきたのだ。また、国民国家が成立する歴史を振り返ると、それは文化的な多様性を持った伝統的共同体を画一化してゆく過程であった。だからもし国民国家を解消するような国際統治機構が誕生することがあるとすれば、一層の文化的画一化が不可避であり、それはおぞましい規模のものとなるであろう。我々はむしろこれからも、国民国家がもつ政治的・経済的な動員力を活用することでこそ。グローバルな課題を解決していくべきなのである。


 第8章は今後の世界経済・日本経済がもつべきビジョンである。各国の協調によりグローバルインバランスを解消し、経常収支を均衡に近づけること。国際資本移動を制御してバブルを防ぐこと。各国国民の生活様式を守ること。そして各国の「ネイションの力」を引き出して、国内外の課題を解決していくこと。グローバル化した市場経済は、各国民国家の社会の中に再び埋め込まれることで安定を取り戻すべきなのであり、その過程を通じて資本主義は多様化していくであろう。
 ところが近年、世界各国ともグローバル化と構造改革によって「ネイションの能力」を低下させてきた。危険なのは、各国が「ステイトの支配力」の強化、つまりナショナリズムならぬ「ステイティズム」に走る恐れがあるということだ。実際、通貨の切り下げ競争や資源の囲い込みなど、国家主導で自国の利益を追求する「国家資本主義(ステイトキャピタリズム)」化の兆候はすでに指摘されている。日本は、国家資本主義の熾烈な争いが現に始まろうとしている現実をまず直視して防衛策を講じるとともに、歴史的に高い国民統合を実現してきた優位性を生かして「ネイションの能力」を引き出して、次世代の資本主義を形作っていかなくてはならないのである。


 本書で強調されているのは、2008年以降の世界経済危機は「経済自由主義」に基づく「グローバル金融資本主義」や「構造改革路線」がいよいよ破綻したことを示しているということ、そして日本は東日本大震災という国難にも見舞われており、今こそ「経済ナショナリズム」に基づく「国力」の増進が必要だということである。しかしそうしたパラダイム移行が今のところ上手く行ってはいない。技術的な政策論の前に、まずは「グローバリズム」というパラダイムが破綻し、「ナショナリズム」こそが今後の経済秩序の中心になるのだと理解することが必要なのだろう。

*1:著者はEUについては、国民国家を超越するものというよりは新しく大規模な国民国家を形成する試みであるとみなしている。また、ギリシャ問題などを受けて、ユーロという試みの失敗が明らかになりつつあるとみている。