The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

立憲主義へのちょっとした疑問:憲法は「国家権力を縛る」ためにあるのか?

「立憲主義」は流行語

 ここ数年で、「立憲主義」という言葉が突如として政治ニュースにおける頻出ワードになりました。もちろん「立憲主義」という言葉自体は私の中高時代の公民・歴史の教科書にも載っていたし、法学の基礎的な教科書にも載っているのでたいていの人が知っているはずです。しかし、もともと立憲主義というのは、17~18世紀の欧米で市民革命を経て憲法に基づく統治形態が樹立されたとか、日本でも19世紀に憲法を制定し議会を設立して近代国家の体裁を整えることが急がれたとかいうような歴史的背景を説明する文脈で登場する言葉です。現実の政治論議で「立憲主義」が論点になることなんてほとんどなく、ここ数年の「立憲主義」ブームはかなり唐突感があります。


 この唐突感は単なる私の印象というわけでもない。たとえば昨年出版された憲法学者・木村草太氏の『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』(晶文社)という本の中では、哲学者の國分功一郎氏がコラムを寄稿して、「ここのところ、急に耳なれない言葉が注目を集めています。それが『立憲主義』という言葉です」と述べていました。またその証拠に、「憲法」というワードを含む朝日新聞の記事1000件中「立憲主義」をも含む記事の数を集計すると、グラフのように2013年から激増していることがわかります。


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 最近の、たとえばSEALDsのような運動家の発言をみていると妙に立憲主義慣れしてるというか、立憲主義を着こなしてるというか、なんか「護憲論者たるもの『立憲主義』を叫んでおくのが常識だよね」みたいなノリを感じるのですが、実際には護憲派でも「立憲主義」とか言い出したのは最近なんですよね。


 ところで、なんでこんなに唐突に「立憲主義」が盛んに唱えられるようになったか。國分氏は安倍首相の「私が最高責任者だ」発言(記事リンク)が発端だろうと言っているのですが、私が調べた感じでは、恐らく2013年に安倍首相が憲法96条の改正、つまり憲法改正要件の緩和を提案した時に、「それはさすがに立憲主義を根幹から覆すやり方なんじゃないの」というような批判が出たのがきっかけですね(記事リンク)。この96条改正問において「立憲主義に反している!」という安倍批判が始まり、その後の安保法制などの議論においても引き続き、流行語として「立憲主義」が用いられ続けているわけですね。
 
 

教科書の解説

 憲法学の教科書を何冊か読んだことがあるのですが(法学部ではないのでしっかり通読したわけではない)、立憲主義についてはだいたい似たような説明がされていました。
 憲法学の教科書では、最初のほうで「憲法」という概念にもいくつか種類があるということが説明されます。まず憲法というのは広義には「国家統治の根本的な規範」を指していて、この意味での憲法は「固有の意味の憲法」と呼ばれます。単に「基本ルール」って意味ですね。一方、狭義には「人権の保障と権力の分立を定め、国家権力を制限する内容を持つ最高法規」を憲法と呼ぶという用語法があり、この意味での憲法は「立憲的意味の憲法」とか「近代的意味の憲法」と呼ぶことになっています。


 歴史的経緯としては、立憲主義というのは、近代欧米の市民革命において、領主や市民階級が君主に対して「憲法に従った統治を行うこと」を要求し、君主の権力に制限を課していくという流れで登場したものです。フランス人権宣言に「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、 憲法をもつものでない」という条項がありますが、これが近代における憲法の本質を示すものとされており、この意味での憲法にしたがって国家の統治が行われるべきだという考え方を「立憲主義」というわけです。


 ついでに言うと、広義のであれ狭義のであれ、内容に着目して「国家統治の基本原則を定めたもの」として認識されるものを「実質的意味の憲法」と呼ぶ一方で、「◯◯国憲法」みたいな形で明文化された文書(いわゆる「憲法典」)のことは「形式的意味の憲法」と呼びます。「実質的意味の憲法」は、憲法典以外の規範を含むことがあります。イギリスの場合は「憲法典」が存在せず、マグナ・カルタのような歴史的文書や、議会法、王位継承法、人権法などの各種法令が総体として「実質的意味の憲法」を成すものとされているし、日本の場合でも、「実質的意味の憲法」には憲法典の他に、国会法や皇室典範等が含まれるとされる場合があるようです。
 
 

憲法は「国家権力を縛るためのもの」という説

 立憲主義に言及する人はたいてい、「憲法は国家権力を縛るために存在している」と言います。たとえば以下の記事。

憲法を考える。それは、国家権力から私たちの自由や権利がちゃんと守られているかどうかを点検する作業だ。憲法は権力を縛るためのものだという立憲主義の考え方が、安全保障法の審議を通じて広く一般に知られるようになったことは、立憲主義が危うくなっていることの裏返しでもある。
(2016年4月14日付 朝日新聞)


 これは、上述の分類で言う「立憲的意味の憲法」が標準的な憲法観になっているからですね。
 この憲法観に反対している人もいて、たとえば産経新聞に載ったコラムでは八木秀次氏が次のように主張してました。

 憲法を「国家権力を縛るためのもの」とする考えは、近代初期の「近代立憲主義」と呼ばれるもので、国家の役割を制限することで国民の自由・権利を保障していくという夜警国家、「小さな政府」時代の産物だ。しかし、その後、選挙権が拡大して国家が大衆の要求に応ずる必要が生じ、近代憲法の保障する人権が単に形式的な自由と平等を保障するにとどまり、真に人間らしい生活を保障する役割を果たしていないとの主張を社会主義思想が広めるに従って、国家の役割も憲法観も大きく変わっていった(長谷部恭男著『憲法』新世社、1996年参照)。

http://www.sankei.com/politics/news/140508/plt1405080021-n1.html


 この八木氏の批判には、少しおかしなところもあります。八木氏はこのコラムの中で、「憲法は『国家権力を縛るもの」で、「国民を縛るためのもの」ではない—この種の憲法観がここ数年、静かに広がっている」と言ってるのですが、昔から読まれている憲法学の教科書にもそう書いてあるわけなので、これはここ数年で急に唱えられるようになった憲法観というわけではなく、通説みたいなものです。


 また、「立憲的意味の憲法」を憲法観の中心に据え、国家権力の制限が憲法制定の主目的であると論じている憲法学の教科書であっても、「憲法は国民を縛るためのものではない」と主張しているのかというと微妙です。というのも、「昔と違って今は民主主義の世の中なので、国家権力も国民の多数派の意思に基づいているわけであり、むしろこの国民の多数派が暴走すること、つまりいわゆる『多数者の専制』のようなことが起きるのを防ぐことが大事なのだ」ということが、私が読んだ教科書にはちゃんと書いてあったからです。
 憲法学の教科書が「国家権力を縛る」という時、その「国家権力」には当然民主的なものも含まれています。多数派の横暴によって少数派の権利が蔑ろにされたり、多数派の支持を受けた者への全権委任のようなことが行われて事実上「国民主権」が失われるような事態に陥ることを避けるために、憲法によって「国民の多数の支持を受けたとしても、これ以上のことはできない」という枠をはめておくという話になっているわけです。だからある意味、憲法には「国民が自分で自分を縛る」という側面もあるということが説明されているわけですね。


 ただこれは「教科書」の場合の話であって、確かにジャーナリズムや世論のレベルで唱えられる「立憲主義」論は、八木氏が言うように、「国家権力 vs 国民」というような図式のみを念頭に置いていて、国民に対立するものとしての「国家権力」の制限のみを論じている場合が多いのかもしれません。
 
 

本当に憲法は「国家権力を縛るためのもの」なのか

 2014年に安倍首相が、野党からの「憲法とはどういう性格のものだとお考えでしょうか」との質問に対して、

考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある。しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないかと思う。


と答えたことがニュースになり、例えば朝日新聞は社説で「これには、とても同意することはできない」と批判していました。


 私も安倍首相の妙に未来志向な憲法観には違和感を覚えるのですが、「憲法は国家権力を縛るものだ」という意味での「立憲主義」を強く唱える論調も変なんじゃないかと思っています。というのも、また憲法学の教科書の話をすると、たしかに「憲法は国家権力を縛るためのもの」だと解説されている記述はあるのですが、他の箇所を読むとその憲法観にそぐわないと思われるような議論も書かれてあって、立憲主義というのはけっこうあやふやな理念なんじゃないかという気がしてくるからです。


 以下、憲法学の教科書に書いてあることのうち、いわゆる「立憲主義」と整合性あるんだろうかと疑問に思ってしまう点を列挙します。
 なお私は憲法学や法律学の専門家でも何でもないので、理解が間違っている可能性があります。また、これまでの憲法学者たちの専門的研究の積み重ねは尊重したいと思っているし、日本国憲法において人権が重要なテーマになっていることも理解しているので、べつに憲法学にケチを付けたいわけではないです。ただ、「立憲主義というのは、素人が教科書を読むといくつも疑問が浮かんでしまうような、分かりにくいコンセプトである」ぐらいのことは言える気がしています。
 
 

「立憲主義」との整合性が気になる点

 以下4点に分けて「立憲主義」の憲法観に関する疑問を書いておきます。

「国民の義務」の規定

 まず、日本国憲法には「国民の権利」の保障だけではなく、「国民の義務」も規定してあるじゃないかという話です。これは、いわゆる立憲主義に関して素人が疑問を抱く点としては「毎度おなじみ」的なもので、立憲主義派の人たちからすれば「またその話かよ」って感じでしょう。しかし、やはりこの点は不可解なんですよね。


 『憲法 I』(野中俊彦ほか、有斐閣)という教科書を読むと、国民の義務規定については、

国民の憲法上の義務を定めているのは、一二条の一般的義務規定、二六条(教育)、二七(勤労)、三〇(納税)の個別的義務規定であるが、それらは具体的な法的義務を定めたものではなく、一般に国民に対する倫理的指針としての意味、あるいは立法による義務の設定の予告という程度の意味をもつにとどまっている。


とか、

日本国憲法の人権保障規定は、生来の人権を強く保障しようとするものであり、この点からみれば、国民の義務の強調には本来なじまない性質のものである。


とか、

国家のなかでの国民の義務は、(中略)法令の個別の定めによって具体化されるものであり、ことさら憲法の人権保障規定の中で規定することの意義は乏しいといわなければならない。


とか、言い訳みたいなことばかり書いてあります。要するに教科書としても「国民の義務」にはイヤイヤ言及しているような感じで、I巻とII巻を合わせると1000ページもある教科書なのに、国民の義務についての解説はたった5ページしかありませんw
 また、手元にある『憲法学読本 第2版』(安西文雄ほか、有斐閣)という教科書も見てみたところ、国民の義務の解説はまるごと省略されてました。
 そんなに重要性が低いのなら、なぜ憲法にわざわざ書いてあるのかと訊きたくなります。憲法に規定することの意義が乏しいなら、規定しなければよかったわけですよね。教科書のこの歯切れの悪い解説からは、「憲法は国家権力を縛るためのもの」という憲法観に縛られ過ぎて、「国民の義務」規定をどう扱ったら良いか頭を悩ませてしまっているという印象を受けてしまいますね。


 そもそも「国民に対する倫理的指針」としての意味を持つというのであれば、憲法を「国家権力を縛るためのもの」と狭く理解する必要はないように思います。少なくとも、「国家権力を縛るためのルールが書いてあると同時に、国民の倫理的指針も書いてある文書」だと言わなければならないですよね。
 また『憲法 I』は、「勤労の義務」規定については、

これを「社会国家の根本原理を定めたもの」、すなわち「働かざる者は、食うべからず」の原理とその根本精神を同じくすると解し、社会国家的給付に内在する当然の条件として、働く能力があり、その機会もあるのに、働く意欲をもたず、また実際に働かない者は、生存権の保障が及ばないなどの不利益な扱いを受けても仕方がないという意味が含まれていると解する説が今日では有力である。


と述べています。日本国憲法には「働かざる者食うべからず」の原理が書き込まれているというのであれば、それを「国家権力を制限して人権を保障する」ために存在する文書だと理解するのは無理があるように思えます。

社会権の規定

 『憲法 I』には、以下のようなとても参考になる解説があります。

一般に、権力と自由の関係は「権力からの自由」「権力への自由」「権力による自由」の三つに図式化しうる。権力からの自由は、権力を制限し権力が個人の自由の領域に不当に介入することを阻止しようとする。権力への自由は、個人が権力に参加し、究極的には自らが権力の主体となることの中に自由を見ようとする。権力による自由は、自由の物質的基礎を権力によって提供してもらうことを求める。


 なるほど。
 近代民主主義の成立過程において、当初はまず「権力からの自由」が問題となり、君主の権力を制限するための協約が結ばれていった。次に時代が下ると、次第に市民による政治参加、すなわち「権力への自由」の実現が問題となった。そして20世紀に入ると先進各国の福祉国家化が進み、国家が社会保障政策を通じて人々の社会権を担保する取り組み、すなわち「権力による自由」が問題となった。実際に各国の憲法は福祉国家化を反映した内容になっており、日本国憲法においても25条*1で生存権・社会権が保障されています。


 ここで「おい待てよ」と私は思うわけです。「権力による自由」などというものが憲法に規定してあるというのだから、やはり「憲法は国家権力を制限するためのものである」などという憲法観は射程が狭すぎるのではないかと。教科書では、その辺りは明確に説明されてはいませんでした。

憲法は授権規範である

 憲法は、「憲法制定権力」が、立法・行政・司法の各機関に対して権限を授ける「授権規範」としての側面を持つと、憲法学の教科書では解説されます。もともと「憲法制定権力」という概念が生まれたのも、シエイエスというフランス革命期の法学者が「憲法を制定する権力」と「憲法によって作られる権力」を区別したことが発端であるとのことです。


 それで、『憲法Ⅰ』には、「国民は憲法を制定することにより授権すると同時に制限するのである」と書いてあります。また、私が学部の1年の頃に一般教養の授業で読んだ『現代法学入門』(伊藤正己ほか、有斐閣)という教科書を久しぶりに見てみると、近代の憲法というのは「権力を根拠づける反面、人権によって権力を限界づけている」と説明されていました。
 これは考えてみれば当たり前の話なんですが、要するに憲法は「権力の源泉」としての役割も担っているのであって、「国家権力を縛る」というのはそれと同時に表れる一つの性質に過ぎないわけですよね。「憲法は、権力を根拠付けると同時に、権力に限界を与える」と言っておくほうが、「憲法は国家権力を制限するために存在する」というよりもバランスが取れた記述であるように思えます。

改正できる

 上述の3点に比べればそう強く言いたいわけではないのですが、憲法も結局、定められた手続きに従って改正することが可能ですよねってのも気になります。
 一応学説上は、どの条文をどのように変更することも許されているのではなく、改正できる範囲には限界があって、憲法の趣旨の根幹部分に対する変更は行えないというのが通説になっているようです。たとえば、国民主権から君主主権に変更するような改正は行えないはずである、と。ある一時の多数派が無茶なことを考えて憲法改正を試みても、ある程度以上は思い通りにはいかないのだよという話です。


 そのような改正限界説は、思想的には理解できるし非常に興味深い議論なんですが、「だったら憲法にそう書いておけよ」感がかなりありますね。日本国憲法の場合について言えば、ここからここまでしか改正を許しませんというようなことは書いてありません。書くのは簡単なのに、なぜ書いていないのかと疑問を持たざるを得ないわけです。
 形式的には、96条の改正手続きによれば何でも変更できるという説を排除することは難しいんじゃないでしょうかね。繰り返しますが、私も「改正には限界があることにしておくべき」という規範的な主張なら理解できます。しかし事実として憲法にはそう書かれてないんだよな〜ってのは気になります。


 そういえば先に述べたように、安倍首相は憲法96条に定められた改正手続そのものを改正しようとしてバッシングされたわけですが、この「改正手続きの改正」が可能か否かについても議論があるようです。たとえば「国民投票は不要!」とするような、実質的に別物の手続きに変えるような改正をしてしまうと、憲法制定権力が憲法の内容をコントロールする経路が絶たれるという事態を招き得るから、それは「背理」であって論理的に不可能という説が多数説らしい。この説は、考え方としてとても興味深いと思うですが、やはり「だったらそう書いとけよ」と……。

 また、改正限界説をとる場合、天皇の権限によって、明治憲法の改正として日本国憲法が誕生し、これによって天皇の主権が否定された(ことになっている)という話はどう説明するつもりなんですかね。8月「革命」説もけっこう根強く、革命だから説明は要らないということかもしれませんが。


 以上のような疑問を踏まえると、「立憲主義」として唱えられている憲法観は必要以上に「憲法」の意味を狭めているのではないかという気がします。現代における憲法の役割を理解する上では、広義の憲法、つまり「固有の意味の憲法」を考えておけばいいんじゃないのかなと個人的には感じます。要は「憲法とは、国家統治の基本ルールである」という理解でべつにいいんじゃないのかなと。「容易には改正できない、大雑把なルールを定めて、秩序だった世の中を作りましょう」ってだけの話でしょう。
 最近「立憲主義」を唱えている人たちは、安倍首相の改憲案等が気に入らないから唱えているわけですが、個々の条文が有益であるか有害であるかを直接議論すればいいのであって、「立憲主義とは〜」とか言って余計な限定を伴う憲法観を持ち出す意味はあまりないように思います。
 
 

結局「運用」にかかってる

 ついでにちょっと話がそれますが、別の論点についても書いておきます。憲法が「多数派の横暴」の抑止を含めて「国家権力を制限する」役割を担っているのだと理解し、立憲主義を唱えまくったとしても、多数派が本気で暴走すれば憲法の縛りなんて割と簡単に崩壊するんじゃないかということです。すごく極端な話をすると、改正限界説どころか明確に「改正が不可能」な憲法を制定したとしても、多数派が「今日からこの憲法はもう無視することにしてしまおう」と言い出したら、憲法は無効ですよね。革命です。
 憲法を「国家権力の横暴から市民を守ってくれる、崇高な存在」みたいに持ち上げたとしても、実際には憲法そのものは単に他の法律よりは改正のハードルが高いという程度の存在なのであって、本格的におかしな民主的権力が登場したら簡単に凌駕されてしまうんじゃないでしょうか。


 法哲学のような議論になるのかなと思うのですが、法に服従する習慣がないところでどんな法律を書いても意味がないということを考えると、憲法も所詮は、憲法それ自身によっては生み出すことも維持することもできない「服従の習慣」によって支えられており、その限りで効力を持つと言えるわけですよね。警察などの暴力装置が〜とかいうのも法秩序の実現手段の一つではあり、それしか無いと思っている人も多い気がしますが、実際のところ服従の「習慣」の力には及ばないと思います。
 立憲主義、というかもっと広く言って「法の支配」が健全な形で機能するためには、憲法に何が書いてあるかというのももちろん大事ではあるものの、根本的には(憲法を含む)法それ自体とは別に存在する、法に従い法を運用する日々の実践の積み重ねがけっこう大事だということになります。


 実際、先ほどの『憲法学読本』という教科書にも、次のようなことが書いてあります。

 国民主権論の名で追究されてきたのは、憲法制定という一回的な権力行使ではなく、日々の国政において、どのようにして統一的な国家意思を継続的に形成し実現すべきか、という息の長い問題だということができる。
 このような観点から、最近では憲法の下での政治を「デモクラシー」と呼び、デモクラシーの制度論・手続論に、国民主権論を解消する傾向が有力になってきた。この傾向では、主権的な『民意』とは、あくまで一定の制度・手続によって形成された政治プロセスが、デモクラシーと呼ぶにふさわしいだけの質を備えているかどうか、ということになる。(p.57)


 そういえば日本国憲法にも、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(第十二条)というような規定がありますね。この憲法に書いてあることを守ろうと思ったらガッツがいるぜと、憲法自身が言ってるわけです。
 そういう「運用」の重要性を考えて、「憲法を定めておけばOKみたいな話ではないんだよな」という理解に至ると、憲法というものは「立憲主義」を連呼する護憲派の人たちが言ってるような崇高なものではなく、国民社会の統治の道具の一つぐらいに考えておけばいいんじゃないかという思いになります。

*1:13条も?