The Midnight Seminar

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中野剛志『日本思想史新論――プラグマティズムからナショナリズムへ』(ちくま新書)

日本思想史新論: プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)

日本思想史新論: プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)


 中野さんがまた新刊を出してた。
 Amazonにレビューを投稿しておきました。


 いま、日本にとっては「幕末」と「敗戦」に続く「第三の開国」の時代がやってきたのだ!というような話はあちこちで語られており、直近ではTPP参加交渉問題でも盛んに謳われていた。(私が知ってる範囲では80年代に日米経済摩擦の中で宮澤喜一が「第三の開国」と言ってたのが最も古い。)
 この背景には、ステレオタイプと化した一つの歴史観がある。「日本社会というのはもともと非常に封建的で、前近代的な因習をかたくなに固持する傾向があり、国際社会の変化から常に取り残される『閉じた社会』であった。しかし幾度か訪れた西洋からの外圧によってようやく『開国』し、『開かれた社会』へと成長してきたのである。そしてこれからのグローバル化の時代においても…」という卑屈なストーリーである。
 こうした歴史観を、著者は「開国物語」と名付ける。「開国」という言葉は、日本人にとってはもはや一種のイデオロギーとして脳裏に深く刷り込まれていて、TPPの場合もまさにそうだったが、この言葉を添えられると何となく誰もが反対しづらい空気になってしまうのだ(笑)


 本書は、この「開国物語」という病的なイデオロギーを克服するための手がかりを日本思想史の系譜の中に求め、水戸学の尊王攘夷論、とくに会沢正志斎の『新論』に着目するものである。いきなり「水戸学」だの「尊王攘夷」だのと言われても戸惑う読者が多いだろう。一般的には、「右翼」とか「国粋主義」といった、内向きで後ろ向きなレッテルを貼られがちな思想だからだ。著者自身も、本書のアプローチを「おそらく最も過激と思われる手法」だと断っている。
 しかし、著者の解説を読んでみると、水戸学の尊王攘夷論というのは、当時の国際情勢を可能なかぎり冷静に把握した上で、右翼チックな教条(ドグマ)にとらわれることも全くなく、あくまで現実的な実践として打ち出されたビジョンであったことがよく分かる。
 そして、国を開いて外人の言うことを聞かなければ日本人は一人前になれないのだという「開国物語」とは違って、あくまで自律的な判断を重ねてきた先人たちの思想の歴史が存在するということが理解できるのである。


 江戸時代の日本人というのは、我々が歴史の授業で習った知識からイメージしているほど、当時の国際社会の中でナイーブな存在だったわけではない。西洋諸国の動向はきちんとキャッチしていたし、「鎖国」という政策も、当時の国際情勢の中では一つの合理的な選択であった。
 水戸学の尊王攘夷論も、偏狭な守旧派による文明化への抵抗みたいなものだったわけではなく、むしろ「攘夷」の精神でもって急速に国内の政治的・経済的・軍事的な改革を進め、国力の基盤を固めた上で積極的に開国し、西洋列強に伍していこうという周到な国家戦略ですらあったようである。
 そもそも、我々は幕末の歴史を「鎖国 vs 開国」「攘夷 vs 開国」という対立軸でイメージしがちだが、実際に当時の論争を追うと、政策方針における主要な対立軸は「避戦(西洋諸国との衝突回避) vs 攘夷(西洋諸国との競争に参加する)」であって、「鎖国か開国か」というのはそれぞれの方針を実現するための手段レベルの選択の一つに過ぎなかったらしい。そして明治維新というのは、鎖国派の幕府を開国派の志士が打ち倒したという出来事だったのではなく、避戦派の幕府を攘夷派の志士が打ち倒したと理解すべきものであった。


 著者は会沢正志斎の『新論』の解釈を通じて、江戸時代の日本に、西洋でいえば「プラグマティズム」に相当する確固とした哲学の基盤が存在したことを明らかにしている。
 伊藤仁斎から荻生徂徠へ連なる「古学」(儒学の一派)の系譜が、会沢正志斎らの水戸学に影響を与えているらしいが、この「古学」というのは、朱子学の極端な合理主義(静態的で抽象的な、机上の空論としての理性中心主義)を根本的に批判するものであった。そして、ダイナミックな現実をありのままに見つめ、具体的に実践や経験を重ねていくことを重視する「プラグマティズム」(実学)の哲学を生み出して、これが水戸学へとつながり、さらには明治維新後の福沢諭吉へと継承されていくわけである。
 このプラグマティズムの哲学を土台として、当時の国際情勢を冷静にみきわめ、現実的な国家戦略として尊王攘夷論を打ち出したのが会沢正志斎で、幕末の志士たちを大いに鼓舞したわけである。そして、開国後においてその実践主義的なビジョンやセンスを受け継いだのが福沢諭吉であった。福沢といえば、歴史の教科書では開明派・進歩派として扱われているイメージがあるが、彼の著作を実際に読んでみれば西洋の典型的な保守思想家に近いことが分かるし、大胆な尊王攘夷論の継承者でもあったのである。


 というか「尊王攘夷論」というもの自体が、歴史の教科書では閉鎖的なイメージをもって語られているものの、実際には単に「国家としての自立が大事である」と言っているだけの極めて健全な思想だったのだ。「民族自決」は戦後の国連の基本的理念の一つでもあるし、誰も否定することはできないだろう。
 ナイーブな鎖国主義の日本が、アメリカ様に門戸をこじ開けてもらってようやく一人前に国際社会へ出ていけるようになりました…という卑屈な話ではなく、国家としての自立を貫くべきだという「尊皇攘夷」の思想がまずあって、そのための手段として開国を選択するという、自律的な判断が下されたまでである。


 本書で語られる思想史は教科書的なイメージとは異なるものだが、かなりの説得力があって面白い。私はそもそも、本書で引用されている書物は、福沢諭吉の主要著作と、孔子の『論語』ぐらいしか読んだことないので勉強になりました。
 しかも(著者がもともと専門としている)西洋の政治経済思想とも比較しながら整理されていて、日本の思想史も、近代性という意味においてまったく馬鹿にできないものだということがよくわかる。
 また、日本思想の本というと、漢文調の古い日本語で書かれた引用文がたくさん並んでいて読むのが疲れるものも多いのだが、本書においてはその種の引用は最小限で、著者が平易に解説してくれているのでとても読みやすい。おすすめです。