The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

元公安調査庁・菅沼氏の会見動画(日本の裏社会について)

 古いものですが。
 公安調査庁出身の菅沼氏による、2007年(?)の外国人特派員向け会見の映像がフルでYouTubeにあったので、全部みてしまいました。「1-6」から「6-6」まで6本アップされていました。(エントリに動画を埋め込むと表示が重くなるのでリンクを貼るだけにする。)
 いまの日本のアウトロー社会に、昔の任侠道のような美徳はもはや無いという人もいる。でも私にはようわからんけど、菅沼氏の言うような、「裏社会を暴対法で一掃すりゃOKみたいな合理主義的な単純なやり方は、表社会と裏社会の双方にとって不幸な結果を招いている」という話は説得力ある気がするけどなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。これかなりベタなんだけど、どうしてもそういう見方のほうに関心を持ってしまいます。

Japanese Yakuza 1-6
http://youtu.be/YRFmzRKvx7I
 《04:30頃〜》
 「日本のヤクザの構成員は警察庁の発表によると8万〜9万人ということになっているが、おそらくもっと多い。日本の主要なヤクザは21組織あり、上から順に六代目山口組、稲川会、住吉会の3つでヤクザの7割以上を占める。山口組は日本の全ヤクザ組織の50%以上のシェアを占める。
 現在山口組を統制しているのはナンバー2の高山氏で、彼と私は大変懇意にしている。高山氏も私もよく言っているのだが、ヤクザの構成員の60%は同和関係者で、30%が在日(韓国系20%、北朝鮮系10%)、残りの10%がその他の日本人や中国系である。
 彼らヤクザは、単なる「犯罪組織」なのだろうか? 我が国の警察は、ヤクザを完全に犯罪組織とみなすことにして、1992年に暴力団対策法というものを作った(施行)。これによって何が起きたか。ヤクザには伝統的な収入源として、賭博、ギャンブル、ドラッグ、競馬、競輪などがあったのだが、この法律によってそういった収入源は完全に非合法化され、断たれてしまった。その結果、ヤクザは新たな収入の道を求めて、組織をたとえば右翼政治団体として変身させた。あるいは、産業廃棄物の処理など様々な事業を手掛けたり、融資という形でベンチャー企業にかなり関わっている。」


Japanese Yakuza 2-6
http://youtu.be/OeGwqZvAVK8
 《01:40頃〜》
 「なぜこんなに簡単に、ヤクザが日本社会(経済)の中に浸透できるのか。それは日本の国民、社会の中に、ヤクザを歓迎し、ヤクザにあこがれる気持ちがあるからだ。清水の次郎長、寅さん、極道の妻たちなどみんなヤクザ関係者である。
 ヤクザというものを、まさに今日本の警察は「犯罪組織」であると決めつけているが、ヤクザというのは日本の文化の一端を担ってきた組織である。日本の神社のお祭り、相撲、芸能界など、こういったものも常にヤクザと渾然一体となって、日本の社会のなかで育ってきたわけである。
 こういう状況の中で、日本の警察はFBIの事例を機械的に日本に適用して暴力団対策法を作ったのだが、その結果として、日本のヤクザはこれまでは警察とも非常に親しくやっていたのだが、今は警察が一切ヤクザ組織の中に入り込めなくなってしまった。山口組は全組員に、警察との接触を一切許さないという指示を出している。いま、警察が白書などを色々と出しているが、これは正確な情報じゃない。この法律のおかげで、いま日本の警察は、ヤクザの問題についてほとんど分からなくなっているのだ。」


Japanese Yakuza 2-6
http://youtu.be/Iz8lfu-5j_w
 《05:00頃〜》
 「山口組の高山さんともよく喋っているんですが、彼は名古屋の出身なのですが、たとえばトヨタは仕事をやる上で、絶対にヤクザを必要としている。トラブルシューターであるばかりでなく、企業が様々な仕事をする上で、色々な交渉事とかモノを買ったりするのに、ヤクザ組織が必要なのだ、日本の社会では。
 トヨタの新しい本社ビルの建設も、中部国際空港の建設も、何のトラブルもなくスムーズに行ったが、これも名古屋を牛耳っている弘道会というような組織の働きがないとうまくいかないんだ。
 だけど、どっから調べても、トヨタと弘道会に関係があるというような証拠は出てきません。だから、具体的に誰がどう関わったかと訊かれても私は答えられない。しかし、証拠がないということは、関係がないということではない。これは、私の単なる想像ではない。あの人たちが日ごろ何をどうやっているのか、私にたまに喋ってくれる。彼らは実に巧妙にやっている。どうやったって証拠は出てこない。
 六本木ヒルズの建設にヤクザが関与したかって? 証拠はないが、ほんとにイエスですよこれは。」


 参考に面白いブログ記事がありました。

日本のヤクザについてフィナンシャルタイムズが語ったこと(極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/12/post-8d66.html


「犯罪の制度化はそれなりの役割を担っているのだろう。」


「先のピリング氏の話では、日本のヤクザ人口を10万人とし、イタリア系アメリカ人マフィアの25倍としていた。国際的に見ると日本社会は確かに異常なまでにヤクザを抱えているし、であればそれが社会制度の一環として見るほかはないだろう。」


 なるほど「犯罪の制度化」ね・・・。たしかにどうせ犯罪が起きるなら、ランダムに起きる意味不明な犯罪よりは、制度化された犯罪の方が御しやすいだろう。スケールが小さいものでいえば、例えば暴走族が集団で信号を無視したり学校の窓ガラスを割ったりするのも、ある意味「制度化された犯罪」であって文化みたいなもんだから(笑)、サラリーマンの飲酒運転やら主婦の児童虐待よりは、御しやすいというか安心して受け入れられるとは思う。
 そして、クリーンな社会を目指して「制度化された犯罪」を片っぱしから潰しにかかると、じつは犯罪そのものがどんどん無秩序化していく、そしてどんどん地下に潜っていくということか。国際法に基づく国民国家同士の戦争がなくなると、何のルールもない「テロ」が蔓延して余計困るというのと同じですな*1
 ロンドンの暴動のように、若者が突如として街中に火を放ち、略奪を始めるというのは意味不明すぎてたまったものじゃないが、それに比べればヤクザがたまに銃撃戦を繰り広げるぐらいに留まっている社会のほうが望ましいんだろう。


 ありきたりな議論なんだけど、「裏社会」を潰しにかかると、うまい具合に全てが「表社会」に切り替わってくれるのではなくて、逆に、裏と表の境界線が無くなってしまってお互いがお互いに溶け込んでしまい、ややこしくなるだけだったのではないか。そんなことになるぐらいなら、表と裏の境界線を明確に引いたまま管理した方が、楽だしみんな幸せであったと。直接知らないけど「遊郭」だってそういうもんだったんじゃないだろうか(あれは「制度化された犯罪」を通り越して合法的に営業されてたわけだけど)。
 これは、「男と女」「上司と部下」「高学歴と低学歴」「自国民と外国人」など色んな区別について言えることかも知れない。あまり一般論や抽象論で語っても意味がないのだが、社会的なグループ間の「区別」そのものをなくしてしまうと、安定した関係が損なわれるばかりか「越境」の興奮すら失われてしまうのだから、区別を維持したほうが安定的かつエキサイティングであるという可能性はある。たとえば、「女は家庭を守るもの」といったん決めつけておいて、その上で「にもかかわらずビジネス界で活躍する女性」の生き方を認められる度量があればそれでいいんだし*2、その「にもかかわらず」という越境が世の中を面白くするのであって、何もわざわざ男女の境界線そのものを消してしまう必要もないだろう。「境界線」という制度を解消するのではなくて、「越境」をしっかりと制度化すればいいのだ。
 むかし経済人類学者の栗本慎一郎が、「パンツというものは、脱ぐときの興奮を味わうためにはいているのだ」と論じたように、色々なレッテルを、剥がす時の興奮のためにいったん貼られておけばいいんじゃないのか?
 ただし、社会がいったん「ポスト近代化」の路程を歩み始めるとこれはもう不可避的にあちこちで「境界線」が消えていくもんなので、それを嘆いても仕方ないと言われれば、そんな気もしてしまうところが痛いのだが。


 暇なときに本を読むかも知れません。


 

ヤクザと日本―近代の無頼 (ちくま新書)

ヤクザと日本―近代の無頼 (ちくま新書)


 
近代ヤクザ肯定論 山口組の90年 (ちくま文庫)

近代ヤクザ肯定論 山口組の90年 (ちくま文庫)


 
守るべき日本の国益―菅沼レポート

守るべき日本の国益―菅沼レポート

*1:世界大戦中もテロはあるのかも知れんが

*2:というか、「男女平等」の掛け声のもとに進んだのは、実際にはこういう種類の度量を身につけるということであって、それにはある程度成功してると考えればいいんだろう。これ以上ラディカルに、「いやいや、その『女は家庭』というレッテルそのものが許せない」といって区別そのものの解消を目指し始めるとおかしくなるし、常識ある庶民はそんなものは目指してこなかったのだ。なお、少子高齢化で供給力不足になるから女もどんどん働かなくちゃいけないとか、これからは正社員になれる人が少なくなるから共働きを基本にしなければならないとかいうのは、別問題として考える必要があるのは当然。