- 作者: 宮崎学
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/01/08
- メディア: 文庫
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本書についてはAmazonに短いレビューをアップしただけだったのだが、今日の産經新聞の記事で山口組の組長のインタビューを読み、これが宮崎の主張とかなり似ていたので、本書の内容を少し詳しく振り返ってみようと思う。
薄いけどけっこう面白い本だし、ヤクザ論の中では出版されたのがごく最近であるというところもポイントで*1、2010年に起きた事件なども取り上げられている。
(後日追記:このリンク先の産経新聞の記事はすでに削除されています。私は全部保存してたので良いのですが、残念ですね。重要な発言については、本エントリの本文中で引用しています。)
【山口組組長 一問一答】(上)全国で暴排条例施行「異様な時代が来た」
【山口組組長 一問一答】(下)芸能界との関係「恩恵受けること一つもない」
残念ながらリンク先の記事がすでに削除されてしまっているが、はてなブックマークが上は1000件、下は500件以上もついていて、ブコメやTwitterでの反響を読むと「かっこいい!」「政治家や官僚よりもよっぽど筋が通っている!」などと絶賛の声がけっこうあったように記憶している(とくにTwitter)。
まぁ、それこそ暴力団を礼賛してるみたいに見えて、暴排条例に違反するおそれがあるので、言論の自由は諦めて、削除することにしたのだろうか。
べつに全面的に組長に賛成!とは言わないし、山口組は素晴らしい!と称えたいわけでもないのだが、ここで語られていることは少なくとも、犯罪者のたわごととして無視して良いようなものではないように思った。
さて宮崎学といえば、父親がヤクザであることと、昔グリコ森永事件で犯人(キツネ目の男)と間違われたことで有名な作家だ。本書は非常に薄い本なのですぐ読めるのだが、真面目に考え始めると(ふつうの人はこんなテーマを真面目に考えたりはしないと思うが)けっこうややこしいテーマだし、論点も盛りだくさんでけっこう読みごたえがある。
なお、宮崎のヤクザ関連著作といえばもちろん『突破者』が有名だし、『近代ヤクザ肯定論――山口組の90年』という、明治時代にまで遡って山口組の歴史を描いた名著があるのだが、そのへんは後日ひまだったらレビューをまとめようかと思う。
本書はヤクザ肯定論なのか?
本書の趣旨は簡単にいうと、「暴力団追放」という掛け声は綺麗事にすぎず、その理念が日本社会を良くするどころか、逆に地獄へと導く恐れがあるという話である。「暴力団」と聞いた瞬間にヒトラーなみの極悪人を想像するように訓練されてしまった大半の日本人には、たぶん受け入れ難い主張だろうけど。
宮崎は、ヤクザの息子でありしかもヤクザ関連の著作を何冊も出している。しかし彼は別に、ヤクザは偉いとか立派だとか言っているわけではない。基本的な主張は次のようなものだ。
- そもそもヤクザ的な組織はあらゆる社会に付きもので、人間社会が真面目なやつばかりになのことなどあり得ないのだから、それを撲滅しようとしても無駄であり、無理に撲滅しようとすれば副作用(たとえば地下組織化して、余計に手がつけられなくなるなど)も大きいということ。
- ヤクザは悪いこともするし、悪いことをすれば捕まえればいい。しかし最近の暴力団対策法、組織的犯罪処罰法そして暴力団排除条例は、「悪いことをしそうな奴ら」が単に集まって怖い雰囲気を醸し出しているだけで違法とする流れであり、特に暴排条例では、彼らにモノを売ったり彼らの宅配便を運んだりする側も処罰される。これは犯罪行為ではなく特定の組織の「存在」そのものを排除しようというもので、法の下の平等原則に反しており不当である。
- ヤクザというのは、何の理由もなくただ犯罪行為をするためだけに生まれてきた組織ではなく、もともとは「差別」や「貧困」といった由来を持った一つの社会階層である。戦後は、外国人の犯罪者集団や左翼過激派に対してヤクザが睨みをきかせて、警察の治安活動をサポートしてきたという実績もある。そうした歴史を「なかったこと」にして、ヤクザに「暴力団」という名をつけ、社会の目の敵にするのは不当ではないか*2。
以下、詳しく解説する。
ヤクザを撲滅するとどうなるのか?
警察がいなくなって世の中にヤクザだけが残ると大変なことになるのは当たり前だ。しかし逆にヤクザを追放したところで、めでたくクリーンな世の中が実現するというわけでもなく、むしろより厄介な問題が出てくるだけだというのが本書の主張である。
論点を要約すると、「暴力団追放」という綺麗事に邁進してヤクザ組織の「存在」そのものを非合法化する流れは、3つの変化を引き起こすと宮崎は言っている。
- これまでヤクザが収益を上げてきた闇のマーケットが、綺麗サッパリ消えてなくなるのではなく、警察の利権になって警察がヤクザ化するということ。これは、風俗やパチンコの経営の世界ですでに生じている。警察が許認可権を握って、業者と癒着するわけである。
- ヤクザが「地下」にもぐることで実態が把握困難になり、犯罪の手口が巧妙になる。ヤクザは既に合法的に「表の社会」に入り込んでいて、たとえばベンチャーキャピタルへの出資で儲けたりしており、こうなると取り締まりや監視がかえって難しくなっていく。
- そして一番ヤバイのが、今までは和製ヤクザが抑え込んでいた外国由来の不良集団(中国マフィアなど)が、日本での勢力を拡大する。海外の犯罪集団は、日本のヤクザなどは凶暴さのレベルが違っていて、義理人情どころか本当に血も涙もないというのはよく知られた話だ。そうなると治安の悪化は取り返しの付かないレベルになることもあり得る。
これらの宮崎の主張は、データとかに裏付けられているわけではないので真偽はわからないが、それなりに説得力を感じるものでもある。「1」は宮崎の見方も一方的な気はするが*3、「2」「3」はたしかにありそうな話である。
先に「3」の方に触れると、これはこれから起きるだろうという未来形の話になっているのだが、少し前に中国系の犯罪者集団の「蛇頭」ってのが話題になって、産経新聞あたりが危険だ危険だと盛んに騒いでいたのが思い出される。
外国人犯罪者の台頭については、組長インタビューでも次のようにいわれている。
不良外国人たちは今、日本のやくざが行き過ぎだと思える法令、条例が施行されて以降、われわれが自粛している間に東京の池袋や新宿、渋谷、あるいは名古屋、大阪などのたくさんの中核都市に組織拠点をつくり、麻薬、強盗などあらゆる犯罪を行っている。これが今後、民族マフィアと化していったら本当に怖くなるだろう。こちらもおこがましいが、それらの歯止めになっているのが山口組だと自負している。
《組長インタビュー 下》
そして「2」はとっくの昔に始まっている傾向である。ヤクザが、立派な門構えのお屋敷に住んだり、巨大な街宣車で示威行動をしてる分にはわかりやすい。しかし80年代以降に台頭したと言われる「経済ヤクザ」になると、活動の形態でカタギとの区別がつかなくて、ややこしいわけである。
経済ヤクザの台頭について、会津小鉄の高山会長は宮崎にこう語ったらしい。
ヤクザには博打させといたら、よかったんや。そしたらこないならんで。夜になったら博打打って、みんな昼間は寝とるんやから。大きいなるって言うのはね、警察がしたんや。自分たちが食うために殴ったもんやからね。(60頁)
ヤクザへの取締りを強化した結果、博打のような伝統的なシノギから離れて、巨大なビジネス組織へと成長してしまったというわけである。
暴力団追放は警察の利権のため?
上記の、(警察がヤクザを)「自分たちが食うために殴った」というのは、次のような意味合いである。
宮崎がいうには、80年代まではまだ左翼の過激派がそれなりに存在していて、警察や公安にも「治安維持」系の仕事がたくさんあった。しかし、冷戦崩壊とともに左翼運動が一気に退潮してしまい、彼らの仕事がなくなってしまった。そこで警察の余剰人員を吸収するために、警察官僚たちは「暴力団対策」という新たな政策分野をこしらえて、ヤクザ組織そのものの殲滅を目標にし始めたのだという。
もともと、左翼過激派によるテロ活動に対してヤクザが睨みをきかせてきたという面もあって、冷戦崩壊はそういう「運動家対策」とししてのヤクザニーズを失わせたという面もあるのだろう。ちなみに、確かに暴力団対策法が施行されたのは冷戦崩壊直後の92年だから、時期的にも宮崎のいう通りなのかも知れない。
「自分たちの仕事を作った」という点に加えて、宮崎が「警察の利権」だと言っているのは、かつてヤクザ組織の「シノギ」(収益源)であった仕事がいまや警察の収入源になっているということだ。パチンコや風俗は、風営法等で規制の網をかけた上で、警察が許認可権を握ることになった。これもまさに、「仕事を新しく生み出した」ことになるわけである。
しかも許認可権限を持っているわけだから、許認可を得たいと思っている業者との間での癒着は簡単に起こると宮崎は言う。ヤクザにみかじめ料を払うのも、警察に賄賂を払うのも、業者からすれば同じようなもんだ(笑)。実際にそうした不祥事は起きていて、これも宮崎が言うにはだが、業者との癒着で得たカネで警察署長が億ション住まいをしている例もあるらしい。
このへんの宮崎の言い分は、やや「反権力主義」に傾きすぎのきらいもあるので、警察批判をやりすぎるのも良くないとは思うのだが、一理ある指摘だと思われる。(もっと事実とかデータなどを示す必要があると思うが。)
また、うまいやり方だと思うが、企業などに「暴力団対策」と称して警察OBが天下っていく例も多い。これも一種の利権といえば利権だろう。警備会社が警察OBを雇ったりする(今もそうなのかは知らないけど)のと同じで、たしかに会社に警察OBがいれば「暴力団対策」的には心強いような気もする。「暴力団はヤバいから、対策が必要なんです」と不安を煽っておいて、警察OBの再就職先を作り出すというわけである。
警察利権については組長もコメントしているので引用しておこう。
一連の流れで思うのは、暴力団排除キャンペーンは警察の都合ではないか。別にやくざ絡みの犯罪が増えているわけではないし、過去にもパチンコ業界への介入や総会屋排除などが叫ばれ、結局、警察OBの仕事が増えた。今回も似たような背景があるのではないだろうか。
《組長インタビュ− 下》
組織の「存在」そのものを取り締まるべきなのか
暴対法で「指定団体」に指定された山口組、会津小鉄、工藤連合草野一家は、それぞれこの立法に対して違憲訴訟を起こしている。犯罪行為ではなく「組織の存在」そのものを違法化するというのは、「結社の自由」「職業選択の自由」「法の下の平等」「財産権(事務所の使用など)」を侵害しているのではないかという趣旨だ。
また、今回の記事でも組長が「一般市民、善良な市民として生活しているそうした人たちがわれわれと同じ枠組みで処罰されるということに異常さを感じている」と語っているように、各地で制定されている暴力団排除条例は、ヤクザ組織そのものを取り締まるに留まらない。これは、ヤクザ組織と通常の取引をしただけでも処罰の対象になるというラディカルなもので、たとえばヤクザを宿に止めたり、ヤクザ発送する宅配便を引き受けたりするのも、内容にかかわらず条例違反になるのである。そのせいで各企業には、「反社会的勢力との取引に当たらないか」をチェックする膨大な事務が新たに生まれ、それを支援するビジネスも生まれて儲けている人たちがいる。
最近は、寺や神社への集団参拝も拒否された例があるらしいし、大阪ではテキ屋界から指定暴力団を排除するというニュースもあった。覚せい剤の販売を取り締まったりするのは分かるが、祭りのテキ屋を滅ぼす必要なんてあるのだろうか?
本書で宮崎が紹介している例で言うと、ヤクザに弁当を売ったとか、銀行の口座を作らせたとか、寺で和尚さんが組長の法要をしてやったとか、事務所用に部屋を貸すとかしただけで、「反社会的勢力を助長した」として取り締まられるらしい。
まぁ、口座開設についてはマネロン防止とかの理由もあるとは思うが、弁当とか法要は別に禁止しなくても良いんじゃないだろうか?*4。
さらには、任侠道に邁進するヤクザの活躍をマンガや小説に描いただけでも、「暴力行為を美化している」として発禁になったりするみたいだ。たけし映画とか大丈夫なのか??
暴対法や排除条例がヤクザの人権を侵害している!なんて言われても、「んなアホなwwヤクザに人権てwwww」と言いたくなる人が多いだろう。べつに彼らも、マジメに違憲訴訟で勝てると思ったわけではない。しかし彼らにも言い分がある。
犯罪行為そのものが取り締まられるのは当然だし、先のインタビューでも組長が「やくざがかたぎに迷惑をかけることは理由がどうあれ許されない。これには一分の言い訳もない」「法に触れた以上は検挙されても仕方がない」と語っている。しかし、悪そうな奴らがつるんで存在しているだけで違法だとするようなふざけた立法には、どうしても納得できないということだ。
実際、この種の条例は憲法違反なんじゃないかと声を上げている弁護士もいるようだ。まだ何も悪いことをしていなかったとしても、特定の組織に属しているという事実や、その組織と付き合いを持ったということを根拠として、犯罪と認定されて人権が制限されるわけなので。
ここは意見が分かれる点だとは思うが、宮崎も本書で何度も強調している論点の一つである。
組長インタビューの、
われわれは日本を法治国家と考えている。俺自身も銃刀法違反罪で共謀共同正犯に問われた際、1審では無罪という微妙な裁判だったが、最高裁で実刑判決が確定した後は速やかに服役した。法治国家に住んでいる以上は法を順守しないといけないとわかっているからだ。今回の条例は法の下の平等を無視し、法を犯してなくても当局が反社会的勢力だと認定した者には制裁を科すという一種の身分政策だ。
《組長インタビュー 上》
というのはたしかに一種の正論であり得るだろう。ヤクザは基本的に悪いこと「も」する人たちなので、悪いことをしたら取り締まればいい。しかし「悪いことをしたことのある奴」とか、「悪いことをしそうな奴ら」が集まっているだけで撲滅しようというのは不当ではないかと。
私は、「悪いことをしそうな奴」を予防的に取り締まること自体は、場合によってはあって然るべきだと思うので、この組長や宮崎のロジックそのものに全面的に賛成はできない。しかし、後述するようにヤクザ組織には「落伍者の受け皿」としての治安強化の機能もあることを併せて考えると、けっこう言い分としては筋が通っている可能性もある。
利用されてきたヤクザ、差別されてきたヤクザ
会津小鉄の元会長・高山は、宮崎に次のように語っていたらしい。
何もワシらが偉いことしたとは言わんよ。ヤクザはヤクザや。ヤクザを一人前に認めて欲しいと泣き言を言うつもりなはい。悪いことしたらどんどん捕まえたらええ。せやけどヤクザも人間や。社会の中で生きている人間やんか。利用するだけ利用してな、悪いことは全部ヤクザのせいにするんや、暴力団いう名前つけてな。今はそういうふうに片づけられているわけよ。(31頁)
ここで「利用して」というのはよく分からない人も多いと思う。本書でも触れられている例でいうと、たとえば終戦直後の時期は、日本中で社会秩序がある意味崩壊していて、いわゆる「第三国人」つまり中国人とか朝鮮人の不良集団が暴れまわっていた。ネット右翼が喜びそうな話題だが、あくまで中国人・朝鮮人等のごく一部が犯罪集団化しただけである点には注意が必要である(当たり前だが)。
で、これに対処するのに、当時の警察では実力が足りなかったため、各地域を仕切っていたヤクザの協力を得ることでようやく鎮圧していたわけである。
また、60年安保闘争などでも左翼の過激派を抑えるのに警察はヤクザの協力を得ていたし、ベトナム戦争の頃はベ平連などが大企業の株を買って総会に出席し、妨害行為をするので、企業側が対策のためにヤクザの力を借りたのが「総会屋」の始まりと言われる。そしてバブルのころは周知のとおり、地上げやトラブル処理部隊としてヤクザが経済活動の裏方で利用されたわけである。
つまり、カタギはヤクザを存分に利用してきたのだ。YouTubeで80年代ぐらいのヤクザ関係のテレビ番組などをみると、ごくふつうの中小企業が、貸してる金の回収ができないからとヤクザの事務所に取り立て依頼の電話をかけてきて、ヤクザのおっさんが対応に出かけるシーンが記録されていたりする。
だいたい、クスリやギャンブルや風俗や高利貸しや政治団体周辺の典型的なヤクザ稼業は、結局のところ、カタギの中に若干のニーズがあるからこそ成り立っているわけである。カタギの心理や社会中にも、弱いところやダーティな側面はあるのだ。「ダーティな人々」と「クリーンな人々」を、截然と分けられるというわけではないのである。
山口組だって、もともとは神戸の港湾労働者を仕切るための自治組織として出発している*5。明治時代の肉体労働者なんて、生きるだけで精一杯の超貧乏人ばかりでマナーもルールもあったもんじゃないから、そんな奴らが集まって仕事をするためには、秩序を維持するためにヤクザ的な実力組織が必要とされたわけである。
それに、米騒動の時なんかは、山口組が地域のリーダーの一角として「権力に立ち向かう大衆行動」を率い、庶民の支持を集めていた。
さらにいうと、これは有名な話だが山口組は1995年の阪神大震災のときに被災者救援活動を組織を挙げて行っていた。先の「違憲訴訟」を山口組が取り下げたのは、この支援活動が忙しくなったのが理由である。2011年の東日本大震災においても、ヤクザは復旧活動に大量の人員を動員したのだが、これは国内のメディアではほとんど報道されることなく、むしろ海外のメディアが震災直後から報じていた(参考記事)。
また、著者に言わせれば、暴対法は「さんざん差別されてヤクザになるしかなかった者たちの最後の権利まで奪おうとする」(28頁)ものだから許し難いとのことなのだが、この「差別」というのもヤクザの歴史を知らないと分からないだろう。
といっても私もべつにヤクザの歴史なんてよく知らないのだが、以前のエントリーで紹介したとおり公安調査庁の元幹部である菅沼氏も、ヤクザのほとんどは被差別部落出身者と在日の人たちであると言っているし、すでに述べたように明治時代の港湾労働者をはじめとする「超貧乏人」がヤクザの源流の一つなのであって、彼らの仕事は明らかにかつて「賤業」といわれたものの一種だ。「職業に貴賎なし」という人権思想*6に慣れてしまった我々は、ついついそういうことを忘れてしまうけど。
私は左翼風の反差別運動は嫌いだし、この世から差別をなくすことができるかのようなおめでたいヒューマニズムも嫌いだが、「差別」が未だに我々の社会に存在しているという事実は忘れてはならないし、差別する側(たとえば一部のネット右翼とか)の卑しい根性も決して容認してはならないだろう。
ヤクザの由来
公安出身の菅沼氏(以前のエントリー参照)も堂々と、ヤクザは「日本の文化」だと言っている。たとえば寅さんはテキ屋じゃないか、と。
だから素晴らしいというわけではないのだが、日本社会に根を下ろした一つの社会階級としてヤクザ者が存在してきた歴史を無視するのも変な話だろう。私もよく知らないのだが、歴史的には、基本的に前近代のヤクザは「テキ屋」(祭りの出店を仕切ってる人たち)と「博徒」から成っており、山口組のような近代のヤクザは、もともと下層労働者の自治組織だと思えば良いようだ。
宮崎はこう要約している。
長い間、人がアウトローになる理由のほとんどは、差別と貧困であった。だから、ヤクザの組には、差別や貧しさに対抗するために身を寄せ合う相互扶助組織としての面があった。博打やケンカに明け暮れていても、共同体の中にもそれなりの居場所があった。村の唯一無二の大きな行事である祭りにテキ屋として参加することもできたのである。
だが、80年代不動産バブルを機に、ヤクザ組織は合法的な仕事をする『フロント企業』と『非合法部門』に分けられていき、地上げや株で得た多額のカネを元手に強大な組織力が培われていった。
生きんがための組織からビジネス的な面が強い組織へと変化したのだが、これは言うところのマフィア化の一つである。(71頁)
組長インタビューでは次のように紹介されている*7。
山口組の出発点は今でいう港湾荷役の人材派遣業だった。その後、芸能などの興業に進出した。昔から世の中に褒められない業種もある。遊興ビジネスなどがそうだが、そういう業種は確実な利潤が見込めないし、複雑なもめごとがつきものだから、大手の資本はリスクを嫌って進出しない。そうした隙間産業にやくざは伝統的に生息してきた。今も基本的には変わらない。
《組長インタビュー 下》
要するにヤクザというのは、他に行き場を失った「落伍者」たちを強大な統治力・組織力でもって糾合して、「トラブルが多い」「汚い」「しんどい」などの理由で普通の人がやりたがらない業界に入り込んで営業してきた人たちなわけだ。この理解は非常に重要である。
もともとトラブルが多い領域だし、上品じゃない人たちを集めているのだから、当然「暴力」的なものも付き物で、法を犯す確率も高いんだろう。しかしそれは結果であって、殺人や強盗をやるために発足した団体ではないという点は強調する必要がある。
落伍者たちの受け皿
あるヤクザの親分に言わせれば、「親に捨てられるガキなんか、いくらでもいる。昔のヤクザ組織は、そういう子どもたちの逃げ場にもなってたんです」(73頁)という面もあるらしい。むしろ、グレて手に負えなくなったからと言って、親が息子をヤクザに預けにくるというケースもよくあったとのこと。そういう場合は、「カタギには勤まらないからやめとけ」と言って断るらしいが。
今回の山口組組長インタビューでも、次のように語られている。
山口組を今、解散すれば、うんと治安は悪くなるだろう。なぜかというと、一握りの幹部はある程度蓄えもあるし、生活を案じなくてもいいだろうが、3万、4万人といわれている組員、さらに50万人から60万人になるその家族や親戚はどうなるのか目に見えている。若い者は路頭に迷い、結局は他の組に身を寄せるか、ギャングになるしかない。それでは解散する意味がない。ちりやほこりは風が吹けば隅に集まるのと一緒で、必ずどんな世界でも落後者というと語弊があるが、落ちこぼれ、世間になじめない人間もいる。われわれの組織はそういう人のよりどころになっている。
《組長インタビュー 上》
山口組には家庭環境に恵まれず、いわゆる落ちこぼれが多く、在日韓国、朝鮮人や被差別部落出身者も少なくない。こうした者に社会は冷たく、差別もなくなっていない。心構えがしっかりしていればやくざにならないというのは正論だが、残念ながら人は必ずしも強くはない。こうした者たちが寄り添い合うのはどこの国でも同じだ。それはどこかに理由がある。社会から落ちこぼれた若者たちが無軌道になって、かたぎに迷惑をかけないように目を光らせることもわれわれの務めだと思っている。
《組長インタビュー 上》
本書によると、三代目山口組組長の田岡一雄(1913-1981)は、暴対法による「暴力団追放」運動についてこう言っている。
子どものときのわたしがそうであったように、みんなもわたし同様、暗い、悲しい環境に生まれ育った者ばかりである。愛情に飢えたそういう者同士が肩寄せ合い、心を暖め合うことにだれに遠慮がいるものか。山口組が鉄の団結力を持つというならば、それは日常生活における愛情の分け合い以外のなにものでもない。
(略)
この世に組を失った若い者たちを暖かく迎え、職を提供し、社会の仲間入りをさせてくれるだけの度量と理解を示してくれるというならば話はべつである。数万を越える若い者たちをだれがわたしに代わって親身に面倒をみてくれるのか。
(略)
過去、わたしは終戦直後の闇市を横行する暴れ者や、港湾における共産党と真剣に闘ってきた。警察もそれをあと押ししてくれた。それなのに、世の中が落ちついたから『もうやくざはいらん。やくざをつぶせ』というのは、あまりにも勝手ではないか。
もちろんこれは、イメージとしては伝統的な「昔のヤクザ」の話かもしれない。ただ、もともとヤクザ組織というのはこういうものだったのであって、過去に果たしてきた役割をもすべて「なかったこと」にし、社会を挙げて目の敵にするのは不当だろうという話だ。それに、昔ながらの「任侠道」が廃れたとは言っても*8、落伍者を統率するヤクザ組織に存在価値が全くないとも思えない。
会津小鉄の高山会長は、こうも言っている。
田岡さんの一日署長(1959年に山口組の三代目組長・田岡が神戸水上署で一日署長をつとめた)だって、警察は認めよらん。阪神大震災のときの山口組やワシたちがやった救済活動も認めへん。ワシらが町内会に何十年も寄付していたのをやめさせよる。大津の日赤病院に、ワシが設立に寄付金を寄せたことを顕彰するプレートがあるんやが、そこに彫ってあるワシの名前まで削れと言うてくるんやで。昔のことまで全部消そうとしてるんや。
(略)
やっぱりな、悪の温床と言われても、“任侠”の社会というのは、500年からの歴史があるしやな、伝統があるんや。そやから任侠に生きる者として信と義を忘れたらいかんと。こん中で我々は闘いをしていかなあかんと。勝ち負けは別や。
犯罪の制度化
さて、結局「ヤクザ問題」をめぐって我々が考えるべきことって何なのか。以前のエントリでも最後のほうで触れたように、私は「犯罪の制度化」というのがけっこう重要なのではないかと思う。悪事は悪事なのだが、悪事の働き方に一定の型があったほうが、社会としても御しやすいだろうということだ。
上に引用した組長インタビューでも言及されているように、「山口組が解散したら荒くれ者たちが解き放たれて収集がつかなくなる」という論点は、よくよく考えてみる必要がある。もちろん、「犯罪組織」が取り締まられるのは、普通は「組織的」になると1人でやるよりも大規模化したり高度化したりするからである。しかし一方で、こんな言い方をするのは変だが、犯罪組織が一種の「中間団体」として機能して、世の中のろくでなしたちに一定の規律を与える(かも知れない)という点も見逃してはならないと思う。
山口組は厳しく覚醒剤と不良外国人との接触を禁じている。実際、山口組が、薬物の売買や不良外国人との接触を本当にしているのならば、今以上に治安が悪化し、薬物も蔓延しているはずだろう。ただ、末端の組員の一部不届き者たちが禁止事項を破り、われわれの目を盗んで己の欲望を満たすために任侠道の名を汚していることは紛れもない事実。だから、せめてそういう組員を少なくしないといけないということで麻薬撲滅を標榜している。
《組長インタビュー 下》
われわれは泥棒や詐欺師ではない。オレオレ詐欺なんてとんでもない話だ。年老いた親の世代をだましたり、貧困ビジネスという食えない身寄りのない路上生活者をむしるようなことは断じて許されない。少なくとも山口組にそうした者がいれば厳しく処分する。
《組長インタビュー 下》
実際のところこういうガバナンスがどれだけ効いているのかは分からない。しかし、少なくともトップの意思としては耳を傾ける価値はあるんじゃないだろうか。既に述べたように、ヤクザというのはもともとトラブルが多くて他の人がやりたがらないような業界に入り込んで、「力」による統治を武器に営業してきた人たちだ。そういう「由来」を考えてみれば、上記の組長コメントもあながち「表向きの綺麗ごと」と切って捨てられるものではないのではない可能性がある。
問題は、周辺まで目が行き届くかどうかということと、行き届かないとして果たして(警察を含む)我々カタギの衆がコントロール可能なのかということだろう。
また、「組織間」のレベルでの安定性というのも重要な論点だろう。これも組長インタビューを引用すると、
山口組の存在でわれわれの業界の治安が守られているという事実がある。山口組を解散し、80の直系組織が個々の団体になった場合、当然縄張り争いが起き、抗争事件が続発している九州のようになるのは間違いない。
(略)
ひとつ加えると、われわれは暴力団といわれている業界のなかではすごく紳士的だ。一般の人よりも長幼の序とか、そういうことは厳しく守られている。ホテルとか公共の場で徒党を組まないとか3人以上で歩かないとか、そういう面でも厳しくしている。
《組長インタビュー 上》
ということだ。戦国時代よりも天下統一後のほうが社会が安定するのと同じである。インタビューの「下」で触れられているが、山口組を破門された連中が、その後非常にタチの悪い犯罪者集団になって暴れているという話も興味深い。まぁあくまで山口組の言い分としては、だが。
また、すでに述べたように、暴力団追放運動がヤクザの「地下化」や「マフィア化」を後押しし、さらには海外のスーパー犯罪者集団を呼び寄せるというのも深刻な問題である。しつこいがこれも組長インタビューから引用する。
しかも外国人は10代の女の子を標的にしている。1人に薬を渡して、今度はその子らが友達に、と輪が広がっているため、麻薬犯罪の低年齢化が進んでいる。もしわれわれが組織的に麻薬に手を出したら、ある程度の矜持といったらおかしいが、子供には渡さない。しかし、外国人は売ってなんぼだから小学生だろうが全然関係ない。
《組長インタビュー 下》
これまた変な言い方だが、経済になぞらえていうと、「暴力団追放」を掲げて古いタイプの犯罪を撲滅する「構造改革」によって、犯罪者業界のイノベーションを誘発してしまうわけである。たとえば、イノベーティブというよりどちらかといえば伝統的な稼業に近いと思うが、「葬儀」という新たなターゲット市場をみつけたぜという記事も最近もあった。(産経新聞の記事)。
そうやって犯罪を進化させるぐらいなら、「護送船団方式」と「談合」によって、ありきたりな犯罪とありきたりな捜査のイタチごっこを繰り返しているぐらいの方が、社会は落ち着くかも知れない。
悪いことをする奴らというのは、絶対にいなくはならないのだ。それに、グレる奴がグレるのにはそれなりの背景があって、助けてやることが出来なくても同情の余地ぐらいはあることも多い。
だったら悪い奴らを、我々が見たことのあるタイプの「悪い奴ら」として訓練してくれる制度、つまり暴走族とかヤクザ組織みたいな文化があったほうが、実は社会は安定するかもしれないと思うのだが、違うのだろうか。宮崎が言っていることも、今回の組長インタビューで言われていることも、まさにそういう話だ。
しかしこんなことを言うと、たいていの日本人の眼には、許し難い「犯罪の美化」と映るんだろう。犯罪を美化したいのではなく、犯罪者予備軍の奴らの外堀を完璧に埋めてしまうのは、最適なやり方ではないかもしれないと言いたいだけなのだが。
知らないからこそ冷静に考える
宮崎の論は、つまるところ「消極的ヤクザ肯定論」とも言うべきものだ。私は(賛成できない点があるにしても)けっこう理解はできるのだが、「そんなことを言っていられるのは、ヤクザ関係で痛い目にあったことが無いからだ」と言われるかもしれない。たしかに私はヤクザ社会なんて直接知らないし、知りたいとも思わない。ましてや、度胸が全然ないので、自分がヤクザをやるなんてもってのほかである。
これまでに接点があったとすれば、小学校のとき団地の下の階に住んでいた後輩の親父がテキ屋をやっていたことと、叔父が昔田舎のヤクザとトラブルを起こして、屋敷だか事務所だかに謝罪にいったというエピソードがあるくらいだ。
テキ屋のおっさんは、所詮テキ屋だから大したヤクザじゃないんだろうけど、パンチパーマでけっこう悪そうな風貌だった。夏祭りのときしか仕事(型抜きの出店をやっていた)してる姿を見ないので、「おっちゃん普段なにしてんの?」と訊いたら、「神社とかはけっこう年中イベントをやっていて、あちこち回ってるんや」と教えてくれた。まぁ、その程度にしか触れたことはないわけである。(2014.11.1追記:最近、そのおっさんが亡くなったと聞いた。)
しかしまさに宮崎も言っていることだが、「ヤクザ関係で痛い目にあったことがある人」なんて本当にごくわずかしかいないという事実こそが、「暴力団追放」に社会を挙げて精を出すのが不毛であるということを示しているとも言える。原発問題でも同じことを思うのだが、それこそ「暴力団追放」に血眼になるぐらいなら、「自動車追放」運動でもやったほうが多くの人命を救えるんじゃないだろうか。
宮崎は、雑誌の記者などから「最近のヤクザのシノギって何なんですか?」とよく質問されるらしい。質問するということは知らないということで、マスコミ関係者ですら知らないということは、ヤクザに触れる機会なんて実際にはかなり稀だということである。
そう考えると、「暴力団追放」が社会的な使命であるかのようにこれだけ盛んに叫ばれているのを、「あれは警察利権のため」と宮崎が言ってのけるのも、何となく分かるような気はする。昔、バリー・グラスナーというアメリカの社会学者が『恐怖の文化』という本を書いて、メディアや政府が様々な「恐怖」を必要以上に煽ることによって新たな市場が作り出されるみたいなことを言っていたが、「暴力団って怖いんです」というキャンペーンも、その一種ではないかという気がしなくもない。
私の住んでいる茨城県にも「指定暴力団」はいくつも存在し、それこそ立派なお屋敷が建ってたりするのだが、べつに「暴力」を振るわれたことなんてないわけである。クスリをやらず、ギャンブルをやらず、借金をせず、風俗巡りをせず、政治運動をせず、そしてカネ持ちになることもなく(笑)生きていれば、ヤクザというのは関係なくて単なる隣人である。ただし、稀に流れ弾が飛んでくることはあるかもしれない。
当たり屋とかはけっこう迷惑な話だが、サウナに入れ墨のおっさんがいるぐらいのことは、慣れれば良いだけのことなんじゃないだろうか。(そもそも私は、入墨をしてるだけで入浴禁止という銭湯や温泉のルールについて、けっこう酷い話だと子供の頃から感じていた。)
ついでに、右翼はどうか。終戦記念日などの大イベントがある日に靖国神社へいくと、非常に威圧感のある街宣車が大挙して列をなしている。コンビニとかでその乗組員とすれ違うと、「今日ってピストルは置いてきたんだっけ?」「木刀なら積んでるけど」などと喋っていてけっこう恐いのだが、彼らもけっこう面白い人たちで、拡声器で「はい、街宣車いまからUターンしますよ~、みなさん止まってくださいね~」とアナウンスしながら、信号など関係なく交差点で旋回したりしていている。たしかに道交法に違反してるとは思うが、逆らわなければ単なるUターンで終わるんだから、大して迷惑というほどではない(だから取り締まらなくて良いと言いたいわけでもないが)。
神社の警備員のおっさんたちも慣れてるから、「おうご苦労さ~ん!」などと笑顔で、出入りする街宣車に向かって挨拶している。たまに境内で乱闘も発生しているが、それは例外であって、北朝鮮の国旗を振り回したり、参拝にきた石原慎太郎を罵倒したりしなければ、普通は右翼に殴られたりすることもないのである。
宮崎が一所懸命にヤクザ論を書いても、そして山口組の組長が新聞インタビューで語っても、ヤクザに「暴力団」という名をつけて単なる犯罪者集団としか認識していない多くの日本人は、「悪いものは悪い」の一点張りで応じるだろうから無力だと思う。
私もべつに、悪いものを「良い」という気はしない。しかし社会から「悪いもの」「汚いもの」だけを副作用なく簡単に取り除くことができるというのは、一般論として間違っていることが多いし、だからこそ「綺麗事」という言葉は侮蔑語として存在するわけである。「暴力団追放」というのは、私には「ウンコの出ない身体になりたい」と言っているのと同じように聞こえる。
しかもヤクザは、ウンコのような単なる「汚いもの」とも言い切れず、社会の役に立ってきた実績だってあるわけである。少なくとも歴史的には。
家族が流れ弾に当たって死んだとかいう人なら、「暴力団を追放せよ!」と血眼になって叫ぶのも分かる。しかしせめて我々のように、幸いなことに平穏な日常を送ることができている人間には、社会ってものがけっこう複雑にできているのだということを少し冷静に考える余裕がある。
暴力団排除条例が全都道府県で施行されてしまったから、会社の仕事上は、コンプライアンスのためにも「『暴力団追放』を疑え」なんて言ってられないんだけど、「綺麗事は世の中に通用しない」「悪い奴らはいなくならない」という前提で落としどころを考えるような訓練を、個人としてはしておいたほうがいいんじゃないだろうか。暴排条例は憲法違反ではないかというのも面白いテーマだと思う。
そしてそういう観点で読んでいると、宮崎学の本というのは非常に参考になるのである。
(以上、私も暴力行為を助長していると言われないように、肯定的な断定をしないよう注意深く言葉を選んで書きましたw)
*1:新しいものといえば溝口敦の『暴力団』などもあるけど。
*2:ちなみに今もヤクザのほとんどは被差別部落出身者や在日の人たちらしいし、山口組というのはもともと港湾労働者の自治組織である
*3:警察が嫌いな立場からするとこういう言い方になるかな、という程度。
*4:正確にいえば弁当の話は福岡における条例施行前の話だが、内容としては似たようなもんだ。
*5:これは宮崎の『近代ヤクザ肯定論』に詳しい。
*6:これはこれで多くの場合に正しい。
*7:詳しくは、宮崎の『近代ヤクザ肯定論――山口組の90年』を読むのが一番だけど
*8:今はYouTubeから消されてしまったが、ヤクザの内部を取材した昔のテレビ番組で、ヤクザの親分が若い者に対して、「ヤクザは礼儀作法が大事なのに、最近の奴らは仁義の切り方も知らない」といって、昔風の「お控えなすって!お控えなすって!それじゃぁご挨拶になりません、まずあんさんからお控えなすって(以下略)」の練習をする場面が収録されていた。