こないだF先生と飲んでいた時に、昔、小さな勉強会内で発行していた冊子に私がディスカッション目的で書いた死刑制度論に言及されて、「そういえばそんなこと書いたなぁ」と思っていたら原稿が見つかったのでここに貼り付けておく。分かりやすいように少し改変し、最後に追記を行ったけど。
学生だった10年近く前に、何も調べずに思いつきで書いたものだから、勉強も考えも足りないのだけど、まぁこういう面はあるよなと今でも思う。
死刑は公開でやれとか書いていて「おいおい」って昔の自分にツッコミを入れたくなったが、しかし考えてみるとそうかもなぁとか思ったりして、結局まだまだ分からないことがたくさんある。ただ、この問題について調べたり考えたりする時間はないので、最後に簡単な「追記」を行うに留めて、課題としては先送りしておこうw
死刑制度の「象徴的機能」について(2005.12.10)
死刑制度廃止論
十月三十一日深夜*1、就任したばかりの杉浦法務大臣が、初登庁後の会見で「(死刑執行の命令書に)私はサインしない」と言い放ち、一時間半後に発言を撤回するという騒ぎがあった。
世論の「死刑存置支持」ははっきりしており、現在のところ「死刑制度の存廃」が国民的な議論に発展する気配はない。しかし、「死刑廃止を推進する議員連盟」というものが十年以上前から存在して法案まで用意しており、EU諸国をはじめ死刑を廃止している国のほうが多数派であることを考えると、遠くない将来、わが国でも「死刑制度の存廃」が大きな政治問題として浮上してこないとも限らない。
死刑制度の諸機能
圧倒的な「存置支持」を示している国民世論がその理由に挙げる死刑制度の機能は、私なりに名前をつけてみれば、「抑止的機能(再犯を含め、凶悪犯罪を抑止・予防する機能)」、「応報的機能(極悪には極刑を、という道徳律を実践する機能)」、「報復的機能(被害者遺族等の報復・復讐感情を満たす機能)」といったものであろう*2。
これら諸機能のいずれに対しても、その有効性と正当性について疑義を指摘することが可能ではある。たとえば、「統計によれば、死刑を廃止した国で廃止後に凶悪犯罪が増加しているわけではない」「冤罪であった場合に後戻りができない」「復讐する権利は被害者にしかない」というようにである。
しかしいずれの機能も、まったくのナンセンスであるとも言い難い。とくに「応報的機能」については、その有効性・正当性を否定することこそナンセンスなのではないかと私は思う。だが、これらの機能に関わる問題については、ここでは深入りしないでおこう。
見過ごされている「象徴的機能」
私が論じたいのは、一般の死刑存廃論議のなかでは無視されている、死刑制度の「象徴的機能」とでも呼ばれるべきものについてである。死刑は一種の儀式であり、何らかの「意味」を表現しようとする行為であると捉えることも可能である。「応報」も一つの道徳律の表現だが、ここで考えてみたいのは、死刑には「人間」というものの範囲(限界)を宣言しようとするような側面があるのではないかということである。
死刑がその他の刑罰と根本的に異なるのは、それが罪人の「精神(言語)活動」に終止符を打つという点であると私は思う。そして、言い換えればそれは、「どこまでを『人間精神』と認めるか」についての決断にほかならない。我々は、ある種の罪人の精神を殺すことによって、「人間精神」に限界線を画すのだ*3。そしてそのことによって、「抑止的機能」が目的とするところの「社会の秩序」だけではなく*4、「精神の秩序」をも維持しているのである。
もちろん、死刑の判決や執行それ自体が、簡単に「精神の秩序」をもたらしてくれるわけではない。むしろその決断は、誤りや不完全さから逃れることができないため、我々を深刻な葛藤のなかへと導くことも多いに違いない。とくに重大なのは「人間精神の限界」をどこに設定すべきかという基準の問題であり、仮に冤罪の可能性が排除されたとしても、「あの罪人は本当に『人間』の限界から外れていたといえるのか?」という疑念はけっして完全には払拭されえないのである。
人間の条件
だが、この葛藤と真剣に向き合うことこそ、人間が人間であるための条件であるとも言えるかも知れない。「人間」と「非人間」とを区別する決断の重圧や緊張に耐えることを通じて、我々は「人間」というものの根源的な意味を考えるのであり、自分たちがいかなる存在であるかという「アイデンティティ」が、少なくともある側面において、より強く確定されるのではないかと思う。
そうした決断の場が死刑制度でなければならないというわけではないし、死刑のあらゆる現実のケースがそうした決断の場として機能しているわけでもない。しかし、だからといって死刑制度がその種の機能を持ちうるということを見逃していいわけでもないだろう。この、人間にとって根源的な葛藤から目を逸らし、安易に死刑廃止を唱えることは、人間であることからの逃避であるとすら言えるかもしれない。もちろんこれは、安易な理由で死刑制度を擁護する場合にも同じことが言える。
少なくとも現在の日本の死刑制度は、その決断と葛藤の「場」として十分に機能しているとは言い難いように思える。死刑制度は、人間精神の限界を「象徴する」目的のために「公開」で行われるべきであり、それが人間にとって極限的な葛藤の場であるがために「厳格な儀式」のしつらえを必要とするのだということについても、我々は考えて然るべきではないだろうか。
死刑廃止によるアイデンティティの動揺
さらに指摘しておかなければならないのは、「冤罪の可能性」や「刑の残虐性」を根拠にして安易に死刑制度を廃止することは、我々人間に、より苛烈な葛藤を課すことになるかもしれないということである。
死刑を廃止するということは、あらゆる罪人の精神に「人間」の資格を与え、逆にいえば「非人間」の混沌を「人間」の世界に招き入れるのであるから、我々の「人間」としてのアイデンティティが動揺にさらされるという面もあるのではないだろうか。
もちろん、「人間」の意味を考えたり、罪人の心理を想像したりすることを放棄した者であれば、この種の動揺とは無縁であろうし、むしろ無縁な人間のほうが多数派だろうから、死刑制度があろうがなかろうが、我々の社会が大きく変わるわけではないのかもしれない。また、死刑制度を廃止したうえで、その深刻な葛藤に耐えていくという選択もあり得る。しかしそのためには、宗教者のように厳格でありながら寛容な精神を多くの者が持つ必要がある。
少なくとも、死刑制度廃止論を唱えるのであれば、死刑が何らかの「意味」を象徴的に表現することによって保たれている「人間精神の秩序(あるいはアイデンティティ)」についても考えておくべきだし、もしかすると死刑廃止には、極度に弛緩した精神か強靱な精神のいずれかが必要とされるかもしれないということを、考慮しておくべきだろう。
追記(2014.9.6)
「死刑制度によって、『人間精神』と認める範囲に限界を設ける」という発想にもいろいろと危険性や問題がある。
一つは、精神が錯乱した者は殺されねばならないのかという問題だ。言い換えれば、我々が「人間らしい」と思える範囲から外れる精神を持つ者は、死刑囚の他にも存在するのだから、「死刑は人間精神の範囲を画するためにある」という説には一貫性がないのではないかという点である。
二つ目の問題は、死刑によって罪人を現世から追放したところで、彼が言い残した言葉や書き残した言葉は我々の手元に残るということだ。また、彼の行為についての記憶を消し去ることもできない。つまり我々は、死に値する罪を犯した者を、「人間」の外へと完全に追いやることができないのである。
三つ目の問題は、教育刑の発想で、「非人間の精神」を「人間の精神」へと矯正する努力をすればいいのではないかとも言えるということである。
一つ目の問題について言うと、少なくとも今の日本社会では、精神が錯乱していると認められる場合には刑を免れることになっているので、我々は「錯乱」については人間のひとつの可能性として認めることにしているのだろうし、そうあるべきだと思う。そして逆に、正常な判断力の下である範囲を超えて深い罪を犯した者の精神については、人間のものとは認めがたいと考えて、死刑に処するのである。
二つ目と三つ目の問題について考えると、死刑制度の意義に関する解釈として、「人間精神として認める範囲を画定しているのだ」という理解では単純すぎるように思えてくる。むしろ、その罪人の犯した行為に関する記憶や、彼に対する裁判という儀式や、死刑の執行という出来事が、一連の物語として象徴するところの意味について考えなければならないのだろう。
死刑にはある重要な「意味」を表現する象徴的儀式としての側面があるということ、その意味が「人間のアイデンティティ」に関わるものであること、そして「罪人の精神活動に終止符が打たれ、彼が言葉を発することがなくなる」という点に死刑制度の重みがあることには、私はある程度確信を持っている。しかしそれは、人間と非人間のあいだに鉛筆で線を引くような簡単な話ではないように思えるし、同じ死刑といってもケースによってそれが「意味」するところは様々に異なるだろう。
ポストモダンの思想家で、こういうことを分析している人がいるのかも知れない。