The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

「教養の伝達」と「科学の研究」(ホセ・オルテガ著『大学の使命』レビュー)

大学の使命

大学の使命


 つい最近、安倍政権の大学改革を批判する記事をいくつか読んだこともあって(この記事とかこの記事*1、なんとなく、オルテガの『大学の使命』をパラパラと読み返してみたので、簡単にメモしておくこととする。
 大学一年生ぐらいの頃に読んだと思うが、まったく内容が記憶に残っていなかったので、あまり感慨を受けることもなく読み流したのだろう。大学に入る前に読んだ『大衆の反逆』の印象があまりにも強烈だったのも、本書の印象が薄かった原因だと思われる。
 しかし改めて読むと、さすがにオルテガはなかなか重みのあることを言っている。まぁ考えてみたら普通の内容だとも言えるのだが、1930年代という危機的な時代に少数派として言論戦を戦っていたことを想像するとなかなか凄みがある。本書はもともと学生向けの講演録で、マックス・ウェーバーが1919年に学生に向けて行った講演「職業としての学問」「職業としての政治」に似た緊張感があるような気がする。


 以下、内容を簡単にまとめておくが、あとで参考資料として使いやすいように、冗長になることを承知で引用を多めに並べておく。


オルテガの大学改革論

 本書の前半には、「大学の使命」というオルテガの大学(改革)論と、その序論にあたる「鍛えられた改革精神——学生諸君のために」、そしてたぶん1940年代に書かれたものだと思うが「『人文学研究所』設立趣意書」というのがあわせて収録されている。本書の後半は厖大な訳者解説となっているので、「設立趣意書」まで含めてもオルテガの論考自体は120ページ分程度である。
 ちなみに、翻訳はめちゃめちゃ読みやすくてすばらしい。


 オルテガがこの講演を行ったのは1930年で、これはちょうどスペイン王政の最後期に一時的に登場した軍事独裁政権がそろそろ崩壊し、共和制へ移行(1931)しようとする政変の時期だった。また、ヨーロッパというか世界全体が、恐慌にあえいでいた時期でもある。この危機的な時代にオルテガは、大学・学問の改革の必要を継続的に訴えており、(本書の講演よりも後の話だが)議員になって政治の改革にも携わっている。


 講演は、マドリード大学学生連盟から依頼されて行ったものらしい。内容的には、まず当時の大学制度や教授たちの学問のレベルの低さを罵倒しまくって、次にそもそも学問の専門分化が進みすぎたことがこの弊害をもたらしているのだと論じ、教養の復活や知識の総合の必要性を訴えるという感じである。
 たぶんスペインでは、19世紀以来政治的にも経済的にも不安定な状況が続いていたこともあって、イギリス、ドイツ、フランスといった国に比べると、全般的に大学という組織のレベルが低かったのだろう。加えてヨーロッパ全体が、民主主義の台頭によってオルテガが「大衆化」と呼ぶ堕落の兆候をみせており、(スペインに限らずヨーロッパ全体の)学問も同じように堕落に向かっているとオルテガは感じていたようである。


外国の制度の模倣は危険である

 それでオルテガは、愛国的な哲学者の一人としてスペインの大学の組織・制度の改革を志すのだが、まず最初に強調しているのは、「外国の模倣はしてはならない」ということである。
 ドイツの高等教育やイギリスの中等教育がきわめて先進的であることを認めつつも、オルテガは、

とにかく、他国人と同様の結論と形式に至ることが大切なのではない。大切なのは、自分で根本問題そのものに取り組み、われわれ自身の足で、結論へと至ることである。(p.14)


という。
 これとあわせて、一般に「国民が偉大であるのは、初等学校から大学に至るまで、その国の学校がすぐれているからである」というのは謬見であると強調している。現代日本でも、政治や経済問題を論じる中で、なんでもかんでも「結局、教育を変えるしかないんだよね」という結論に持ち込もうとする人は少なくないが、そういうのは間違っているということだ。

確かに、国民が偉大であるときは、その学校もまたよいし、学校がよくなければ、国民はけっして偉大ではありえないであろう。しかし、これと同様のことが、その国の宗教、政治、経済、その他万般の事柄に関してもいいうるはずである。つまり、国民の力は総合的に作り出されるのだ。もし一民族が政治的に低級なら、より完全な学校体制を望んでもそれはむなしいであろう。
 (略)*2
 教育に関して原理的に次のことが認められる。すなわち、学校は、それが真に一国の正常な機関であるときは、塀囲いの中で技巧的に作り出される教育学的環境によりも、むしろ、学校を完全に包含している公共的環境により多く依存している。そして、この内からと外からとの力関係が均衡を保っているときにのみ、学校は健全なのである、と。
 (略)
 学校は、その純粋に制度的なものと、学校が当然にもっている、たとえばイギリス人の生活、あるいはドイツ人の思考力との混合から成り立っている。しかしイギリス人の生活法やドイツ人の思考法は、こちらへ移植することができない。移植しうるのは、せいぜい、教育学上の諸制度だけである。(pp.15-16)


 オルテガは、教育制度だけでなく研究内容も含めてであろうが、スペインの大学では外国の模倣がはびこっているせいで、

われわれの最もすぐれた教授たちも、その学問の細部においては大いに今日の状況に即しているとしても、全体としては、十五年ないし二十年遅滞した精神で生きている。真正であろうとの努力、自分自身の確信を創造しようとの努力を省く人々における、悲劇的な遅滞性がここにみられる。(p.17)


 と批判している。だから、「外国を調査すべきだ、しかし模倣してはならない」(p.18)のであると説いている。


「教養(文化)」とは何なのか

 オルテガの大学論の要は「教養」論である。なお、教養と訳されている言葉は英語でいうとculture(原文はスペイン語だが)であり、本書では「教養(文化)」と訳されている箇所が多い。
 オルテガは、当時の大学で行われている主な活動が「専門職教育」と「科学研究」であることを確認しつつも、学生たちが歴史や哲学などの「一般教養」的性質をもった講義につねに関心を示していることをまず指摘する。一応、「教養」に該当する科目があって、古代や中世の古典を読んだりしていたわけだ。しかしオルテガは、当時の大学教育にわずかにみられる一般教養的なものは、中世までの高等教育の「あわれな生き残り」にすぎないという。
 教養というものはしばしば、「役には立たないけけど、精神を美しく豊かにしてくれる、装飾品のようなもの」として捉えられている。これに対してオルテガは、教養というのは本来そんなものではないと説いている。中世までの学問というのは「当時の人間が所有していたところの、世界と人類に関する諸理念の体系」(p.22)だったのであり、この点こそが「教養」というものの本質であると言うのである。


 生の全体は混沌とした密林であり、人間は常にそのなかで迷っている。しかし人間はいつでも、この密林の中の道しるべとなるような、「宇宙に関する明瞭にして確固たる理念」「事物と世界の本質に関する積極的な確信」を見出そうと努力してきたのであり、あらゆる時代・民族がそれぞれに特有の理念の体系を有している。こうした諸理念の体系が、完全に正しかったかどうかはともかくとして、混沌の中で前進を促す光明の役割を果たしてきたのである。
 この諸理念は、科学や職業などのあらゆる具体的活動の基礎をなす根本思想のようなものであって、オルテガは「教養とは、各時代における諸理念の生きた体系である」(p.24)と定義する。
 そして、この理念の体系というものは、特定の時代の特定の個人が独自に生み出し得るようなものなのではない。だから我々は、少なくとも人類の知的営為の蓄積としての古典的な学問や、歴史を学ぶことから始めなければならないのだ。


 この「教養(文化)=諸理念の生きた体系」という定義は本書の議論の根幹をなしているので、冗長ではあるが理解のために詳しく引用しておこう。

教養(クルトゥラ)(文化)とは、それぞれの時代が所有するところの生きた諸理念の体系である。より適切にはそれによって時代が生きているところの諸理念の体系である。人間は常に、その実存を支える地盤を構成している、ある明確な理念から生きる。この事実を回避しうる策は存しない。そしてこの理念——「生きた諸理念(ideas vivas)あるいは、それによって人が生きる諸理念」と私の呼んでいるこの理念は、世界および同胞の本質に関する、また、諸事物、諸行為のとる価値の位階——いずれがより高く、いずれがより低く評価されるかの位階に関する、われわれの現実的な確信のレパートリーをいうのであって、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。(p.52)


 これが「教養(文化)」の詳しい定義なわけだが、それがなぜ、我々の生に不可避的に必要とされるのかというと、

生が高貴であろうと卑俗であろうと、賢明であろうと愚鈍であろうと、プランによる行動をその本質としないような生は、まったく存在しないということなのである。絶望のあげく、おのれの生を放棄せんとするまさにそのときにおいてさえ、人はなお計画によって振る舞うであろう。あらゆる生は必然的に自分自身を「計画」する。あるいは同じことになるが、われわれがある行為を決意するのは、その行為が所与環境の中で最も有意義だと思われるがゆえにである。すなわち、生はすべて、いやでも応でも、自分自身を弁明しなければならないものである。
 (略)
ところでこの計画や弁明は、世界そのもの、世界における事物そのもの、また世界でのわれわれの可能な行動に関して、ある「理念」をすでに形成していることを前提としている。だからつまり、人間は、世界についての、また世界において可能な自己の行動についてのある知的解釈を用意して、環境ないし世界から直接受ける印象に反応するよう身構えずしては、生きてゆくことはできないのである。この解釈が、とりも直さず、さきに言及された、宇宙および自己自身に関する確信または理念のレパートリーなのである。(p.54)


 つまり、あらゆる人間の活動は計画に率いられるのであるが、現在の状況に関する何らかの解釈や未来に関する何らかの確信を抱くことなしには、計画を立てることはできない。つまりあらゆる活動が、我々のもつ理念、確信、思想によって方向づけられているのである。
 たとえば現代の人々は科学という活動の妥当性を強く信じているが、これは科学上の個々の事実を信じているのではなくて、我々の「生きた信仰」つまり「教養」の一部に、科学というものに対する確信が含まれているということなのだとオルテガは説明している。
 そして、科学がいかにそれ自身として発達を遂げようとも、それに先立つ理念のレパートリーとしての教養の役割は揺らぐことがないのだという。

科学の中にあるのは教養ではなくして、純粋に科学的技術に属する科学上の多くの断片である。反対に教養は、欲すると否とにかかわらず、どうしても、世界と人間についての一つの完全な理念を必要とする。科学はその絶対に厳密な理論的方法がたまたま終わるところで手間取っているが、教養はそういうふうに立ち止まっているわけにはいかない。生は、諸科学が全世界を科学的に解明し終えるまで待っていることができない。(pp.55-56)

科学的活動の内的統御は、文化のそれのように生命的ではない。それゆえに科学はわれわれの切迫した事態には無頓着に、それ自身のもつ必然性に従って進む。それゆえにまた科学は限りなく専門化し分岐する。だからして科学には完了ということがないのである。これに反し、文化は生命そのものによって統御される。したがってそのつどそのつど、完全に統一され、明瞭に組織づけられた体系でなければならない。文化(教養)は生のプランであり、生存の密林における道標である。(p.56)


 なお、あらゆる社会のあらゆる人々が「理念の体系」に方向づけられて活動しているのだが、オルテガはそうした理念のうち、学問の成果を取り入れて洗練された、上等なものを指して「教養」と呼んでいると理解したほうが良い。教養と呼ぶに価しないような理念の体系が社会を支配していることもあるのである。
 
 

大学の担うべき機能

 オルテガは自身の見解として、大学が担うべき基本的な機能・役割は、


 (1) 教養(文化)の伝達
 (2) 専門職教育
 (3) 科学研究(と若い科学者の養成)


 の3つであると言っている。しかし近代の大学は「専門職教育」と「科学研究」を拡大しすぎたせいで、自らのよって立つべき教養つまり「諸理念の生きた体系」を見失っており、また各専門分野がバラバラに発展してしまって収拾がつかなくなっていると嘆いている。だから、「教養(文化)」の伝達(学生に「諸理念の生きた体系」としての教養をなるべく洗練された形で身につけさせること)をいかにしてなすかというのが、大学改革の第一の課題であるとされる。


 ところで、どのような社会・時代であっても「誰かが支配し、指導する」のであるが、民主主義化した現代の社会を支配しているのは中産階級の職業人たちである。したがって、教養というものは中世のように一部の高貴な人々や知識人のためのものではなく、中産階級の人々こそが、現代にふさわしい「生きた理念の体系」を身につける必要がある。
 大学はそれを支援する役割を果たさねばならないのだが、そのためには、平均的な能力をもつ人々に対して無理なく習得させるように、カリキュラムが合理的・体系的に編成されていなければならない。ところが、学問の専門分化が進んだことと、大学という機関が歴史的に「研究」の方に軸足を置いてきて「教授」の技術を磨くことがなかったことのせいで、当時の大学ではカリキュラム上習得することになっているはずの知識を学生が消化し切れないという状態が慢性化していて、教育制度としてはすでに破綻しているとオルテガは嘆いている。学ぶべき(とされている)知識が、平均的に能力の人間にとっては多すぎて、しかも教え方も下手くそなのである。
 だからまず何よりも、知識の「統合」と「単純化」が必要であるとして、「経済的(効率的)な教授法」の議論に一章を当てている。


 オルテガは大学の使命について、次のようにまとめている。

(A) 大学は、まず第一に、平均人が受けるべき高等教育として存立する。
(B) この平均人を何よりもまず、教養ある人間にすること、すなわち、その時代の高さへと導くことが必要である。それゆえ、大学の第一の、かつ中心的な課題は、大きな教養学科の教授にある。その学科目は——
 (1) 物理学的世界像(物理学)
 (2) 有機的生命の根本問題(生物学)
 (3) 人類の歴史的過程(歴史学
 (4) 社会生活の構造と機能(社会学
 (5) 宇宙のプラン(哲学)
(C) 平均人をよき職業人にしなければならない。したがって、大学は、教養の伝達と同時に、知的工夫によって、最も無駄を省いた、最も直接的かつ有効な方法で、よき医師、よき裁判官、数学や歴史のよき教師等になるよう彼らを教育するであろう。(略)
(D) 平均人は科学者にならねばならぬとか、なるべきであるとかいいうる根拠は一つもない。したがってそこから、本来的意味での科学、すなわち科学的研究は、直接的・本質的に大学の第一の機能に属するものではない、また大学は無条件にそれを取り扱わねばならぬものでもないという、世人の憤りを招くでもあろう結論が出てくる。とはいえもちろん、大学は科学から引き離されてはならないのであるから、大学は、さらに加えて、科学研究をその機能としなければならない。(p.44)


 この最後の(D)のところを見ると、オルテガは少なくとも当時の状況判断として、科学研究の機関としてよりも、教育の機関としての大学の使命を重要視していたかにも見える。
 しかし、本書の後の方を読むとそうでもない。オルテガは、「研究」という営みと「教育」という営みの区別が付いていなかったことを批判していて、大半の大学生にとっては科学者を目指すことよりもよき職業人を目指すことが大事なのだから、そのために最適な教授法を工夫することは大学の使命であろうと言っているにすぎない。
 当時のスペインの教授たちは、「科学研究」のおまけみたいな感じで授業を行っていたので、べつに科学者を目指すわけでもない大半の学生に過大な負担がかかっていたらしい。科学者を目指す若者には「探求」の心得を教えこまねばならないが、職業人になろうとしている若者に対しては、科学の成果を分かりやすく知ってもらうことのほうが大事なのである。
 後述するように、オルテガは科学研究こそが「大学の魂」だと言っているのだが、それを「教養の伝達」や「専門職教育」と混同すると弊害が大きいので、一応区別して、「教養の伝達」や「専門職教育」に最適な教授方法をきちんと考えようぜということだ。


 また、(C)をみると、何かチャート式に整理されたお手軽な知識の伝達を推奨しているようにも見えて、読み方によっては軽薄に思えてくる。しかしそう単純でもない。
 まず、たぶん当時の(スペインの)大学では、たいていの学科において、現代のように体系化された教科書やカリキュラムが整備されていなかったのだろう。オルテガは、専門知識が発展しすぎた結果、学生が学ぶべきことの総量が、学びうる能力を大幅に超えてしまっているという現実を直視しろと強調している。少なくとも人文・社会科学の場合「古典を直接読むことに意義がある」というのは正しいし、どんな分野であれ「最先端の学術論文を読むことに意義がある」というのも正しいだろうが、さすがにまとまった「教科書」が全く存在しないというのも困るだろう。
 オルテガは、知識を「単純化」することが必要であると説くのと同時に、「総合」しなければならないとも言っている。あちこちに専門分化してしまった科学的知識を、一つの総体として提示するような知的作業が必要されているわけである。そして、これには独特の才能をもった人材が必要である。

現在の科学的活動の分散と複雑化は、それと反対の方向を目指す、すなわち知識の集中と単純化に努める科学的活動と、つり合いを保つことが絶対に必要である。そして、総合化のできる特殊の才能タイプを育成しなければならない。これは科学の運命に関わる問題である。(p.61)

教養「学部」の教授においては、知識の有効な総合と組織化・体系化の創造が必要であるからして、従来偶発的にしか出てこなかった一種の科学的才能、すなわち統合の才能(el talent integrador)が要望される。(p.63)


 オルテガは、探求活動・創造活動としての「科学」と、それを伝達し消化させることをめざす「教授」というものの区別を何度も強調している。そして、大学が「探求」に偏向しすぎたせいで「教授」の技術が遅滞したことと、あわせて「教養(文化)」が大学から押しのけられていったことを嘆いており、上記のような「統合の才能」を持つ科学者が、大学教育を再編成しなければならないのだという。
 繰り返しになるが、この大学教育においては平均的な学生を「教養人」ならびに「専門家」になるよう教育することが相対的に重要なのであり、決して彼らに「科学者」たることを求め、過大な目標を課してはならない。むしろ知識の全体像を分かりやすく、体系的・合理的に伝達する工夫が重要である。


それでも「科学」こそが「大学の魂」である

 しかしこのように言うからといって、オルテガが「科学研究」に重きを置いていないわけでは全くない。知性による探求は、オルテガに言わせればひとりヨーロッパ人だけが持ち得た希有な特質であり、またヨーロッパ人の生と歴史の本質でもある。「知性を制度化すること」の意欲も、知性によって生きることを決意した民族としてのヨーロッパ人だけが持ち得たものであり、したがって大学というものはもともとヨーロッパにしか存在しないのであると。


 またオルテガは、大学という機関が科学的探求とは本質的に関係がないと言っているわけでもない。オルテガは大学の役割を、第一に教養の伝達、第二に専門職の育成であると定めており、本書中でも箇所によってはこの2つのみを指して「大学」という言葉を使ってすらいる。
 しかし、教養と専門が「探求」の活動と接触することなく孤立した場合、まもなくそれは麻痺状態に陥って硬直したスコラ学になり果てるであろうとも言っている。だから、大学の中核機能が「教養」と「専門」であることは確かであるが、「探求」のための研究機関が、常にその周辺を取り囲んでいる必要がある。
 結局のところオルテガは、「教養・専門」と「探求」とは、厳格に区別された上で協働すべきものであると理解しているわけである。そしてこの両者の関係は微妙なものである。

大学*3と研究所とは、別個の機関でありながら、しかも完全体としての生理において相関関係をなすものなのである。しかし制度的性格をもちうるのは大学のみである。なぜなら科学は、あまりにも崇高な、あまりにも繊細な活動であるから、われわれはそれを制度に仕組むわけにはいかない。つまり科学は、強制されたり、規則で編成されたりするものではないのである。だからして、大学教育と研究とは、強度にではあるが自由な、不断にではあるが自発的な相互影響のもとに、両者相並んで存立させるべきものである。(p.68)

かくして次のように確認される——大学は科学とは別個のものであるが、しかし科学から引き離しえない、と。このことを私は、大学はそれに加えて科学である、というふうにいいたい。(p.69)


 つまり、オルテガが教育制度としての大学と探求活動としての科学を切り分けたのは、科学的探求の生命を「制度化」によって窒息させてはならないと考えたからでもあったのである。科学者の探求活動は、本質的に「制度」によって方向づけたり加速したりできるものではない。だから「制度」としての改革を議論すべきは「教養の伝達」「専門職教育」の機関としての大学の方であって、研究所の方ではない。そこを混同すると、両者にとって不幸が起きるというわけである。
 ただ、大学が科学と完全に切り離されてしまうことも、また避けなければならない。教育そのものも窒息してしまうからだ。

大学は、それが大学である以前に科学であらねばならない。科学的な情熱と努力でみなぎっている雰囲気こそ、大学存続の根本的前提である。制度としての大学そのものは科学ではない、すなわち、可能なあらゆる仕方で自由に、純粋な知識の創造を遂行するものではない、まさにそれゆえに、大学は科学によって生きなければならない。(p.69)

科学は大学の尊厳である。否、それ以上に——尊厳はなくとも生きることはできるのだから——科学は大学の魂である。大学に生命を吹き込み、凡俗なメカニズムに陥るのを防止するところの原理そのものである、これらすべてが、大学はなおそのうえに科学である、という主張の中に含まれているのである。(p.69)

 
 

現実社会と大学

 オルテガはさらに、大学は、自らを取り巻く現実の社会状況との接触も絶やしてはならないと論じている。

大学はまた、公共的生、歴史的現実、現在と接触を保つことが必要である。生の現実は、常に不可分の全体(un integrum)であり、そしてこの全体においてのみ取り扱われうるところのもの、つまり、けっして皇太子の御用のために(ad usum delphinis)*4切断が許されたりはしないところのものである。大学はそうした現在の全生活に向かって開かれていなければならない。いやそれどころか、現実生活のただ中にあって、その中に沈潜していなければならない。(p.69)


 こうして現実の社会に目を向けたときに、オルテガが嘆くのは、「新聞・雑誌より以上の『精神的権威』がなんら存していないという事実」(p.70)である。

教会は現在をなおざりにしているし(民衆の生活は、終始、今日ただいまのことであるのに)、国家といえば、民主主義が勝利を得て以来、公共的生活を指導せず、逆に、世論に支配されている。このような状況の中で、公共的生活は、職務上現下の生活面にかかわっている唯一の精神的勢力、すなわち新聞・雑誌におのれの身をゆだねてしまった。(p.70)


 このあたりになるとオルテガの「大衆社会批判」というテーマに近づいてくる。というか、それそのものだ。
 オルテガは書斎に籠もるタイプの知識人ではなく、政治・経済の現実的な状況に関して盛んに批評を行い、代議士にもなっていた。その中で、マスメディアに先導される世論というものがいかに国民の「公共的生活」を堕落させているかを実感しながらも、それに替わる「指導者」や「支配者」を見出せずに苛立っていたのである。

実は私は、自分はむしろジャーナリストにほかならないのだと、とりわけそう思っているくらいだから、ここでジャーナリストたちにあまり不愉快な思いをさせたくない。けれども、精神的諸実在には位階があるという明白な事実に目を閉じようとしてもそれはむなしいであろう。この位階において、ジャーナリズムは下級の位置を占めている。そして今日、公衆の良心がもっぱら、新聞・雑誌の諸欄に沈殿する、そのきわめて低い精神性によりかかり、他の力や支配はなんら受け入れていないという事態が生じているのである。しかもしばしば、その精神的水準が非常に低級なので、もはやそこに精神性があるとはいえなくなり、かえって、ある意味でその反対の勢力になっているほどである。(pp.70-71)

たしかに現実の生はまったく現在の生である。しかしジャーナリストは、現実的なものから瞬間的なもののみを、瞬間的なものからセンセーショナルなもののみを取り上げるからして、その自明の真理が歪曲されてゆくのである。(p.71)


 そして、ここまでくると当然予想されるように、オルテガは大学こそがこの大衆社会的状況への反撃の拠点になるべきであると説くのである。

この笑うべき状態を矯正することは、ヨーロッパの生死に関わる問題である。まさにそれゆえに、大学は大学として、現実生活に関与しなければならないのである。現下の大きな諸問題を、大学独自の見地から、すなわち教養(文化)、専門教育および科学の見地から論及すべきである。そうであるべきなら、大学は単に学生のためのみの制度、単に皇太子の御用のための囲い地ではないであろう。大学は、生活のただ中へ、生の緊急と情熱のただ中へ入り込んで、熱狂に対しては冷静を、軽薄と不遜な愚劣に対しては精神の真剣な鋭さをもって臨み、新聞・雑誌を凌駕する、より大きな「精神的権威」としてみずからを貫徹しなければならない。(p.72)

 
 

オルテガの大学論が示唆するもの

 冒頭で紹介した記事が批判しているところの、現下の大学改革については、私はよく知らない。まぁ、ろくでもない政権がやっていることなので、ろくでもない改革である可能性は高いんだろうなぐらいには思っているが。*5


 しかしどのような改革を考えるにしても、オルテガによる「教養(文化)」と「専門職教育」と「科学研究」の区別はけっこう役に立つのではないだろうか。*6
 とくに「教養」の定義から得られるものは多いと思う。教養というと、「たくさんの物事を知っていること」という意味や「洗練された知性」みたいな意味もあるし、またもう少し限定的に、歴史や哲学などの人文系の本をたくさん読んでいることを指す場合も多い。しかしオルテガは、ある時代のある社会において、知識の全体を方向づけている理念や思想の体系として「教養(文化)」という言葉を用いている。
 この理念の体系は、われわれ人間のあらゆる活動を根本において左右している。ケインズは『一般理論』の中で、「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。(中略)遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなくて思想である」と言ったが、われわれは自ら考えている以上に、「思想」や「理念」というものに動かされているということだ。


 すでに述べたように、オルテガはそういう思想や理念のうち、十分に洗練されたものを指して「教養」と呼んでいる。また、オルテガの意図を少し斟酌していうと、彼はそういう「理念の体系」というものに関して「自覚的であること」の重要性を言いたかったのではないかとも思う。
 学問からビジネスを経て家庭生活に至るまで、我々の活動の基底には、ある種の理念が埋め込まれている。しかしオルテガに言わせれば、「教養」に対する配慮が失われたせいで、現代社会においてはこの理念が「野蛮」なものに留まっているのだという。だから、彼の時代でいうところの物理学・生物学・歴史学社会学・哲学といった知識の世界に接触することで、この理念を現代に相応しいものへと高める必要がある。しかしそれ以前にまず、「あらゆる活動を方向づける理念」というものについて自覚的であろうとする態度が必要になるはずである。
 政治思想や経済思想はもちろんだが、もっと日常的なレベルで言っても、たとえば我々はなんとなく「科学」を信じて「宗教」を疑っているし、合理的な理由なく人を差別してはいけないと考えているし、人類学が言うような「ぐるぐる回る円環的な時間意識」ではなく過去から未来へ向かう直線的な時間意識のうちに生きていて、そういう理念の体系があらゆる活動の基礎になっている。こういうものにまず目を向けることが大事で、その上でその根拠とか、相互のつながりとか、改善の可能性とかについて考えるために、学問の成果の蓄積を参照するという態度を持たなくてはならない。


 そういう意味での「教養」を身につけなくてはならないのに、専門科学が高度に発展したために知識の全体像が見えづらくなっており困難であるというオルテガの指摘は、現代にも、というかたぶん現代のほうが強く当てはまるだろう。分量が増えすぎて、職業人を目指す学生が理解しきれないようなカリキュラムになっているという問題については、戦後の大学の大衆化の過程で分かりやすい教科書が次々に生まれてきて、多くの分野でほぼ解決しているような気がする。しかし、知識の「全体像」をどのように理解すべきかなんて、考えることすらなくなっているのが実情ではないだろうか。
 古代から近代の初期ぐらいまでは、学者というのは自然科学・社会科学・人文科学といった区別と関係なく、「知識」というひとつの全体に取り組んでいたわけである。もちろん、そんなスーパーマンというかアリストテレスみたいな教授に日本だけでも何百万人という大学生の教育を頼むことは不可能だ。しかし、べつにそこまで高等なものでなくても、「知識」「学問」の全体がどんな広がりをもっており、どんな歴史があって、相互にどんな関連をもっているのかを考えてみるような講義はあってもよさそうなものだ。少なくとも総合大学であれば、少しジェネラリスト寄りの(専門外のことにも関心を持つタイプの)先生が各学部から集まって協力しあえば、それなりのものができるのでは?


 最後に、科学の研究が本来は「制度化」にそぐわないものであるという点も、よく考えておく必要がある。まぁ、本当にあらゆる制度化が害悪であるかというとそんなこともないとは思うし、私は研究者ではないからよく分からないのだが、相対的にいって「教育は制度化しやすいけど、研究は制度化しにくい」という理解は大事だろう。安倍政権の大学改革について私は何も調べてないけど、オルテガが批判した「専門職教育と科学的探求の混同」に該当することをやっていないかどうかは、チェックしておく必要がある。


参考リンク

 ググったら『大学の使命』を紹介してるブログ記事がいくつかあったのでリンクをはっておく。
 大学の使命 : 愛比売研究記
 Deus ex machinaな日々: 大学について2


 後者のブログを書かれている先生は、「反・大学改革論」という記事を2012年に書かれていて、これはとても面白かった。ラーメン屋のたとえが秀逸です。
 反・大学改革論
 反・大学改革論2(学生からの評価アンケート)
 反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)

*1:私は今、院生でもあるけど、本業はサラリーマンなので、大学の実態や大学改革の中身についてはよく知らない。

*2:略した箇所は、「そういう場合には、ただ、その国の人々から離れ、対立的に生きている特定の少数者の学校があって、いつの日か、この学校で教育された者たちが、その国の全生活に影響を及ぼし、その全体的影響によって、全学校組織の改善に(特殊の学校だけにででなく)寄与する、ということになるであろう。」と言ってて、これはこれで面白い。

*3:ここでは「大学」という言葉を、教養の伝達と専門職の養成の2つを指すものとして用いている。

*4:この言い回しは何度か出てくる。当時のスペインで、知識人の堕落を指弾する時の決まり文句みたいな感じだったんだろうか。

*5:冒頭の記事からすると「理工系の重視」や「グローバル化」がその方向性なのだろうか。まぁ重視するのは別にいいと思うけど、最近の日本の「改革」は極端に触れる傾向があるから、文系的なものや特殊日本的なものを圧殺するような方向には行かないようにしてほしい。ただ、そういえば昔、西部邁先生が東大教授を辞めた頃に書いた文章で、日本の大学はもう使い物にならず、改善しようにも内発的な改革では難しそうだから、外人教授をたくさん招き入れるなどして「外圧」をかけるしかないと言っていたのを思い出した。今はどうなんだろう。

*6:たとえば、一口に「グローバル化」と言っても、研究がグローバル志向であることと教育がグローバル志向であることは全然違うだろう。研究はまぁ、どんな分野であれ、もともとある程度グローバル化しているのが普通だろう。しかし教育に関しては、グローバル人材を育成するのも良いんだけど、そうなる必要がない大多数の人たちまでもグローバル化教育の枠に押し込めるのはよくないだろう。