The Midnight Seminar

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J・P・サルトル『嘔吐』

嘔吐

嘔吐


 アントワーヌ・ロカンタンという名の孤独な歴史家が、ド・ロルボン侯爵(←誰やねん)についての研究をまとめるための執筆作業を進める一方、妙な人間ばかりの社交空間のなかで頭を悩ませながら憂鬱な日々を送り、時折り自分の精神に襲いかかる言い知れぬ「吐き気」の正体を、「実存」をめぐる断片的な考察のなかで次第に発見してゆく。その過程がつづられた日記、という形式の文学作品である。
 物語としては何が面白いのか分からないし、いかにも「男の日記」風にすべての記述が隠喩的で観念的なので、楽しめる本ではまったくないが、「実存」をめぐるあれこれの考察はおおよそ納得のいくものだ。ただし、以下に述べるとおり、納得はいっても賛成はできない。


 「実存」というのは、簡単にいうと、たとえば「私という人間の本質は何なのかとか何とか理屈をたれる前に、まず本質うんぬんとは関係なく、今ここに『私』は存在してるよね?」……と言うときの、「存在してるよね」感のことだ。これは当然、物質的・肉体的な意味での「私の存在」についても言えるけど、大事なのは、人間が「言葉」を扱うという可能性──つまり「精神」──をその限界線上で支えている人間的条件でもあるということだ。
 面倒なので細かい説明は省くが、フーコーが「人間の死」と呼び、デリダが「主体の死」と呼んだような事態──「言葉」が「人間」を疎外するという事態──にもかかわらず引き受けなければならない(あるいは「引き受けたい」、「引き受けられるような気がする」)己の主体性、それが「実存」である。


 ド・ロルボン氏の研究に没頭しているあいだの主人公にあって、「自分という人間が主体として存在している」などということはまったく忘れられていた。だがあるとき、主人公の意識が急にド・ロルボン氏ではなく自分自身へと向かい始め、「実存」が問題になり始めるのである。


 「この文章、それは私が考えたものだった。まずはじめに、それはいくらか私自身だった。いま、紙に記されたこの文章は、私に対抗して結束していた。もうこの文章に見覚えがなかった。」(p.156)


 この場面は、「痕跡」としての言葉──デリダらのいう「エクリチュール」──が人間の主体性を葬り去るさまを象徴的に描いている。にもかかわらず主体は「実存」する、ということに主人公は苦悩する。


 「私は在る。私は在り、実存する、われ思う故にわれ在り。私が在るのは私が考えるからだ。なぜ考えるのか、私はもう考えたくない、私は在りたくないと考えるから私は在る。私は考える、私は……なぜなら……ああ、いやだ。」(p.164)


 この苦しみが「実存」そのものである。また、
 

 「実存について語らずにはなにひとつ言い得ない。しかし結局、実存に手を触れることはできないのである。私が実存について思考したと信じたとき、じつはなんにも考えていなかったのであり、頭は空っぽであったか、あるいはひとつの言葉、すなわち〈在る〉という一語が辛うじてあったと信じるべきである。」(p.208)


 と主人公が言うように、言語能力の限界線上にある苦しみが「実存」なのだ。「私はここで言葉と争う」(p.211)のである。


 ただ、その争いに「吐き気」を覚えなければならないのは、主人公ロカンタン(あるいは著者サルトル)が、自意識のなかへと自閉的に後退するタイプの人間だからであるという点に注意しなければならないと思う。実存の苦しみや哀しさが、自分の内面に向かうのではなく、たとえばキルケゴールにおけるように「神」への信仰と結びつけば、「吐き気」を催してペシミスティックになる必要はない場合もあるかもしれないのだ。
 だから、「実存というものがあるのだ」ということ、そして「それは苦しいもなのだ」ということについてのロカンタン=サルトルの気持ちは大いに分かるが、彼(ら)はその「実存」の引き受け方において、いくぶん不健全なのではないかと私には思える。もっとオプティミスティックな引き受け方もあるはずなのである。ありていに言えば、もっと元気に(笑)実存する路があるはずなのだ。


 ところで、この「実存」の問題を「言語論」へと強く引き寄せて、しかもサルトルなんかよりもはるかに健全な仕方で引き受け、徹底的に考察した思想家の一人が、ウィトゲンシュタインなのではないかと私は思う。
 サルトルが「偶然性」(p.215)という語で解決しようとした、生の不確実さ、不可解さをめぐるある種の難問。この難問をめぐる苦悩は、すぐれてウィトゲンシュタイン的な苦悩でもある──ウィトゲンシュタインが死の直前まで取り組んだ最晩年の論考は、『確実性について』というタイトルで出版されている──。
 ただ、このことについては自分でもまだ詳しく検討していないし不勉強のためはっきりとは言えないので、とりあえず置いておこう。


 「実存」の苦悩に終止符を打つことができるのは、神の啓示か、もしくは死であろう。無神論者のサルトルは、「神」への信仰の道を断ったのに加えて、「死ぬにはあまりにも弱く、死はそれらにとって、外部からのみやってくることが可能だったからである。」(p.218)と、「死」への回路まで閉ざしてしまうから、実存を前に「吐き気」を催すのではないか。私は、たとえばハイデガーの「先駆的覚悟性」のように、己の実存を「死」へのパースペクティヴのなかで引き受けるやり方のほうが、はるかに健全だと思うし、それに加えて「神」への信仰を持つことができれば、なおのこと健康であろうと思う。


 「この意識の実存の意義とは、この意識が、自分が余計なものであることを意識している点である。意識は希薄になり、拡散し、褐色の壁の上や街灯に沿って、あるいは向うの夕暮の靄の中に自己を見失おうと努めている。しかしそれは〈絶対に〉自己を見失うことがない。それは自己を見失う意識である、ということの意識だから。」(p.277)


 というふうに、自己意識を、実存をめぐる矛盾・葛藤・逆説のなかへと放り込むこと、あるいは放り込まれているという事実を直視することは必要である。が、私には、その逆説の渦中にあって、ロカンタン=サルトルよりも元気な──つまり健康な──振る舞い方があるように思えてならないのだ。
 そういう意味で私は、本書の実存主義には、論理的に納得はできても気分的に賛成はできないのである。