The Midnight Seminar

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マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』

グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成

グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成


 言わずと知れた、メディア論の古典中の古典。しかし7,500円も払わせた上で読者に苦痛を強要する本だ(笑)
 というのも、グーテンベルクの印刷術が作り出したルネサンス以降の西欧文化と、テレビ等の電波メディアが作り出す現代文化──といっても40年以上前の話なのだが──のありようを文章によって再現し、比較するのが本書の目的なのだが、その方法がじつに読者を疲労させるものなのだ。(ついでに言えば、本が重すぎるので支えている左手が非常に疲労する。文庫化してほしい。)


 前書きにあるとおり、本書の叙述は「おびただしい資料や引用が描き出すモザイク的イメージ」によって状況を表現するというやり方を採っている。つまり、対象に対して視点を定め、論理的に筋道だった議論を展開する、ということをあえてしないのが本書なのである。
 なぜそんなわずらわしい手法を採るかといえば、そういう固定的な視点に依存しない、モザイク的なイメージこそが、テレビ時代の世界認識だからだ。


 マクルーハンによれば、表音文字(アルファベット)の発明と印刷技術の発明によって、西欧社会は「視覚」だけを異常に強調する文化をつくり出した。固定された視点が捉える均質的な視覚情報──つまり印刷されたアルファベット──のなかにあらゆる対象を写し取ることで、西欧人はある意味で非常に歪曲された世界像、宇宙像を手に入れたのである。この宇宙像をマクルーハンは「グーテンベルクの銀河系」と呼ぶ。


 西欧社会に現れた「グーテンベルクの銀河系」は、世界についての認識を単一の感覚に還元してしまい、単純な記号の直線的配列によってすべてを表現しようとする。また、印刷されたアルファベットはそれ自体が意味を持つのではなく、あくまでも「意味されるもの」のrepresentation(代理=表象)でしかない。無文字社会の口語文化にあっては、言葉はそれ自体が豊かな「意味」をまとったものとして人々の心に響いていたのだが、文字社会においては、「意味」は形而上学的な世界へと追いやられてしまうことになったのである。(ちなみに、表意文字の社会にはこうした変化はほとんど起こらない。)


 この「グーテンベルクの銀河系」は、西欧社会の「知」に推論の厳密さを保証する一方で、分析的理性に偏重した、視野の狭さをももたらした。印刷技術の誕生は、単純な進歩ではなかったのである。「どれかひとつの感覚が切り離されると他の感覚どうしの比率が必然的に狂って自己感覚が失われてしまう」のであり、「五感どうしを切り離してしまう新技術には当然催眠効果があった」のである。


 それに対し、現代のラジオやテレビといった電波メディアは、「聴覚」を復活させ、「視覚の極端な優位」から「五感の調和」へと人々を連れ戻す。訳者の解説によれば、調和のとれた五感による世界認識のほうが、カトリック信者のマクルーハンにとっては、神が創造した世界をリアルに捉えられるということのようだ。
 そのかわり、この五感調和的で総合的なリアリティは、単線的な論理の筋道によって表現できるものではない。世界は「場」のようなイメージで捉えられるべきなのであって、マクルーハンはその「場」らしきものを、本書の活字空間のなかに描出してみせたのである。だから本書は趣旨が追いにくく、ふつうの意味ではものすごくわかりにくい本なのだ。


 「メディアはメッセージである」という有名なテーゼに代表されるように、メディアの「形式」が人々の精神文化にいかに強い影響を及ぼすか、というのがマクルーハン理論の最大の要点だとされている。だが、訳者もいうように、五感の調和によるリアルな世界認識を復興させよ!というのが本書の核心的なメッセージではないかと私は思う。


 以下、メモ。


■ 個人的に興味深いと思ったのは、「文字社会」への移行つまりアルファベットと印刷術の発明が、「視覚」への偏重を生み出した結果として、西洋の写実的な美術が生まれたのだという議論だ。たとえば日本画に比べて、西洋画がより「リアル」なのではない。日本画は、聴覚や触覚のような他の感覚を想像によって織り込みながら鑑賞すべきものなのであって、西洋画とは違った意味での「リアリティ」を持っているのである。


■ また、前半の「話しことば」と「書きことば」の違いを詳細に論じている箇所は、デリダエクリチュール論やヤコブソンのレトリック論と比較できてなかなか面白かった。説明は面倒なので省略。


■ 印刷文化が、「視点の固定」によって「個人主義」と「ナショナリズム」を同時に生み出すという話も、B.アンダーソンの議論と合わせて、要検討だと思った。