- 作者: 坂口安吾
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2000/06
- メディア: 文庫
- 購入: 7人 クリック: 97回
- この商品を含むブログ (155件) を見る
N部先生が4月ぐらいに居酒屋で、「坂口安吾の『堕落論』の文庫本の所収されている『特攻隊に捧ぐ』を最近読んだら、僕が子供のころから戦争や特攻に関して思っていたことがそのまんま書いてあって驚いた」と絶賛されていた。私が持ってた『堕落論』の角川文庫版には載っておらず、新潮文庫版だと載っているので買って読むことにした。
これは確かに名文中の名文で、以来いろんな人にすすめている。反戦派で、天皇制廃止を唱えた安吾が贈る特攻隊への賛辞。日本のバカ右翼にもクソ左翼にもなかなか理解できないだろうけど、素直に考えれば、安吾のような受け入れ方をしないと戦争も人間も理解できないように思えて(って私ごときに理解できるようなものではないと思うけど)、これを読んで久しぶりに救われたような気がした。
青空文庫で公開されているので、ネットでタダで読める。
『特攻隊に捧ぐ』青空文庫
けれども敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。
たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専(もっぱ)ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄(ぐろう)することにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈(はず)はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。
私は文学者であり、生れついての懐疑家であり、人間を人性を死に至るまで疑いつづける者であるが、然し、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そッとしておけ。そして、卑怯(ひきょう)だの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。
彼らは自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否(いな)、その大部分が途中に射ち落されてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の栄誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒飲みで、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向って歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒をのまずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を怖れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄(うた)う必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?
我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の偽懣(ぎまん)とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。
私は無償の行為というものを最高の人の姿と見るのであるが、日本流にはまぎれもなく例の滅私奉公で、戦争中は合言葉に至極簡単に言いすてていたが、こんなことが百万人の一人もできるものではないのである。他のためにいのちをすてる、戦争は凡人を駈(か)って至極簡単に奇蹟(きせき)を行わせた。
人間が戦争を呪うのは当然だ。呪わぬ者は人間ではない。否応なく、いのちを強要される。私は無償の行為と云(い)ったが、それが至高の人の姿であるにしても多くの人はむしろ平凡を愛しており、小さな家庭の小さな平和を愛しているのだ。かかる人々を強要して体当りをさせる。暴力の極であり、私とて、最大の怒りをもってこれを呪うものである。そして恐らく大部分の兵隊が戦争を呪ったにきまっている。
けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応(いやおう)なく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶(せいぜつ)な死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以(もっ)て敬愛したいと思うのだ。
強要せられたる結果とは云え、凡人も亦(また)かかる崇高な偉業を成就(じょうじゅ)しうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於て、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。
私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩(おうのう)苦悶(くもん)とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。
青年諸君よ、この戦争は馬鹿(ばか)げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。
要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出(みいだ)すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのであろうか。