民主・輿石氏、日教組にエール? 「教育の政治的中立ありえぬ」
2009.1.14 21:50 産経新聞
民主党の輿石東*1参院議員会長は14日、おひざ元の日本教職員組合(日教組)が都内で開いた新春の会合であいさつし、「教育の政治的中立はありえない」と述べ、「反日偏向教育」の根源ともいわれる日教組へのエールと受け取れる発言をした。教育や教員の政治的中立は教育基本法や教育公務員特例法で定められており、日教組に肩入れする同党の“危うさ”がまたぞろ浮き彫りになった。
輿石氏は日教組傘下の山梨県教組(山教組)の元委員長。現在は日教組の政治団体、日本民主教育政治連盟(日政連)の会長でもあり、会合では「私も日教組とともに戦っていく。永遠に日教組の組合員であるという自負を持っている」と宣言し、政権交代に向け協力を求める場面もあった。
平成16年の参院選の前には、山教組などで構成する事実上の輿石氏の政治団体が教員から選挙資金を集め、山教組幹部らが政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で罰金命令を受けるなどした。自民党の有志議員による日教組問題究明議員連盟(会長・森山真弓元文相)は、次期衆院選に向け日教組の偏向性を調査する構えで、議連から「輿石氏は標的になる」との声も出ている。
↑の記事は輿石氏の発言を批判的に取り上げていますが、私は個人的には、日教組の路線に賛成するかどうかはともかくとして、「教育の政治的中立はありえない」という意見そのものには賛成です。人間が「政治的中立」であり得るなんて絵空事です。
もちろん学校内であんまり激しく政治プロパガンダをやられるのは困るので、一応「中立」であることを法律で義務付けて努力目標にするのは良いと思いますが、厳密に中立的な立場などあり得ないし、仮に存在するにしても、厳密に中立的な先生なんてものすごくつまらないでしょう。
というか、そもそも↑の記事みたいに「反日偏向教育」か「政治的に中立な教育」かなんていう対比で教育を語ること自体が、不毛な気がします。
私は大阪出身なので、いわゆる日教組教育をかなりみっちり叩き込まれており、たとえば「道徳」という授業では日本の差別の歴史を教えられたし、反戦映画を観たり戦争経験者の講演を聴いたりするイベントは毎年ありました。しかも母親も小学校の教師で、日教組員です。未だに、夏休みの思い出といえば小学校の体育館で夜に開かれる反戦映画の上映イベントで、これは夏休み中唯一の全員(旅行とか行ってる人以外。一応強制ではない。)登校日だったのでよく覚えてる。海や山にも行ったはずなのに、夏休みといえば空襲やら原爆やら沖縄戦やらの映像をみんなでみて恐がるイベントが真っ先に思い出される。
ところが私はいまや、どちらかと言えば保守派のオピニオンに共感することが多く、そうした「人権教育」や「平和教育」を素晴らしいものだったとは全く思っていません。しかし、そうかといって迷惑を被ったという気もしない。むしろ、たとえば平和教育で小さい頃から反戦映画を見まくっていたおかげで、「あの戦争」を想像する習慣がついたことには、めちゃくちゃ感謝しています。
私は大東亜戦争について語るときに、あの戦争のただ中にいる(いた)日本人の存在を、上手く言えないですが、けっこう「身近」に感じています。もちろん、身近といっても「戦争中」の日本人には会ったこともないわけだし、大して歴史の知識はないので、本当にリアルにイメージできているのか自信はないですが、とにかく手の届きそうなところに特攻隊員がいるような、主観的なリアリティはある。少なくとも、同年代の他の人たちと比べれば、たぶん私の方が彼ら(戦中の日本人)を「身近」に感じているんじゃないかと思うことが結構ある。
で、このリアルっぽい感覚がどこから生まれたのかと考えると、たぶん私が保育園児のころから反戦映画を観まくっていて、たとえば「空襲の恐ろしさ」みたいなものを徹底的に刷り込まれているからだとしか思えないわけです*2。
よくよく思い出すと、日本軍は悪者として扱われていることが多かったし、映画についての先生のコメントや講演会で語られる戦争体験というのも、たぶん「自虐史観」そのものだっただろうと思う。だから恐らく、私も当時はそんな気分でいたんだと思います。
しかしそんな解釈ごときは、大きくなって本を何冊か読めば簡単に修正できるわけです。それよりも、幼い頃に「戦争を想像すること」を習慣づけられるか否かの方が、決定的な分岐であるような気がします。リアリティというのは、直接経験によるものも大事だけど、想像の繰り返しによるものも侮れない。
まぁべつに、「だから小さい子に戦争の映画を見せまくるべきだ」と言う気もしないし、「戦争のことを想像するのがなぜ良いことなのか?」と訊かれてももハッキリ説明はできないですが、私自身は、それを習慣づけてくれた教育に感謝しています。
で、その教育とはほかならぬ「日教組教育」なわけです。理屈の上では、日教組教育の趣旨に反対したい部分はたくさんありますが、私の個人的な経験の上では、その教育はむしろ感謝すべきものでした。
今思い出しても、明らかに「サヨク」や「左翼」の先生方、要するに、政治的に中立じゃない先生は小学校から高校に至るまで――そして大学にはもちろん――たくさんいましたが、その中に面白い先生だってたくさんいたので、べつに「日教組は許さん」みたいなくだらん憤りはない。私は、教育の成果は「思い出話の数」*3で評価されるべきだと思っていますが、左翼の先生たちだって色々思い出を残してくれたものです。
要するに、教育というのはきわめて微妙な営みで、それがもたらす効果もほとんど予想できないものなので、「反日偏向教育」か「政治的に中立な教育」かなんていう単純な対比に基づく教育論争に、あまりエネルギーを費やさない方がいいと思うわけです。
*1:こしいしあずま
*2:大学に入ったとき、いろんな地方から出てきた友人たちの話を聞いていて、反戦平和教育には地域ごとの濃淡がかなりあることを知りました。私の場合、親からも似たような教育を折に触れて受けていたので、よけいに同世代の友人たちとの間に差があるw。親からそういう「教育を受けていた」というと大げさだけど、まぁ例えば戦争についてのテレビ番組は積極的に観てるとか、そういう本が家に自然に置いてあるとかです。
*3:あるいは、「繰り返し語るに値する思い出の数」。もちろん「数」だけじゃなくて「質」も大事だけど、凄まじい質を持った思い出というのはそうあるもんじゃないので、平凡だけど語りたくなるような「思い出話」がたくさんあったほうがいいということ。