The Midnight Seminar

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(補足)福田恆存の「小林秀雄」論

 昨日のエントリ(「自意識に詰め腹を切らせる」)で、長年気になっていた「自意識に詰め腹を切らせる」というセリフの出典を確認したのだが、この福田恆存による小林秀雄論は、短い評伝なのに内容が難しくて、久しぶりに「これは何を言ってるんだ……?」と悩みまくってとても疲れたので、一応考えたことをメモしておくことにする。解釈は間違っているかも知れないけど。


自我=自意識の無力さ

 私は孫引きで覚えていた「自意識に詰め腹を切らせる」というフレーズを、「まともな人間は、自分の自意識みたいなものには、きちんと自分で始末を付けて生きているものなのだ」という意味に理解していた。「自意識には自分で始末を付けなければならない」ということ自体は正しいと思っているが、福田恆存が小林秀雄を評して言いたかったのは、そういうことではないのだ。
 福田の「小林秀雄」を読むと、小林秀雄が「人間は自意識をコントロールして生きなければならない」と考えていたということが書かれてあるのではない。福田が論じているのは、小林が「自意識」というものの不完全性や凡庸性をあまりにもあっさりと見限ってしまって、自意識と自意識のぶつかり合いが演じるくだらない現実の生活のドラマにも、それはそれで豊かな可能性が秘められていることを見落としたのではないか、とやや批判的な文脈で書いているのである。


 高校の日本史(とか現代文)の授業とかでも出てきたように思うが、「近代的自我の確立」というのは明治以降の日本の近代文学を論じるときによく出てくるテーマだ。

明治中期以降,「個」としての自己を内面において支える近代的自我の思想が移入されるようになり,また,明治20年代にはいり,国家主義的傾向が強くなってくると,それへの反発として,近代的自我の確立を目指して自己を内面的に掘り下げていこうとする傾向が出てきます。

http://www.geocities.co.jp/HiTeens/8761/japan19.htm

 私も文学に詳しくはないので理解が浅いのだが、教科書的な理解としては、「お上」とか「世間」みたいなものが価値観の枠組みを決めていた前近代の社会とは違って、近代の自由で個人主義的な社会になると、「自己」の内面を掘り下げて価値判断の基準を探索しなければならなくなったという話だろう。まぁ日本の短歌とかはもともと個人の内面の描写を盛んにやっていたような気がするんだがそのへんはどう整理されてるのかよく分からない。
 近代的自我と言えば、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」——徹底的にあらゆるものを疑っていったとしても、最終的に、疑うという意識の作用が存在することだけは否定できないという点を、哲学の出発点とした。——という重要なテーマがあるが、ここではあまり気にしなくて良いだろう。


 こうやって、自我とか自意識といったものにフォーカスしていった明治以降の文学的潮流を、小林は最終的にほぼ全否定して、個人の内面なんて掘っても大したものは出てこないと見定め、むしろ過去の偉大な芸術家たちが作り出した理想的な世界を研究することに没頭していったのだが、福田恆存はこれを一種の不誠実とみた。くだらないと分かってはいても、人々の自意識がぶつかり合っている目の前の現実と格闘するのでなければ、結局人間や社会を理解することにならないのではないかと。
 ただし福田は、小林秀雄はバカだと言っているのではない。ましてや福田が、近代主義的な潮流に棹さして「自我」の尊さを礼賛し、小林の古典的理想主義をまるごと否定したというわけでもない。そもそも福田は保守主義者として有名な批評家の一人で、近代主義的なものの見方に対しては常に批判的だったから、小林秀雄とは同じ側の人間である。


自意識=自我の無力さに気づく

 小林秀雄も当初は、他の文学青年の例に漏れず強烈な自意識にとらわれていた。しかし、「自意識」に焦点を当てた近代文学にも取り組みはしたのだが、結局のところ「自意識」とか「自我」というものをいくら掘り下げていっても、何ら意味のあるものには出会えないと小林は悟ったようである。

自意識とはなんと無力なものか。意識で人間内容を考へることはできぬ。自意識の跳梁——それが近代といふやつか。が、意識がいかに複雑をきはめようと、精緻にならうと、そんなものはなんの装飾にもならぬ。残されたものは依然として「見窄らしい」肉体だけだ。人間は変りはしない。単純なものなのだ。

(福田恆存:「小林秀雄」。以下同じ。)

 だからあんまり、自意識というか内面を精緻に描くことなんかに力を注いでも仕方がないと小林は考えた。福田曰く、小林には「自我の限界がはっきり見えてしまつた」らしい。
 自我をめぐる重要なテーマの一つは、自我というものと向き合うことで、他人との間に心を通わせることはできるのかということだ。自我と他我の間に、橋をかけることはできるのか。これについて小林は、「凡そ自我とは橋を支へるに足りる抵抗をもつた品物では恐らくあるまい」と判断した。つまり自我というものは、他我との間に橋をかけようとすると潰れてしまうような、脆いものなのである。

かれ(小林秀雄)はニーチェのことばを書きつけてゐる——「私にとつて人情とは他人に同感する処に存しない、他人に同感する事を忍耐する点に存する。」いひかへれば、自分の真実を犠牲にして他人の真実に仕へるといふことだ。

 自我というものを内へ内へと突き詰めて、それとまともに向き合ったところで、自分と他人の心に橋をかけるような方法が見つかることはない。自我というものには、自己と他人との間に生じる摩擦に耐えるような強靱さはないし、自己と他人の間にある距離を乗り越えて調和的な関係へと昇華させるようなエネルギーも持ってはいない。とすれば、自我をめぐる葛藤のドラマをいくら克明に描いたところで、そんな文学が何の役に立とうか、ということだろう。
 そして小林はさらに進んで、はたして自我というのはそもそも自分自身を支え切れるのかという疑問にも達し、それも無理だと悟ったようである。


 自我というのは厄介なもので、我々人間はいつも自我をめぐる様々な課題に見舞われて悩みを抱えているわけである。自我と他我がしょっちゅうトラブルを起こすから、そこにドラマが生まれるのであり、そのドラマを描くことによろこびというか、ある種の重要性を見出したのが近代文学であった。ところが小林はハッキリと、自我なんてものをいくら突き詰めていったところで、他人と折り合いを付ける術も、自分自身と折り合いを付ける術も、見つけることはできないことに気づいてしまったのである。


古典的理想主義への逃避

 そうなのであれば、自意識(自我)が現実との間で生み出す摩擦にいちいち囚われているのは馬鹿馬鹿しいから、自意識に苦悩を乗り越えさせることなんか諦めて、現実の生活は生活としてそのまま肯定してしまえば良いという境地に小林は至った。つまり「自我=自意識」に詰め腹を切らせて、現実世界との闘いから撤収させたのだ。
 小林は『モオツアルト』の中でモオツアルトが「気紛れな注文を、次から次へと凡そ無造作に引受けては、あらゆる日常生活の偶然事に殆ど無抵抗に屈従し、その日暮らしをする」ようになったことを描き、また『西行』の中で西行が「無常は無常、命は命の想ひ」に至ったことを取り上げているらしい*1。「無常」は現実の生活世界のこと、「命」は自分自身のことかな。
 こうして小林は、自分の「生活」の世界と自分の「作品」の世界とを明確に区別してしまって、「作品」の世界においては、目の前の現実の喧噪や乱雑さから離れて、過去の天才たちとの交話に徹することにしたのである。

小林秀雄は——ぼくのことばでいへば——形をもちえぬ批評のうしろめたさから逃れようとして、作品の完成をこころざしはじめた。偶然性に満ちた日常生活を取るにたらぬと軽蔑して、芸術の必然性に入れあげようといふのだ。

 猥雑な日常生活(自意識が演じる不完全なドラマ)を無視することにしたのは、「見えすぎる眼」を持つ小林にしてみれば必然的な結論であって、彼に「もっと現実の生活に関心を持て」と言っても無駄であったのだろう。福田は、この小林の透徹しきった洞察を尊いとは言っている。しかしそこには、何か危険なものがあるのだとも言う。
 坂口安吾はこの小林の態度を文学者として容認できないと言ったらしいが、それは、自意識が演じる摩擦から逃げていては、結局のところ人間も社会も理解することはできず、人間も社会も理解しようとしないような知識に価値はないと考えたからであろう。


現実を無視すべきではない

 冒頭で述べたように、近代の思想や文学は、昔の天才的な芸術家や宗教家たちが作り上げてきたような完璧で理想主義的な世界からはいったん距離をおいて、目の前の現実と格闘する「自我」を主題化した。しかし小林は自我の問題と向き合ってみた結果、取るに足りないとあっさり判断して、自意識の内へ内へと溺れていくような近代主義的表現とは決別することを決めた。
 福田は、ここまではとてもよく分かると言っている。しかしそこから先、目の前の偶然性にまみれた「生活」から眼を逸らして過去の天才たちの研究に耽溺するのは、非常に聡明で尊い判断ではあるけれども、態度として賛成はできないという。

真実は、かれ(小林秀雄)がたかをくくりすぎたことにある。かれがたかをくくりすぎた原因は、かれの眼があまりにみえすぎたといふことにほかならぬ。かれは物がみえすぎて法のつかぬ眼に、みづからたのみすぎたといふわけだ。心理家のおちいるわなである。

 現実がよく見えすぎると、そのくだらなさばかりが際立って逆に「法のつかぬ眼」に陥ってしまう。福田は、小林ほど冷酷に現実を見下してしまうまなざしは、一種のバランス喪失であると考えたようだ。

 ぼくもまた過去の追憶を愛し、そこにのみ完璧を見る。ぼくもまた死したるひとにのみ信頼する。が、それだからこそ、ぼくたちは現代をおろそかにしえぬのだ。
 (略)
 小林秀雄は現在を棄てて、ヨーロッパの天才のうちに、そして日本の古典のうちに、身をかくした。その底部に、かれは不連続のもの、永遠に確乎不動のものを発見し、それに感動することを願ったのだ。
 しかし、いかに病的であってもこの二十世紀を、いかに低俗であつてもこの現代を通ぜずして、ぼくたちははたして歴史の底部にまで貫徹しえようか。見えすぎる眼がどうして現代のドラマを見ないのか、鋭い感受性がどうしてその苦悶に感動しないのか。それはくだらぬことかもしれぬ、まちがつてゐるかもしれぬ。が、たとへさうだとしても、ある時代がある時代に優つてゐたり劣つてゐたりするわけのものではない。現代の苦悶がもしくだらぬものならば、室町のそれも十九世紀のそれもくだらぬのだ。

絵画や骨董は完成してゐるが、たんなる物にすぎぬ。死人や過去も完結してゐるが、その完結のゆゑに物にすぎない。現代の凡庸人は不完全であり、偶然の破片にすぎぬが、物ではない。それ自身においては、かれらをまへにしてたかをくくることもできる。が、破片の、組あはせにおいては、ばかにできぬ可能性をふくんでゐるのだ。


 また、福田は、小林はその知性の力で自意識を突き放したとも言えるが、むしろその人生を通じて自意識の厄介さに「懲りた」というのに近いとも言っている。

小林秀雄は女に懲り、人間にたかをくくる。かれは現実を白眼視し、自我に愛想をつかす。自我が橋を支へるにたりぬ、やくざなしろものとひとたび見きはめた以上、かれはもう懲り懲りしてしまつて、そこに橋をかけようとはしないのだ。(略)小林秀雄は聡明すぎるのだ。早熟であつたかれは、現実からあまりに早く足を洗ひすぎた。

 この「現実からあまりにも早く足を洗ひすぎた」というところがポイントである。福田は絶妙な立ち位置でものを言っていると思うのだが、福田も「自我」のドラマなんかはくだらないと思っているのものの、現実の生活がくだらないからといって、そう簡単に世捨て人になるのもどうかと思うと言っているわけである。

かれ(小林秀雄)は十九世紀小説や私小説のうちに、ほとんど救ひがたい近代自我の限界をみとめたのであるが、そこから二十世紀への血路を見いだすことができなかつた。現代の凡庸性のうちにではなく、過去の天才のうちに身をかくした。かれは自己の索引に天才を必要としたのだ。


 古典的な理想の世界を退けて、人間のありのままの現実をむき出しにする方向に進んでいった近代精神の誤りを、小林が見通したのは正しかった。しかしそこであっさり引き返して古典の世界へと後戻りして行くのは、それはそれで手抜きなのではないかと福田は言っているわけである。
 民主主義の世の中になると、一人一人の存在が尊いということになって、くだらない大衆の欲望みたいなものもけっこう肯定的に捕らえられるようになったわけだが、福田はそのことについては批判的である。人間の生身の欲望とか、自意識が演じる現実のドラマみたいなものは、美しくもなければ尊くもない。しかし、それらを肯定まではしないけれども、そこから眼を逸らすことで何か重要なものが得られることもないだろうと、福田は考えている。
 これはもちろん、坂口安吾が、「堕落」の境地と真剣に向き合ってみないと人間社会を理解することなんかできないぜと言ったのと似ている。実際、この小林秀雄論では、坂口安吾と小林秀雄が何度か対照されている。


小林秀雄はやはり天才

 このとおり、福田は小林の態度をけっこう批判的に描いているのだが、福田は小林秀雄の批判者というよりはむしろ崇拝者である。
 昨日のエントリ(「自意識に詰め腹を切らせる」)で小林秀雄の文章もすこし取り上げたが、彼が書いているものを読むとべつに厭世家とか、空想的な理想主義者という感じはあまりしない。まぁ、時期にもよるかもしれないけど。むしろ、プラグマティストとしての現実的な立場がよく出ていて、それでいてなお、処世術に堕するということもないのだ。
 『考えるヒント』みたいな有名なエッセイ集を少し読んでみれば分かるが、彼の言っていることはきわめて常識的で、バランスが取れていると思う。


 だから福田の「小林秀雄」でも、福田は小林があまりにも偉大すぎて、自分の頭のなかで常に批判者としての小林に支配されていたという、批評家としての苦悩を打ち明けているし、最後のほうでは最近(当時)の若手文学者が「小林秀雄との決別」を宣言したらしいという件に触れて、それがいかに愚かなことであるかを批判している。

ふたたび今日の現実のなかで、かれ(小林秀雄)の書きつづってきた文章をゆつくり読みなほしてみたまへ。戦後ぼくたち批評家が寄つてたかつて問題にしたことのすべてが、そこではすでに論じつくされてゐる。近代自我の確立、主体性、政治と文学、芸術と生活、心理と論理、私小説と本格小説、ヨーロッパと近代日本、コミュニズムとニヒリズム、等々——しかも皮肉なことに、今日のそれよりは、もつと主体的に、もつと本質的に考へぬかれてゐる。

 小林秀雄の批評文は確かに、いま読んでも心に残るものが多い。『考えるヒント』とかは未だに人気もあるし。
 そして福田恆存の評論も、それに負けないぐらい鋭くて、彼の文章のほうが戦後のテーマが多い分むしろ我々にとっては切実なものが多いのだが、福田は旧仮名・旧字体にこだわり続けたり、政治的に割と先鋭的な態度をとっていたりしたので、あまり多くの人に好かれていない面はあるかもしれない*2。しかし図書館で全集をパラパラめくってみると、これはさすがN部先生が「戦後最高の知識人」と評しただけのことはあるなと思う。
 全集の中には、小林秀雄 vs 福田恆存という対談もじつはあって(笑)、とても面白い。昔は、批評や言論の世界にもスケールのでかいタレントがそろっていたものだなと改めて思った。


考えるヒント (文春文庫)

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小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)

小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)

考えるヒントで考える

考えるヒントで考える

*1:私は読んでません

*2:小林も旧仮名で書いてるけど、今出ている全集とかでは新仮名に直されている文章が多い。福田は明確に、新仮名・新字体に反対していた批評家だから、彼の文章が新仮名・新字体で出版されることは無いのかも知れない。