- 作者: レヴィ・ストロース,ジョルジュ・シャルボニエ,多田智満子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1970/01
- メディア: 単行本
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本書は、G.シャルボニエという人がラジオ番組で行った、C.レヴィ=ストロースとの対談シリーズの記録である。 良く引用される有名な「熱い社会」と「冷たい社会」の区別が出てくる。
「冷たい社会」というのは未開あるいは前近代社会のことであり、それは全員一致の平等主義社会で、人々は、機械式時計のように静的で円環的な時間世界の中にいる。
「熱い社会」というのは近代文明社会のことであり、階級のあいだに生じる格差をポテンシャル・エネルギーとして、蒸気機関のようにダイナミックな運動をつうじて変化を累積していく社会である。
ところで、本書の第5章からは、未開社会と文明社会の芸術についての比較に話が移り、以下、本書全体の3分の2程度が芸術論に割かれている。
美術や音楽などについて両者がさまざまに意見を交わすのだが、私の印象に最も強く残っているのは、「私たちが美的感情と呼ぶものは──結局、意味的でない一つの客体が意味作用の役割をするよう推し進められ高められたときに、私たちが示す反応の仕方」(p.140)なのであり、芸術家とは「物体をして言語へと憧れさせる者」(p.141)であるというレヴィ=ストロースの芸術観だ。
彼は「すべての問題は言語にある」(p.172)とまで言っているように、芸術を含めたあらゆる人間文化の中心に、「言語」の問題が据えられているのだと考える。おそらくそれは正しいのだろう。
したがって、芸術作品の制作(や鑑賞)が個人化すれば、芸術は芸術としては成り立たなくなってしまう。なぜなら、言語は集団的に構成されるものでしかありえないからである。
また、対象を正確に描写するような作品も、有意味な芸術作品たりえない。なぜなら、言語とは、シニフィエ(所記=意味されるもの)と直接的、必然的な関係をもたないシニフィアン(能記=意味するもの)同士の関係の体系だからである。
ただ、言語が大事だとは言っても、あくまで芸術は「言語」そのものではなく、「言語へと憧れるもの」である。つまり、言語と非言語のあいだに豊かな空間を見出し、その空間を想像力/創造力で埋めていくような文化的営み、それが芸術なのだということだ。
だから芸術には、2種類の堕落の危険がある。つまり、芸術が言語的になりすぎて美的感動を失うこと、そして非言語的になりすぎて意味を失ってしまうことである。
「芸術とは何か」という問いに答えるのは途方もなく難しいが、このレヴィ=ストロースの芸術論は、私にとっては大きなヒントではある。「芸術」が成立するための必要条件をひとつひとつ挙げていくとき、「言語への憧れ」はおそらく外すことはできないだろう。
ちなみにこの対談本はすでに絶版で、なかなか手に入りにくくなっているようだ。定価1,200円なのに、amazon.co.jpの中古マーケットでは7,800円で出品されている……。