The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

村上春樹『1Q84』

 

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1


 
1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

 村上春樹の作品にあまり関心はないし、通勤電車で読むには分厚すぎる本なのでもともと読むつもりはなかったんですが、某国で出版する予定で企画している書籍の中で日本のベストセラーを紹介しなければならず、さすがに2009年のランキング1位だしなぁということで読むことにしました。村上ファンでも文学好きでもないので、解説なんかまともに書けないんだけどね……。


 舞台は1984年の東京。物語には、29歳の男女2人の主人公が交互に登場します。女性主人公の「青豆」は、スポーツ・インストラクターを生業としながら、ある老女の依頼を受けて、家庭内暴力で女性を苦しめる男たちを次々と始末――青豆にしかできない特殊な方法で、静かにあの世へと送り込む――する殺し屋。男性主人公の「天吾」は、予備校で数学の教師をしながら作家を志し、時折雑誌に短文を寄せているアマチュア物書きです。


 天吾には、編集者として出版社に勤める「小松」という知人がいて、あるとき小松から、新人文学賞に応募された小説作品の“書き直し”を依頼されます。その小説は「ふかえり」という名の17歳の少女が応募してきたもので、文章が稚拙で読みづらいし、すんなりとは理解できない不可思議な物語でした。しかしその『空気さなぎ』と銘打たれた作品は異様な魅力を放っていて、文章表現にこっそり手を入れて幾らか読み易くしてやれば、必ず新人賞を獲得し、大ベストセラーになるに違いない。そして天吾にはそれを遂行するだけの技量が備わっている。そう確信して、小松は天吾に頼み込んだのでした。


 面倒なことになると直感しながらもその作品の魅力を認めないわけにはいかなかった天吾は、最終的に書き直しを引き受けることになりますが、原著者のふかえりに意向確認を兼ねて対面したとき、彼は自分が「普通ではない世界」に関り始めていることを知ります。
 ふかえりは、「さきがけ」という名のカルト宗教団体のコミューン――山梨県の山村で、彼らは社会との関わりを断って閉鎖的な自給自足生活を送っている――で育ち、あるとき命がけで脱走して、「戎野先生」と呼ばれる男性に保護されています。そして、小説『空気さなぎ』は、彼女が経験したコミューンの中での出来事を物語化したものなのでした。


 一方、青豆も、殺し屋稼業の延長で、あるとき「さきがけ」に関りを持つことになります。暗殺依頼人の老女が、さきがけのコミューン内でレイプ被害にあって脱走した1人の少女を保護していて、その加害者であるさきがけの教祖を許すことは絶対に出来ないと言う。
 さきがけは、過激な学生運動で世間を騒がせた革命組織が分裂して生み出した、極めて偏狭な宗教集団。場合によっては武器を持っているかもしれない。しかし危険を承知の上で、老女は青豆にその教祖の殺害を依頼したのでした。


 その依頼を受ける数週間前に、たまたま、青豆は老女の用心棒を務める男から、さきがけの前身である学生運動組織が1982年に起こした警察との銃撃戦の話を聴かされていました。そんな事件に覚えがなかった青豆は、図書館を訪れて新聞のバック・ナンバーを読み返し、その銃撃戦が世間を震撼させる大事件だったことを知ります。
しかし、どうもおかしい。青豆はそんな大事件を知らずに過ごすような世間知らずではない。本当にそんな事件があったのだろうか?
そこで彼女は一つの仮説を打ち立てます。「どこかの時点で私の知っている世界は消滅し、あるいは退場し、別の世界がそれにとって代わったのだ。1Q84年――私はこの新しい世界をそう呼ぶことにしよう。私の知っている1984年はもうどこにも存在しない。 」
 理由もきっかけも分からないが、とにかく世界は何かの拍子に変化してしまった。こうして、宗教団体「さきがけ」をめぐる天吾と青豆の冒険に似た大騒動、「1Q84年」の東京を舞台にした「とても奇妙な物語」が幕を開けます。


 さてここからは感想です。
 『1Q84』に登場する宗教団体「さきがけ」がオウム真理教をモデルに描かれていることは明らかで、村上自身もインタビューで、オウム事件が「この物語の出発点になった」と語っています。また、有機農業を営んでいる自給自足のコミューンという設定には「ヤマギシ会」のイメージも入っていそうですし、青豆の両親が信奉している「証人会」は、いうまでもなく「エホバの証人」がモデルでしょう。


 それらは一様にネガティブなイメージで描かれていますが、そうかといって新興宗教(みたいなもの)の活動を批判することがこの小説のテーマというわけではなさそうです。ネット上にも転がっているインタビューとかスピーチ*1を読むと明らかですが、村上の関心は、心をシステマティックに支配するものに人々はいかに立ち向かい得るのか、といったところにあるようですね。オウムの場合で言えば、麻原彰晃を批判したいというよりも、信者たちはどうすればカルトへの耐性を手にすることができたのか?を考えたいということです。


 村上はインタビューの中で、「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。」(毎日新聞)と語っています。
 人々の心を支配するものは、カルト宗教の教義だったりテロリストの原理主義だったり、政治的な意見だったり生活信条だったり様々でしょうが、いずれにしても「自分の頭で物を考えるのはエネルギーが要るから、たいていの人は出来合いの即席言語を借りて自分で考えた気になり、単純化されたぶん、どうしても原理主義に結びつきやすくなる」(読売新聞)というのが村上の懸念であって、その懸念がありありと現実化しているのが、現代の日本であり世界であると村上は指摘したいようです。


 戦後、日本がひたすら「豊かな社会」を目指して経済成長を続けているあいだは、人々にとって「勉強する目的」や「働く理由」はわりとはっきりしていたし、明るい未来を思い描くことができた。しかしそうした成長がひと段落した1990年代に、人々はビジョンを喪失してしまって、未来は明るいのか暗いのかもはっきりしなくなった。人々は分かりやすい言葉を欲するようになり、そうして生まれた心の隙間に、たちの悪い原理主義が入り込んでくる。「世界中がカオス化する中で、シンプルな原理主義は確実に力を増している」(読売新聞)。――村上の現代社会観はおおよそこんな感じのようです。歴史観として少々単純すぎるとは思いますが*2、まぁよく言われている普通の意見ですよね。


 ところで、『1Q84』の中で「さきがけ」の信者の心を支配するものは「リトル・ピープル」と名付けられています。それは「カリスマ」的な指導者や「神」のような分かりやすい存在ではなく、得体の知れない、精霊的な何かとして描かれています。「リトル・ピープル」が何を意味するのか、作品の中でも明らかにはされていませんが、それは必然であって、支配者は意味不明の存在でなければならないんでしょう。
 ジョージ・オーウェルの小説『1984年 』には、「ビッグ・ブラザー」という名の独裁者が登場し、「党」の組織が人々を指導していて、その支配は目に視えて分かりやすい。言い換えれば、その支配に抵抗しようとする者にとって、敵がどこにいるのかは明らかです。しかし現代の社会では、人々の心に生まれた「隙間」が原理主義を呼び寄せているのであって、「心を支配するもの」に抵抗するためには、いくつもの回り道 が必要になるということです。


 そうした回り道のひとつが「物語」であると、村上は言いたいようです。「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする」(毎日新聞)と*3。なるほど、『1Q84』の作品中でも、ふかえりと天吾が『空気さなぎ』というわけのわからない物語を書いてリトル・ピープルに抵抗しているという構図になっていますが、そういうことだったんですね。


 一方で村上は『1Q84』の中で、青豆に「私という存在の中心にあるのは愛だ」と言わせてみたり、青豆と天吾が10歳の頃の記憶(想い出)に支えられて29歳まで生きてきたことを強調したりして、人間の生のリアリティを支えるものを探り出そうとしているようにみえます。
 用心棒のタマルも、かつて孤児院で見た木彫りのネズミを作り続ける少年の姿が脳裏に焼き付いていて、「人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景」と感慨を込めて語っている。
 要するに、愛とノスタルジーですかね。言わんとしていることは分かります。徹底して「個人」の「内面」に力を求めようとするのは一つの偏向だと思いますが*4、まぁ作家らしい態度です。


 私としては、「原理主義」に抵抗するための最強の理論が、「共同体の慣習」や「歴史の叡智」を重んじる保守思想だと思うのですが、話が飛躍しすぎるのでここでは触れないことにしましょう(笑)
 また、「ビッグ・ブラザー」に対する「リトル・ピープル」という比喩というかネーミングは、「独裁制」と「民主制」が表裏一体の関係にあるという政治学的な命題を連想させるし、リトル・ピープルが「空気」の中から糸を取り出して「さなぎ」を作る場面では、民主主義社会における「空気の支配」みたいなものが頭をよぎりましたが、私の個人的な関心に引き寄せ過ぎのきらいがあるので、これもやめときましょう。

*1:ウィキペディアにリンクなどが整理されている。http://ja.wikipedia.org/wiki/1Q84

*2:単純すぎるとともに、私が「村上って駄目だなぁ〜」と思うのは、彼がインタビューで「日本人は1995年にたてつづけに起きた阪神大震災オウム事件で、「自分はなぜ、ここにいるんだろう?」という現実からの乖離(かいり)感を、世界よりひとあし早く体験した気もする。」とか言っていて、阪神大震災オウム事件にかなりのショックを受け、それによってすっかり世界が変わってしまったかのように感じたらしいという点だ。そしてそれが創作活動の根底にあるらしいこと。「ひとあし早く」と言っているのは、諸外国の場合は「9・11」によって同じように、本当の世界ではないような世界に変わってしまったと村上が思っているからだ。要するに、自然災害やカルト宗教やテロリズムごとき――それらは目を引く出来事ではあったが、歴史的に珍しいものではない――に腰を抜かした、平和ボケ作家だということです。私だってそれらの事件にそれなりの衝撃は受けましたが、どう考えても、人間の歴史の中では災害やカルトやテロが存在する世界のほうが普通の世界なのであって(笑)、十分に想像可能な範囲内です。

*3:「意見」や「命題」ではなく「物語」が大事なんだという話。それは良く分かる。

*4:この言い方は不公平かもしれない。愛もノスタルジーも(あるいはこの小説に繰り返し出てくるトラウマも)、素朴に解釈すれば、個人的とも内面的とも限らないからだ。しかし私が読んだ範囲では、ここでいう「偏向」を村上の物言いに感じなくもなかった、というのが正直な感想です。