ずいぶん昔、大学1年生のときに作っていたホームページに「日記」を書いていました。ブログサービスもそれなりに広まっていたけど、デザインが思い通りにならないものが多かったのでまだHTMLで書いてたなぁ。
借りていたサーバーはもう消滅し、当時使っていたPC(iMac)も壊れてしまってデータの大半が失われましたが、CD−Rにバックアップをとっていたものもあって、久しぶりに見てたら、「空気読めてないで症候群」というしょーもない文章を書いていたことを思い出しました。よく覚えてませんが、「KY」なんて言葉が流行り出す数年前に、「空気読めてない」状態について考察しようとしていたようです。たぶん、周りにいたヘンな奴の精神を分析してみたくなったんでしょう(笑)
ウィキペディアにも異様に細かい解説・考察が投稿されてますね(笑)
空気といえば、山本七平の『空気の研究』という本が非常に有名*1ですが、まぁ大して面白くなかったな。
↓以下、当時掲載してた「空気読めてないで症候群」。今読むと結論が平凡すぎてウンザリするけど、書きなおすほど暇ではないのでそのまま貼り付けておこう。
空気読めてないで症候群 日常会話においてもっともやっかいな存在、それは「空気が読めていない奴」だ。
空気を読む能力には個人差がある。常に場の空気を敏感に感じとって自然体の会話を繰り広げる達人もいれば、頭の中に暴風が吹き荒れているのか、ほとんど空気の流れに逆らいつづけて喋りまくる阿呆も居る。
「空気が読めていない」という状態は自分ではコントロールすることが困難であり、その意味において、私はこの状態(もしくは能力の欠如)を病気と見立て、「空気読めてないで症候群」と名付けることにした。
もちろん私にだってこの悪夢の病が発症して、「ウザい」存在となることはそれなりに多いと思われるので、「空気を読む力」について語ったり、他人についてとやかく批判する資格はないのかもしれない。しかし、「空気が読めていない」とはどういうことなのかについて少しでも理解を深めておけば、予防や事後の対処に関して、わずかながら改善を見込めるかもしれないのである。
そのぐらいの謙虚な姿勢で、「空気読めてないで症候群」について少し詳しく考えてみよう。
日常の会話における「空気読めてないで症候群」の症状を注意深くみてみると、3つの類型があることがわかる。
もちろん、実際にはこれらの3つがそれぞれ独立して発症するわけではなく、3つが混合されている場合が多い。だから正確には、これらは「空気読めてないで症候群」の症状を構成する三要素(あるいは三側面)と言うべきだろう。ここでは一応、理解のための便宜として、3つの類型をモデルとして扱うことにする。
その3類型とは……
1. 暴走型
2. 逸脱型
3. 自己中心型
である。ひとつづつ簡単に解説していこう。
「暴走型」というのは「調子のり過ぎ型」と呼んでもいいだろう。3つのなかでもっとも軽度の症状であり、「ちょっとした失敗」として片付けることが許されることも多い。
「おもしろい」「悲しい」「腹立たしい」といった「感情」の高まりが臨界点を越えてしまって、発話内容をコントロールするバランス感覚を失い、発言が特定の方向に過剰にエスカレートしてしまう症状だ。
例えば、あるひとつのボケで大いに笑いをとってしまい、ウケたことに気を良くして舞い上がった発言者が“調子に乗って”、引き際を弁えずに、不必要なのにボケを被せていくような場合である。
この症状は、聞き手の側に「しつこい」という不快感をもたらすことが多い。
「逸脱型」というのは、会話全体の主題を見失っている症状だ。これは、「読解力の不足」という、根本的でどうしようもない原因に基づく場合もある。それは要するに、頭が悪いということだ。テーマがはっきり決まっていない会話の場合でいうと、「それ以前の会話の流れを受け継いでいない」ということになる。
この症状では、「今、何について話すべきか」を誤解しているため、聞き手との間にズレが生じて「空気が読めていない」ということになるわけだ。たとえば、あるテーマを持って会話が進んでいるときに、そのテーマの周辺部分、つまり言及されはした(あるいは言及される可能性はある)が大して重要では無いはずのトピックに、異常に食らい付いてしまうような場合が含まれている。本当は大事なことではないのに、たまたま自分がそのトピックについてそれなり知識を持っていたために、どうしてもそれについて発言しなければ気が済まない、というパターンは多いのではないだろうか。
もちろん、日常において、テーマを意識的に確定して会話するということは頻繁にあるものではない。それに、根幹から枝葉の問題へとスライドしていくのも、歓迎される場合は少なからずある。つまり「逸脱」がかならず「空気読めてない」という状態に転落するというわけではないということは断っておきたい。あくまで、「空気読めてないで症候群」にそういったタイプの症状が存在するというだけのことである。
3つ目は「自己中心型」だ。これは人格に問題がある。とにかく性格が悪いのだ。
たとえば自分の知識を自慢したいとか、無知を露呈するのが嫌とかいう「私情」に基づいて会話内容を方向付けるような症状を指す。その会話の場における「公共性」に対する配慮を欠いているわけである。「他人の話を聞く」「他人の気持ちを推し量る」といった態度が無く、一方的な発言に走りがちだ。
この症状は、発言者の「自尊心」に深く関わっていることが多い。
さて、「空気が読めていない」症状の3類型を見てきたわけだが、この分析された3つの症状に「予防」をなすことは可能なのだろうか?
「暴走型」については、ある程度は心がけによって防ぐことができるかもしれない。他の2つとちがって、暴走型は能力や性格の問題ではないからだ。とはいっても、初めに述べたように3つの類型はあくまでひとつの症状の3側面として現れてくるものだから、正確には「空気読めてないで症候群」の「暴走性」という1面を抑制することができるにすぎない。
あっさり言ってしまうと、結局こういった分析的な理解は、コミュニケーションの実践において「症状の把握」に少々役に立つかもしれないといった程度のものだ。5分前の会話を振り返って「舞い上がってなかったか?」「話題を不自然に変えなかったか?」「相手の気持ちを考えていたか?」と反省することはできるようになる。しかし、有効な予防法についてとなると、少なくとも私は何もいうことができない。
ただはっきり分かるのは、「空気読めてないで症候群」は「常識的感覚」によってのみ救済されうるものだということだ。「常識」というのは、「こういう場合にはこういうふうに振る舞えばいい」という、合理的に活用可能な知恵を指す場合もあるが、本当に大事なのは、体に感覚として染み付いている非合理な知恵としての「常識」だ。そう考えると、「空気を読む」という表現は不適切なのかもしれない。より正確には、「空気を感じる」と言うべきだ。
たとえば「同じネタについて喋りすぎ」かどうかという判断のために、「○○の話題について、△△という状況下では何分まで話していい」というような合理的な計算が可能だろうか?また、顔の特徴から「その相手に下ネタを振ってもいいかどうか」を判断するような法則が存在するだろうか?
そんなことはあり得ないのだ。あくまで常識的な“感覚”として、判断がなされるわけである。
で、この常識的感覚というのはどのようにして獲得されるかといえば、それは大方、会話の実践経験の積み重ねによってのみではないだろうか。きちんと幅広い相手との会話を幼いころから活発に繰り広げてきた人間は空気を読む能力に長けているのであり、狭い範囲での、あるいは不活発な会話しか経験してこなかった人間は、その能力を欠いているのである。そして後者の人間というのは、残念ながら、当分の間はウザがられ続ける運命にあるわけである。(一生かもしれない。)
もちろん会話への参加を極力減らせばウザがられる機会も減少するに違い無いが、そうすると経験値を積み重ねることができず、いつまでたっても慢性的に「空気が読めて無い」症状に悩まされ続けるしかないというジレンマがある。(本人は気付いておらず、従って悩みもしない場合が多いんだけど)
とにかく!!!!!!!!!
「常識が大事」という平凡きわまりない結論に落ち着くしかないのだ。しかし平凡きわまりないからといって、このことをすぐに忘れていいというわけではない。「常識」を強調しなければならないのは、そこに「自由」と「秩序」に関するひとつの真理が浮かび上がってくるからだ。
「自由」というのは、「秩序」というある種の「不自由」に結び付けられる必要があるのであり、両者の結節点にまさに「常識」が存在している。たとえば、教室のおしゃべりから国会の討論まで、人間の会話の場においては必ずある一定のルールが存在している。「会話の作法」というやつだ。この作法というのは、人間の発言の可能性に制限を加える性質のものであり、発言者に「不自由」を強いるものである。ところがこの「不自由」のタネであるはずの「作法」をしっかりと身につけている人間のほうが、作法を無視して喋りまくる人間よりも、多彩な人間関係を活発に展開することが可能になるのだ。つまり人付き合いの自由は、「会話の作法」という不自由を受け入れてはじめて発揮されるのである。
ここでいう「作法」というのは、敬語の使い方とか、他人の発言を無闇に遮らないとかいった単純なルールを指すのに留まらない。相手の口ぶりからその気持ちを的確に感じとって、こちらの態度をより適切なものに調節していくような「感覚」も含まれている。こういった感覚は、個人のみのものではなくて、会話の参加者にある程度共有されていてはじめて意味を持つ。それはつまり「常識的感覚」のことだ。
会話の場における常識的感覚としての作法を身につけていない人間は、嫌われ者になることが多い。というより、嫌われものというのは、こういった常識を身につけていない人間のことだ。嫌われ者には、もはや「人付き合いの自由」は与えられていないのである。
「自由」を手にするためには「不自由」を足がかりにしなければならないという逆説的な真理を理解しよう!
……いつの間に真理の話になっていたのかは全く不明だが(笑)、とにかく、人付きあいにおける常識をつねに意識し、自分がその路を踏み外してはいないかと不断に省みることが、(特に俺のような、常識の何たるかを弁えているとは言いがたい人間にとっては)できるだけ空気を読み誤ることなくマトモに生きるための最重要事なのだ!!
*1:空気読めてない状態というより、集団心理としての空気読み過ぎ状態についての批評。