The Midnight Seminar

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西部邁、佐伯啓思等『「危機」の思想』(NTT出版)

危機の思想

危機の思想


 Amazonにレビューアップしておきました。


 90年代から『発言者』(現『表現者』)という言論誌を発行し続けてきたグループによる震災論集です。世間に溢れているありきたりな論評からは距離を置いて、政治経済思想や文明論の文脈で「今回の震災に我々がどう向き合うべきか」を突き詰めて考えるといった趣きで、かつて朝まで生テレビ全盛期のレギュラーだった西部邁氏からTPP反対論で脚光を浴びている中野剛志氏まで、9人の論者が震災を「思想的」に論じています。


 たとえば柴山桂太氏は、シュペングラーの(歴史を、文明の春夏秋冬というサイクルとして描いたことで有名な)『西洋の没落』の再読を行ってる。古くはヘレニズム時代の地中海文明、そして近代では19世紀の欧米を中心とする世界は、「貨幣」と「貿易」によって世界が結ばれるグローバル金融経済であったが、シュペングラーによればこれこそまさに「文明の冬」の特徴であり、破綻に向けた末期症状であった。ヒト・モノ・カネが流動化し、「世界都市」が栄え始めると、地方や農村からは人口が流出してしまう。社会全体のバランスが崩れ、やがて文明の体力を維持できなくなって人口減少時代に入り、滅亡を迎えるわけです。
 そして現代日本における「東京一局集中」もまさに文明の「冬」の兆候なのであり、しかもその首都を近い将来大規模な直下型地震が襲うことがほぼ確実な日本は、文明史的にみてきわめて脆弱なポジションにいるということを柴山氏は指摘しています。


 東谷暁氏は、今回の地震の規模は明らかに従来の「想定」を超えるものであったにもかかわらず、それをあたかも想定できて当たり前であったかのようにみなして「人災」だということにし、東電叩きに明け暮れている世論を批判しています。しかも世論は、東電を叩くばかりでなく「我々の力では原発のような危険な技術は管理できない」という結論にまで一気に突き抜けて、「脱原発」を唱え出した。人間の理性の力を信じて自然を支配しようとしてきたのが近代の歴史だったわけですが、人々はその近代的な理性主義に心のどこかで違和感を持ち続けており、その違和感が今回の震災そして原発事故という危機に直面して一気に逆方向に爆発し、一転して人間理性に対する攻撃が始まっているわけです。これは病的な心理現象であるといわざるを得ない。


 藤井聡氏は「武士道」の精神を取り上げて、生死に関わるような事態がいつ起きても構わないように、平時から「危機」について考え抜いておく姿勢としての「覚悟」について考察しています。震災後の日本では、世論も言論も乱れに乱れて、人々は右往左往していますが、これは要するに、「技術」というものが本来さまざまな危険性を持ったものだという当たり前の事実に目をつぶって、その恩恵だけを享受してきたことのツケが回ってきたと言えるわけです。技術も含めて、この世は「危機」に満ちているのであり、「安全」なわけがないのだと深く認識しなければならない。その意味での「覚悟」がなければ、いざ事が起きたときにうろたえるばかりで冷静な判断ができなくなってしまうということです。


 中野剛志氏は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』というベストセラーを紹介しながら、災害のような危機が起きると、その混乱に乗じて、過激な自由化論者たちが机上の空論で「構造改革」の実験を提案し、社会やコミュニティを破壊してきたという歴史をおさらいしています。たとえばハリケーンに襲われたニューオーリンズ、津波に襲われたスリランカ、フォークランド紛争後のイギリス、NATO空爆後のユーゴスラヴィアなどで、構造改革論者や金融資本主義者たちが、「白紙に絵を描く」ようにして過激な自由化を押し進め、搾取の構造を作り上げてきた。
 そして今回の震災後の日本でも、構造改革論者たちが「どうせコミュニティは破壊されたのだから、これまで出来なかったような実験的な改革を『思い切って』やってみよう!」などという安易な復興論を掲げて世間の耳目を集めつつある。これがいかに非倫理的であるかというのが中野氏の指摘で、東北を彼らの机上論の実験場にしてはならず、まずは共同体の再興にこそ全力を注ぐべきであると強調されています。


 ……等々。新聞やインターネットの表面的な議論に満足することなく、思想的な深みのある考察に触れてみたいという読者にとっては、かなり必読度の高い評論集だと思います!