The Midnight Seminar

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中岡哲郎『人間と労働の未来——技術進歩は何をもたらすか』(中公新書、1970年)


 友人たちと定例的に開いている勉強会で、同じ著者(中岡哲郎氏)の『日本近代技術の形成』という本を最近読み、非常に面白かったので、40年以上前(1970年)に書かれた本書も読んでみました。本書のプロフィール欄でもWikipediaでも、著者は「技術史」の研究者ということになっていますが、むしろ「産業史」と言った方がいいんじゃないでしょうか。『日本近代技術の形成』も本書も、「技術」という単なる要素を扱っているというよりは、その技術の背景にある社会的・経済的環境や、その技術がビジネスに及ぼす影響などが広範囲にわたって論じられているからです。
 ちなみに、本書は1970年に出版されたものですが、当時中岡氏は既に42歳……。今も健在のようで、上記の『日本近代技術の形成』は2006年、氏が72歳のときに出版されたものです(20年の歳月を費やした研究の集大成らしい)。


 《技術と労働の関係》
 さて本書は、タイトルとサブタイトルからも推測されるように、技術の発達が人間の「労働」という営みをどう変容させ、我々の生き方にどんなインパクトを与えてきたのかを考察するものです。農業や手工業の世界で1人1人が職人のような働き方をしていた時代から、複雑な生産システムの中で工場の労働者や大企業の事務員として働く時代に変わって、得られたものと失われたものは何なのか。
 本書の序盤では、ケーススタディとして、京都のある菓子メーカーの「オートメーション化」の過程が克明に描写されます。饅頭やケーキを機械で大量生産するための技術導入の過程が解説されるとともに、この過程を通じて、「先生」と呼ばれていた熟練の職人の役割が変化していく様が考察されています。これは純粋に産業史としても面白いのですが、著者が言いたいのは、機械化によって生産性が著しく向上したものの、それは数十年かけて腕を磨いてきた菓子職人たちの技能が無意味化していくということでもあって、その過程でさまざまな人間的な葛藤が生じてきたということです。高度な技術によって高い効率が実現されたものの、それと引き換えに、「労働」のあり方が非常に「非人間的」なものになってきているのではないかというのが著者の問いです。
 本書は40年以上前に書かれた著作ではありますが、この問いかけは未だに現代的な意義を持っているように思えます。たとえば、アメリカで一昨年『Race Against the Machine』(邦訳:機械との競争)という本が出版されて少し話題になっていましたが、これは、IT革命によって恩恵を受ける人がいる一方で、従来のホワイトカラーの仕事のうち比較的単純な部分では人間を雇う必要がどんどん薄れていくし、ブルーカラーに関しても、たとえば物流倉庫のロボット化やサービス業における店舗オペレーションの自動化が進むことで、人間を雇用することの必要性が確実に低下していくだろうという話です。そしてすでに、企業の業績は伸びていても、雇用や賃金は減る一方であるという傾向が見られるようです。(たとえばこのグラフを見ると良いでしょう。アメリカのデータですが。)
 実際日本でも、事務作業のうちカンタンな部分はどんどん「派遣さん」や中国のBPO事業者などのものになってきていて、正社員の雇用が減少する圧力になってますよね。技術の恩恵というのは、「雇用」とか「労働」に与える影響に注目すると、すべての人間を幸せにしてはいない可能性があるのです。


 《労働の不熟練化》
 本書の中で、テイラーの「科学的管理法」が詳しく紹介されていますが、これは経営学の理論の中でも最も有名なもののひとつですね。テイラーは、作業を細分化してそのプロセスを分析し、いわゆる名人芸のような「工員の頭にだけ入っている技能」を科学的な方法で抽出し、それを標準化して「誰でもできるように」することを目指しました。そして、成果報酬型の賃金による動機付けと組み合わせることによって組織の生産性を大きく向上する手法として、脚光を浴びたわけです。機械化のようなハード面の技術に加え、組織を管理するソフト面の技術を洗練することで、産業界は効率を高め続けていきました。
 ところで、本書が書かれた1970年当時、最新技術の導入による「オートメーション化」は、労働というものを「より高級なもの」にしていくだろうという見解が主流だったようです。つまり、今まで人間が行っていた辛い作業を機械が代わりにやってくれるので、人間はもっとクリエイティブな仕事に専念できるようになるのであると。これはいまのIT時代にも言えることで、IT革命は人間の能力を「高める」方向に作用すると多くの人が考えていると思います。
 もちろんそういう面はありますが、実際にはそんな幸せなことだけが起きたわけではないというのが著者の議論のポイントで、たとえばオートメーション化というのは、複雑な労働を不要にし、生産性を向上する一方で、労働そのものの価値を下げる方向に作用したとも言えるのです。つまり、テクノロジーによって経営者や技術者は「これまでにない能率でモノを生産できる」ようになり、彼らの仕事は文字通り「高級化」したが、逆に労働者のほうは、自分の能力を機械に奪われてしまったという側面もかなり強い。
 大多数の労働者にとっては、「より高級なこと」ができるようになったというよりも、むしろ活躍の場から叩き出されたというのに近いわけです。高度成長の中で「オートメーション化」がもてはやされていた頃、将来は機械の「保守・点検」が高度な熟練労働として必要になると予想されていたらしいですが、実際には、人間の手による保守・点検の必要性は年々低下していきました。
 昔は経験を積んだ職人にしか任せられなかった仕事が、バイトの兄ちゃんでもできるようになっていけば、労働や「熟練」の価値は低下していきます。テイラーの科学的管理法もまさに、名人にしかできないことを誰でもできるようにするところに力点が置かれていたのでした。「熟練の解体」は、資本家と経営者にとっては利益に直結するものですが、労働者にとっては必ずしもそうではないのです。
 「ニューエコノミー」と呼ばれる現代の経済においては、一部のクリエイティブな層とその他の単純事務労働者へと待遇が二極化していくだろうという議論がありますが、まさにそれのことですね。


 《労働の不熟練化による不幸》
 この、技術の進歩が「人々をより高度な熟練労働へと導いていく」のか、それとも「熟練労働を非熟練労働化していく」だけなのかという論点は、非常に重要だと思います。実際にはこの両方が起きているはずですが、どちらのインパクトをどれだけ重視するかとなると色々議論が必要です。新たなテクノロジーが登場する時には、たいてい前者のイメージでそれが称揚されるものです。しかし著者は、歴史をみると後者の「非熟練化」が進行してきた事実を軽視することはできないと言います。じつは大多数の人にとって、「労働の意味」を貧しくする変化が起きたのであり、労働者の地位を押し下げてきたのかも知れない、と。
 労働の不熟練化が進行したのだとして、その何が問題なのか。
 まず一番わかりやすいのは、機械を操作するだけで何かができてしまうことによって、労働は「退屈」なものになり、モノを作ることの面白みや喜びが消えていきました。これだけだとセンチメンタルな郷愁に過ぎないとも言えますが、他にも様々な問題が生じています。
 たとえば、かつては「手に職を付けること」は、その職業を構成している人的ネットワークに参入して人付き合いを学ぶこととと一体であったが、機械化された生産現場においては人と人と結びあわせるのはベルトコンベアに象徴される機械的なプロセスであり、そこでは社会性が失われてしまっている。戦後に行われたある調査では、ホワイトカラーの職場に電子計算機が導入されて生じた最大の変化は「机から机への移動と打合せ」だったそうです。個人デスクに張り付いた働き方が定着し、ここでも社会性が低下しているわけです。
 また、技術の発達に伴って業務が細分化されていくので、末端の労働者になればなるほど、その仕事の「全体」が見えなくなります。全体像が見えないということは、すなわち自分のやっている労働の「意味」が分からないということでもあり、働くことの意味が希薄化していくことにほかならない。それを埋め合わせるようにして「余暇」の充実が叫ばれるようになったりしたわけですが。
 さらに最も重要な変化として、機械を所有しそれを使いこなす立場の人間(資本家と経営者)と、その機械の稼動を補助するだけの立場の人間(労働者)とに二極化していき、これが経済的な意味での「格差」を生み出すとともに、権力的な意味での「支配者」と「被支配者」を生み出してしまいます。


 《疎外の問題》
 この最後のポイントはもちろんマルクス主義風のアイディアであって、実際本書ではマルクスの著作が何度も引用されており、労働者が自分の能力を機械に奪われるということの意味が、マルクスの思想をベースに解釈されていきます。ただし著者はガチのマルクス信奉者という感じではありません。(マルクスの思想は、間違いも多いし過激な運動の精神的支柱にもなっていましたが、実際読んでみれば案外参考になる議論も多いです。)
 労働力というのは、もともとは対象としての自然に働きかけて変化を起こす能力のことですが、手で扱える道具の時代が過ぎて機械化の時代になると、この労働者の能力が「外化」されて機械に乗り移っていく過程が急速に進展します。その結果、労働という営みは、機械に従属しながら単純作業をこなすだけの付随的なものになっていき、労働者はモノを作る喜びから「疎外」される。そして、機械を保有しているのは資本家であることを考えると、モノを生産する能力が人間から機械へ乗り移っていくということは、すなわち権力が労働者から資本家へ乗り移っていくということでもある。
 この変化は、資本家、経営者、そして高度な技術者のように、機械による生産をコントロールする立場の人間からすれば面白くて仕方のない変化です。しかし逆に機械によってコントロールされる立場に追いやられる大多数の労働者にとっては、「働くこと」の意味を剥奪されていく過程であり、望ましくはない。そして何より、支配・被支配の関係を生み出して社会が分断されてしまう。
 したがって我々は、「生産性の向上」と両立する形で「人間的な労働」を取り戻し、「対等な立場」ですべての労働者が生産に参加するような経済を築いていかなければならないというのが著者の主張です。
 これらは、60年代から70年代という、まだ社会主義が一つの理想として輝きを放っていた頃の時代性がかなり感じられる議論ですが(著者の筆致からはマルクスの“権威”をひしひしと感じます)、よくよく考えるとけっこう本質的な問いを投げかけていて、今読んでもそんなに時代錯誤的には思えません。というか、「ワーキングプア」とか「格差社会」論が2000年代に話題になったことと重ね合わせると、基本的には同じ問題が繰り返し問われているだけという気もします。


 《歴史を振り返る》
 「技術と労働」の関係を、250年ぐらいのスパンで振り返ってみると、本書の問いが、一時代的なものというよりはむしろ「近代産業」に伴う本質的な課題としてまだ未解決のまま残されているものだという気がしてきます。私はこういうテーマに関心を持ったばかりで、まだ勉強も考察も足りず上手く整理できてないのですが、ひとまずテキトーに流れを書いてみると以下のような感じでしょうか。
 産業革命の初期である18世紀には、紡績などの機械が登場したことへの反応として、「おれたちの仕事が奪われる!」と恐れた職人たちが工場の機械を打ち壊しす「ラッダイト運動」というものがありました。これが「機械との競争」の始まりですね。
 そして19世紀半ばになると、マルクスエンゲルスが出てきて激烈な運動を展開したことからも分かるように、資本家の支配の下で少年少女を含む工場労働者たちが悲惨な環境でこき使われるようになり、「工場法」の制定など労働者の権利を守るための制度が徐々にできていくわけです(ちなみに日本で工場法ができたのは1911年)。
 で、20世紀初頭には、フォードの大量生産方式に見られるように機械化が一層進んでいきますが、この時代にもたとえばチャップリンの「モダンタイムス」で描かれているように、工場労働の非人間性が指摘されたりします。世界恐慌による失業問題と合わせて、労働者の悲劇が注目を集めたわけです。
 そして大戦後は、世界的な高度成長のなかで農業から工業へ、そして工業からサービス業という労働人口のシフトが加速するとともに、ホワイトカラーのサラリーマンが労働者の典型な姿となっていきます。そして電子計算機が登場して労働のスタイルがどんどん変わっていく。
 90年代ぐらいからは、先進国から途上国への生産拠点の移転や移民労働者の流入、そしてIT化の進展によって、先進国の正社員ホワイトカラー労働者に求められるものは減っていき、待遇も悪化の一途を辿っている。IT革命により「頭脳労働」がコンピュータに奪われていく現象を「ネオ・ラッダイト」と呼んでいる人もいます。
 ……という感じでしょうか。
 また、これらと並行して、女性が労働の担い手として進出してきたことも重要でしょう。下位層においては、機械化が女性の体力でも工業製品を生産することを可能にしたし、上位層においては、サービス産業や情報産業が発達したことで、クリエイティビティなどの面で男性には何の優位性もなくなってきたわけです。


 《まとめ》
 本書の議論には、左翼風の労働運動が盛んだった時代の空気が色濃く反映されており、「今さら」感もありますし、そもそも近代化以前の労働だってべつにそんな楽しいものではなく、大多数の人にとっては「人間的な労働」なんてもともと夢物語に過ぎなかったんじゃないかという疑問もあります。
 しかし、著者が近代産業の歴史を、「技術の進歩」「生産力の発展」「労働の不熟練化」の3つが同時並行的に進行する過程として総括しているのは、大いに参考になります。「人間的な労働」や「対等な関係」を追求するというマルクス主義的なビジョンがどこまで妥当かは措いていくとして、この歴史観自体は間違っていないでしょう。
 技術の力で生産量は増大したが、それと並行して労働者の誇るべき能力つまり「熟練」が機械に奪われ、「疎外」という言葉に集約される人間的な葛藤を生み出してきた。そして、「機械を道具として使える人間」(資本家・経営者・高度技術者)と、「道具としての機械に仕える人間」(労働者)の両極へと社会が分裂していった。これが、近代産業250年の歴史だったというわけです(まぁこれからちょっと、データとか実証研究系の資料をきちんと見ないといけないと思ってますが)。
 技術はもちろん生活を豊かにしたし、生産現場の労働条件も19世紀に比べれば格段に改善されました。かつては9歳ぐらいから工場に就職して、資本家にこき使われて16時間とか働きながら、40歳手前で死んでしまうような労働者がたくさんいたわけですから。しかし労働者と資本家の間の不平等は縮小してはいないし、大多数の人々は技術の恩恵を消費者として受動的に享受しているだけであり、生産の現場においても機械とシステムの秩序を受動的に受け入れているだけで、主体的に「対象にいどんでいく」ような、「人間を成長させる」ような労働の機会は与えられていないという哲学的・倫理的な課題もある。
 冒頭に挙げた『機械との競争』という本は、そういう思想的な問題よりは、もっと物質的な問題として「雇用の減少」を議論するものでした。私も大量(万単位)の現場労働者を抱える企業で働いているので、機械化やIT化が雇用に与えるネガティブなインパクトというのは他人事ではなく真剣に考えなければならない立場なのですが、まだ我々の手元には明確な解決策はないと考えたほうがいいんでしょう。しかし、いくつか解決の方向性を分類することはできる気がします。
 『機械との競争』の著者たちは、基本的にはイノベーションを続けていけば新たな産業が生み出され、みんなもっと幸せになるはずだという楽観的な立場で書かれています。しかし、同じテーマについてたとえば経済学者のクルーグマンは、熟練を機械に奪われた下層労働者には「セーフティネット」を用意するしかない、つまり再分配によって支えていくしかないというようなことを言っています(この記事)。また、同じく経済学者のスティグリッツは、この記事で「さらに失業者を増加させることにつながる、労働力を省くイノベーションを追求していていいのか」と述べていて、これは(明示的ではありませんが)雇用を増やす方向のイノベーションを促すような政策的誘導が必要であると言っているようにも取れます。
 たぶんこの3つぐらいの方向性——「楽観主義的に放置」「セーフティネットを用意」「イノベーションの方向を制御」——を基本的な選択肢として、様々な議論が行われなければならないんでしょう。しかしなかなか簡単な回答は出ないように思えます。
 本書が指摘している「疎外」や「格差」のような問題について、簡単な解決策が存在しないことは著者も認めています。しかし、技術が持っている上記のような本質的な傾向を、歴史を見ることを通じて正確に理解し、常に批判的な目で技術と労働の関係を眺めていなければならない。さもないと、「疎外」や「不平等」が拡大されるばかりで、大多数の人々にとって幸せな結果にはならないだろうというのが著者の結論です。


 【本書に出てくるその他の論点】

  • 新技術が登場すると、必ずあれこれの「可能性」について予測が行われる。しかしそうした未来予想が当たった試しはない——軍事技術を除いては。「技術」と「可能性」の間には、常に「経済」「社会」といった要因があって、技術から直接的に連想される方向に発展するというよりは、最も採算が取れる方向に発展が偏っていくものである。そして社会的な要因は保守的に作用するので、基本的な生活スタイルを大きく変えるような方向に技術が作用することは少ない。軍事においては「採算」が度外視されるので、未来予想が当たりやすい。
  • テイラー主義を、労働を非人間化するものとして弾劾するような訴訟が起きたりしたこともあり、実際テイラーが法廷に立たされている。興味深いのは、テイラーが科学的管理法を主張したばかりのころではなく、その手法が相当程度普及して、科学的分析と割増賃金による動機付けシステムが一般化して始めて、「人間は賃金のためだけに働いているのではない」といった主張が浮上してきたこと。
  • IBMは1940年代前半に、「Job Enlargement」という実験を行っていた。これは、大量生産システムのなかで分業が進み、労働者が単能工化し、仕事が単純作業の繰り返しになってしまったことに問題を感じて、1人の労働者が担当する業務範囲を拡大する(たとえばパーツの取り付けとその調整を1人でやるなど)ことで、労働の豊かさを取り戻そうとしたもので、実際に職務の範囲を拡張することで能率が上昇する効果が見られた。
  • 第4章は「システムの時代の労働」と題されており、当時の電子計算機の浸透が及ぼす影響が議論されている。40年以上前の著作なので、現代のインターネット時代とは全く異なる環境ではあるが、紙と人間の手で行っていたプロセスが電子化されるという意味では今以上に変化が大きかったかもしれず、今読んでもけっこう面白い。プログラマーの仕事というのが、現代で最も退屈かつ過酷な労働であるとされており、それが「最先端」「花形」といった虚名で彩られていると著者は指摘しているが、これは現代のIT・Web業界にも当てはまる面があるかもしれない。また、「プレイング・マネジャー」という言葉が登場してきたが、これは技術の発達によって管理業務の必要性が低下したために、かつてであれば管理業務に徹していたはずの立場の人たちが担当者に格下げされただけだ、みたいなことも指摘されていて、他人事とは思えない。