家の本棚を眺めていたらたまたま目にとまって、なんか今回の震災と関係ありそうなところはあるかな〜と思ってざっと読み直してみた。情報が古いけど、ネットニュースやツイッターをみてるよりは古典的な文献を掘り返したほうが楽しい場合も往々にしてあるような気がします。
- 作者: ドネラ H.メドウズ
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 1972/05
- メディア: 単行本
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ローマクラブがMITに研究を委託して1972年に出した報告書『成長の限界』は、中学校の社会科の教科書にもふつうに載っているほどで、ほとんど説明する必要がないぐらい有名なものだ。その主張は要するに、人口と工業資本がこのまま成長し続けると、食糧やエネルギーその他の資源の不足と環境汚染の深刻化によって、2100年までに破局を迎えるので、成長を自主的に抑制して「均衡」を目指さないとヤバいですよというもの。
少し詳しく要約すると次のようになる。
《世界システムのシミュレーション》
人口と工業資本の成長には「正のフィードバックループ」が存在するので、それ自体は放っておくと「幾何級数(等比級数)」的に、つまり倍々ゲームで増え続ける。ところが、その成長を制約する負のフィードバックループも存在して、食糧の不足、エネルギーや金属などの天然資源の枯渇、そして環境汚染は、日増しに深刻化している。
この2つのフィードバックループを前提として、システム・ダイナミクスと呼ばれる手法で世界システムのモデリングを行い、人類の文明が今後成長を続けていけるのかどうかをコンピュータでシミュレーションしてみたのが本レポートだ。
そしたらどうなったのか?
負のフィードバックループが存在することと、そもそも地球上の資源は有限であることから、人口と資本の成長は無限には続かない。そりゃそうだ。*1
ただし、負のフィードバックループは、正のフィードバックループよりも遅れて作用するので、均衡状態はなかなかもたらされない。たとえば人間が増えすぎたから出生率を制限しようと思っても、その効果は1世代、2世代、3世代と経て始めて実効あるものとなるし、「環境汚染」の影響は長い時間を経ないと現れないからだ。「制約」はつねに「成長」の後追いで現れるというわけ。なので、人類文明をこのまま放っておくと、
(1) 勢いよく成長しまくる。
(2) 負のフィードバックループによる制約が間に合わず、一時的に地球のキャパを超えて「成長の行き過ぎ」が生じる。
(3) 負のフィードバックループが本格的に作用し、破局的な痛みを伴って成長が一気に止まる。
という道を辿るであろうというのがそのシミュレーション結果だ。そして、仮定を色々変えてみて、悲観シナリオから楽観シナリオまで何パターンかシミュレーションしてみても、「成長の限界」は遅くとも2100年までには訪れると報告書は主張する。
《分析の限界》
よく、「70年代に『成長の限界』とか言ってたが、あれから40年たっても石油埋蔵量は枯渇する気配がないじゃないか。『成長の限界』論はオオカミ少年みたいなもんだ」と言われるし、私も学生時代に本書を読むまではそんな気がしてたのだが、ローマクラブのレポートそのものは、自分たちが行うのは「予測」ではないことをしつこく強調している。彼らは、世界システムの「全体的な傾向」に関する初歩的な構造分析をやりたいだけであり、いつの時点で、どのレベルで破局を迎えるかといった「予測」は不可能であると断っているし、モデルが極めて単純であることや、予測するだけの情報が不足していることも認めている。
しかし大雑把に言って、「成長が無限に続くことはないだろう」ということと、「技術の進歩や新資源の発見などを最大限楽観的に見込んでも、2100年までに成長が止まる」というぐらいのイメージは持っても良いだろうというのが彼らの主張だ。「技術の進歩を軽視している」「石油はもっと掘れば出てくる」といった批判はもともと織り込み済みであるし、感情的に悲観論を唱えているわけではない。*2
要するに「長期的、世界的な問題に関するわれわれの観念モデルを改善しようとする、暫定的な試みにほかならない」(8頁)というわけであり、「ひたすら成長」という観念モデルを捨てて、「成長はどこかで終わる」という観念モデルに置き換えようというだけの話だ。
で、結果的に、「資源の制約」や「環境の汚染」が深刻な問題であるということは、我々がモノを考える上ですでに一種の常識として定着しているのだから、彼らの試みは少なくとも先進国においては成功したといって差し支えないだろう。
《均衡状態へ》
じゃあ人類はどうすべきなのかというと、本レポートの主張は簡単だ。「成長」に関する選択肢は、
(1) 際限なき成長を目指す。
(2) 自主的に成長を抑制する。
(3) 自然に成長が止まるのを待つ。
という3通りが考えられるが、(1)は本レポートのシミュレーション結果からしても、そして常識的にも「不可能」であることが分かる。また(3)は可能だが、自然に成長が止まるまで放置すると、最終段階でかなり破局的な痛みを伴うことになるので、オススメできない。なので、結局(2)の路線を選択せざるを得ないというのが結論である。
なので、本レポートの後半では、世界経済の「均衡状態」についての考察が行われている。経済思想史的にいうと、本レポートの前半はマルサスの『人口論』の発想に基づく現状分析、後半はJ・S・ミルの「定常状態」論の発想に基づく将来プランだと思えば良い。
なお、そこで「均衡状態」とか「定常状態」とか言われているのは、「人口」と「工業資本」を一定以上増やさないという限定された意味であって、人間のあらゆる活動の進歩を止めろという話ではない点が強調される。
《学ぶべき点はあるのか》
本書を読み返してみて、気になった論点や、思いついたことを以下にいくつか挙げてみる。
第1に、「天然資源の埋蔵量」や「食糧生産」については、ある種の情報があれば限界を見積もることが不可能ではないが、「環境汚染」についてはその上限がどの辺にあるのかが全く分かってないという点を、本レポートが強調している点である。そもそも汚染に関する情報が不足しているということと、汚染(たとえば放射性廃棄物の蓄積)の影響は時間的に遅れて現れるということと、生態系への影響は複雑すぎて計算しづらいということがその理由だ。
「現在の知識で最も欠けているのはモデルの汚染セクターに関する知識である」(166頁)
「汚染を吸収する地球の能力の限界がわかってないということは、汚染物質の放出に対して慎重でなければならないことの十分な理由となるであろう」(66頁)
しかも、環境汚染には「時間的遅れ」があるので、気付いたときにはもう手遅れ、といったこともあり得るので最も危険だと主張されている。
今の原発事故による放射能汚染問題についても、危険だ安全だと様々な議論があるが、「まだよく分かってないことは何なのか」にきちんと注目しておくことも大事だろう。
第2に、平凡だけど意外に大事かもしれないと思ったのは、「成長を抑制する」という試みについて人類はいまだかつて本気で検討したことが一度も無いという指摘だ。
「そのような(成長の正のフィードバックループを弱めるような)解決策は、近代社会のどこでも、ほとんど正当と認められることはなかったし、またおそらく有効に行われたこともなかった」(141頁)
「そのような政策はこれまでに試みられなかったし、まじめに提案されたことさえなかった」(152頁)
「成長の抑制策」というのは、非現実的なのではなくて、単にまだ「まじめに提案した人がいない」だけという可能性はたぶんあるだろう。『成長の限界』レポートが発表されてから40年経っていて、その間にどんな提案が行われ、行われなかったのかはよく知らないけど、案外状況は変わってないのかも知れない。
実際に、例えば中野剛志氏が主導して経済産業省のプロジェクトチームがまとめた『成長なき時代の「国家」を構想する』(ナカニシヤ出版)の中でも、40年前の『成長の限界』はそれなりに話題性を持ったものの、じつは当時はまだ世界経済が成長局面にあったので、「成長」以外の選択肢をまじめに検討する必要がそもそもなかったと指摘している。
成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン―
- 作者: 中野剛志,佐藤方宣,柴山桂太,施光恒,五野井郁夫,安高啓朗,松永和夫,松永明,久米功一,安藤馨,浦山聖子,大屋雄裕,谷口功一,河野有理,黒籔誠,山中優,萱野稔人
- 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
- 発売日: 2010/12/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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第3に、本レポートの提言が、成長の抑制を考える際に、「人口」と「工業資本」に目標を絞っている点だ。「人類の危機」とかいう副題がつくような壮大なテーマのレポートなので、あれこれ提言しだしたらキリがないわけだけど、とりあえず議論を単純化して2つの指標だけ見とけばいいんだと*3。
エネルギー政策はこうすべしとか、環境保護はこうあるべしといった、地球を守るための提言は色々あり得て、それはそれで議論や試行錯誤をどんどん繰り返せば良い。しかしとりあえず、人口がある程度以上増えず、工業資本がある程度以上拡大しなければ、文明の持続可能性に深刻な影響はないはずなんだから、そっちに基本的な意識を集中しろとうのは、分からんでもない。
言い換えると、放射能は危険だと言って原発反対運動をやるよりも、「自粛」をしたほうが確実に安全ってことですなw
まぁ、天災とか疫病に立ち向かうためには技術力が必要で、工業の発展を抑制することのデメリットもあると思うけど。
第4に、「道徳的資源」とかいう言葉が出てきたところだ。「成長」路線を放棄するということは、もはや「トリクルダウン」論、つまり先進国が成長しまくることで途上国にも恩恵が降り注ぐという説を、完全に放棄せざるをえないということを本レポートは主張している。要するに、「成長」に訴えることをやめるので、今に比べて「成長」や「進歩」よりも「分配」が極端に重要になってくるわけである。
「定常状態は、環境的資源に対する要求を少なくするが、われわれの道徳的資源に対する要求を増すであろう。」(164頁)
「もちろん、人間の道徳的資源が、均衡状態においてすら、所得分配の問題を解くのに十分であるという保証はない。」(同)
十分でなかったらヤバいわけだが……。
「道徳的資源」とかいうものを考え出すと、「政治的資源」とか「社会的資源」とかいうことにも思いが到って、実はこれら人類の「精神的な資源は」不足していて、「成長の抑制」なんて達成できないかも……という仮説も考えざるを得ない。実際、省エネやロハスや自粛は、1億人そこそこの日本で仮に可能であったとしても、70億人規模で実行できるほど人類は精神的に大人でないという可能性は大いにある。
第5に、成長率をコントロールするとかいうのがどこまで現実的なのか、一切示されていないという点を忘れるわけにはいかない。当たり前の話だが。
技術や文化の変化には不確実性があって、何が起きるか普通の人間には予測ができないのに、そもそも成長率をコントロールすることなんて可能なんだろうか。技術が複雑化しただけでなく、グローバル化で社会関係自体が複雑化しているので、もはやワケワカメってことで、すでに打ち手は無いのかも知れない。社会学者のウルリヒ・ベックが『危険社会』という本の中で論じてるのも、技術がめちゃくちゃ高度化した結果として、
・ 一般民衆 → 何も分からん。
・ 政治家たち → 判断する責任があるし、分かったふりしてるけど、実は何も分かってない。
・ 技術者たち → ある程度分かっていて判断の権限を事実上握ってるけど、内部で見解の相違がある。
という感じになってるということであり、要するにこれから何が起きるか誰にもわからんレベルにまで、世界は複雑化しているという話である。福島の原発事故についても、あれは技術が複雑だったというよりはあまりにも大きな津波が来過ぎたという感じだろうけど、東電とかの責任を追及する前に、我々の目の前に広がる絶望的な「不確実性」を直視しろってことだ。
原始時代の方向へ退歩して社会全体の複雑性を下げる以外に、「コントロール」の可能性はじつは無いのかもしれないし、原始時代から社会も世界も今と同じ程度に不確実だったのかも知れない。
とまぁ色々考えると、本レポートから画期的なアイディアが出てくるわけではないものの*4、一つの時代のパラダイムを作ったことは間違いないと思うので、「基本文献」として斜め読みするぐらいの価値はあるかなと思います。
震災後、「自粛なんておかしい!」と色んな人が叫んでいて、実際には自粛してる人や店なんてほとんど(私の生活圏内では)見当たらなかったわけだけど、じつは40年前に「人類、自粛しろ!」と求めたレポートがあったのであり、その方法がいまだよく分かっていないという点は押さえておいてもいいのかなと。
- 作者: ウルリヒベック,Ulrich Beck,東廉,伊藤美登里
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1998/10
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T.R.マルサス『人口論』(中公文庫) - The Midnight Seminar
- 作者: マルサス,永井義雄
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1973/09/10
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