長年にわたり日記をつけていた山田風太郎が、自分の子供(佳織さん・知樹さん)の出てくる場面だけを抜粋して長女の佳織さんが結婚するときにプレゼントしたのを、書籍化したものです。冒頭にはこうある。
これ父の眼より見たる佳織知樹の、彼らにも混沌たる幼年時代の記録なり。
ほとんど拱手傍観していたる父の眼にすら、かくのごとき景あり、終始一貫して傍にありその世話をせる母にもし筆あらばその記録はこれに数万倍するものあらん。
全体的にめちゃめちゃおもしろいのですが、一部抜粋しておきます。
わかりやすいように、子供が何歳だったのかも付記しておきます。
啓子は奥さん。
【昭和29/10/20──佳織0歳】
朝また区役所にゆく。出生届けのためなり。ところが「悠子」という名は当用漢字にあらずとてしりぞけらる。いつ何処がそんなことをきめたものなりや。当用漢字表などわが家になし。千字か二千字の当用漢字中、名前につけ得る字はまたはるかに制限せらる。実にふとどき千万なる役人どもなりと思えども、いまのところ如何ともしがたし。
そこで係の役人に「当用漢字表を貸してくれ、ここで決めるから」というと、係の禿頭「大丈夫ですか、おひとりでお決めになって大丈夫ですか」という。オヤジが決めるのだから大丈夫だ、といって、ユウのあたりを見ているとヨウの部分に葉があり、葉子とす。しかるに禿頭また「あたしなんかひとりで決めたりなどすればえらいことになります」という。こっちもだんだんこわくなり、じゃもういちど相談して見ることにしようと家に戻る。
【昭和30/8/4──佳織1歳】
佳織、いつにまにやら這うに両腕を交互にふるって前進するようになる。今までは両腕を同時につきて前進せるなり。なかなか快速なり。
【昭和30/8/24──佳織1歳】
夕、佳織わが食卓の前にあり、啓子にサツマ芋をもらう。そのうち何か妙な顔をしてるので見ると口のはたに何かくっつけている。余は芋かと思いいたりしがどうも変なればよくよく見るに、これ糞なり。佳織は自分がたれたる糞をくいいたるなり。
【昭和31/6/7──佳織2歳】
佳織、昨夜半、蒲団の中で糞をたれる。けさより下痢。水様にして頻回なり。熱あるがごとし。
あまり尻を拭かれるのでヒリヒリするらしく、「イタイネー、イタイネー」と泣く。「アーイテー、アーイテー」とも泣く。気の毒でもあるが、笑わざるを得ない。医者につれてゆく。
【昭和32/7/21──佳織3歳、知樹0歳】
子供の名、苦心惨憺。当用漢字にあって、字がきれいで、意味があって、発音がよくて、ほかに例がなくて、しかもあんまりヒネリ過ぎないものとなると困惑せざるを得ない。
「知樹」とす。
さてこの子の生涯の運命やいかに。
【昭和32/9/4──佳織3歳、知樹0歳】
夕食後、寝ていたら、佳織来て「パパ......ビョーキしないでね」という。ウンウンといってやる。
むろん正気ではない。向うは何か空想裡にあるのである。テレビか何かの再現であろう。余の頭をなで、駆け去り、またやって来て同じことをくり返す。何十ぺんもくり返す。その手つきに、女性が幼少時より持つ特有の母性を感ず。
そのうち、眠いので、面倒くさくなり、
「もう死んだヨ」
といったら、
「オー、可哀そうに」
といった。
【昭和32/12/5──佳織3歳、知樹0歳】
余、放屁す。「だあれ?」と啓子がいうから「佳織だ」といった。すると佳織「オトーシャンよ、カオリちがうよ」という。「いや、佳織だよ」
と余いい、啓子もわざと「佳織いけません」といった。佳織ムッとしたような顔で、バタバタと隣の八帖に去り、アアン、アアンと悲しそうに泣き出す。弁明の法がないからである。やがて静かになったのでいってみると泣寝入りしていた。
【昭和36/2/1──佳織7歳、知樹4歳】
知樹、炬燵の上の台にクレヨンで何やら書きなぐっている。炬燵の反対側で佳織は坐ってテレビの漫画を熱心に見ている。知樹は全面書きおえて、いきなり台を手前からひっくり返す。反対側に書くつもりだったのだろう。
ひっくり返された台は、佳織の頭にぶつかる。佳織飛びあがり、泣きながら知樹に飛びかかり、ピシャピシャとあたまを叩く。こんどは知樹がワンワン泣きながら、
「カオリちゃんの顔かいてやるヨーだ。ボロッチー顔かいてやるヨーだ」
といってクレヨンをふりまわす。
それから台所へいって、漬物などが置いてある揚げ蓋をはねのけて佳織が落ちるのを待っている。そのうち待ちくたびれて、忘れてしまって、自分が落ちてしまう。
【昭和36/10/18──佳織7歳、知樹4歳】
ひる薪を切っていたら知樹来て、「ボクにも切らせてくれよ」(発音通り)という。
「お前には切れないヨ」
と、いったら、
「切れるとも、切れるともさ!」
といった。こういう言葉を後年になって読んでも可笑しくはなかろう。余の腰あたりで
四つの子供がいうから可笑しいのである。
【昭和36/12/23──佳織7歳、知樹4歳】
子供というものは、存在するだけで親はその報酬を受けている。テーブルの向うに小さな赤い顔をならべて飯をくっている風景、午後になると佳織は学校から、夕方になると知樹は外から「タダイマー」と声はりあげて帰って来る声、それで充分である。
【昭和38/12/17──佳織9歳、知樹6歳】
佳織、学校からもらって来た試験の答案を見せる。いいので八十点台、ふつう六十点、七十点、ひどいのは三十何点というのがある。余の小学校時代の一番悪いやつが、佳織の場合、一番いい。
啓子に叱られたとみえて「お母さん、カオリ頭がわるいっていうの。カオリ頭わるくないのに」といって泣く。可憐なり。
あとで啓子を「佳織に頭が悪いといっちゃいかん」と叱る。子供というものは、どうもお盆に水を入れてそっと運んでいるような気がする。こう書くと恐ろしく子供に甘いようだが、別にそれほどでもない。
【昭和38/12/21──佳織9歳、知樹6歳】
佳織と知樹が、クリスマスにお母さんにプレゼントするといっている。佳織は粘土で作った素焼きのチャワンだそうだ。知樹はチョキンから出すといっている。
「あんまり高いのはダメだ。百円くらいだよ」
といっている。二人とも大まじめである。
【昭和41/12/29──佳織12歳、知樹9歳】
知樹を抱いていると、啓子「知樹の顔はお父さんより大きい」という。うっかり「この大頭に、ずいぶんソシツの悪い脳ミソがつまっているんだ」といったら、
「俺のアタマ悪いのはおまえのせいだゾーッ」
と泣声をあげて、死物狂いの声を出して怒った。悪いことをした。