The Midnight Seminar

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井上雅人『洋服と日本人――国民服というモード』

洋服と日本人―国民服というモード (広済堂ライブラリー)

洋服と日本人―国民服というモード (広済堂ライブラリー)


 別のところに昔アップしていたレビューをコピーします。
 著者は、東大→文化服装学院→東大大学院という経歴を持つ社会学者である。
 本書は、著者が戦前の「国民服」について研究した修士論文が元になっている。「国民服」というトピック自体はマイナーだが、著者の問いかけはあくまで、「流行」や「着ること」の本質へと向けられている。服装文化論としても、日本人論としても、そして歴史的資料としても読みごたえのある一冊だ。


 「国民服」と言うと、ともすれば戦時中に政府によって着用を強制された「国民の制服」であるかのようにイメージされがちだが、それは間違いだ。「国民服令」という法律を政府が制定して、「国民服」のデザインが公的に決められ、それを普段着とすることが奨励されたのはたしかである。しかし着用の義務はなかったし、女子の国民服に当たる「婦人標準服」に関しては、そのデザインすらも漠然としか規定されていなかった。
 じつは「国民服令」が制定されたにもかかわらず、当初まったく国民の間に広まらなかったため、政府はあわてて国民服の宣伝・普及運動を始めなければならなかったぐらいなのだ。そりゃ、こんなもの(↓)が普段着として流行るほうがどうかしている。


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 http://www13.ocn.ne.jp/~seiroku/kokumin5.jpg


 しかしこの国民服が、政府の強制によらずとも、昭和19年ごろには爆発的に普及・流行して、街を歩く男性の着衣は「国民服」一色となった。それこそ「国民の制服」といった様相を示していたのである。
 この「国民服」をめぐる不思議な社会現象をつうじて、「着ることの自由」とは何なのかを問う、それが本書の目的だ。


 国民服の制定と流行が歴史的な出来事として面白いのは、そこに、(1)軍服の民間貯蔵と資源の節約を目指す「軍事的な要請」、(2)衛生的で合理的な衣生活の実現を目指す「生活改善運動」、(3)「洋服 vs 和服」の葛藤の乗り超えを目指す「デザイン運動」という3つの契機が交わっているからだ。
 上にURLを貼った写真を見れば、「この軍服めいた衣装のどこに『デザイン運動』などが入り込んでいるのか?」と疑問に思うのがふつうだろう。たしかに結果として、「新たな日本服」を目指したデザイン運動は、国民服のデザインにはまったく反映されていないと言っていい。国民服制定の主導権を最終的に陸軍が握ってしまい、しかも戦局が急速に悪化していったためだ。
 しかし国民服の制定にいたる長いプロセスのなかでは、じつは軍人、政治家、役人、文学者、デザイナー等々の各界のリーダーたちが、雑誌や会議を通じて、「日本人の服装はいかにあるべきか」について盛んに議論していたのである。


 そんな議論が戦時中に活発に行われたのは、明治以来の「洋装化」の流れの中で日本人が、「合理的だが外国の文化に過ぎない洋服」と、「日本固有の文化だがあまりに非合理的な和服」のあいだで、どちらを取るかという葛藤に苛まれてきたからだ。
 国民服の制定に最初から関わっていた厚生省代表の武島一義は、「現在のやうに外国の借着をして居ったのでは、白人の植民地のやうな感じを与えるし、又、和服では如何にも非能率的であり、非活動的である」から、「新しい日本服が生まれる」方向へ進むよう仕向けるべきであり、「新日本服は少なくとも、現在の各文明諸国の被服の水準を抜くやうな立派なもの」でなければならないと言っている(p.92)。
 国民服制定のモチベーションは、だいたい、この発言に集約されていると言っていいだろう。オメデタイ人たちだと言いたくもなるが、当時の日本人にとってはこれが切実な問題だったのである。


 当時の日本人の服装文化論争のなかで、個人的に興味深いと思ったのは、「もんぺ」の是非をめぐる議論だ。「もんぺ」というのは、ズボンのようでズボンでない、袴のようで袴でないはきもののことである。戦争末期にはほとんど全ての女性がはいていたが、もともとは東北地方の農民の作業着らしい。


 文化人の間では、「こんなものを女性にはかせるのは国民の恥辱だ」とか、「女性の脚が二股にわかれているのは非常に卑しい」とか、かなり辛辣な批判が飛び交った。もんぺに限らず、女性のパンツ・スタイル一般に対する嫌悪感が、一部に根強かったことがわかる。
 にもかかわらず、とくに空襲が激化してくると、「もんぺ」は一般の女性たちの間で爆発的に普及した。国民服の女性版といえる「婦人標準服」制定のための政府の会議は、「勝手に普及してしまった『もんぺ』をいかに食い止めるか」の議論で始まっているぐらいである。


 もんぺの大流行には、「自家裁縫主義」の運動が関わっている。「活動的で合理的な衣服を、それぞれの家庭で製作できるようにしよう」というのがその目的だった。もちろん活動的で合理的な衣服とは「洋服」のことを指しているのだが、当時は「洋服」といえば、大正時代の「モガ(モダン・ガール)」に象徴されるように「不良」のイメージがつきまとったし、洋服はシルエットが多様なため、「ぜいたくで無駄な着物」と考えられていた。
 そこで、「活動的」「洋服ではない」「自宅で製作できる」という条件を満たす着物として、「もんぺ」が大いに普及したわけだ。


 さて、この「自家裁縫主義」がもんぺの大流行を生み出したという事実、そしてそれは政府の思惑とは正反対の大流行だったという事実から、著者は重要な結論を導き出す。
 「自分で衣服を製作できる」というは、既製品を押し付けられることがないということであって、かなり自由な環境だる。しかし、そうした自由で柔軟な環境があったにもかかわらず、すべての女性がもんぺをはくという、「衣服における差異ゼロの状態」(p.5)が生み出されたのだ。ちなみに「国民服」も一応、自家裁縫可能な着物として考案されており、当時発売されていた雑誌*1には、その型紙が掲載されていたりもする。
 つまり、「自分で衣服を製作できる」という条件は、けっして「着ることの自由」に直結しはしない。いやむしろ、当時の日本人が現代の日本人よりも、衣服に関してより大きな「自由」を持っていたからこそ、わずか数年で「差異ゼロの状態」が実現したのである。


 戦時中とは対照的に、衣服をもっぱら「消費」するだけになってしまった現代人に向けて、著者は言う。
 「デザインし、つくり出す能力への過剰な期待や、それを保持する人への過剰な崇拝は、忌避しなければならない。日常生活の一環として、身近な能力として、デザインし、つくり出す行為はあらねばならない。そういった特殊な能力を、特定な人たちだけに預けてしまうことは、はなはだ危険なことでもある。現在の状況は、国民服や標準服が作られたときよりも、預けきってしまっている状況なのだ。」(p.251)


 しかしこの著者のメッセージの意味はわかりにくい。「もんぺ」の事例で明らかなように、「自分で服が作れれば良い」というわけではないからだ。
 著者による前書きをも参照しつつ、私なりに言い換えると、たぶんこういうことだろう。衣服によって自らの身体を「意味づける」という行為に、ある種の「豊かさ」が宿るとすれば、それは着る服を「選ぶ」こと自体によってでも、「作る」こと自体によってでもない。そして、「流行に身を預ける」ことによってでも、「流行に逆らう」ことによってでもないのである。


 「『流行に敏感であるということは美徳とされている』という言葉には、『それを批判的に消費する時に限って』という留保をつけなければならない。」(p.2)
 「われわれは流行に直接的に取り込まれることはなくとも、それとの距離をどう取っているかについて自覚的であることを要求され、他者に対しても要求しているという点において、流行と深いかかわりを持っている。」(p.4)


 では結局、「流行」や「着ることの自由」を我々はどのように扱って生きれば良いのか。それについては、具体的にどうすれば良いのかを著者はひと言も述べていないし、おそらくその説明はしてもあまり意味がないのだろう。「美とは何ぞや」的な説明と同じだ。
 我々が本書から学ぶべきなのは、むしろ逆に「説明が難しい」という事実そのものだ。言い換えると、「着る」という行為が豊かな「意味」をもつのは、きわめて「微妙な」地点においてであるということ。単純な型にはまった「流行論」、「個性論」、「自由論」、「お洒落論」を、急いで捨てることこそが必要なのである。

*1:本書の中でもけっこう紹介されているのだが、当時、『生活文化総合雑誌 国民服』といういかしたタイトルの雑誌が刊行されていて、私は文化服装学院の図書館で現物をひと通りみた。べつに国民服のことばかり書いてあるわけではなく、ふつうに当時の女性向けファッション誌って感じだった。