同じ著者・西垣の『情報学的転回』(春秋社)、『ウェブ社会をどう生きるか』(岩波新書)、「コレクティヴ・ブレイン」(西垣編『組織とグループウェア』所収, NTT出版)とあわせてレビューしておきます。ちなみに西垣のいう「基礎情報学」は、情報学の初歩という意味ではなく、情報技術やコミュニケーションを理解するための基礎研究という意味である。
西垣は、「人間がコンピュータの奴隷になることへの異議申し立て」(『情報学的転回』)を行うと宣言しているように、現在のITの発展が人間の「機械化」、「サイボーグ化」を推し進めていると考えており、それを阻止するための理論構築を試みている。そして、「ITによる便益追求にとどまらず、情報現象を根底からとらえる批判的知性が求められる」として、そもそも情報とは何なのかを明らかにすることから始めるべきだという。
C.シャノンを始祖とする従来の情報学の枠組みでは、「意味解釈」の問題をおおよそ捨象した「機械情報」(解釈の余地のない抽象的なパターンとしての情報)しか扱われてこなかった。西垣はこれに異を唱えて、機械と生物の違いを明確にした上で、「生命体にとっての情報」を中心に据えた情報学を打ちたてようとするのである。
機械と生物の違いを説明するために導入されるのは、オートポイエーシス理論だ。オートポイエーシス理論とは、生物学者のH.マトゥラーナとF.ヴァレラによって70年代に提唱され、生物学の枠を遥かに超えて、たとえば社会学者のN.ルーマン等によって引き継がれたシステム論の一種である。ただ、オートポイエーシス理論自体は刺激的な仮説なのだが、西垣の「基礎情報学」においてそれが情報理論へとうまく接続されているとは言い難いと私は思うので、オートポイエティック・システムを用いた西垣の生命‐情報モデルについては、ここでは詳しくは触れないでおく。
※ オートポイエーシス理論そのものについては、河本英夫という日本の代表的研究者やマトゥラーナ&ヴァレラの著作について、そのうちこのブログにも感想文を書くかも知れない。ご存知ない方には、差し当たりはWikipediaなどを参照してもらいたいが、簡単に言えば、システムの共時的な(つまり時間軸上のある1点で切り取った)構造を外部の観察者の視点から記述するのではなく、作動するシステムの作動性そのものに視点を移した上で、システムが構成素を産出し、構成素がシステムを作動させるという閉鎖的かつ自律的(自己言及的、循環的)なネットワークとして「生命」を定義づけるのがオートポイエーシス理論だ*1。
西垣が繰り返し強調するのは、「そもそも情報は伝わらない」ということである。情報は、「小包のような実体で、スポンと自分の心のなかに入ってくる」ようなものではなく(『ウェブ社会をどう生きるか』)、受け手の解釈によってはじめて意味を持つ。ということは、記号表現とそれが指し示す意味内容の対応規則(コード)が、あらかじめ送信者と受信者の間で正確に共有されていない限り、「情報を伝える」ことはできないのだ。したがって、たとえば一種の権力作用によって「斉一な意味解釈のためのコード」を人々に強制しなければ、そもそもコミュニケーションを始めることができないのである。(さらに原理的に考えれば、コードそれ自体もひとつの情報にほかならないため、コードを理解するために別のコードが必要になって、いつまで経っても情報伝達の規則は得られないことになる。)
ということは、電気信号をはじめとする物理的パターンとしての情報を伝達し、蓄積し、検索する技術力がいかに進歩したところで、人間のほうの解釈能力が追いつかなければ、大した意味はないということである。また、解釈のコードが(共同体の慣習的秩序などによって)適切に共有されていなければ、行き交う情報が増えれば増えるほど相互「誤解」が深まるということにもなりかねない。
だから、ITへの依存に批判的な立場からすれば、IT革命によって可能になることというのは、マスメディアが提供する平板で画一的なコードの支配の下での多人数のコミュニケーションか、もしくは反対に、コード共有が可能な相手・話題のみに限定したタコツボ的、オタク的なコミュニケーションの深化のいずれかである場合が多いとも言えるだろう。
そこで西垣は、巨大なデータベースを構築したり、その検索システムを洗練することよりも、数人から数十人程度の人間組織のコミュニケーション活動をサポートするようなシステム(「グループウェア」)を開発することに力を注ぐべきであると主張する。コンピュータは、あくまで人間が行う創造的な作業のために「場」を提供するに留まるべきであるということ、そして、個人レベルでも地球レベルでもなく、「メゾ(中間)レベル・コミュニケーション」と西垣が呼ぶ、数名から多くても数十名規模の集団の協働のなかでこそ、真に創造的な作業が可能になるというのが主張のポイントである。
※ 西垣の「メゾレベル・コミュニケーション」の話は、「基礎情報学」の話よりも面白い。適切な規模のグループで、それぞれのメンバーが演劇の役者のように「役割」を背負い、「物語」を演じるようにしてコミュニケーションするとき、創造的なアイディアが生まれやすいという。詳しくは西垣編『組織とグループウェア』中の「コレクティヴ・ブレイン」というエッセイを参照。
「そもそも情報は伝わらない」というのは重大な原理的問題だし、「グループ・ウェア」を充実させる方向にIT開発を導いていくべきだという西垣の主張は、実践的な示唆に富む有意義な提案だ。また、ネット上の「集合知」に過剰に期待する「ウェブ礼賛論」によって、「急速に知の堕落が生じつつあるのではないか」と批判したり、米国系ウェブ関連企業のエリート主義を指摘した上で、「日本のウェブ礼賛論者たちの本音は、巨利を得ている彼らのお仲間に入れてもらうこと、できればお裾分けにあずかることではないのでしょうか。……ウェブ礼賛論の中身は、……情報や知識のとらえ方も時代遅れの印象を受けますが、とりわけ目につくのは、あまりに米国追従の価値観なのです」と言ってのける専門家なのだから、貴重な少数派ではある(『ウェブ社会をどう生きるか』)。
しかし、先にも言ったように、「情報とはそもそも何なのか」についての西垣の説明は、うまくいっているとは思えない。オートポイエーシス理論と情報理論のつながりが取って付けたように不自然だし、より重大な問題は、西垣が「機械と生命」の違いにこだわり過ぎて、人間とその他の生物の違いを過小評価しているということである。
「情報とは、『それによって生物がパターンをつくりだすパターン』である」、「生命体の生存にとって有用であるもの、重要であるものが『意味』なのである」と西垣は言う。また西垣は、情報の根源は「機械情報」(解釈の余地のない抽象的なパターン)ではなくあくまで「生命情報」(個々の生命体の存続にとって重要な刺激)なのであり、「機械情報」中心に起こっている現代のIT革命は、人間を機械化してしまうと繰り返し注意を促す。しかし、人間のためのウェブ社会論を組み立てるのであれば、やはり「生命情報」ではなく「人間情報」を論じなければならないだろう。
ただそれをやるには、哲学に深入りしていく必要があって、簡単ではない。実存哲学風にいうと、人間が随所に「矛盾」を孕むような情報システムを持っていること、そして「矛盾」を前にして「不安」を感じながらも、「決断」を通じて「価値」の世界へと身を開いているのだということに着目して、情報社会を論じる枠組みを作り上げなければいけないみたいな話になってくる。西垣が「機械情報の氾濫」と呼んでいる事態は、人々の、「矛盾」と「不安」からの逃避に他ならないと私は思うが、説明しようと思うとややこしい話だ。とりあえず、人間が言語情報を操っていくなかで不可避的に発生する「矛盾」や「不安」、「決断」や「価値」といったものは、西垣の議論のなかでは、「情報の意味解釈」が人間とその他の生物に共通の営みとして描かれるために、うまく扱われていないという点は押さえておく必要があると思うけど。
しかしそうは言っても、『基礎情報学』には情報技術に関するかなり多岐にわたる論点が登場するし、セクションごとに西垣が論じている内容のそれぞれは、実践的な示唆に富んでいる。また、生物学、哲学、言語学、社会学など分野を横断しながら論じていくので、タコツボ的専門化の盲目性からはある程度自由な研究である。「ITに囲まれて、我々はいったい何をやっているのか」を考えるにあたって、読んでおいて損はない。
- 作者: 西垣通
- 出版社/メーカー: NTT出版
- 発売日: 2004/02
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*1:と、偉そうに言ってみたものの、あくまで素人レベルの理解なので責任はもちませんw