The Midnight Seminar

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salyuのライブ

 Salyuのセカンドアルバム『TERMINAL』のライブに行ってきた!
 「卵のかたちの完璧さ」というものを分かってくれる人がもし居たら、Salyuが我々に聴かせるのはそういう完璧さをもった歌声なのだと言いたい。
 「芸術は爆発だ」という岡本太郎の名言があって、彼自身によって「爆発というと、みんなドカーンと音がして、物が飛び散ったり、壊れたり、また血が流れたりする、暴力的なテロを考える。僕の爆発はそういうんじゃないんだ。音もなく、宇宙に向かって精神が、いのちがぱあっとひらく。無条件に、それが爆発だ」(『芸術は爆発だ!』)と説明されている。
 形容矛盾になるが、我々が聴いたのもそういう、「音もなく爆発するような声」だった。
 岡本太郎が「爆発」とは「音もなく開くこと」だと言いたくなる気持ちはよくわかる。爆発音というのは、たぶんそれを近くで聞いている人にとっては、宇宙全体にくまなく響きわたるような完全なもの、全的なものだ。一切のノイズが消えてしまうわけであって、爆発音をノイズと思いさえしなければ、宇宙は完璧な静けさを得たことになる。映画で、大爆発のシーンをあえて無音にしたりすることがあるが、これも爆発というのがじつは最も静かな瞬間だからなのかも知れない。
 Salyuの歌声を、耳ではなく内臓で聞くときに得られるのは、こういう完璧な静けさである。これは、CDを聴いているだけではいつまでたっても気付かなかったであろうことである。


 そもそも「芸術は爆発だ」とたとえられるときの「爆発」には、──「卵」に引っ掛けようというのではないが──「誕生」の意味が込められているのであろう。誕生は爆発的である。芸術作品の働きは、我々の前に新たな「存在」あるいは「存在の真理」を開示することだ(M.ハイデガー)。この「無」から「有」への絶対的な飛躍は、それがどれほどの静けさのうちに遂行されようとも、ほかの一切のものの気配を消し去ってしまうだけの衝撃力を持っているのである。
 Salyuは歌うことによって「世界」を「誕生(存在)」させている──音もなく爆発する、静かな衝撃として。
 Salyuの歌を聴いて「透き通るような声」と形容したくなる人は多いかも知れないが、あの声は透き通っているのではないのだ。キーワードは「透明感」ではなく「存在感」である。とくにライブで聴いた人にとっては、「重量感」という形容すら相応しく思えるくらい、エネルギーに満ちた力強い声だ。
 存在するに値する生き生きとした何ものかが、ありありと、リアルに存在していること。それこそが「芸術」の条件であり、Salyuの歌声の凄みの核心である。


 ただ、歌詞はよく分からない。