最近、「芸術」について書かれた本をいくつか読んでみている。そのうちの一冊。
本書には、メルロ=ポンティの3つの講演と1つの論文が収められている。表題になっている「眼と精神」という論文は、メルロ=ポンティの生前に出版された最後の著作だ。以下、この論文についてのレビュー。
「眼と精神」の中でメルロ=ポンティは芸術論、というより「絵画」論を展開しているのだが、その狙いは「絵画」の秘密を明らかにすることに留まらない。真の狙いは、「絵画‐画家‐視覚」をめぐる考察を通して、我々の知覚している「世界」や「自然」とは一体何なのか、それが「存在する」とはどういうことなのかを解き明かすことである。言い換えれば、「ある」とか「ない」ということの意味を、「見る」ということを通じて改めて考え直す(訳者解説p.356)というわけである。
絵画を見るとき、我々はたとえば“絵の具のかたまり”を見ているわけでもなければ、“その絵画に写しとられている何ものか”を想像のうちに見ているわけでもない。「私の眼なざしは存在の輪光のなかをさまようように画像のなかをさまよい、私は絵を見るというよりはむしろ、絵に従って、絵とともに見ている」(p.261)のである。何を見ているのかといえば、自分が投げ込まれているところの、(虚構ではなく)現実の「世界」の一場面であり、現実の「自然」の一光景だ。
ちなみにここで「世界」というのは、例えばハイデガーが「世界内存在」と言うときの「世界」のことである。
「絵画の問いかけは……〈物の出現〉を目指しているのである」(p.256)とメルロ=ポンティは言う。そして「画像は、『何ものの光景でもない』ことによってのみ……或る物の光景なのである」(p.288)。つまり絵画というものは、すでに存在する何ものかの姿を写しとった「写像・模写」の一種にすぎないのではない。絵画が「写像」の一種だとすれば、それは「虚構」の営みのひとつであって、絵画の外側にこそ「現実」の世界が存在するということになる。しかし絵画の中には、紛れもない現実の物や光景が新しく、そして美しく「出現」しているのであって、それらはそこに「存在」しているのだとメルロ=ポンティは考える。急に言われても理解しがたい考え方だが、とにかくそうなのだ。
「世界」や「現実」は絵画の外側にあるのではないし、「芸術は構成や技巧、つまり空間や外界への巧妙なかかわり方ではない」(p.289)。「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」(p.257)のだ。そして、まさにそのことによって画家は世界を「存在」させているのである。「世界」というものが画家の身体を利用し、絵画という路を通って、我々の前に自ら立ち現れるのだと言ってもいい。しかも、「ひどく生き生きとした姿」(p.268)でである。
では、「世界」の一光景をそこに「存在」させるのが画家の仕事だとして、画家と世界とはいかなる関係にあるのだろうか。
「謎は、私の身体が〈見るもの〉であると同時に〈見えるもの〉だという点にある」(p.258)。つまり身体を持った「私」や「画家」は、「世界」を操作の対象として自分の外側に突き放して認識しているかのように思われるが、彼ら自身も、紛れもなく、見られうる「世界」の一部を構成しているのである。
「世界」は彼らの「外側」にあるのではなく、また「内側」(たとえば想像の中)にあるのでもない。「私の身体は世界の織目のなかに取り込まれており……しかし、私の身体は自分で見たり動いたりもするのだから、自分のまわりに物を集める」(p.259)のである。
つまり「世界」が「私」の身体を包み込み、同時に「私」が「世界」を飲み込んでいるのである。だから「世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ」(p.259)。
この「身体」と「世界」の両義的関係のうちにこそ、「視覚」(知覚)の秘密が込められている。「人間の身体があると言えるのは、〈見るもの〉と〈見られるもの〉・〈触るもの〉と〈触られるもの〉・一方の眼と他方の眼・一方の手と他方の手のあいだに或る種の交差が起こり、〈感じ‐感じられる〉という火花が飛び散って、そこに火がともり、そして──どんな偶発時によっても生じえなかったこの内的関係を、身体の或る突発事が解体してしまうまで──その火が絶え間なく燃え続ける時なのである」(p.260)。
たとえば左右の手のひらを合わせるとき、私は「触れる」主体であると同時に「触れられる」客体でもある。この両義性によって人間は、物の「世界」に溶け込み、「世界」とともに生きているのである。
身体が「知覚するもの」でありながら「知覚されるもの」でもあるというこの循環的構造の、循環性そのもの──訳者は「身体の再帰性」と呼ぶ──こそが、「知覚」(視覚)の最大の秘密であり、ハイデガーのいう「現存在」、「世界内存在」にほかならない。これをメルロ=ポンティは「人間以前の眼差し」(p.267)と呼ぶ。
そしてこの「循環性」が関わろうとするところのもの、「人間以前の眼差し」が眼差そうとするところのものこそ、「世界」や「自然」そのもの、「存在」そのものである。
こうした、「身体」と「世界」の両義的・相互依存的な関係によってこそ「存在」が可能になるのであれば、世界や自然の存在の「リアリティ」を、「科学」という営みが十分に明らかにするとは言えなくなってくる。
世界は「空間」として存在しているが、空間は、最初に「幅」と「高さ」が与えられた後に「奥行き」を持つというふうに、平面を基にして構成されるのではない。現実に我々が生きている空間は、はじめから「奥行」(厚み、ヴォリューム)を持ったものとして、「即自的」(p.275)に存在している。
「見る」とは、デカルトの哲学におけるように──そして近代科学の知見におけるように──、眼の網膜と光との「接触=刺激」や、その刺激についての脳内の「思考」に還元できるようなものではない。そうした考えからは、見ている対象からの距離感、つまり奥行きを、二次的な問題としてしか扱えないだろう。しかし我々がそれを体験し、生きているところの、あるがままの「見る」という行為は、始めから奥行きをもったものとしての「空間」を、「即自的」なものとして捉えているのである。
そしてこの体験の中心には、知覚を条件づけるものとしての私たちの「身体」が据えられている。この「身体」が、先に述べたような意味での「再帰性・循環性」において、世界という空間を知覚しているのである。
こうした両義的な知覚(視覚)と世界のありよう、つまり「存在」のありようは、「科学」ではなくむしろ「芸術」(絵画)によってこそリアルに、生々しく、迫真的に表現されるだろう。 近代科学の「操作的思考」(p.254)は、「世界」を思考──無制限・無条件の「透明な主観」──の支配下において、「操作」可能な対象として手なずけ得るかのように思い込んでいる。しかし人間の「思考」とて、「身体」によって条件づけられたものでしかあり得ず、「世界」のしがらみの中でものを考え得るにすぎない。
一方画家は、先述のようにあくまで「身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」(p.257)ことに徹する。「画家は世界によって貫かるべきなので、世界を貫こうなどと望むべきではない」(p.266, アンドレ・マルシャン)というわけだ。
「芸術、とりわけ絵画は、〔科学的思考の〕あの活動主義〔=操作主義〕がおよそ知ろうとは望まないこの〈生まな意味の層〉から、すべてを汲みとるのだ。まさしくそれらだけが、まったく無邪気のそれをやってのける」(p.255)のである。
くどいようだが、画家の仕事とは、世界や自然の「存在」のリアリティが、人間に対して自ら姿を現そうとするのを、産婆のようにして助けてやることなのだ。
ところで、私はフランス語が読めないので翻訳で読んでいるのだが、それでも、メルロ=ポンティの論述は終始とても美しいレトリックによって綴られていると感じる。しかも彼の比喩の数々が、思わせぶりのものでも、気取ったものでもなく、虚飾とは一切無縁の自然なものなのだ。ハイデガーは晩年に、真実・真理は「詩的」にこそうまく表現されるのだと言っていた。メルロ=ポンティの論文においても、まさに詩的な「レトリック」が、真理としての「論旨」の本質と深く関わっているように思える。訳文が素晴らしいので、この関わりを味わいながら読むよう心がけたほうが良いと思う。
ただ、メルロ=ポンティにかぎらずハイデガーやニーチェやウィトゲンシュタインもそうなのだが、けっこう詩的な表現を駆使して、そうしなければ表現できないと彼らには思われた哲学を表現しようと努めたのであるが、これがポストモダンの時代になって悪用されていったような気もするので、そのあたりに注意する必要はある。
なお私の理解では、このメルロ=ポンティの論旨は渡邊二郎の『芸術の哲学』で解説されているハイデガーやカントらの芸術論とも整合的なので、同書も関連させて読むことで理解が深まると思う。(過去エントリ:渡邊二郎『芸術の哲学』ちくま文庫)