映画を観た人のインタビュー動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3219078
↑登場する観客のコメントにはほとんど賛成できないが、それ以上に、「チャンネル桜」のコメンテーター、インタビュアーの紋切り型のイメージ誘導にもウンザリ。繊細で微妙な議論を封じてしまう朝日新聞とか日教組のマナーを左右反転させただけだ。
映画『靖国』をめぐっては色々な議論が交わされ、とりわけ「表現の自由」について多数の知識人・政治家が声高に論じあう騒ぎになっていた。この「表現の自由」をめぐる議論については、拙いながら、ある程度まとめて論じた文章を某雑誌に掲載していただく予定なので、ここでは騒動の経緯を簡単に振り返りながら、映画を見た直後の感想だけ書いておく。
戦時中の靖国神社境内には、陸軍の後ろ盾のもとで軍刀を製造する「日本刀鍛錬会」の鍛錬所が設置されていた。この鍛錬会に関わった刀匠の中では唯一の現役であり、今も高知県で鍛刀に携わる刈谷直治氏が、映画『靖国』(李纓監督)のメインキャストである。映画は、刈谷氏の仕事の様子とインタビュー映像、そして八月十五日の靖国神社の風景が交互に映し出されるという内容のドキュメンタリー作品だ。
騒ぎの発端は、昨年十二月に『週刊新潮』が「反日映画『靖国』は『日本の助成金』750万円で作られた」報じたことで(※私は読んでいないが)、これに触発された国会議員が、「助成」の是非について疑問の声を上げたのである。映画『靖国』には、文化庁管轄の独立行政法人日本芸術文化振興会の基金から七五〇万円が助成されているが、この助成の基準のうち「商業的、宗教的又は政治的な宣伝意図を有しない」こと、および「日本映画」であることという条件を満たしていない疑いがあるとして、二月下旬頃に自民党の稲田朋美議員が文化庁を通じて「国会議員向けの試写会」開催を要求し(三月中旬に実施)、また同党の水落敏栄議員や有村治子議員も国会で文化庁の責任者を追及した。
さらには、刀匠の刈谷氏と妻の貞猪さんが、「政治的な内容でダメだ」「映画は刀作りのドキュメンタリーと聞いていた。李纓監督はもう信用できない」として、出演場面の削除を要求していると伝えられた(この引用は毎日新聞)。また靖国神社も制作者サイドに対し、不許可撮影や、日本刀を靖国神社の「御神体」とするなどの事実誤認を理由に、一部映像の削除を求めている。右派の論者からは、この映画で南京大虐殺の捏造写真が使用されているとの指摘の声も上がっていた。
そして右翼団体が上映中止を求める動きもあって、上映を予定していたすべての映画館が三月下旬に、「近隣に迷惑をかけるから」といった理由で上映中止を決定したのである。ただしその後、「表現の自由」をめぐって各種メディアで議論が相次いだ結果、当初よりも多数の映画館が上映に名乗りを上げて、五月三日に一般公開されるに到った。
公開後、私もこの映画を観た。助成金問題について言えば、「政治的な宣伝意図を有しない」とは言い難い内容――というか、政治的意図を抜きにして靖国神社をドキュメンタリー化することなど不可能だ――で、ルールに従えばアウトということになるだろう。また、この映画について「政治的偏向はない」(鈴木邦男氏)、「左にも右にも偏向しているようには思えなかった」(呉智英氏)といった評も多かったが、どこをどう見ても反・靖国の映画であった。
たしかに、映画に出てくる人物は、人数で言えばほとんどが右翼(あるいは反・左翼)系統の靖国擁護派で、「今の若者には大和魂が足りない!」と叫ぶ老人や、小泉首相の靖国参拝に反対する青年を袋叩きにして「中国へ帰れ中国へ!」と怒鳴りながら追い回すおっさんなどが普通に登場するのだが、彼らはやはり滑稽で下品な人物として取り上げられているわけである。
ただし私はべつに、政治的な宣伝意図のある映画であろうが、反・靖国の映画であろうが、世論・公論に良い刺激を与える映画というのはあり得るはずで、それが資金難で制作できないという場合には政府系の基金が助成しても構わないと思う。政治的中立性を求めるルール自体を、変更するか、ある程度緩めに運用すべきだ。
ところがこの『靖国』について言うと、そもそも作品の体をなしておらず、むしろそのことによって助成を却下すべきだと思う(笑)。「ごく表面的なエピソードが次から次へと脈絡なくつなぎ合わされている」「ドキュメンタリー映画としては掘り下げの足りない凡作」(東大教授・長谷部恭男氏)と言うべきで、とにかく支離滅裂なのである。
刀匠の刈谷氏からは何も聞き出せていないし、靖国神社の風景を収めた映像も、殴り合いや怒鳴り合い、右翼団体や元軍人の奇妙なパフォーマンスなど、境内での様々な「騒ぎ」の映像を無雑作に切り貼りして、なんとなく「問題のある場所」であるという印象を煽ってみただけの映画であった。
言葉による解説や批評がほとんど含まれない映画で、そういう手法をあえて採ったのだと監督は語っているが、「歴史的経緯や宗教論が複雑にからんでいる靖国神社の実相が生の事実の断片的集積だけで描き出せるとは思えない」(評論家・呉智英氏)と言うべきであって、騒ぎが起きる「8月15日の靖国神社」の風景を知らない人々の好奇心を満たすのがせいぜいだろう。
したがって、上映を阻止すべきだとは全く思わないが、かといって多くの人が観るべきだとも思えない。
で、映画そのものよりも、今回の騒動のテーマである「表現の自由」をめぐって考えるべきことがたくさんあるわけである。ただそれについては、冒頭で触れたように雑誌に記事を載せていただく予定なので、ここでは割愛します。
概略だけ述べておくと、今回の騒動では「政治家の圧力」を批判する声よりも「映画館の自主規制」を批判する声のほうに説得力があって、それは一部の社会学者や評論家たちが近年「政府権力による抑圧よりも、市民による自己監視が自由を妨げるようになってきた」と分析している現実とも対応している。いわば、特定の意見に反対する人々によってではなく、その意見に本当は無関心である人々が「営業」や「セキュリティ」を過剰に配慮することによって、言論・表現の自由が妨げられるというわけだ。
で、現代社会論としてそういうことを言っているのは基本的にはポストモダン系統の論者たちなのだが、同じようなことが保守思想においては大昔から、ほとんど常識的に予想されていた。そしてそれは、ポストモダン系の人たちが論じているのとは違った意味で、近代主義の必然なのである……みたいなことを書いています。