ここ4年ぐらいの間に、「格差社会」が問題として取り上げられることは珍しくなくなった。そして議論はさらに進んで、ジャーナリズムの場で「ワーキングプア」についてのルポが量産されつつあることに見られるように、焦点は「格差」から「貧困」に移っている。もはや状況は「不平等が拡大しました」といった生やさしい段階にあるのではなく、端的に「食っていけない」人々が、しかも若者の中に、目立って増えてきたのである。そして多くの場合、貧困の原因は低収入で不安定な「非正規雇用」にしかありつけないことだから、「格差社会問題」は主として「若者の雇用問題」として論じられているわけである。
ところでヨーロッパでは、日本よりも10年ぐらい早く、若者の(貧困を伴う)雇用問題が顕在化していた。そして、社会政策(つまり実践)の領域でも社会科学(つまり研究)の領域でも、議論の軸となる概念は「貧困」から「社会的排除」へと移っていったらしい。
「貧困」というのは、人々の所得水準のみを問題にする一元的な概念である。これに対し「社会的排除」とは、経済的のみならず社会的・政治的・文化的な資源の有無を問題にする点で“多元的”であり、また、人々がそれらの資源を喪失していくプロセスに注目する点で“動的”な概念であるとされる。本書131頁の、以下のような定義が一番分かりやすいだろうか。
「『社会的排除』とは、人びとが社会に参加することを可能ならしめる様々な条件(具体的には、雇用、住居、諸制度へのアクセス、文化資本、社会的ネットワークなど)を前提としつつ、それらの条件の欠如が人生の早期から蓄積することによって、それらの人びとの社会参加が阻害されていく過程を指す。」
ちなみに、「社会的排除」の対概念は「社会的包摂」である。
ごく簡単に言うと、ここに不幸なフリーターの若者が1人いるとして、彼を単に「おカネがない人」として描くのが「貧困」の概念である。これに対し「社会的排除」論においては、彼は「“まっとうな社会生活”としてイメージされる標準的なライフスタイルを営むことができない人」として捉えられる。つまり例えば、「結婚できそうにない」とか、「バイトだからいつまでたっても偉くなって尊敬されることはない」とか、「地域社会の活動に参加できない」とか、「友人と遊ぶ余裕もない」とか、「ファーストフードしか食べていないから不健康だ」とか、「年金を納めていないから将来も不安だ」とかいうふうに、総じて「社会生活を楽しめていない人」として捉えられるわけである。さらに、単に彼の“今の状態”を記述するのではなく、例えば「片親に育てられたため上位の学校へ進む余裕がなかった」⇒「就職氷河期に学卒を迎えたためフリーターにならざるを得なかった」⇒「景気が回復しても企業は新卒を重視するから自分は正社員として就職できない」というふうに、一連のプロセスとして把握しようとするのが「社会的排除」論である。
で、日本のアカデミズムも、ヨーロッパの経験を追いかけるようにして「貧困」から「社会的排除」へと議論を進めつつあるようで、その最先端近くに位置している(っぽい)のが本書である。9人の研究者が「社会的排除」を論じている論文集で、昨秋に出版されたばかりだから内容はけっこう新鮮だ。
前半では、ヨーロッパの政策と研究を紹介することで、「社会的排除」の概念を用いて不安定雇用や貧困の問題を分析するための枠組みを整理している。そして後半では、日本における「社会的排除」の現状を実証的に把握しようと試みている。この後半の議論は、日本におけるこの種の研究がまだ始まったばかりであることもあって少々荒削りだが、たとえば「社会的排除」を指標化して統計を取ってみると「所得の低さ」と「社会的排除の度合い」が相関しないことが明らかになるなど、興味深い知見も含まれている。
本書は、今の時点では、日本の格差問題・雇用問題を論じる上での必読書のひとつだと個人的には思う。(「アホか」と言いたくなる論文も数本混じっていたが。)
とりわけ重要だと思ったのは、ヨーロッパにおいて「社会的排除」をめぐる理論が洗練されてきた歴史を概括した第2章、日本における社会的排除の指標化(誰がどれぐらい「排除」されているのかを数値で表す)と計量分析を試みた第5章、そして日本の「格差問題」や「貧困問題」に関する近年の研究史をまとめた「補論」である。
3000円以上と高価で、シリーズ3巻までそろえると1万円近くになるが、買っておいて損はないだろう。学生の人たちとの勉強会で本書(およびシリーズ第2巻の『ワークフェア――排除から包摂へ?』)を取り上げた際はコピーを配布したのだが、たしかコピー代を1人1500円ぐらい徴収した気がする……。それぐらい、読むべき論文がたくさん収録されているということだ。