ずいぶん前に読んだ本だが、私が触れたことのある哲学書の中では最高に印象深かった作品のひとつなので、ここにレビューしておく。
存在の真理への問い
ハイデガーは「プラトンの真理論」という論文のなかで、プラトンからニーチェに至るまでの西欧哲学を、「理性的動物」としての「人間」をあらゆる存在者(存在するモノ)の中心に据え置いた、「主観性の形而上学=ヒューマニズム」と呼んで批判した。そして、人間中心的ではない、「存在の真理(存在そのもの)」を根本に据えた、新しい哲学の創始を訴えたのである(本書の訳者解説p.163)。
この論文に対し、ジャン・ボーフレというフランスの哲学者・評論家から何点かにわたる批判的な質問が寄せられた。そして、それに回答したハイデガーの書簡の内容に、ハイデガー自身が手を入れて公刊したのが本書(の底本)である。
哲学者としてのハイデガーの終生のテーマは、簡単に言えば「存在とは何か?」ということであった。つまり「○○がある」、「○○である」というときの「ある」とはどう意味なのか、ということだ。
本書は「後期ハイデガー」の代表的作品のひとつ──前期の代表作はもちろん『存在と時間』──であり、その問いへの最終解答の一歩手前あたりに位置している。
いや、じつは、そういう問いの形式自体が成立しないということ、つまり「存在とは何々である」というかたちの解答は(見つからないのではなく)あり得ないのだということが、ハイデガー自身によって明らかにされつつあるのが本書だと言ったほうがいいだろう。
「形而上学」批判
「△△とは何か?」と問うて、「××である」と答えるやり方は、プラトン以来の西欧哲学の一般的な方法である。しかしハイデガーに言わせれば、こういうやり方はそもそも「△△」や「××」を主観の中で“存在者”として対象化しており、それに先立つはずの“存在”そのものの意味を問うてはいないという点で、思索の根源には未だ降り立っていない。
こういう思考のタイプを、ハイデガーは本書の中で、「(主観性の)形而上学」と呼んで一貫して批判している。2500年の西欧哲学の歩みを、そして近代以降の「科学」的な探求の歴史を、「形而上学に過ぎない」として丸ごと裁断する──ただし無視するのではないし、その種の非根源的な思考から様々に有益なものが生まれることも認めている──のだから凄い話である。
「存在」の思索
それでは、形而上学的でない方法で「存在の真理」──「存在」という、モノならぬものの真の有り様──に迫るハイデガーの「思索」とは、どのようなものなのか。
まずその思索は、「存在によって呼び求められ促されて」(p.23)生じるものであるとされることに注意しなければならない。「人間は、存在者の主人ではないのである。人間は、存在の牧人なのである」(p.84)とされるように、人間はあくまで、存在を「見守る」ことを存在によって求められる者として生きているのだ。
解説によれば、この「呼び求められ促され」るという表現が、本書以降のハイデガー思想のエッセンスとなっていったようだ。存在とは「呼び求める促し」なのであり、「人間は、存在によって語りかけられ要求されることによってのみ、みずからの本質のうちで、生き生きとあり続ける」(p.40)のである。
また、「(最も肝心なのは)存在の真理が言葉となってくること、そして、思索がこの言葉のうちへと到達すること」(p.89)であると言われるように、存在によって呼び求められ促されて始まる思索は、それを通じて、存在を「言葉」というかたちで人間へともたらすのである。だから「言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである」(p.18)というわけだ。
ここでも、人間は、「存在」を受け止める唯一の存在者でありながら、あくまで「番人」としてのみ「存在」に関わることができるのだという点に注意する必要がある。
少々長いのだが、本書の思索のエッセンスがうまく盛り込まれている箇所を引用しておこう。
「人間とは、むしろ、存在そのものによって、存在の真理のなかへと『投げ出され』ているのである。しかも、そのように『投げ出され』ているのは、人間が、そのようにして、存在へと身を開き‐そこへと出で立ちながら、存在の真理を、損なわれないように守るためになのであり、こうしてその結果、存在の光のなかで、存在者が、それがそれである存在者として、現出してくるようになるために、なのである。その存在者が、果たしてまたどのように現出してくるのか、神というものや神々、歴史や自然が、果たしてまたどのように存在の開けた明るみのなかへと、入ってき、現存したり、現存しなくなったりするのか、このことを決定するのは、人間ではない。存在者の到来は、存在の運命にもとづくのである。」(p.56)
真のヒューマニズム
人間が「投げ出されている」に過ぎないのだとか、「存在の運命」に支配されているのだとかいう思想は、世上言われるところの人間中心主義的な「ヒューマニズム」とは、たしかにかけ離れている。しかし、「だからといって、そうした思索が、人間的なものの反対側に与するとか、非人間的なものを支援するとか、非人間性を擁護するとか、人間の尊厳を下落させるとかするものであるということを意味してはいない」(p.56)。
「人間の尊厳」のようなものがあるとすれば、それは「エク‐システンツ(存在へと身を開き‐そこへと出で立つあり方)」において、「存在の真理」の「呼び求める促し」の声を聞き、「存在」を「言葉」へともたらし得る存在者であるということに他ならない。だからハイデガーに言わせれば、「思索」と「詩作」によって「存在の真理」を見守ろうとする態度こそが、真の意味での「ヒューマニズム」なのである。
本書に対する疑問
さて、ここでハイデガーが言わんとしていること自体は、大体納得できる。と言ってもこのレビューで引用した言葉だけを読んで分かる人は居ないだろうが、訳者が「ハイデガー自身が書き著したこの書簡体の論述の訳文そのものを……多少とも精神を集中して注意深く読み進んでいけば、ハイデガーの主張の基本的輪郭は、おのずと理解されるはずである」(役者解説p.330)と言っているのは本当である。本文は全部で130頁ぐらいしかないので、関心のある人には、直接読んでみることをお勧めする。
ただし本書を読み進むにつれて、次のような疑問が頭をもたげてくるだろう。
ハイデガーの思索は「形而上学」を批判しているにもかかわらず、結局のところ本書においては、「存在とは何か?」という問いの形式のなかで、その答えを言い述べる言葉・命題を探るという形而上学的な作業を堂々と続けている。これはハイデガーにとって自己矛盾なのではないか?ということである。
つまり、本書中の論述に忠実に「存在」を思索すると、「存在」そのものは対象化不可能なものであって、ウィトゲンシュタインの言った「語り得ぬもの」の領域に追いやられざるを得ないのだが、そうならば、そんなものを主題的に取り扱った書物を公刊すること自体が、哲学上の虚偽に当たることを認めなければならないのである。
ちなみにウィトゲンシュタインは、その種の虚偽に手を染めること、つまり語り得ぬものについて公然と語って書物を出版するということに罪悪感を覚え、結局、その後期の主著『哲学探究』を未発表のままに留めたようだ。(イルゼ・ゾマヴィラ『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』中の、訳者・鬼界彰夫の解説を参照。)
捨て去られるべき梯子
そういう疑念に思い至ったら、ハイデガーの思想全体のなかでの本書の位置づけについて説明した、訳者解説のpp.346-347を参照しておくべきだろう。この解説を読めば、上のような疑問はおおよそ氷解するはずだ。(※私は、ハイデガー自身の著作は『存在と時間』と本書と『形而上学入門』ぐらいしか読んでいないので、本書以降のハイデガーの思想や、彼の生涯の思索の歩みの全体像については、さしあたり解説に頼るしかない。)
つまり解説に曰く、「晩年のハイデガー自身の眼から見れば、本書簡で打ち明けられた思想は……まだ『形而上学の言葉』のなかで語っており、『別の言葉』は『背景にとどまって』いて、十分に徹底して『存在の真理』がそれそのものとして示されていないとされて」おり、1950年代以降には「存在に×印が付けられて、……存在が対象化されてはならないことが力説される」のであり、60年代に至ると「ついには積年のハイデガーを貫く思索の主題であった『存在(das Sein)』」は、『呼び求める促し』のなかで消え去り(verschwinden)』、『存在の特有なもの』は、もはや『存在といった種類のものではない』(nichts Seinsartiges)ということになってゆく」というわけである。
ハイデガーもやはり、哲学、思索にとって最も基礎的で最も肝心なものは、「語り得ない」のだという結論にたどり着いていたのだ。
本書の本文中でもハイデガーは、存在の真理が言葉のうちへともたらされる時、「もしかしたら言葉は、軽率な発言などを要求せずに、むしろ、もっと反対に、正しい沈黙を要求するであろう」(p.89)と言っている。存在を思索する言葉は、いわば、沈黙を目指した語りなのである。そして、沈黙の真理へと至るためには、是非とも「語り」が必要なのである。
このことは、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の最後から二番目の断章に記した、以下の有名な命題に呼応する。
「私を理解する人は、私の命題を通り抜け──その上に立ち──それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)」
ハイデガーもウィトゲンシュタインも、人間の精神つまり言語を、それとして存立可能にしている最深の根拠にまで思索を及ぼしたのであった。しかも、互いにほとんど接点のなかったこの両者が、上述のような意味で似たような結論に至っているのである。
だからこそ、ハイデガーの本書とウィトゲンシュタインの『哲学探究』はともに、私の読書経験の範囲内では、最も刺激的な作品として強く印象に残っているのである。
「ヒューマニズム」について―パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡 (ちくま学芸文庫)
- 作者: マルティンハイデッガー,Martin Heidegger,渡邊二郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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