The Midnight Seminar

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L.ウィトゲンシュタイン『哲学探究』

ウイトゲンシュタイン全集 8

ウイトゲンシュタイン全集 8


 ウィトゲンシュタインが、初期の代表作『論理哲学論考』に自ら限界を感じて、大幅に立場を変えて現わした後期の代表作だ。個人的には、好きな本ランキングでトップ5に確実に入るが、トップ5の中で最も理解が浅い本でもある(笑)
 誤訳も何箇所か指摘されているが、全体的にとても読みやすい。


 本書は『論理哲学論考』のように論理の内面に沈潜するのではなく、「言葉をつかう」という実践を出発点として哲学を組み立てる。いわゆる有名な「言語ゲーム」論である。「第I」「第II」に分かれていて、「言語ゲーム」をめぐる有名な論考が登場するのはだいたい第I部。第II部は執筆時期もたしか異なり、より難解で、哲学の密度が一気に上がる。


 内容を整理したメモはあとで作成するとして、とりあえずAmazonのレビューに投稿した内容だけ貼りつけておく。


 『哲学探究』の時期のウィトゲンシュタインの文章には独特のスタイルがあって、説明しなければならないことを構造的に整理した「論文」ではなく、禅問答のような問いかけが5行ずつぐらいの断章形式でひたすら続いていく。疑問が浮かぶ→考える→また問う→考えるという作業が繰り返される日記のようなメモなので、ウィトゲンシュタインと一緒にちょっとずつ悩みながら考えていくという感じだ。
 哲学や論理学の専門用語のようなものはほとんど登場せず、日常の具体的な生活の場面から出発して、あまり普通の人が考えないような問いかけをウィトゲンシュタインが発し続ける。「なぜ犬は痛がっているフリができないのか」などの問いは有名だ。私が好きなのはたとえば第II部の以下のような文。

 「わたくしは、他人の考えていることを知ることはできるが、自分の考えていることを知ることはできない。『わたくしはあなたの考えていることを知っている』と言うのは正しいが、『わたくしは自分の考えていることを知っている』と言うのは虚偽である。(哲学の全霊魂が、言語論の一滴へと凝縮する)」(xi節)


 「他人の考えていること」「自分の考えていること」と言う時、自分の、あるいは他人の心の中に生じている、“ 何か「考え」と名付けるべきもの”をイメージしようとしてはならない。ウィトゲンシュタインが言いたいのは、言葉が指し示す、あるいは写し取っている真の実在について考えるのではなく、「知る」「考える」という言葉の使い方について考えよ、ということなのだ。なぜなら、「語の意味とは、言語内におけるその使用法」(第I部§43)だからである。
 上の一節が主張しているのは、自分の考えを「知る」という言い方はしないのだということ、そして「言い方」の問題こそが実はとても重要な論点なのだということにほかならない。


 この本のなかでウィトゲンシュタインは、ユーモアに富んだ具体例――たとえば上に引用した逆説のような例――をいくつも挙げて、繰り返し繰り返し我々の抱いている固定観念に挑戦し、我々の考える「意味」という概念に揺さぶりをかけていく。あまりに激しい揺さぶりなので、ともすれば、我々を意味のカオスへと誘惑しているかのようにも感じられてしまう。
 しかしそうではないのだ。ウィトゲンシュタインは確かに意味の「無根拠性」を暴露しはしたし、それが哲学上の重要な成果と言われているけど、それとともに我々を、実践的な「言葉遣い」、日常的な「生活様式」という、新たな確実性の拠点へと導いてくれたのである。


 一筋縄で読み解くことを許さない、難解というよりも「謎」の本ではある(笑)。だがそれでも、この「哲学を殺した男」の後期思想の代表作が、私のように一知半解の素人読者にとってすらとても刺戟的で、智的な興奮をもたらしてくれるのは確かだ。4,500円を支払う価値は十分にあると思われるが、なぜ岩波文庫あたりから新訳が出ないのかが「謎」である……。