The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

スプラトゥーンが子どもをキレやすくする?—ゲームの悪影響に関する最近の実証研究論文を読んでみた

 年末年始は風邪で寝込んでいたこともあり,時間がなくなったので年賀状を書くのもサボって論文を書く(ためのデータ解析のやり直し)作業をやってるのだが,息抜きにYahoo!知恵袋でスプラトゥーン関連の質問を検索してたらヘンなのがあった.
 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
 

 スプラトゥーンはプレイヤーを「イラッと」させるところがあり,子どもがキレやすくなってしまうと懸念しているらしい. 
 知恵袋上で回答も書き込んでおいたのだが,関連する内容を簡単にここにメモしておこう.


 なお,タイトルがミスリーディングだったかもしれない.本エントリではスプラトゥーンの影響を論じた論文を参照しているわけではなく(そんな論文まだ無いと思う.),テレビゲーム一般についての論文を参照しながらスプラトゥーンの悪影響について考えようと思ったものである.
 
 

「ゲーム脳」はトンデモ説?

 10年以上前に『ゲーム脳の恐怖』という新書が発売されて話題になっていたが,発売当初からボコボコに叩かれていたのを覚えている.
 覚えているところでいうと,評論家の宮崎哲弥氏が右派言論誌の『諸君!』で連載していた新刊新書のレビュー記事で,非科学的だと厳しく批判していたのを見て,結局この本は買うのをやめた気がする.その後も折にふれてこの本が叩かれているのを目にしてきた.たぶん,同時期ぐらいにベストセラーになった『ケータイを持ったサル』みたいな風情のトンデモ本なんだろうと,読んでもないのに決めつけることにした.*1
 

 べつにこの『ゲーム脳の恐怖』にかぎらず,ゲームの悪影響とかもっと広く言って「メディアの悪影響」論については,「世間で言われているような悪影響は,科学的には実証されていない」と言われることが多いように思う.暴力的コンテンツが凶悪犯罪を誘発するという説や,ポルノコンテンツが性犯罪を助長するという説が正しいかというと,科学的にはイマイチ怪しいというわけだ.
 
 「実証されていない」という言い方だとふつうの人には消極的に聞こえるというか,「悪影響は無い」のか「悪影響を検証する研究が行われてない」のかよく分からないかもしれないが,実証研究というのは「こういう効果があるはず」という仮説を立てて,その効果の検出を実験により試み,効果が明確に認められなければ「仮説は支持されなかった」と主張するというスタイルになっている.(念のため言っておくと,趣旨としてはそいう主張になっているということであって,統計的仮説検定の手続きはむしろその逆のロジックである.*2
 だから,効果が「ある」ということが判明するときはけっこう明快なのだが,効果が検出されていない段階でその結果をどう解釈するかは微妙な問題だ.
 「暴力的なゲームは暴力性を助長する」というのは,一つの仮説とは言えるが,こういう大雑把な命題は直接検証することができない.だから実験をやるときはこれをもっと細かく定義して,「こういう条件でこういう被験者にこういう刺激を与えると,こういう方法で計測されるこの数値にこういう効果が見られるはず」というような仮説に置き換えて検証することになる.そうすると,この仮説が実験により棄却されたところで,「いや,仮説の置き換えかたがちょっと変なんだよ」とかツッコミ始めればいくらでもいちゃもんを付けることはできる.
 これは血液型性格診断にも言えることで,心理学徒はだいたいしたり顔で「科学的に反証されている」とか言うのだが,反証されているのはあくまで上記のような「細かく定義した仮説」にすぎないので,血液型性格診断を信じる人は,「実験時に設定された仮説に問題があるかもしれない」と言い続ければ常に水掛け論に持ち込むことが可能である.
 実際,昔台湾人がアメリカで書いた血液型性格診断の論文を読んだら,「A型はやさしい,O型は外向的,B型は神経質,AB型は不誠実」*3という仮説を検証する形になっていたのだが,「え,それ仮説がちょっとおかしくね?」と日本人なら思ってしまうだろう.血液型によってビッグファイブ*4のスコアに偏りが無いことを示している論文などもあり,その論法に反論しようとすると研究蓄積の多いビッグファイブ仮説にケチをつけなければならないので,けっこう難しくなる気はする.
 
 

ゲーム脳に関する研究

 さてゲームの悪影響の話に戻ると,Google Scholarで10分ぐらい検索しただけなのだが,日本語で読める解説としてはイカのような2006年のお茶大の記事があった.
 ざっくり言えば「いろんな説があって難しいですね」みたいな話だ.


子どもたちの脳は今?(1)—ゲーム脳について—
子どもたちの脳は今?(2)—ゲーム脳について—
 
 

今までの研究では,視覚的知能がむしろ上昇するといわれています.空間表象能力,図像技能や視覚的注意も伸びる.テレビゲームはこれらの訓練になる.

一方では,確かにテレビゲームをしていると人と疎遠になるという影響はあるかもしれません.しかし,テレビゲームというのは,ソフトの貸し借りをするとか共通の話題をもつなど人間関係を円滑化する要素もあります.テレビゲームをやってうまくなると,みんなから尊敬される.向こうから寄ってくる.そうすると人間関係が下手な子どももうまくやれてしまう.両方の影響が,相殺されている.その証拠に,大学生以上になるとテレビゲームをやっていると不適応になるという研究データがあります.大学生くらいになるとテレビゲームができても尊敬されない.いい面の恩恵にあずかれないんですね.

学習説というのは,テレビの暴力シーンが暴力性を高めることを肯定する説でして,暴力が良いものであるとか,問題解決の手段として有効であるという価値観が学ばれてしまう.それが一番重要なことだといっています.これを実証している研究は多く見られます.(中略)今テレビの暴力シーンの悪影響があるかないかといえば,ある.ただ,それはあくまで要因の一つであって,暴力シーンを見ただけで犯罪が起きるとかいうことはまったくないわけです.


 など色々なことが言われている.大人がゲームやってるほうがヤバいようだwww
 

 少なくとも,「もともと暴力的だから暴力的なゲームを好んでやっている」のか「暴力的なゲームの影響で暴力的になったのか」が区別できないような研究も多いとか,ゲームには知能や社会的スキルの発達に肯定的な影響も存在するという説もあることなどは,知っておいて良いだろう.
 

最近の実証研究論文

 ところで,私は何となく今まで,よくしらないままに「ゲームの悪影響みたいな話は,科学的にはことごとく否定されている」みたいな印象を持っていたのだが,以下の論文をみてみたらそうでもなかったようだ.


Adachi, P. J., & Willoughby, T. (2011). The effect of video game competition and violence on aggressive behavior: Which characteristic has the greatest influence?


 2011年に出された比較的新しい論文である.冒頭あたりで先行研究に触れられているのだが,暴力的なゲームが子供の攻撃的な振舞いを助長するのかどうかについては色々研究があり,「そういう悪影響はみられなかった」という研究がいくつもある一方で,「やっぱり悪影響ある」ことを示す研究も存在するようだ.引用されてるのは比較的最近の,2000年代以降の論文が中心である.
 この論文の趣旨としては,ゲームの特性を「Violence」「Competitiveness」「Difficulty」「Pace of Action」の4側面に分けて評価し,特に「Violence」(暴力性)の効果と「Competitiveness」(競争性)の効果が先行研究においては分離されていないので,それぞれ独自の効果を改めて検証するという点に主眼が置かれている.
 
 
 どうでもいいっちゃどうでもいいが,ゲームの選定にあたっては,たとえばPilot Study 2のところで

After extensive testing by the first author, four games were selected that appeared to be matched on difficulty and pace of action. Two of the games appeared to be equally violent, and the other two games appeared to be equally nonviolent.

というような記述が出てくるように,筆者は相当なゲーマーであることが伺える.


 最初の実験について手続を一応書いておくと,まず被験者は「これから,ゲームに関する実験と,食べ物に関する実験の2つに参加してもらいます.両者は関係ありません」という教示を受ける.そして暴力的/非暴力的のいずれかのゲームをプレイさせられ,終了後にそのゲームの特徴を評価する質問に答える.
 次に,被験者の暴力性が測定されるのだが,その方法は,「別の人に飲ませるドリンクに入れるからし(hot source)の量を決めてください」という課題を与えるもので,要するにからしをたくさん入れようとする奴はサディスティックってわけだ.この"The hot source paradigm"(「からし法」とでも言えばいいのか?)という手法は別の研究から借りてきているもので,その妥当性を一応チェックするために,質問紙による攻撃性の測定もあわせて行っている.
 さらに,私は知らなかったのだが,suspiciousness questionnaireという質問紙に回答させて,実験の意図を見抜いている被験者を特定し,そういう被験者のデータは結果から除外している.


 結論としては,「暴力的な表現」それ自体は,少なくとも短期的にはプレイヤーの「攻撃的な振舞い」にさほど影響を及ぼしてはいないことを示している一方で,「競争性」は「攻撃的な振舞い」を助長しているという結果を示している.
 これは,冒頭の知恵袋の質問者の問題意識に近いと言えなくもないだろう.スプラトゥーンはまさに激しく「競争的」なゲームであり,これにハマっている廃人たちが,ローラーの待ち伏せに引っかかったり,同じチャージャーに何回も続けて狙撃されたり,ヤグラ上からの「カモン」が無視されたり,編成で事故って塗る係がいなくなったりするたびに,「イラっと」して攻撃性を高めていることは間違いない.


 なおこの論文では,被験者が大学生なので今後は他の年代でも実験しなければならないことや,短期の効果しか測定できていないので長期の影響は分からないといった限界が挙げられている.
 しかしその前に,「競争性が攻撃性を助長する」というのが正しいとして,それって「テレビゲーム」に限った話なのかという根本的な疑問があって,はたしてこの論文は「テレビゲームの悪影響」を論じているといえるのか否かも定かではないという気がしてくるな.そもそも論文1本斜め読みしたぐらいではよくわからないし.


 しかしまぁ,とりあえず,「ゲームの悪影響なんて科学的には否定されている」みたいなことを言う人がいたら,「いや,たしかに明確かつ系統だった証拠が得られているわけではないのですが,2011年にアメリカ心理学会のジャーナルに載ったカナダ人の論文をこないだ読んだら,ホットソースパラダイムという手法を用いた実験を行っていてですね…」とかしたり顔で語っておけば,「へぇ」等のリアクションを得ることぐらいはできると思われる.


 なお個人的には,テレビゲームの悪影響は,視力に関するもの以外はあまりないと思っている.子どもなんてどうせずっと遊んでるんだし.
 スプラトゥーンについていうと,競争性もあるだろうけど,その一方で仲間とともにがんばるみたいな,世間的には良いとされている感覚が刺激されているようにも思う.
 もはや研究とか関係ない単なる個人的な感覚論だけど.


 ・・・さて,タイトルで「考える」と謳った割にまだ大して考えてないわけですが,これ以上時間を使うわけにもイカなくなってきたので,自分の研究に戻ります.

*1:あとで考えたら,買ったような気もしてきた.きちんと読んでないことは間違いないが.

*2:「効果がない」という帰無仮説を立てて,統計的に,その帰無仮説を棄却することで,もとの仮説を支持するという段取りになる.

*3:台湾や香港における「血液型性格診断」はそういう内容になっていると書いてあったと思う.

*4:人間の性格を測定する尺度をいろいろ精査していくと結局5つの要因に収斂していくという,長年に渡り支持されている有名な学説がある.

安倍談話を読んで思い出した「戦前日本の軍事行動の正当性」の話

 敗戦後70年の安倍談話を読むと、前半のあたりにちょっとだけ日本のホシュ派が長年言いたがっていたようなことが盛り込まれていて、安倍首相は満足しているのかもしれない。

 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。


平成27年8月14日 内閣総理大臣談話 | 平成27年 | 総理指示・談話など | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ


 19世紀の終わりから20世紀前半にかけての日本の軍事行動は「正しかったのか否か」みたいな二分法で話そうとする限り、安部首相の言ってることはよく分からなくて「結局どっちなんだよ」と言いたくなる人も多いかも知れない。日本が追い詰められていたという側面と、日本が世界の大勢を見失ったという側面の両方に言及しているから(そんな麗しい意思が大勢を占めていたとまで言えるかは疑問だけど)、欧米列強と日本のどちらが悪いと言いたいのか曖昧なわけなのだが、これはそもそもハッキリ割り切れる問題ではない。
 この談話に不足があるとすれば、誰かが悪いという話の前に、当時のグローバルな政治・経済のシステムそのものが悲劇を準備した面や制御不能だった面もあるのだということを、もっと明確に言えばいいのにということだろうか。
 談話の後半はいつもながら「そこまで卑屈になる必要はないのでは」と思ったが、これはまぁ定番ネタ化しているものなので、時候の挨拶みたいなものだと思って気にしないことにする。


 ところで、上記のような歴史の流れについて考えていて思い出すのは、昔、評論家N先生の私塾で行われた次のような議論だ。
 N先生がいきなりホワイトボードに、下図のようなグラフを描き始めた。(実際は、座標軸と曲線を描いて斜線で塗ったぐらいだったと思う。文字は私が補った。)


f:id:midnightseminar:20150815163001p:plain:w800


 N先生は次のように言っていた。
 まず開国後に富国強兵の努力をして日清・日露の戦いへ進むぐらいは、当時の帝国主義の時代状況にあっては、ほぼ自衛的な振る舞いと言えるだろう。しかし対華21箇条要求の当たりから日本は調子に乗りすぎた面があって、当時の状況下でも正当とは言い切れないような膨張政策を取るようになっていった。
 ちょうど、世界が帝国主義からの脱却や戦争の違法化などの転換を迎えつつある時代であったことも考えると、結果的には1周乗り遅れた感もある。中国への進出も、満州ぐらいは空き地だったから許されるかもしれないが南京まで攻めていくのはさすがに侵略性なしとは言えないだろう。
 ところが当時の世界は相変わらず国際協調の時代とは言いがたい面があって、枢軸vs英米vsソ連で縄張り争いをしていたわけだし、米英が日本と戦う蒋介石を支援したのもべつに平和主義に突き動かされてのものではない。そして石油の禁輸を始めとするABCD包囲網が敷かれていって、日本も資源確保のために東南アジアへ進出する必要が出てきたわけである。また甲案・乙案・ハルノートに至る日米交渉の経緯をみても、日本が「追い詰められていった」面は多分にあって、太平洋戦争*1についてはほぼ自衛戦争であると言えるだろう。


 それで上図のようなグラフを描いて、日本の軍事行動の正当性はだんだん下がって最後に跳ね上がるという感じで捉えておけばよいという話をされていた。もちろんグラフで描いて終了というのは大雑把過ぎるのだが、「正しかったか否か」みたいな二分法の議論に比べればまだこのほうが良いだろうというぐらいの意味で描かれたものだ。
 その上で、どうしても「全体として正しかったかどうか」を議論したいのであれば、この大義の度合いを開国から敗戦まで積分すればよい。ということで当時その私塾の塾生で東工大教授でもあったF先生に、理系だからというだけの理由で話が振られ、「F君、この斜線で塗った部分の面積は全体の何割ぐらいかね」とN先生が問い、F先生が「うーん半分をやや超えてますね」とテキトーな返事をすることになった。それでN先生も「だろ?」とか言って、歴史の流れの中で過ちも多分に存在したものの、全体として近代前半の日本の行動は肯定的に捉えることが可能だという結論に至った。


 もちろんこれらは冗談まじりの議論だったのであって、私も「先生が勝手に描いたグラフから割合を判断していいんすか」みたいなことを突っ込んでゲラゲラ笑った気がするのだが、上図のような捉え方はけっこう示唆に富んでいて、頭の整理をするにはいいだろうと思う。

*1:中国方面の戦いと区別して太平洋戦争と言っている。

「PCやタブレットより紙で読むほうが効率的だ」という実証研究いろいろ

 最近職場でペーパーレス化を進めようという号令がかかり,たとえば資料を紙で印刷して説明するのはやめて,データで送って予め見てもらってから打ち合わせするようにしましょうとかいう話になった.すでに,作成中の資料を印刷して相談にきた若手社員を係長が「印刷しないでって言われてるよね」と叱り飛ばすといった事案も起きている.
 まぁそんなに厳しいルールでもないので別にいいのだが,ふと「紙のほうが作業効率が高いということが明らかになった場合,それがペーパーレス化によるコスト削減効果を上回っていたら,本末転倒じゃね?」みたいな天邪鬼発言を予定して,裏付けとなる研究が無いか探してみた.
 というか,そういう研究がネットの記事になっていたのは以前みたことがあったので,まずそれを確認した.
 まず,発光型のデバイスで読む場合,反射光で読む紙の場合とは脳の反応が異なるという研究があるという記事.

プリントアウトした方が間違いに気づきやすいワケ - A Successful Failure


マクルーハンは、我々が映画を見る時とTVを見る時とでは脳の受容モードが異なると指摘し、米国の広告研究家であるハーバート・クルッグマン(Herbert Krugman)の研究を引用している。クルッグマンは被験者を2つのグループに分け、同じ映画を見せた。ただし、一方のグループにはスクリーンに投影した反射光として見せ、もう一方のグループには半透明スクリーンの裏から投射した透過光として見せたのである。


(中略)


発光型デバイスであるモニタを見るときには、脳はパタン認識・くつろぎモードになるため、文書を見ても全体を絵柄として捉え細部に注意がいかなくなり、ぼんやりとくつろいで見ることになり間違いに気づきにくくなる。一方、紙にプリントアウトすると、それは反射光となるため、脳は分析・批評モードに切り替わり、文書を細部まで細かくチェックすることが可能となる。そのため、間違いに気づきやすいというわけだ。文章をチェックするときに、一旦紙にプリントアウトして見ることは、理に適った行動なのだ。


(中略)


2013年7月、トッパン・フォームズは、国際医療福祉大学の中川雅文教授(医学博士)の監修のもと、近赤外分光法(NIRS)を用いて、人がある特定の活動をするときに脳のどの部位が関わっているのかを調べることができる近赤外光イメージング装置を利用し、DMに接したときの脳の反応を測定した結果を発表した。
同じ情報であっても紙媒体(反射光)とディスプレー(透過光)では脳は全く違う反応を示し、特に脳内の情報を理解しようとする箇所(前頭前皮質)の反応は紙媒体の方が強く、ディスプレーよりも紙媒体の方が情報を理解させるのに優れていることや、DMは連続的に同じテーマで送った方が深く理解してもらえることなどが確認されました。


 これだけでは詳しいことは分からないが,目が疲れるだけでなく,脳の反応にも影響あるということか.個人的には逆に、紙の方が分析的というよりは直感的に捉えることができて、間違いを見つけやすい気もするが。


 デバイス(メディア)の違いが文章読解に与える影響を研究しているノルウェーの研究者の最近の実験が紹介されている記事もあった.

電子書籍より紙の本で読んだほうが、内容をよく記憶できる:研究結果 | ライフハッカー[日本版]


ノルウェイのスタヴァンゲル大学の研究者、アン・マンゲン(Anne Mangen)氏の新しい研究では、50人の被験者に28ページの短編小説を読んでもらい、後から重要なシーンをどれくらい思いだせるかをテストしました。このとき、被験者の半分はKindleで、残りの半分はペーパーバックで読んでもらいました。
登場人物や設定を思い出すことに関しては、どちらのグループも同程度の成績だったと、ガーディアン紙が報告しています。ところが、物語のプロットを再構築するよう頼んだところ、大きな違いが見られました。電子書籍で読んだ人は、14のストーリーイベントを正しい順番に並べるテストにおいて、著しく悪い成績を示しました。
(中略)
「物語の進行に合わせて紙をめくっていくという作業が、一種の感覚的な補助となります。すなわち、触覚が、視覚をサポートするのです」とマンゲン氏。「おそらくこのことが、読書の進捗度合いと、物語の進行度合いを、よりはっきりと印象付けるのでしょう」


 なるほど.確かに,読むときも書くときもだけど,身体的な感覚と意識のあいだにはやはり関係があるような気はする.
 で,上記の電子書籍の実験とは別のものなのだが,このマンゲン氏の下記の論文を読んだので以下に紹介しておきます.


 Mangen, A., Walgermo, B. R., & Brønnick, K. (2013). Reading linear texts on paper versus computer screen: Effects on reading comprehension. International Journal of Educational Research, 58, 61-68.


 この論文で報告されているマンゲン氏の実験そのものも大事なのだが,先行研究レビューの箇所を読むのがむしろ目的だった.
 マンゲン氏の紹介によると,たとえばWästlund, Reinikka, Norlander, & Archer(2005)は,紙とコンピュータのぞれぞれに被験者を割り当ててテキストを読ませ,内容に関する質問に答えたり,内容を要約してヘッドラインを書くという課題を与えた.結果,コンピュータ条件の被験者は有意に成績が悪く,またストレスや疲労のスコアも高かった.コンピュータ上での読解は,紙に比べて認知的な負荷が高くなっていることが示唆されている.


 Noyes & Garland(2003)によると,物事の思い出し方には2種類あり,"remember"は関連する知識から連想的に検索する方法で,"know"はより直接的に該当の知識にたどり着くことができるものとされる.
 紙とコンピュータのそれぞれで被験者にテキストを読ませて比較する実験を行うと,紙で読んだ人は内容をrememberで思い出す割合とknowで思い出す割合が同じぐらいだったのが,コンピュータで読んだグループの人はrememberが2倍ぐらい多かった.Noyesらは,コンピュータ画面が長期記憶を生成する過程に影響を与えているのではないかと指摘している.


 Garland & Noyes(2004)でも同じ結果が出ていて,episodic memory(エピソード記憶)がsemantic memory(意味記憶)に転換するプロセスが,メディアに影響を受けていると指摘されている.
 結論としては,紙で勉強したほうが,"schematization"(心理学の用語で,知識を後の判断に使える枠組みとして蓄積していくこと)の障害が少なく,学習が早くて,検索しやすい記憶が残るそうだ.


 Kerr & Symons(2006)は,5年生(日本の何年生に当たるかは知らん)に紙と電子画面でテキストを読ませる実験をしている.マンゲン氏によると,子供を被験者とした実験は事例が少ないそうだ.
 この実験では,紙で読んだほうがスピードは速いのだが,コンピュータで読んだ場合のほうがたくさんの情報を思い出すことができた.この点だけをみると他の研究とは逆の結果であるようにも思えるが,読解テストで内容をより深く理解していたのは紙で読んだグループのほうだった.つまり,コンピュータのほうがゆっくり読んだ分たくさんの情報を思い出せただけかも知れないし,紙のほうが読解時間が短かったにもかかわらず理解が深かったということは,表面的な情報取得については紙が優位ではない可能性もあるが,“理解”の効率は紙のほうが良いということが示唆される.


 また,論文やレポート等を添削するタスクの効率に実験はいろんな国で行われているらしく (Coniam, 2011; Johnson, Hopkin & Shiell, 2011; Johnson & Nádas, 2009; Johnson, Na ́das & Bell, 2010),総じて,添削者がコンピュータ上で作業した場合(スキャンしたデータ上でマークしたり,コメントを書き込んだりする),紙でやった場合に比べて,レポートの内容をよく思い出せなくなることが知られているとのことだ.


 さて,マンゲン氏がこの論文中で報告している自身の実験は,ノルウェーの10年生(15-16歳)72人に,物語文と説明文をそれぞれ紙とPDFで読ませ,その後に読解テストを行うというものである.
 仮説は,
 1 紙で読んだほうが,内容をよく理解できる
 2 説明文のほうが認知的な負荷が高いので,媒体による影響をより強く受ける
というもの.


 実験の前に国語(読解力やボキャブラリー)のテストを行ってある.事前テストも本テストも,素材は公的な学力テストの機関作成のものから取ってきている.
 グループ分けしてそれぞれ紙・PDFでテキストを読ませた後に読解テストを行って,事前テストのスコアと,グループごとの本実験読解スコアを用いて,sequential regression analysisを行った.sequential regression analysisって何なのかよく知らないのだが,中身を読むと,重回帰モデルに変数を順次投入していって分散説明率の変化を見ているようだ.


 まず事前テストの点数が紙/電子グループによって異なるかを検定し,有意に異ならないことを示している.
 次に,本実験読解のスコアを被説明変数として,それを説明する重回帰モデルを構成する.まず事前テストのスコア(3項目ある)だけの重回帰モデルで全体の分散をどれだけ説明できるかを算出し(STEP1),その後に性別を変数として投入し(STEP2),最後に紙/電子化の区別を変数として投入して(STEP3),分散説明率の変化を見ている.
 結論として,紙/電子という変数を投入することでモデルの説明力は有意に向上し,紙か電子化という変数の回帰係数も有意となっている.
 なお,説明文と物語文で有意な違いはみられなかった.


 引用されてた以下の文献も読もうかと思ったが,職場でネタにする分には上記の内容で十分なので,ひとまずやめておいた.

  • Wästlund, E., Reinikka, H., Norlander, T., & Archer, T. (2005). Effects of VDT and paper presentation on consumption and production of information: Psychological

and physiological factors. Computers in Human Behavior, 21, 377–394.

  • Noyes, J. M., & Garland, K. J. (2003). VDT versus paper-based text: Reply to Mayes, Sims and Koonce. International Journal of Industrial Ergonomics, 31, 411–423.
  • Garland, K. J., & Noyes, J. M. (2004). CRT monitors: Do they interfere with learning? Behaviour and Information Technology, 23(1), 43–52.
  • Kerr, M. A., & Symons, S. E. (2006). Computerized presentation of text: Effects on children’s reading of informational material. Reading and Writing, 19(1), 1–19.

アメリカの裁判所で起きた珍事について

同級生の女の子に裁かれる犯罪者

 アメリカの裁判所で、中学の同級生だった男女が、被告人と裁判官として偶然再会するという珍事があったらしい。


www.huffingtonpost.jp
 
 

オレンジ色の囚人服を着たアーサー・ブース被告の顔を見て、ミンディー・グレーザー裁判官が「ちょと質問があります。あなたはノーチラス中学出身ですか?」と尋ねた。すると、ブース被告は「ああ、なんてこった!(Oh my goodness!)」と頭を抱えて号泣し出したのだ。
実は、ブース被告とグレーザー裁判官は中学校の同級生だった。この運命のいたずらに、グレーザー裁判官は「ここで会うとは残念です。いつも貴方がどうしているか気になっていました。人生がいい方向に向かうことを祈っています」と優しく声をかけたという。


 英語の解説をしているブログで、たまたまこの話題が取り上げられていて、動画の日本語訳も載っていた。
 http://oceanview2015.com/2342.htmloceanview2015.com


 英文のニュース記事を読むと背景が少し詳しく書いてあって、ブース被告の従姉妹のコメントも紹介されている。
 www.local10.com
 www.nydailynews.com



 グレーザー裁判官(女性)がブース被告について、「中学校では最高の少年だったのに、こんなところで再会することになって残念だ」と言っているのに呼応して、ブース被告の従姉妹も「子供のころは勉強もスポーツもできてバイリンガルで、将来有望な少年だったのだが、なぜかその後は大学へも進まず、犯罪とドラッグの道を歩むことになってしまった」と振り返っている。
 グレーザー裁判官の「いつもあなたがどうしているか気になっていました」というセリフそのものは、深い意味はなく「久しぶり」ぐらいの挨拶であるような気もするが、勝手に想像すると、たとえば「あんなに優秀だったアーサー(・ブース)が中学を卒業してからグレてしまって、残念だ」という話は同級生の間でも話題になっていて、そういう噂を聞いて少し心配していたというぐらいのことはあるかも知れない。


 ところでこのニュース、同級生との再会そのものはある種の「いい話」としながらも、ブース氏が犯罪者人生を歩むことになったことを「残念な話」として受け取る人が大半だろう。しかしヘンなことを言うようなのだが、私はこういう、高校ぐらいからグレていく人たちの人生に、あまり悪い印象を抱かない。好きというと語弊があるのだが、何か人生について考える上で重要なものを彼らが体現しているように思えて、気になってしまうのである。
 自分の小中学校の同級生にもそういう奴らが多少いて、付き合いもほとんどないので噂で聞く程度だし、困ったことがあれば力になってやろうみたいな気も(能力も)ないのだが、感情の問題として、「グレていった奴らの人生」を他人事として突き放すことがどうしてもできない。
 「人生の分岐の可能性として、自分にもあり得た」という意識がどこかにあるのだろうかとも思ったが、おそらくそんな、自分を中心にした狭い範囲の関心ではなくて、「人生とはしばしばこういうもんだ」みたいな一般性のある感覚に訴えるものがあるのだろう。


樋口一葉の『十三夜』を思い出した

 このニュースを読んで、樋口一葉の『十三夜』を思い出した。(青空文庫でも読める。
 以下完全なネタバレなので、読んでない人は注意してください。


 『十三夜』は、貧乏な家庭に生まれながら器量のよさで大金持ちの役人に見初められて嫁に行き、子供も一人生んでいる主人公の関子が、旦那との生活が嫌になって深夜に脱走して実家に戻ってくるシーンから始まる。教養がないから上流家庭の生活に馴染めないのだが、それを夫にいちいちなじられるので耐えられない、という話だ。関子は、旦那があまりにも非人間的だと泣くのだが、父親は同情しながら、「家としての立場もあるし、子供のこともあるから、どうか我慢してほしい」と説得する。結局関子は「自分が我慢をすればいいのだ。子供だけはしっかり育てよう」と腹をくくって、夜明け前までに急いで戻ることにする。
 帰り道で関子は人力車を拾うのだが、自宅の近所に着いて降ろしてもらう時に、その車引きが幼馴染の録さんであることに気づく。車引きといえば、当時は要するに最下層クラスの“賎業”で、被差別階級の仕事でもあったはずだ。
 録さんも子供の頃はとても魅力的な少年で、確かタバコ屋か何かの息子なのだが、関子は密かに禄さんに恋をしていた。「録さんのところに嫁いで、毎日、新聞でも読みながら店番をするんだ」というような将来の自分を想像していたのだが、人生そう思い通りには行かないもので、何の因果か好きでもない金持ちの家に嫁ぐことになってしまった。
 そしてここからがブース被告みたいな話なのだが、この録さんがある時から飲んだくれてどうしようもなくなったという話は町でも噂になっていて、関子もずっと心配していた。それでバッタリ再会したと思ったら、噂どおり昔の録さんからは想像もつかないような薄汚い車引きになっていて、録さん本人も恥ずかしい姿を見られて恐縮している。
 物語の描写では、じつは録さんも子供の頃からひそかに関子に好意を寄せていて、録さんがグレ始めたのはちょうど関子が金持ち旦那の家に嫁いでからだったようだ。
 関子は変わり果てた録さんに心底同情して、車代とは別に少しお金を渡し、「久しぶりで話したいことはたくさんあるけど、そうもいかない。どうか以前のような録さんになって、立派にお店を開くところをみせてほしい。わたしも陰ながら祈っている」と言って別れるシーンで物語は終わる。


 最後の「其人は東へ、此人は南へ、大路の柳月のかげに靡いて力なささうの塗り下駄のおと、村田*1の二階も原田*2の奧も憂きはお互ひの世におもふ事多し」という描写は最高に美しい。一葉の作品は『たけくらべ』や『にごりえ』のほうが有名だが、私はこの『十三夜』が一番好きで、学生時代に何回も読み返した。


 ブース被告とグレーザー裁判官が子供の頃はお互い惚れ合っていて……というような想像まではさすがにしなかったが(笑)、将来有望だった少年がグレてしまい、久しぶりに再会した女の同級生に高いところから見下ろされるというプロットが重なって、思い出してしまった。


 そういえば、西部邁先生が子供の頃からの唯一の親友・海野氏について書いた『友情』というエッセイがあるのだが、この海野氏も札幌南高校という超優秀な高校を卒業しながら、東大教授になる西部邁とは正反対に、ヤクザになって覚せい剤などで逮捕され、最期は自殺するという壮絶な人生を送った人だ。
 西部先生は海野氏を、最後まで「唯一の親友」として描いている。結果だけ見れば一般の道徳観からは「ろくでなし」ということになるのかもしれないが、ろくでなしの人生にも正義や美しさがあって、忘れるわけにはいかないのだ。


友情

友情

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*1:録さんが居候してる家

*2:関子が嫁いだ家

武力行使の「大義」の問題について

 安保法制の問題で、こういう記事があった。
 www.news-postseven.com
 
 中身を読むと、次のようなことが述べられている。
 

<この国の法案が通れば、他の国の戦争に日本の若者が巻き込まれ、命を落としたり、あるいは人を殺してしまう危険性が高まるということです。そんなこと絶対、許してはなりません!>
 
 私は、この演説からしてすでに違和感を覚える。揚げ足を取ろうというわけでは決してないと断った上で言えば、他の国の戦争に巻き込まれて命を落としたり人を殺してしまう危険性が高まるのは「日本の若者」か? 違うだろう。それは「日本の自衛官」だ。細かな言葉の問題ではなく、これは大きな認識のズレである。

 
 記事のタイトルを見た時は、「『ぼく達は戦争に行かないぞ』というのはおかしい。アメリカの都合で戦うのはゴメンだという話しならわかるが、日本のために必要ならば戦うしかないではないか」というような趣旨の記事を想像したのだが、そうではなかったようだ。
 死ぬのは若者一般ではなく自衛官なのであり、「僕たちは戦争に行かないぞ」的な叫びには、民主的な意思決定の下で*1派遣される自衛官の生命に対して国民が負うべき責任意識というものが感じられない、というほどの論旨である。
 

 海の向こうの戦地で自衛官が亡くなったとしよう。ついに戦後の平和が終焉したと日本中が大騒ぎになるだろう。でも、亡くなった自衛官の扱いはどうなるのか。多くの日本人は悲劇の主人公としてマスコミが語るその自衛官に同情しながら、同時に、本音のところでは「自分から自衛隊に入ったのだから仕方ない」と突き放すのではないか。日本人お得意の自己責任論で。

 

迷彩服の自衛官の横顔の写真をバックに、「私たちは自衛隊員の皆さんが戦死するのを見たくありません。」というキャッチコピー。
 そう、私たちは見たくはないのである。でもその見たくはない自衛隊員の死は、我々日本人のためにおきた出来事だ。構造的にはアメリカのご都合のために、かもしれないが、亡くなった自衛官は日本のために戦地へ赴いたに違いない。そういう大義がなければ、人は自分の命を賭すことをできない。自衛官が死んだなら、その死の責任は我々国民にあると、まずそう認識するところから始めるべきなのだ。でなければ、何をどう叫ぼうが、そんなものは被害者ぶりっ子のたわごとだ。

 
 細かく考えるとこの筆者が何を言いたいのかは正確にはわからないのだが、一つ重要なことは、集団的自衛権の議論というのは、戦争ができる国になるかならないか、死人が出るか出ないかみたいな問題ではなく、自衛隊員をどこかに派遣して殺し合いをさせるための「大義」を適切に構成できるかどうかの問題だということだ。
 いや、正しくは、「大義」のある戦いにしか自衛隊員を派遣しないように適切に政治的決定を行って行けるか、ということだ。そして「大義のある戦い」には、論理的には、集団的自衛権の行使に該当するようなものも含まれるだろう。
 もちろん大義の問題とは別に、憲法に合致しているかしていないかという目先の問題もあるし、世間的にはそればかりが話題になってるわけだが。
 
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 この図でいうと*2、本来は赤い線を越えないように気をつけることが国民的・国家的課題なのだが、いま憲法をめぐって議論されているのは緑の線を越えるか否かという話だ。
 赤い線の内側と外側の区別をつけるための、成熟した議論、意思決定の仕組み、そして日本国家としての経験の蓄積が「不足している」と判断すれば、今はとりあえず緑の線の内側に留まっておけ、という判断をすることはあり得るだろう。
 実際、今回の安倍政権の説明をみていると、憲法解釈上の問題とは別に、赤い線がどの当たりにあるのかという認識もフワフワしている印象を受ける。国際政治学者の伊勢崎賢治氏(ネトウヨ的に言えば左翼ということになるのだろうが)がホルムズ海峡の掃海の例を挙げていて、「それって資源のため、経済的利益のために外国で武力行使しますって話しであり、そんな恥ずかしい議論を公の場でしないでもらいたい」とインターネットの動画で言っていたが、確かにこれは憲法上許されるかどうかの前に、そもそも武力行使のための大義に関する認識として適切であるのかどうかをもうちょっと慎重に議論して欲しいところだ。
 
 伊勢崎氏はTwitterでも以下のように言っている。
 

民放から、なぜ安部首相がホルムズ海峡の機雷掃海にこだわるのかコメントをって。だーかーらー、資源をネタに武力行使を大っぴらに議論するなっていうの。議論していいのは、本土が武力攻撃される時の自衛のみ。国家存立危機は「電力不足の凍死」じゃダメなの。日本は「侵略」するって思われちゃうの。
https://twitter.com/isezakikenji/status/605310315408982016

 
 「本土が」という限定がどこまで必要なのかはよくわからないが(先ほどの緑の線に関わることとして言っているのか、赤い線に関わることとして言っているのかにもよる。)。
 
 もちろん大義の有無というのは常に曖昧なところがあるのだが、「重要な問題は“大義の有無”をきちんと判断できるかどうかであって、自衛官を派遣するかしないかはそれに従属する論点である」という認識はハッキリさせて置かなければならない。「戦争に行きたくない」とか「自衛官を戦争に送り込みたくない」とかいう叫び声は、ちょっとズレているということである。
 
 とりあえず憲法の制約があるので、緑の線と赤い線はなるべく一致するように、解釈を変えるなり改憲を行うなりして欲しいが(私は現行憲法の解釈論争にはそこまで関心はない)、赤い線の内に留まるか外に出てしまうかというのは、人類が何度も間違いを犯してきた(しかも何が正しいのか決定が困難な)やっかいな課題だ。
 しかしその判断の責任から逃れることも難しい。だからこそ、赤い線をめぐる判断のための議論が成熟している必要があり、簡単に言えば日本人が高い判断能力を持てるかどうかが重要なのである。それに比べれば、戦争に行きたくないとかいう単なる感情も、憲法に合致しているかという単なる文理上の論争も、重要度は劣ると言える。
 
 
 こういう話に関連して私はよく引用するのだが、マイケル・ムーアの『華氏911』の一節に触れておこう。
 この映画はイラク戦争に関するものだが、後半では、アメリカではたくさんの貧乏な若者が奨学金目的で(軍からの甘い勧誘に応じる形で)兵役に就いている実態を明らかにする取材を行っていて、彼らをイラク戦争に派遣してたくさんの死者を出していることの倫理性を問う次のようなナレーションがある。
 

I’ve always been amazed that the very people forced to live in the worst parts of town, go to the worst schools, and who have it the hardest are always the first to step up, to defend us. They serve so that we don’t have to. They offer to give up their lives so that we can be free. It is remarkably their gift to us. And all they ask for in return is that we never send them into harm’s way unless it is absolutely necessary. Will they ever trust us again?”
 
僕は、いつも感心する。
極貧の町に住み、最悪の学校へ行き、底辺で生きる人々。
彼らが率先して、その上の社会を守るために進み出る。
僕らの替わりに生命を差し出し、そのおかげで僕らの自由が守られている。
これは彼らから僕たちへの、とてつもない贈り物だ。
彼らが求める見返りはただ一つ。
彼らを戦地へ送りこむのは、それが是が非でも必要な時に限るという信頼だ。
その信頼を裏切ってないか?

 
 大義のない戦いに自衛官を派遣するようなバカなことは、絶対にしないという信頼感。それが唯一、我々文民が命を賭けて戦う軍人に対してなし得る「見返り」であり、この信頼を失った時、安全保障の論理が根幹から崩れてしまう(イラク戦争への加担を通じて既に失ってる気もするが)。
 我々市民社会の側が、自衛官に対し「大義」を与えられるだけの成熟した議論と判断能力を持ち得るかこそが問われるべきなのだという意味で、冒頭の記事が言いたかったことも同じかもしれない*3
 まぁ、安倍政権を戴いている限り無理だろう。

*1:いわゆる非常事態条項があれば話は別だが。

*2:憲法は厳格な専守防衛を謳っており、自衛のための戦いに「大義のない戦い」はあり得ないとする。

*3:自衛隊は軍隊ではないとかいう話は措いておく。

咳喘息の薬

 今日から下の写真のような薬を吸い始めました。
 
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 内科でもらってきた咳止めなんですが、先生曰く、「飲み薬を3つ4つ飲んでも、こいつには敵わない」というレベルの強力な吸い薬らしいです。(飲み薬ももらったのですが。)
 中には細かい粉末が入っていて、口から吸うと、気道の粘膜とかに貼り付いて炎症を治めてくれるようです。粉を吸うというのは始めてで、吸う前は抵抗ありましたが、吸ってみると気持ち悪い感じは全く無いですね。
 たぶん1週間ぐらいで治るんじゃないかと期待しております。
 

 10日ぐらい前から咳が酷かったので内科にいってきたわけですが、咳喘息だと言われました。私の場合、3〜4年に1回発症しています。子どものころは全くなかったですが、大学生の時に最初になって以来、数年置きに発症している。 
 去年か一昨年か忘れたけど、その時も先生にいろいろ聞いたのに結構忘れていたことがあるので、メモっておきます。
 
 
 ネットで見たら、
 安眠を妨げる辛い咳喘息厄介だが過度に怖がるべきではない|男の健康|ダイヤモンド・オンライン
 こういうめちゃめちゃ分かりやすい解説もありました。症状とかもこの説明のとおりだし、だいたい10日目ぐらいで心配になって診察にくるという点まで完全に一致w
 ここで最後に紹介されている「吸入用ステロイド」ってのは、私が今回もらった吸い薬ですね。
 
 
 喘息といっても呼吸困難になるようなものではなく、風邪の直後に発症して、酷い咳が続き、数週間で治るものです。ただ、朝から番までずっと咳が出ているのはかなり辛いものではあります。
 風邪のときにちょっとゴホゴホするような咳ではなく、もっと一発一発が大きいもので、それがとにかく一日中出まくるということです。正確にいうと「一発」といっても、息を吸い込む回数でいうと2回ずつぐらいがセットになっており、今回でいうとそれが10分ぐらい置きに出ていて、今は少し落ち着いて1時間に1回ぐらい。
 咳が出そうになったら我慢するのは不可能で、人と話していても飯を食っていても容赦なく咳が出ます。仕事の打ち合わせで自分が何か資料にそって説明しているときなんかは、我慢しようとするわけですが、出そうになると我慢は絶対無理。 
 しかも1回1回が大きな咳なので身体の負担も大きく、今回は右の胸(おっぱいの下の方)と背中が捻挫したような痛みを抱えていて、咳をするたびに激痛で悶ます。呼吸をするだけでしんどいというほどのことではないけど、例えば鼻をかむのとかウンコをきばるのは辛い。先生によると、女性の場合はこの咳で肋骨にヒビが入る場合もあり、自分で音が聞こえたという人もいるとか。
 市販の咳止めは全く効きません。しかし病院でもらった強力な咳止めを飲み始めると、これまでの経験では1日か2日で咳がだいぶ楽になり、1週間もあれば治ってしまう。
 
  
 3〜4年に1回といっても、じつは前回は昨年でした。前回は、昼間は比較的頻度が少なくて夜に多くなるというものだったんですが、今回は昼も夜もあまり頻度は変わらない。
 上記サイトの解説でも、夜にひどくなるという人は多いらしい。そういえば以前医者にかかったとき言われたのは、「夜の間は気管が収縮しているので、昼よりもひどくなるんだ」とのことでした。上記サイトでは血流がどうのこうのと別の説明がされている。
 寝る時に座椅子を使って身体を少し起こした状態にしておくと、少しマシになりましたが、辛いことに変わりはありません。
 
 
 私は前回同じ症状が出たのも同じ季節だったと思うので、その話を先生にしたら、「今の時期は湿気によって小さいダニ等が繁殖しやすく、それが粘膜を敏感にするきっかけになっている可能性がある」と言っていた。噛んだりする通常のダニではなく、もっと小さいやつらしい。
 ググったら、咳喘息ではないがアレルギー性気管支炎の解説に、
 
 

 http://www.1shibafu.net/arerugi/2006/05/post_130.html
 
 アレルギー性気管支炎の原因はヒョウダニやハウスダスト、花粉やカビなどが主な原因と言われています。風邪をひいて気管支が弱まっているところに、アレルゲン物質が付着し、ヒスタミンなどが過剰に分泌されることが原因で起こるとされています。

アレルギー性気管支炎の原因の一つであるハウスダストとは空気中に存在する、ホコリやチリ、ダニやダニの死骸・フン、食べかす、犬や猫などのペットの毛、人の毛髪、ふけ、赤、植物の花粉、たばこの煙粒子など目に見えないものをまとめてハウスダストと呼んでいます。掃除をしてもそのホコリが空気中に舞い上がり、アレルギー性気管支炎などの原因となります。

 
 
 と書かれていて、似たようなものなんじゃないかと思われる。今年は引っ越したばかりで、家は綺麗なはずなんだが……。


《追記》
 先生からは、とりあえずこの薬をしばらく使って治らなかったら、アレルギー検査をしてピンポイントでの治療に切り替えていこうと言われましたが、3〜4日で良くなりました。なので今回も、アレルギー検査はせず終いです。

マーサ・スタウト著『良心をもたない人たち』("The Sociopath Next Door")が規定する「サイコパス」の特徴

 

良心をもたない人たち (草思社文庫)

良心をもたない人たち (草思社文庫)


 著者は臨床心理学者。本書の主張は、とにかく「良心をもたない人たち」ってのが一定割合は世の中に存在していて、彼らは「良心のある人たち」が期待するよりもはるかに理解し合うことが難しい(というか不可能な)相手なので、気をつけましょうということである。
 トンデモ本っぽく読むこともできると思うが、個人的には納得のいく(頭に実例が思い浮かんでリアリティを感じられる)内容だった。


 本書の中で私が主に関心を持ったのは、著者が「良心をもたない人たち」の特徴を規定している記述群で、「あーこれは当てはまる例あるわ」とか思いながら読み進めた。
 他にも、「良心」というものをめぐる哲学・心理学における学説史や、利他的行動についての学説史が紹介されており、また著者が臨床に携わった「良心をもたない人たち」の事例研究*1も含まれている。


 なお本書中では、「良心をもたない人たち」を「サイコパス」と呼んでいる。ソシオパスという呼び方もあるらしく原題の英語はそれなのだが、邦訳書では一貫して「サイコパス」と書かれている。こんなにも「サイコパス」という語が繰り返される真面目な本もなかなかないだろう、という感じがした。


 以下、著者が規定する「サイコパス」=「良心をもたない人たち」の特徴をいくつか抜粋しておく。
 どこか西の方に、これらの定義の大部分を体現したような地方政治家がいたような気がしたりしなかったり。

pp.7-8
 想像してみてほしい——もし想像がつくなら、の話だが。
 あなたに良心というものがかけらもなく、どんなことをしても罪の意識や良心の呵責を感じず、他人、友人、あるいは家族のしあわせのために、自制する気持ちがまるで働かないとしたら……。
 (中略)
 そして、責任という概念は自分とは無縁のもので、自分以外のばかなお人よしが文句も言わずに引き受けている重荷、としか感じられないとしたら。
 さらに、この風変わりな空想に、自分の精神構造がほかの人たちと極端にちがうことを、隠しおおせる能力というのも加えてみよう。
 (中略)
 言い換えると、あなたは良心の制約から完全に解き放たれていて、罪悪感なしになんでもしたい放題にできる。しかもそのうえ、良心に歯止めをかけられている大多数の人びとのあいだで、あなたが一風変わった有利な立場にいることは、都合よく隠すことができ、だれにも知られずにすむのだ。
 そんなあなたは、どんなふうに人生を送るだろう。

p.9
 IQが高く上昇志向が強い場合
 たとえばあなたが、金と権力が大好きな人で、良心はかけらもないが、IQはすばらしく高いとしたら……。
 あなたは、満々の野心と高い知能を背景に巨大な富と力を追い求め、厄介な良心の声にわずらわされることなく、成功を目指す他人の試みを片っ端から打ち砕くことができる。
 あなたは事業、政治、法律、金融、国際開発、その他もろもろの有力な職業を選び、冷たい情熱でひたすら上昇を目指し、月並な道徳や法律の足かせには目もくれない。
 (中略)
 あなたは、想像を絶した、ゆるぎない、そしておそらく世界的な成功を手にするかもしれない。それも当然だ。あなたは優秀な頭脳をもつと同時に、手綱を引く良心が欠けているのだから。あなたにできないことは、なにもない。


pp.10-11
 野心家だが知能はそこそこの場合
 (中略)
 野心は満々で、成功のためなら、良心をもつ人たちが考えもしないようなことを平気でできるが、知能的にはそれほど恵まれなかった場合。
 IQは平均以上で、人からは、頭がいい、切れ者だなどと思われることもあるかもしれない。だが、あなたは心の奥底で、自分には目立った財力や独創性がなく、ひそかに夢見ている権力の高みには手が届かないとわかっている。その結果あなたは、世の中全般に怒りを抱き、周囲の人びとをねたむようになる。
 このたぐいの人は、自分が少数の人びとをそこそこ支配できる穴場に身を沈める。
 (中略)
 あなたは自分の支配下にいる人たちを操作し、いばり散らす。
 (中略)
 あなたは多国籍企業の最高経営責任者にはなれないだろうが、少数の人びとをおびえさせ、おろおろと走りまわらせ、彼らから盗んだり——理想的には——彼らに自分がわるいのだと思われる状況をつくりあげることができる。

p.15
 精神医学の専門家の多くは、良心がほとんどない、ないしまったくない状態を、「反社会性人格障害」と呼んでいる。この矯正不可能な人格異常の存在は、現在アメリカでは人口の約4パーセントと考えられている——つまり25人の1人の割合だ。

p.16-17
一、社会的規範に順応できない
二、人をだます、操作する
三、衝動的である、計画性がない
四、カッとしやすい、攻撃的である
五、自分や他人の身の安全をまったく考えない
六、一貫した無責任さ
七、ほかのひとを傷つけたり虐待したり、ものを盗んだりしたあとで、良心の呵責を感じない


 ある個人にこれらの“症状”のうち三つがあてはまった場合、精神科医の多くは反社会性人格障害を疑う。
 だが、アメリカ精神医学会の定義は、実際のサイコパシーやソシオパシーではなく、たんなる“犯罪性”を説明するものだと考え、精神病質者(サイコパス)全体に共通するものとして、べつの特徴をつけ加えた研究者や臨床家もいる。そのなかで最もよく目につく特徴の一つが、口の達者さと表面的な魅力である。
 サイコパスは、それでほかの人びとの目もくもらせる——一種のオーラとかカリスマ性を放つのだ。
 (中略)
 この「サイコパスのカリスマ性」は、オーバーぎみの自尊心をともなうこともあり、最初のうちは相手をおそれ入らせるが、よく知るにつれて、人はうさん臭さを感じたり、失笑したりするようになる。

p.17
 感情の浅さも、サイコパスの目立った特徴である。口では愛していると言いながら、その愛情は底が浅く、長続きせず、ぞっとするほどの冷たさを感じさせる。

p.20
 およそ25人に1人の割合でサイコパス、つまり良心をもたない人たちがいる。彼らは善悪の区別がつかないわけではなく、区別はついても、行動が制限されないのだ。頭で善と悪のちがいはわかっても、ふつうの人びとのように感情が警鐘を鳴らし、赤信号をつけ、神を恐れることがない。罪悪感や良心の呵責がまったくないため、できないことはなにもない人たちが、25人に1人いる。

p.25
重要なのは、ほかの精神病(ナルシシズムもふくめて)の場合は、患者自身が実際にかなり悩んだり苦しんだりするという点だ。サイコパシーだけは当人に不快感がなく、患者が「気に病む」ことのない「病気」だ。
 良心をもたない人は、自分自身と、自分の生活に満足していることが多い。効果的な“治療法”がないのも、まさにそのためかもしれない。

p.76-77
 良心のない人びとは、自分がほかの人よりすぐれていると考えたがる。自分以外の者をお人よしで、間抜けなつまらない人間とみなし、なぜこれほど大勢の人たちが、だいじな野心のために人をあやつろうとしないのか理解できない。あるいは、人間はみなおなじだ——自分と同様、平気で悪事をする——たんに“良心”という絵空ごとを演じているにすぎないと決めつける。そして世の中でごまかしなく正直に生きているのは自分だけだとうそぶく。いんちきな社会で、自分だけが“ほんもの”なのだと。
 とはいえ私は、サイコパスも意識のずっと下のほうで、自分には何かが欠けている、ほかの人たちがもっている何かが自分にはないという、かすかなささやき声が聞こえるのではないかと考えている。というのも、実際にサイコパスたちが「むなしい」とか「うつろだ」と言うのを聞いたことがあるからだ。

p.77
 良心のない人が妬み、ゲームの中で破壊したいと望むのは、良心をもつ人の人格だ。そしてサイコパスが標的にするのは地球そのものや、物質的世界ではなく、人間である。サイコパスはほかの人びとにゲームをしかける。

p.123
矛盾するようだが、魅力はサイコパスの大きな特徴だ。良心なき人びとの強烈な魅力やいわく言いがたいカリスマ性については、多くの犠牲者が口にし、学者たちもサイコパスの診断上の特徴として位置づけている。
 私が診療にあたった犠牲者の多くは、サイコパスとつきあいはじめたのも、苦痛をあたえられながら関係をつづけたのも、相手があまりに魅力的だったからだと語った。

p.128
サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う。だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追及できなくなってしまう。あるいは逆の出方をする。追いつめられたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする。

p.135
サイコパスは“勝つ”こと、支配のための支配を目指して、人びとのあいだでゲームをおこなう。ふつうの人たちは、この動機を頭では理解できても、実際に目にすると、あまりに自分とかけはなれているため、“見すごす”ことが多い。

p.141
 多くの人は、悪しき事件をサイコパスと結びつけて考えたがらない。特定の人間だけが根っからの恥知らずで、ほかの人たちはちがうと認めるのが難しいからだ。それは人間の「影の理論」とでも言うべきもののためだ。影の理論——人はだれもみな、ふつうは表にでない「影の部分」をもっているという考え方である——は、極端に言えば、一人の人間にできることは、すべての人にもできるという主張につながる。(中略)皮肉なことに、善良でやさしい人ほど、この理論の極端な形を受け入れ、自分たちも特殊な状況に置かれたら、大量殺人を犯すかもしれないと考える。

p.171
 サイコパスとちがってナルシシストは心理的に苦痛を負い、セラピーを求めることが多い。ナルシシストが抱える問題の一つは、感情移入の能力を欠いているため、本人の知らないあいだに人との関係がこじれ、見捨てられて困惑し、孤独を感じることだ。愛する相手がいなくなったのを嘆くが、どうすれば取りもどせるかわからない。
 対照的にサイコパスは、ほかの人びとに関心をもたないため、自分が疎外され見捨てられても嘆いたりしない。せいぜい便利な道具がなくなったのを残念に思うくらいのものだ。

p.181
 残された数々の記録を調べると、サイコパスはさまざまな呼び名で、古くから世界各地に存在していたことがわかる。例をあげると、精神医学専門の人類学者ジェーン・M・マーフィーは、イヌイットの“クンランゲタ”について触れている。クンランゲタは、「自分がすべきことを知っていながら、それを実行しない人」を指す言葉だ。アラスカ北西部では、「たとえば、繰り返し嘘をつき、人をだまし、物を盗み、狩りに行かず、ほかの男たちが村を離れているとき、おおぜいの女たちと性交する」男が、クンランゲタと呼ばれた。イヌイットは暗黙のうちに、クンランゲタは治らないと考えていた。そして、マーフィーによれば、イヌイットのあいだでは昔から、こうした男を狩りに誘いだしたあと、だれも見ていない場所で氷の縁から突き落とすのが習わしだったという。

p.181
興味深いことに、東アジアの国々、とくに日本と中国では、かなりサイコパシーの割合が低い。台湾の地方と都市の両方でおこなわれた調査では、反社会性人格障害の割合が0.03から0.14パーセント。西欧世界における平均約4パーセントとくらべて、きわめて低い数字である。


p.183
個人主義と個人支配を強調する社会にくらべて、ある種の文化圏——その多くは東アジア——では、万物のあいだの相互関係が信仰として古来から重んじられている。興味深いことにこの価値観は、きずなにもとづく義務感という、良心の基本ともかさなる。
 (中略)
 他者にたいする義務感を知識として把握することは、良心という強い方向性のある感情をもつこととおなじではない。だが少なくとも、個人主義の社会に生まれたら反社会的行動に走ったかもしれない人間から、社会に反しない行動を引き出すことはできるだろう。


※メモ:もとの論文等をみていないが単なる「社会的望ましさバイアス」の出方の違いかもしれない

p.184-185
 文化圏のちがいを超え、人間社会全体の中で、愛や良心の欠如がプラスの要素、あるいは役に立つ要素とみなされる場合はあるだろうか。
 じつは、一つだけある。犠牲となるのがカエルであろうと人であろうと、サイコパスは悩むことなく相手を殺すことができる。良心なき人びとは、感情をもたない優秀な戦士になれるのだ。
 (中略)
良心なしに行動できる戦士について、デイヴ・グロスマン中佐は『人殺しの心理学』の中でこう書いている。「サイコパス、番犬、戦士、英雄と呼び名はいろいろだが、彼らは存在する。彼らはまさにかぎられた少数派だが、危機が訪れると国家は喉から手がでるほど彼らをほしがる」

p.209
サイコパスの感情は私たちとはまさに異質であり、愛や人間同士の前向きなきずなはまったく体験しない。そのため彼らの人生は、ほかの人びとにたいするはてしない支配ゲームについやされる。

p.210
(良心のない人に対処する13のルール 3)
一回の嘘、一回の約束不履行、一回の責任逃れは、誤解ということもありえる。二回つづいたら、かなりまずい相手かもしれない。だが、三回嘘が重なったら嘘つきの証拠であり、嘘は良心を欠いた行動のかなめだ。つらくても傷の浅いうちに、できるだけ早く逃げ出したほうがいい。


p.214
(良心のない人に対処する13のルール 7)
 人の心をあおるのは、サイコパスの手口だ。サイコパスの挑発にのって、力くらべをしようとか、だしぬこう、心理分析をしよう、あるいはからかってやろうなどと考えないほうがいい。そんなことをすれば、あなた自身が相手のレベルにまで落ちるだけでなく、本当にだいじなこと、つまり自分の身を守ることがおろそかになってしまう。

(良心のない人に対処する13のルール 8)
サイコパスだとわかった相手にたいする唯一効果的な方法は、彼らをあなたの生活から完全にしめだすことだ。サイコパスは社会の約束事と切り離された世界にいるので、彼らを自分の交友関係や社会的つきあいの中に入りこませるのは危険だ。
 まずは、あなら自身の交友関係と社会生活から彼らをしめだすこと。その行動はだれの気持ちも傷つけない。傷ついたふりはするかもしれないが、サイコパスに傷つくという感情はないのだ。

p.254
 良心の足かせをもたない人たちが、権力や富を一時的にせよ獲得することがあるという事実は、否定できない。人間の歴史にはその最初から現在にいたるまで、侵略者、征服者、悪徳領主、帝国の独裁者の記録が数多く残されている。(中略)くわしく記録された彼らの有名な行動を考えると、精神病質的逸脱尺度で調べなくても、人にたいする感情的愛着にもとづく義務感をもたない人物、つまりサイコパスが、かなりまじっていると想像できる。

p.246
 チンギス・ハーンは、サイコパス的な暴君のなかで、残酷で屈辱的な死に方をしなかっためずらしい例だ。彼は1227年に、狩の途中で落馬して死んだ。だが、虐殺や大量のレイプを行った者の多くは、最終的に自殺に追い込まれるか、耐えきれずに怒りを爆発させた人びとの手で殺されている。残虐なローマ皇帝カリギュラは自分の衛兵の一人に暗殺された。ヒトラーはみずから拳銃を口にくわえて発砲し、遺体はガソリンで焼かれたと言われている。ムッソリーニは銃殺され、遺体は広場で逆さに吊られた。ルーマニアのニコラエ・チャウシェスクと妻のエレナは、1989年に銃殺された。カンボジアのポル・ポトは元部下たちに捕まって二部屋しかない小屋の中で死に、その遺体はごみやゴムタイヤの山と一緒に焼かれた。

p.247
 こうしたわびしい末路の例は、枚挙にいとまがない。想像とは逆に、無慈悲な人間が最終的に人より得をすることはないのだ。

p.248
 彼らが最終的に失墜する理由のひとつは明らかだ。(中略)多くの人を迫害し、略奪し、殺し、レイプすれば、やがて団結して復讐をくわだてる人びとがでてくるだろう。
 (中略)
 だが、失墜にはもっと目立たないほかの理由もある。良心なしに生き続けるサイコパスの心理に、特有の理由だ。
 その第一が、ほかでもない、“退屈”である。


p.249
 サイコパスは、つねに過剰な刺激を求める。スリル中毒とか危険中毒など、中毒という言葉が使われることもある。こうした中毒が起きるのは、刺激への欠乏をおぎなう最良の(おそらく唯一の)方法が、感情的な生活であるためだ。
 多くの心理学の教科書には、覚醒を感情的反応という言葉がほぼおなじ意味で使われている。私たちはほかの人びととの意味のある結びつきや約束ごと、しあわせな瞬間やふしあわせな瞬間から刺激を受けるが、サイコパスにはこの感情的生活がない。人との関係の中でときにつらさやスリルを味わうという、つねに覚醒した状態を彼らは経験することがないのだ。
 電気ショックや大きな音を使った実験で、ふつうは不安感や恐怖に結びつく生理的反応(発汗や動悸など)も、サイコパスの場合はきわめて鈍かった。サイコパスが適切な刺激をえる方法は支配ゲームしかないが、ゲームはすぐに新鮮味を失ってつまらなくなる。麻薬とおなじく、ゲームをしだいに大きく刺激的にしながら、ひたすらつづけるしかないのだが、サイコパスの資力と才能しだいで、それも不可能になる。というわけで、サイコパスには退屈の苦痛がつねにつきまとう。
 化学的な手段で退屈を一時的に弱めようとするため、サイコパスはアルコールや麻薬の力に頼りがちになる。

p.252-253
ふつうの人たちにとって、しあわせは愛すること、より高い価値観にしたがって人生を生きること、そしてほどほどに自分に満足することから生まれる。サイコパスは愛することができず、基本的に高い価値観をもっていないし、ほとんどつねに自分自身に満足しない。彼らは愛も道徳ももたず、慢性的に退屈している。富と権力を手にしたひと握りの者たちにさえそれが言える。
 彼らが自分自身に満足しないのは、退屈以外にも原因がある。サイコパスは完全に自己中心なため、身体のあらゆる小さな痛みや痙攣にたいして自意識が猛烈に強い。頭や胸に一瞬感じる痛みがいちいち気になり、ラジオやテレビで聞きかじった話は、トコジラやリシン〔トウゴマに含まれる毒性アルブミン〕にいたるまで、すべて自分の身に置きかえて心配になる。その不安と警戒心はつねに例外なく自分自身に向けられるため、サイコパスは自分の健康を病的に不安がる心気症患者のようにもなる。
 (中略)
 健康状態について強迫観念に襲われたサイコパスの、史上もっとも有名な例がアドルフ・ヒトラーだろう。彼は生涯にわたって癌の恐怖にとりつかれた。

p.254
サイコパスは、仕事をさぼる言いわけに、心気症を使うこともある。元気そうに見えた一瞬後、勘定を払ったり、職探しをしたり、友人の引っ越しを手伝うなどという段になると、急に胸が痛くなったり、足が動かなくなったりするのだ。
(中略)
 一般的に彼らは努力をつづけることや、組織的に計画された仕事はいやがる。現実世界で手っとり早い成功を好み、自分の役割を最小限にする。毎朝早くから職場にかよって長時間働くことなど、ほとんど考えない。サイコパスはすぐにできる計画や一回勝負、効率のいい奇襲作戦のほうがはるかに好きだ。サイコパスが職場で責任ある地位に就いていたとしても、その地位は実際に仕事をした(あるいはしていない)量が判断しにくいポストであったり、実作業は自分が操作した人たちにさせている場合が多い。
 そんな場合、利口なサイコパスはときどき派手なパフォーマンスをしたり、お世辞や魅力を振りまいたり、脅したりすることで、ものごとを進行させていく。自分を不在がちな上司やすご腕の上司、あるいはなみはずれた“神経質な天才”に見せかける。ひんぱんに休暇や休み時間をとるが、その間実際になにをしているかは謎である。

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サイコパシーのように周囲の人びとを操作するスリルにとりつかれると、ほかのすべての目標が見えなくなり、結果として性格はことなるものの「生活の破綻」が、鬱病や慢性不安や妄想症などの精神病とおなじほど深刻になる。そしてサイコパスの感情的破綻には、彼らに感情的知能がまったくないことが見てとれる。つまり人間の世界で生きていくうえでかけがえのない指標、人の心の動きを理解する能力が欠けているのだ。

*1:この種の本によくあるパターンだが、実例をそのまま掲載するのではなく、合成したりして個別のケースが特定できないようにしている。