The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

大阪都構想の住民投票で明らかになったのは「シルバーデモクラシーの威力」ではなく「若者の浅はかさ」

都構想を誤解している人たち

 いわゆる大阪都構想についての住民投票*1で反対が多数となり、都構想はめでたく否決されたわけだが、年代別賛否割合のグラフをみて「若者は賛成多数だったのに70代以上の老人の反対が多かったせいで、改革が妨害された」と論じる「シルバーデモクラシー」論が登場して話題になっている。

若者は新しいものを好み、老人は古きを大事にします。
長く生きた人がその環境に愛着を持ち、変化を嫌うのは仕方のないことです。
少子高齢化が頂点にまで達した社会で、20年後、30年後のために変化を受け入れるのはこれほどまでに難しいものなのかと、改めてこの身に痛感せずにはいられません。
(略)
20代・30代・40代の将来世代を担う若者たちは明確に変化を望み、リスクを取ってでも挑戦しようとする意志をしっかりと表明しました。


シルバーデモクラシーに敗れた大阪都構想に、それでも私は希望の灯を見たい


 あまりにも表面的な文章で寒気がしてくるが、似たようなことを言っている人はTwitterやFacebookでも身近に散見された。これらの言説は、都構想が「そこそこまともな改革案」であるという前提で主張されているのだろうが、本エントリでは、そもそも都構想はまともな中身のない改革案だったのであり、シルバーデモクラシー論の当否を論ずること自体が無駄であるということを述べる。


 住民投票で賛否が拮抗したから、それまで都構想に大して関心を持っていなかった人たちがにわかにしたり顔で論じ始め、なんか「そこそこまともな改革案が、大胆さのあまり否決されてしまった」みたいな扱いになっているのだが、その認識がそもそもおかしい。
 まず今回住民投票にかけられたのは、大阪の、そして関西の中心都市である「大阪市」を解体すべきかどうかということ“のみ”であって、成長戦略や住民サービスの改善案の是非などではないのだが、そのことすら理解されてないのではないか。「前向きで大胆な改革派」vs「後ろ向きで慎重な守旧派」の戦いなどでは全くない。反対派は、大阪市という中心都市を維持した上での改革案を対案として提示しており、要するに「改革を進める上で大阪市をつぶす必要などない」と主張しているのである。


 しかもあの賛否拮抗は、橋下市長や維新の会が、

  • 住民投票に進むこと自体がいったん議会で否決されたのに、衆院選で公明党を全力で妨害すると脅し(参考リンク)、後に公明党と裏取引を行って何とか住民投票に持ち込んだ。
  • 住民投票に向けて、自民党と比較しても約10倍の宣伝費を投入。ちなみに原資は我々の血税である維新の党への政党交付金。(参考リンク
  • 反対派の識者を出演させないようテレビ局に圧力をかけた。これについては弁護士会有志が非難声明を出している。(参考リンク
  • 「今回可決されると、大阪市そのものが廃止される」という重要な事実すら隠蔽すべく投票用紙にまで細工をした。(参考リンク
  • 投票所に維新の会の運動員を立たせ、「大阪市はなくなりません」などというウソを喋らせていた。(参考リンク
  • タウンミーティング(住民への演説会)ではグラフの目盛の間隔を途中から変えるなど、信じがたい捏造を行って印象操作を行っていた。(参考リンク


 ・・・といったことまで行って、やっとあの数字だったのだ。さらに、「都構想はどうでもいいけど、憲法改正を発議する際に維新の党には協力してもらいたい」と考えている安倍首相・菅官房長官のバックアップまであって(安倍・菅が都構想に理解を示しており、反対派の中心になるはずの自民党大阪府連が党本部からの支援を受けられない状態)、ようやく「賛否拮抗」まで持ち込めたという話なのである。
 そんな経緯も知らずに、なんか投票結果が賛否拮抗しててすごかったという興奮だけをモチベーションに、したり顔でシルバーデモクラシーがどうのこうのという妙な議論をする連中が登場しているのが今の状況である。

「シルバーデモクラシー」論争

 シルバーデモクラシー論への反論記事もたくさん出ており、ちょっとした論争になっているようだ。


 「そもそも信頼できるデータなのか?」という疑問の声(参考リンク)もあって、そりゃそうなのだが、いったん考えないことにしてあの賛否割合のグラフがイメージとしてだいたい正しいということにして話を進める。*2
 主たる反論は、「言うほど老人がマジョリティなわけじゃないよ」という事実の指摘だ。

60歳代より30歳代の人口の方が多かったり、50歳代より20歳代の人口の方が多かったりして、そんな単純な少子高齢化の逆ピラミッドになっているわけじゃないことが分かります。
(略)
40代までを若い世代に入れてしまうとすると、70歳以上の2.3倍も若い世代の人口の方が多いのです。


http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20150518-00045839/

40代までとそれ以上の人口比がほぼ半々なのであれば、賛成派が負けた原因はワカモノの低い投票率以外に無い。人口比で負けたのならばシルバーデモクラシーという指摘は正しいが、投票率で負けたのなら、それは単に民意が反映されたと考えるべきだ。投票に行かない人は「どんな結果が出ても従います」という意見表明をしている事になるからだ。


橋下市長の敗因が「シルバーデモクラシー」ではない件について。


 また、こういう論評もあった。

「シルバー民主主義」「若者の敗北」と評論する向きもあるようですが、大阪市の解体が若年層を利するものとは言えないはずで、評価としては単純すぎる気がします。20代の反対が30代より多いことの説明も的確に出来ないように思います。筆者の体験からしても、子供を持ち、育て、定住して地域につながりを持ち、自らも老いていく中で、地方行政との関わりが強くなっていくので、今回の課題で年齢が上がるほど反対票が増えるのはそれほど不可思議なことではないと思います。一言で言えば、学校を卒業した後、地域に根を張り始める前の若年層は地方自治との利害関係が薄いのです。


大阪の住民投票結果から見えるもの(渡辺輝人) - 個人 - Yahoo!ニュース


 個人的には、↑こういう評価が適切であるように思う。男性より女性のほうが反対に傾いていたのも、子育てなどで自治体との関わりが深いからじゃないかな。
 都構想そのものは、若者も老人も関係なくて、たんに大阪市を解体するかどうかが問われたものだ。若年・壮年の男性は、自治体の世話になっているという感覚がそもそもあまりないので、「とりあえずぶっ壊してみよう」という威勢の良い改革案にノリだけで賛成してしまうのだろう。


 冒頭の「シルバーデモクラシー」の記事を書いた東京都議は、わけのわからない反論を書いた上で、しつこく老人をdisっている。

しかし私は、他のすべての世代の投票結果で過半数を得た意見が70代以上の投票で覆された事実は「シルバーデモクラシー」と言うべきものであり、まずはこの現実を受け止めて危機感を強めるべきだと考えます
(略)
世代別投票制度や、子育て世代に倍の票数を与える調整システムは真剣に導入を検討しても良い時期にきたと思っています。


「投票に行かない若者が悪いだけ」という言説の恐ろしさ | 東京都議会議員 おときた駿 公式サイト


 もうとにかく高齢者のニーズが強く反映されること自体が嫌だということらしい。都構想が可決されたところで若者にとって有利な何かが進むという話では全くないという事実や、真面目に検討した結果反対票を投じた若者の存在や、老人だって後続世代の幸せを考えているという可能性は無視することにしているのだろうか。

そもそも「老人の反対が多かった」わけではない

 しかし私の場合はそもそも、今回の結果をみて「老人の反対が多かった」と解釈すること自体が一種の偏見であると思っており、逆に「若者の賛成が多過ぎだろ」と感じているので、「なぜこんなにもたくさんの若者が、維新の会に騙されてしまったんだろう」というのが気になっている。
 都構想はろくな中身のない政策なので、高齢者の利害が優先されたのかとか、若者の投票率が低すぎたのかとか、そんなことを議論すること自体が的はずれなのである。


 「シルバーデモクラシー」論を言っている人は要するに、都構想はそれなりに真っ当な改革案であり、賛否5分5分ぐらいであって然るべき、もしくは賛成多数であって然るべきという前提で考えてるんだろう。だからこそ「老人の反対が多すぎた」という見方になるわけである。
 まぁ、住民投票の結果がニュースに出た後でにわかに都構想について述べ始めた人は、都構想そのものに関しては特に意見も知識もないというのが本当のところではあると思う。「なんか大胆な改革が提案されているらしい」ぐらいのイメージだけを持っており、高齢世代で反対が多かったという出口調査結果のグラフが目に飛び込んできたのでとりあえず「老害が〜!」と叫びたくなっただけだろう。
 ただ、そうだとしても、「高齢世代の反対が多かった=老害が改革を妨害した」という構図で物事を見ているということは、都構想は最低でも賛否5分5分にはなっていいはずの改革であるということが前提されているはずだ。


 一方、「都構想などは馬鹿げた政策であり、否決されて当然」という立場からすれば、「高齢世代の反対が多かった」のではなくて「若者世代の賛成が意外に多かった」という見方になる。
 こんなことを言っても屁理屈のように思われるのは分かっているのだが、世の中には「ヘンな改革案」なんてたくさんある。ビジネスマンなら、ふだんの仕事で「ヘンな提案」を山ほどみているはずだし、ヘンなものが“大真面目に”提案されるのも珍しいことではないと分かるだろう。べつに50:50を基準に考える必要はないし、「あれだけ声高に主張してるんだから、ある程度真っ当な提案なのだろう」と考える必要もないのである。
 例えばの話だが、仮に「市長の弁舌に乗せられる人が3割ぐらいはいるだろうな」と考えれば、賛成30:反対70ぐらいで否決されるのが標準ラインになるわけで、今回の結果は「おー、若者が意外にたくさん騙されたんだな」という見方になる。

都構想はまともな改革案ではない

 実際私は、それに近い感想を持っている。とにかく都構想の中身が、ろくでもない代物だったからだ。


 都構想のメリットとして当初は「二重行政の解消で毎年4000億円の財政効果が!」と叫ばれていたわけだが、実は二重行政と関係ない数字が大量に盛られていたことが判明し、精査したら2億円ぐらいの効果しかないことが明らかになった。(財政学者・森裕之教授の資料によれば、本来的な「二重行政」はせいぜい3億円、うち大阪市分は2億とのこと。共産党は9億円、他の野党は1億円と試算。)
 逆に、初期費用が600億円も必要になるので元を取るのに数百年かかる計算になって、橋下市長もしまいには「僕の価値観は財政効果には置いていない」などと言い出す始末だった(リンク)。
 もうこれだけでも、「否決されるのが当たり前」を基準に考えてよい理由になるんじゃないだろうか。


 また常識的にも、「大阪市を廃止・分割して権限とおカネを奪い取り、大阪府に移譲すれば、ワン大阪が発展する!」などというのは、そもそも発想からしておかしいと感じるのが正常なのではないか。反対派の藤井氏も指摘していたが、


「横浜市を廃止・分割して権限とおカネを奪い取り、神奈川県に移譲すれば、ワン神奈川が発展する!」
「名古屋市を廃止・分割して権限とおカネを奪い取り、愛知県に移譲すれば、ワン愛知が発展する!」
「神戸市を廃止・分割して権限とおカネを奪い取り、兵庫県に移譲すれば、ワン兵庫が発展する!」


 とか言われてもふつうは信じないだろう。大阪は府と市の名前が一緒だからイメージがごっちゃになってるだけであって、「横浜」「名古屋」「神戸」というブランド都市が消滅するようなもんだと思えばハッキリおかしいと分かる。少なくとも、「えっそんなことあり得る?」と疑問を持つのが普通の感覚じゃないだろうか。
 もちろん、豊かな都心部からそうでもない周辺部への再分配のような政策に意味がないとは思わないし、過度な一極集中は害があると思うが、全体の成長のためにエンジンとなる中心都市が必要だというのを否定する人は少ないと思う。*3


 そもそも政令指定都市制度というのは、大都市の自律的な発展を、道府県に邪魔させないために作られた制度だ。もともとは「特別市」という、道府県と同レベルの権限を与える構想があったのだが(韓国のソウル市みたいなもん)、府県の反対によって実現せず、折衷案として都道府県の権限を完全にではないがある程度担う政令指定都市制度に落ち着いた。横浜市なんかは今も「特別自治市」構想を掲げて大綱まで作っており(参考リンク)、国でも検討が行われている(参考リンク)。
 東京の23特別区だって、過去には「東京都に権限を奪われすぎたので自治権を回復しなければ!」という闘争を長い間行っていて、その結果として区長の公選制というのが実現したわけだし、未だに(自治体としては権限が不十分な)特別区を市に再編すべきだと主張する人たちも存在する。
 「自治権の拡大」を目指す運動は理解可能だ。しかし都構想のようにわざわざ「自治権を放棄」すべく大阪市民が投票所に足を運ぶというのは、全く意味が分からない*4

真面目に分析するのも馬鹿らしい

 まぁ、結論としてすでに否決されたわけで、今さら反対論を整理する必要もなく、都構想というのは特にメリットのない変な政策であったということだけ確認しておけばよい。
 で、なんでそんな政策が住民投票にかけられるに至ったかといえば、維新の会が「提案してみたものの、ツッコミどころがありすぎて早晩頓挫しそうだから、何とかイメージ戦略だけで勢いを保てる今のうちに多数決に持ち込んでおこう」と焦ったんじゃないかと想像している。
 実際、橋下市長は該当演説でも「都構想のメリット」を謳うことがだんだん少なくなっていって、最終的には都構想の中身(協定書)と全然関係ない既得権批判や、反対派の悪口を主に叫んでいただけという印象だ。


 ・・・最初の話題に戻ると、要は今回は「これだけ杜撰な改革案なのだから、否決されて当然」と思っておけばいいし、否決されて当然な改革案がまじめに提案されるのも別に珍しいことではないよなと、冷静に構えていればいいわけである。
 そして、そういう視点から見れば「老人の反対票が多かった」などということはなく、むしろ「若者の賛成票が多過ぎたせいで接戦になってしまった」という評価になるわけで、「シルバーデモクラシーが改革を妨害した」というよりは、「馬鹿な若者にあやうく大切な街を破壊されるところだった」という感じなのだ。だって、まともな改革案じゃなかったんだから。


 それに最初にも言ったように、都構想はべつに若者に有利な政策でもなんでもない。たんに大阪市という自治のシステムをぶっ壊してみましょうという話であり、若者だからどうこうという話ではないのである。つまり今回の住民投票では、特定世代の「利害得失」なんか判断基準になり得ないはずであり、要は「雰囲気をみて面白そうだったので、ノリで賛成した人々」vs「雰囲気程度では今あるシステムを壊す気にはなれない、と反対した人々」の戦いだったのだ。
 世代間の利害対立がどうのこうのなんて真面目に分析するような出来事ではなかったのである。もちろん、「威勢のいい提案に騙されやすい若者のノリ」と「騙されにくい老人のノリ」を比較したければしてもいいと思うが、意味のある議論になるかは疑問だ。


 書くのが面倒になってきたので、自分のツイートをその前後を含めて貼り付けて終わりにしておきます。





*1:あくまで今回の住民投票は、維新の会が掲げる「都構想」そのものではなく特別区設置協定書についての賛否投票であり、単に大阪市を廃止し、5つの特別区を設置して財源・権限・資産を大阪府と特別区に振り分けることについての賛否が問われたのだが、本エントリではこの協定書が謳う作業の範囲を都構想と呼んで話を進める。

*2:確かメディアが共同で実施していた出口調査はサンプル2700人ぐらいだったと思う。サンプルサイズというよりは無作為化がどれだけできているかのほうが気になるが。

*3:ちなみに、横浜市と神奈川県、名古屋市と愛知県、大阪市と大阪府、神戸市と兵庫県はいずれも人口の比が似ていて、これらの市は中心都市とはいえ府県の人口の3〜4割をカバーするに過ぎない。旧東京市に当たる東京23区の人口は東京都の人口の7割を占めているのとは対照的だ。だから、これらの都市の財源と権限を都道府県に移譲するという改革は、やはり「成長のエンジンを解体する」というイメージになる。

*4:周辺自治体の市民が賛成するのはまだ分かる。

「トップセールス」って英語で何ていうのか?

 ビジネス用語の話なんてべつにこのブログに書きたいわけではないのですが、日本語のサイトで調べても適切な情報が見つからなかったので、ちょっとググってみた結果をメモしておきます。将来誰かの役に立つかもしれないのでw
 
 
 「トップセールス」という言葉はよく聞きますが、これは和製英語らしいです。

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2009/05/27/%E3%80%8E%E4%B8%89%E7%9C%81%E5%A0%82%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%BE%9E%E5%85%B8%E3%80%8F%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81-%E3%81%9D%E3%81%AE69/


英語の辞書にもなく、どうやら和製英語のようです。イギリスからの留学生に尋ねると、「知らないことばです。いちばんよく売れる商品のことでしょうか?」という答えでした。

 
 日本語では、

 
 ① 社長などの偉い人が、客の社長などの偉い人に対して直接売り込むこと
 ② 首相が外国に日本製品を売り込みにいくこと(経産省が推進してる)
 ③ 業績がトップクラスのセールスマン
 
 
 と3通りの使い方があるようです。一般にビジネスマンがよく耳にするのは①だと思います。私は③の用法をリアルで聞いたことはないですが、英語としてもし「top sales」という言い方があるのであれば、③の意味が一番あり得そうな気はしますね。
 
 
 http://timhappydream.com/554.html
 このページをみると、「top management sale」「executive sale」と言うのだと書いてありますが、これもあやしいですね。ググっても全然出てきません。
 
 
 ちなみに経産省は、首相によるトップセールスを「Top-level sales」と訳していました。
 http://www.meti.go.jp/english/report/downloadfiles/2014WhitePaper/3-2-3.pdf
 
 
 しかしそもそも、売り込み行為のことを「○○sales」って言うことあるんですかね?
 営業部をsales divisionと言ったり、営業活動をsales activitiesと言ったりはするし、salesmenといった単語はもちろんあるわけですが、具体的な売り込み行為というよりは抽象的な意味での「販売」を意味する気がします。売上のことをsalesって言ったりしますしね。
 
 
 Top-level sellingという言い方は見つかりました。

 
Top Level Selling -Selling on Management Level
Partners Group - Top Level Selling & Negociating Skills


 「sales pointという英語はない、selling pointだ!」というビジネス英会話の定番ネタとは用法が違いますが、たしかにsellの方が売り込みという感じがします。
 しかし内容的に、「社長が社長に」みたいなケースのことを指しているのかは不明で、より広く「相手方のトップ層と交渉すること」ぐらいの意味で言ってるような気もしますね。よく分かりません。
 
 
 もう少し調べると、「Top-to-Top」という言い方が見つかりまして、このほうがしっくり来るように思います。
 
 

http://www.proz.com/kudoz/english_to_spanish/business_commerce_general/4464280-top_to_top_presentation.html


Explanation:
"top-to-top: adj. Of or relating to a sales strategy in which a top executive from one company sells directly to a top executive from another company.

http://www.sellingpower.com/content/article/?a=4984/is-bigger-better


Small companies should also consider another tool for improving major account management. "Another option is to improve your Top-to-Top selling," Tice argues. "Top-to-Top" means your CEO selling to the buyer's CEO. But it needs careful controls to be effective and manageable.

 
 
 意味的にはドンピシャで上記①の意味ですね。
 ググってもすごくたくさん用例があったわけではないのですが、とりあえずトップセールスを英訳する必要があるときは、top-to-top sellingにしとこうかなとは思いました。
 しかし私は英語でのビジネス経験があるわけではないので、正しいかどうかは全然わかりません。間違い等あればご指摘いただけると助かります。
 あとで気が向いたら海外の質問サイトとかLang-8とかで質問しておこうと思います。

JASRACからペギー葉山「南国土佐を後にして」の歌詞の削除要請があった

 はてなから1月7日に次のようなメールがきてました。

こちらははてなサポート窓口です
 
このたび、midnightseminar 様のサービスご利用において、歌詞の無断転載が行われており、著作権侵害に相当するとして、著作権管理団体であるJASRAC(一般社団法人日本音楽著作権協会)より削除要請がありました。
 
今回、削除要請の対象となっているURLおよび楽曲は下記の通りです。
 
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 URL:http://kawabata.hatenablog.com/
 楽曲コード:5903289
 楽曲名:南国土佐を後にして
 --------------------------
 
 楽曲が複数の場合、それぞれメールを送信しておりますので、あわせてご確認下さい。
 つきましては、掲載されている箇所をご確認の上、削除を行ってください。
 掲載箇所がわからない場合、当該URLを楽曲タイトル、歌詞の一部などで検索していただくことで確認が可能です。
 また、要請に先立ってJASRACの行った調査のタイミングにより、現在は削除されている記事、楽曲に対して要請が行われることや、同じ楽曲について重複して指摘されることがあります。
 その際には、本メールは破棄していただければ幸いです。
 もし、すでに転載の許諾を受けているなど、歌詞の掲載が著作権侵害に相当しないとお考えの場合には、恐れ入りますが、その旨ご返信ください。 
 尚、特に理由なく本通知より1週間以内に削除を行っていただけない場合、事前および事後のお知らせなく、ご利用のブログを非公開とさせていただくことになります。あらかじめご了承ください。
 はてな利用規約では、第6条にて「著作権、特許権等の知的財産権を侵害する行為」を禁じており、また、第5条においては「他人の権利を侵害した場合、当該ユーザーは自身の責任と費用において解決しなければならない」と定めております。
 また、特に、著作権侵害については実際に損害賠償や、掲載された期間に応じた利用料の請求対象となる場合が増えております。
 今後のご利用においては、十分ご注意いただきますようお願いいたします。


 該当のエントリはこちらで、歌詞は削除しました。
 南国土佐を後にして - The Midnight Seminar


 メールが来てから1週間以内に削除しないとブログが停止されるという、けっこう厳しいルールですね。1週間ではメールに気づかないことも普通にありそうなので、はてなのお知らせ機能で通知して欲しいところです。
 ちなみにエントリの内容は、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」っていう有名な歌があって、東京でも高知料理を出す居酒屋とかに行くとかかってたりする定番ソングなんですが、この歌はもともとは高知出身の歩兵部隊の部隊歌だったらしい……という話でした。


 YouTubeでも数年前から、動画の中に音楽のデータが入っていると自動で検出されて動画が削除されるようになりましたね。最近は、権利侵害の疑いがありますが異議申立てしたい場合はしてくださいというメッセージが来るようになっております。
 こないだは、YouTubeに非公開設定でアップした動画の中に、4歳の姪が大阪の「ひらかたパーク」という遊園地内で遊んでいる場面があり、その遊園地内のスピーカーから流れていた「Let It Go」が自動検出されて「権利侵害です」という連絡がきました。


 で、べつに何のこだわりもないのですぐ削除すればよかったんですが、「ビデオ撮ってたら勝手に屋外のスピーカーから流れてきただけやん」と思い、一応Yahoo!知恵袋で質問してみた(質問へのリンク)ところ、それは「付随対象著作物」ってやつに当たり著作権の行使が制限されているらしいので、その旨を「異議申立て」して返信待ちです。
 

 著作権の保護は大事だと思っているので、侵害しないように気をつけたいと思います。


 【2015.2.10 追記】
 YouTubeへの異議申し立てが認められたようで、YouTubeから「お客様の異議申し立てを確認した後、WMG and UMG さんは YouTube 動画への著作権侵害の申し立てを取りやめるとの結論に達しました。ただし、この動画にはその他の著作権侵害の申し立てが存在する可能性があります。」というメールが来てました。
 ただ、YouTubeのサイトのほうにアクセスしてステータスを確認したら、異議申立てが拒否された状態になっていたので、よくわかりませんが……。

機能的財政と完全雇用——ラーナーの今日的教訓(M. Forstater, 1999)

 昨日読んだ、「機能的財政論」「消費増税は日本の未来に役立つのか」といったコラムに機能的財政論という言葉が出てきていて、以前中野さんの本の中で読んだことはあったけどよく知らないのでググってみたら、M. Forstater(1999). Functional Finance and Full Employment: Lessons from Lerner for Today?というワーキングペーパーがあったので、見出しだけ訳しておいた。ちなみに見出し以外はほとんど読んでないし適当に訳してるので正確かどうかは知りませんw
※のところは私のメモです。

教訓1:完全雇用、物価の安定、そしてそこそこの生活水準を全ての国民に提供すること。それがマクロ経済の根本的な目標であり、国家にはそれの達成に向けて努力する責任がある。


教訓2:政策は、それがそのためにデザインされているところの目標を達成する能力によって評価されるべきであって、それが健全であるかどうかや、あるいは伝統的な経済学のドグマに合致しているかどうかといった観念によって評価されるべきではない。


教訓3:貨幣は、国家による創造物(a creature of the state)である。
※思い通りになるというような意味が込められているのかな。


教訓4:課税とは、「資金調達行為」ではない。
※何かに対する支払いの必要から税金を集めるのではなく、あくまで完全雇用や価格の安定などのマクロ経済的な目的のための調整手段であるというような意味。ここが一番、ふつうの直感に反する議論であり、また機能的財政論というやつの特徴なんだろうと思う。


教訓5:政府の借金も、「資金調達行為」ではない。


教訓6:課税の第一の目的は、国民の行動に影響を与える(変容させる)ことである。


教訓7:国債発行の第一の目的は、短期金利(翌日物金利)を規制(制御)することである。


教訓8:国債発行は、論理的には、政府支出に先立つものというよりはむしろその帰結である。


教訓9:貨幣を刷ることそれ自体は、経済に対して何のインパクトも持たない。


教訓10:完全雇用政策がなければ、社会は、労働を節約する技術的進歩から利益を得ることはできない。つまり、効率性が非効率性になるのだ。完全雇用政策があれば、そういう技術的進歩は、社会にとって真に有益なものとなる。


教訓11:完全雇用政策がなければ、国は、貿易収支の問題に苦労するだろう。完全雇用政策があれば、輸入超過を心配する必要はない。


教訓12:赤字や負債について、「見栄えほど大変な額ではない」とか、「指標を変えれば、あるいはバランスシート全体でみれば大した問題ではない」とかいう議論を試みるのは、反生産的だ。
※そんな言い訳をしなければならないと思うこと自体が間違っているということかな。


教訓13:失業がある状態というのは、資源や材が希少なのではなく、仕事と貨幣が希少なのである。


教訓14:機能的財政は「政策」ではない。それは、あらゆる政策がその中で実施される「フレームワーク」なのだ。


教訓15:完全雇用を実現するためには、財政支出は、雇用の直接的な創出を含まなければならないだろう。


結論:ラーナーの機能的財政や完全雇用に関する研究は、50年前に始めて提唱されたときと同じように、現代においても重要な意味がある。オーソドックスな理論や政策が、危機の原因の説明にも効果的な政策的対処としても役に立っていない時は、こうした考え方や、あるいはその他の過去の偉大な思想家たちの考え方を見直してみるといいだろう。彼らの研究からは懐古趣味以上のものが得られるし、現在の状況分析やマクロ経済政策の策定にも有益な教訓を含んでいるものである。


 まぁ要するに、財政というのは、家計のサイフみたいに「◯◯に●●円ぐらいかかるから、貯金しとかないと」みたいなものとは全然違って、経済活動を方向付けたり調節したりするための触媒みたいなもんでしょみたいな話だろう。

選挙に行くほうが馬鹿かもしれないし、一票の格差に目くじらを立てなくてもいいかもしれない

選挙に行く奴のほうが馬鹿であるとも言える

 昨日ネットをみていたら、


 選挙に行かない男と、付き合ってはいけない5つの理由
 

 という記事が話題になっていた。この記事には共感できる部分もあって、3番で言われているように「『なんだかよく分からない』ことに対して何もしない」のは確かに良くないし、5番で言われているように「斜に構えているのが格好良いと思っている」奴はたしかに私も嫌いだ。


 しかし、たとえば「彼が『どこに入れても同じだよね』と言っていたら、彼は日本語を読む能力が欠けている」という部分とか、「選挙を放棄するということは、君にも君たちの子どもの将来にも、本気では関心ないよ」という部分は、論理的に間違っていると思う。


 筆者はそもそも、「あなたの彼氏が選挙に行かない理由」として5つのパターンしか挙げていない。

  1. 「面倒くさい」
  2. 「どこに入れても同じ」(政党間に差がないという意味)
  3. 「なんだかよく分からない」
  4. 「その日用事ある」
  5. 「政治家信頼していない」


 の5つなのだが、政治学では古典的な議論として、「有権者が何万人もいると、自分の1票が勝敗を左右することはあり得ないから」という理由が挙げられている。私は大学生のころ政治学を専攻していて、べつに頑張って勉強した覚えはないので記憶が曖昧なのだが、たしか選挙制度論の入門的な講義の最初の回で教授が、「選挙に行っても、自分の1票は何の効果も持たないのだから、投票率が低いことは政治学者にとってなんら不思議ではない。むしろ、1票を投じても何ら政治に影響を及ぼさないのに、なぜ人々は投票に行くのかというのを説明するほうが、非常に難しいのだ」としゃべっていた。
 ネット上でも、よくみたら社会学者の文章だったが、「合理的個人はなぜ投票するのか」という資料を読むことができる。


 「自分以外の人々がたくさん投票する」という前提が動かない限り、自分の1票で勝敗が左右されることがほぼあり得ないということは、それこそ小学生でも理解できる自明の理屈だ。自分以外の何十万人という有権者の票が綺麗に割れている場合にのみ、「自分の1票」が勝敗を決すると言えるわけなのだが、そんなことはほぼあり得ないといって良い。自分が投票してもしなくても、誰が勝つかは決まってしまうのが現状なのだ。
 そのことを踏まえれば、「どこに入れても同じ」というのはある意味正しい(上の記事の筆者は「政党間に差が無い」という意味で言ってるので別の話なのだが)し、子どもたちの将来に関心があるかどうかと投票にいくかどうかは全く関係がない。むしろ、投票にいく時間を潰して子どもと遊んだり何かを教えてあげたりするほうが、個人の行動としては明らかに合理的だ。
 

 だからある意味では、選挙に行っている人たちのほうが馬鹿であるとも言えるんじゃないだろうか。毎回投票に行っている人というのは、「何の効果もないことが明らかなのに、周りの雰囲気に流されて行動してしまう、頭の弱い人」だとも言えるのだから。
 「選挙に行かないような奴には、モノを言う資格はない」みたいなセリフが好きな人は多いのだが、投票に行っても何の効果もないということを忘れて偉そうなことを言うのはやめたほうがいいだろう。 
 

 しかしこの話をすると、だいたいの人は不快感を覚えるようだ(と知ってて煽るように書いてる面もある)。というか、ムキになって怒り出す人もけっこう多い。自分が毎回選挙に行っているのを馬鹿にされたように感じるからだろう。そしてそういう人と話していると突然、「みんなが投票に行かなくなったら民主主義が破綻して〜」というような議論に発展するのだが、ちょっと待って欲しい。
 まず、「自分自身が投票に行くのが合理的かどうか」という話と、「多くの国民が投票する社会が望ましいかどうか」は別の問題だ。それに、みんなが投票に行かなくなったら、自分の1票が持つ価値が増すということなのだから、そのときは張り切って投票に行けばいい。たとえば10人ぐらいしか投票しない選挙であれば、けっこう投票し甲斐があると思う。
 
 
 私はべつに、投票に行くべきではないと言いたいわけでもない。「自分の頭では深く考えず、周りに流されて投票所に行く」のに似た様々な慣習的行為の積み重ねによって社会は成り立っているもので、1人1人がいちいち合理性を考えて行動することが社会全体に善をもたらすわけでもないと思うからだ。
 ただ、冒頭の記事のような安易なモノ言いはどうしても受け入れられない。論理的に間違った理由で、投票にいくことを正当化しようとしているからだ。
 先ほどリンクを貼った論文でも議論されていたように、投票にいく(べき)理由というのは、何かあるとしてももっと説明が難しいものであるはずである。
 
 

一票の格差に目くじらを立てなくてもいい

 ところで「一票の格差」問題というのがある。これも以前から気持ち悪いと思っていて、エントリを起こしたこともある。簡単にいうと、別に一票の格差を是正することに反対するつもりはないのだが、一票の格差を「不公平である」とか「民主主義の原理に反する」といった言い方で批判している人はちょっと物事を誇張しすぎなんじゃないかということだ。
 
 
 しょうもない点から言っておくと、先程も述べたように、有権者が何十万人もいれば「1票」の重みはほぼゼロということになるので、ほぼゼロであるもの同士を比べて1.5倍とか2倍とか議論されても、個人の立場からはあまり実感が湧かない。べつに5倍の格差があったところで、個人にとっては怒る理由がそもそもない。


 で、1票格差問題を論じている人というのは、要するに農村部の老人たちの選好が過剰に国政に反映されているのではないかということを問題にしているわけなので、だったらそのことをストレートに言い続ければいいと思う。若者が多い都市部の選好をもっと国政に反映させるために、逆差別的に東京とか神奈川の1票の価値を農村の2倍にするという議論をしたっていいはずだ(2倍は違憲ということになってるけど)。私自身は、農村の老人よりも都市部の若者の選好を重視したほうがいいのかどうかは、よくわからないが。


 そういう議論をあまりしないで、ひたすら「平等」という観点からのみ論じるのは、なんというか、単なる綺麗事に聞こえてしまう。
 ちなみにこの問題については、最近、マル激の動画で触れられていた。



一票の格差問題を残したまま解散総選挙でいいのか - YouTube

 
 この動画の中では、政治学者の山本達也氏が、非常に正確なことを言っている。

 

山本 憲法上、差異がもし許容される範囲内なのであれば、もし国民のコンセンサスがあるならば、たとえば若者により多くの票の重みを持たせようっていうふうに、政治的なコンセンサスがあれば、そこにあえて、法の下の平等というか違憲判決にならない状態の範囲内であれば、厚みを持たせるってこともあり得る。(中略)この話っていうのは、古くに自民党が、区割りをつくって、自分のところに有利にしてっていう話になってくるんだけど、これももし仮に、日本という国は農村部をとっても大切にするっていうコンセンサスが全日本的にあって、それだったらいいんだけれども、ま、経緯としてはそういう経緯ではない。


 まぁそういうことなのだ。


 あと、「平等」にこだわると厄介な問題もあって、以前のエントリでも書いたのだが、有力な政治家が立候補する選挙区と、そうではない選挙区では、当然有権者1人の票の重みは変わってくる。新人候補を1人選出することと、元総理を1人選出すること(あるいは落とすこと)にはえらい違いがあるでしょ。
 そう考えると、もし平等主義を強調するのであれば、地域によって選べる政治家が異なるということ自体が問題ともいえるので、全国区の選挙だけをやれみたいな話にもなってくるかも知れない。
 
 

結局何が大事なのか

 さてここまで、「投票に行くこと」とか「一票の格差を是正すること」について、無意味であるみたいな書き方をしてしまっているのだが、私はそれぞれに反対しているわけではない。私が言いたいのは、もっと大事なことが、「清き一票原理主義」みたいなものに覆い隠されてしまってはいないかということだ。


 上述のような議論の乱れは、「投票」という行為を過度に神聖化してしまった結果起きているものだろうと思う。私は、普通選挙によって政治家を選出するというシステムについて、万能どころか素晴らしい制度であるとすら言えないとしても、他に良い方法も思いつかないのでとりあえずこれでいいと思っている(チャーチルを気取りたいわけではない)。しかし持論として、投票そのものよりも、「票を集める」という行為のほうが重要だろうと昔から思っている。
 選挙に行って一票を投じることそれ自体は、別にやって悪いことではないのだが、政治参加の形態としては、神聖化されるほど重要なものではない。むしろ、多くの人が投票に行く普通選挙制度が成立していることを前提条件として、言論や運動を通じて徒党を組み、まとまった票を生み出すという活動こそが、政治参加のあり方として大事なんじゃないのか。
 たとえば労働組合のような団体は「組織票」をまとめる力を持っていて、組合の内部で政治に詳しい人がいろいろ議論をしたり、政治家に直接何かを訴えたりするわけである。そういった「組織」というものには、有能な人材を発掘する機能や、人々の意見を集約・調整する機能があり、しかもそのノウハウが長年蓄積されているわけである。集団がまとまって「組織」を形成し、政治的な行動を取るというプロセスの中で誰が何をやるかというのは、けっこう重要な問題であるにもかかわらず、あまりそのことに関心が払われていないように思う。
 そういう組織的政治行動について議論も実践もしないままに、個々人が「投票所に行く」場面だけが民主的政治参加であるかのように言われ、1票の格差がどうしたとか、投票に行かない彼氏とは別れろとか言うのはバランスとしておかしい。


 とりあえず現行の民主政治のシステムというのは、次のような三層構造で成り立っていると考えればいいんじゃないだろうか。
 まず、普通選挙制度が実現しており、しかも「みんなが投票に行く」という習慣付けが行われていて、これが第一階層をなしている。個々人にとっては投票に行くことはまったく合理的な行動ではないのだが、そういう習慣付けが行われることで、全体としては投票システムが機能するようになっている。 
 その上で第二階層では、色々な組織やオピニオンリーダーが意見を戦わせることを通じて、票が集まったり動いたりするという現象が起きている。その結果として、代議士が選出される。
 そして第三階層では、代議士(政治家)たちが議論をして、具体的な政策を立案したり実行したりしていく。
 まぁ他にもいろいろな層があるだろうが、投票制度に関してはこの3段階ぐらいの理解でいいんじゃないだろうか。ちなみにこれは今思いついただけで、専門的な議論は全然知りません。


 こう理解した上で、民主主義がまともなものであり得るか否かを考えた時、けっこう第二階層のあり方が大事なんじゃないかなと私は思っている。だから、「投票」(普通選挙)という制度は、いったん実現すればそれ自体を神聖視するのはやめたほうがよくて、むしろ民主主義にとっては言論の風通しを良くすることとか、機能的な組織を形成することとか、集まって政治的な意見を交換することのほうが、はるかに大事なんじゃないかなと。
 集団を組織したり動かしたり壊したりすることこそが重要な政治的行為なのであって、民主主義の質を決めるのは、より良い集団を作り出すことや、集団をより良く動かすための努力である、と私は思っている。それを通じて、「まとまった数の良い投票」を生み出すことが大事なのである。


 日本の世間では、「第二階層」の運動に関わること、つまりたとえば政治運動の集会に参加することとかは、何となく「ヤバいこと」であるとされていて、そういう運動に関わっていることが周囲に知れるとだいたい白い目で見られるのだが、それはおかしいのではないか。(Facebookで知り合いから政治色の強いニュースがシェアされてきたりすると、何故か残念な気持ちになってしまうので、私も人のことは言えないのだが。)
 で、そういうことを議論せずに、「彼氏が投票にいくかどうか」とか「1票の格差が2倍以内に収まっているかどうか」ばかり議論するというのは、虚しいような気がするのである。冒頭の記事の筆者自身は、その意味で政治的な実践をしている人かもしれないが。


 政治とは要するに、「気に入る奴らと徒党を組んで、気に入らない奴らと戦う」ことを言うのだ。ただし殴り合ったりするとお互いに損失が大きいし、何も相手を殲滅することだけが勝利なのではなく、説得してしまうという道だってある。そこで、第二階層において言論戦を戦うことにし、しかし言論戦は長引く傾向にあるから、第一階層に用意した選挙というゲームを定期的に行って仮に決着をつけることにしたのだ。
 それはあくまで、第二階層における複雑な争いを単純な形に翻訳したゲームに過ぎないので、殴り合いにおける強さも、話し合いにおける巧みさも、正確に反映されるわけではない。それに、投票者というのは戦争ゲームに出てくる足軽みたいなもので、彼が持っている「清き一票」とやらはよく見たら一本の槍に過ぎず、しかも自らの意思で行使していると言えるのかも怪しい。確かに外見的には、足軽たちの交戦という形で決着がつけられるのではあるが、勝負の実体はゲームのプレイヤーたる「政治組織」が第二階層で繰り広げる駆け引きにある。
 民主政治に偉大なところがあるとすれば、人はプレイヤーに操られる足軽に留まることも、プレイヤーになることもできるという点ある。この足軽にも立派な生命が宿っているとかいう話をでっち上げるのは、民主政治の讃え方として間違っている。


 まぁ、私も別に第二階層の活動を頑張ってやっているなんてことは全くないので偉そうなことは言えないのだが、そういう活動を真剣にやっている人たちには敬意を表さなければならないし(間違った運動をしてると思ったら軽蔑すればいいけど)、投票所に行ったぐらいで「立派な政治参加を果たしている」なんて勘違いするのはやめるべきだと思う。「投票に行かない奴には、文句を言う資格はない」なんて物言いもやめるべきだ。投票に行ったぐらいで得られるのは大した資格ではない。
 そういう勘違いがなくなれば、冒頭の記事のような変なことを言う人も消えていくだろう。


 【追記】
 似たような理由で「選挙に行かないやつは政治を語るな」論に対しブチ切れているブログ記事があったので、リンクを張っておきます。私はリバタリアンではないですが、「理由その3」にたいへん共感できますw
 選挙に行かないことが合理的な三つの理由と、「選挙に行かないやつは政治を語るな」が間違っているもっと沢山の理由 - 二十一世紀日陰者小説(移転跡地)

集団的自衛権に関する憲法解釈は変更されていない?

憲法学者の見解

 通勤時間にいろいろ動画の番組を見てるんですが、今さら感がかなりありますけど、集団的自衛権の行使容認とやらについて、憲法学者の木村草太氏がインタビューに出ていたのを見ました。



木村草太氏:国会質問で見えてきた集団的自衛権論争の核心部分 - YouTube


 先日、「集団的自衛権の行使容認」問題についてのメモ - The Midnight Seminarというエントリを書きましたが、その時自分でも閣議決定の本文を読んでて、騒がれている割に「何が画期的なのか」がイマイチ分からず苦しみました。
 自国の存立が脅かされる場合でなければ武力行使はできないわけなので、日本が関係ない他国の戦争に巻き込まれるという話ではないよなと(そもそも集団的自衛も自衛の一種なので、当たり前ではある)。
 まぁ結局はアメリカへのゴマすりが実際の目的だと言われているので、細かいことを考えても仕方ないとしても、文言上何が読み取れるのかは気になるんですよね。
 以下、メモしておきます。

国会中継の録画

民主党・岡田克也:なんとかかんとか。
岸田外務大臣:なんとかかんとか。
安部総理:なんとかかんとか。
民主党・福山哲郎:日本政府は正式に、憲法の解釈を変更したというのは、文民条項の時一回きりだということになっています。これは、今回は2回目ですか?今回の憲法解釈の変更は2回目なのかどうかをお答えください。
横畠内閣法制局長官:まぁ法令の解釈と申しますのは、いわゆる当てはめの問題でございますけれども、まぁその意味で変更があったのかということであるならば、一部変更したということでございます
福山哲郎:一部変更ってわかりません。憲法解釈として、今回は戦後、2度目の憲法の解釈を変更したという位置づけかどうかと訊いてるんです。
横畑長官そのような位置づけであることは否定いたしません
(中略)
福山哲郎:結果として、官房から内閣法制局に具申が来たのは6月30日。閣議決定は7月の1日。つまり1日しか審査をしていない。それで、審査に対して、法制局長官さりげなく言われましたけど、どういう回答されたかもう1回お答えください。
横畑長官:えー「意見はない」旨の回答をしたところでございます。
(以下略)

コメント

木村草太:これは、横畠長官の職人技の光る答弁でした。というのはですね、今回の閣議決定は、これまでの閣議決定の内容を変更してないんですよ。じつはまったく変更していなくて、ですから、これ「当てはめの問題だ」って言ってるんですよね。解釈は変えてません。当てはめ方が変わったんです。というか、当てはめで新しい事象が返ってきたので、この場合は当てはまりますと言っただけですというふうに横畠さんはおっしゃってるわけですね。それで、なので、これまでの解釈とは変わってないので意見はないですよっていうメッセージを法律家向けに発信してるんですよ。1日で返すってことは、これまでと変わってないというふうに読みなさいというふうに、全国の法律家に向けて発信してるんですよ。
神保:暗号ですね。
木村:暗号です。
宮台:そういうことだったんですか……。当てはめの問題って意味が分からなかったんだけど。
神保:とは言えね、当てはめの問題だが、その意味で変更があったというならば一部を変更したことと言っていると。
木村:当てはめの変更は変更というのであれば、それは変更なんだよねということですね。
神保:それで福山さんが、一部変更っていうのはわけわかんないと。憲法解釈として今回は「戦後2度目の変更」の位置づけなのかと聞いたらば、そのような位置づけであることは否定しないと。これは憲法解釈変更……
木村:だから当てはめの変更だっていうふうに横畑さんがおっしゃっているので、そういうふうに変わったのかといわれる……それも含めるのであればっていう意識なんですね。
神保:当てはめの変更も憲法解釈の変更というふうに言うんであれば、と。
木村:もう、暗号なんですけどね、これ。で、だからこの閣議決定の本文の意味ってのがすごく大事で、岸田外務大臣と安部首相は、今回の閣議決定の内容を逸脱した答弁をしてると思います。
神保:その、さっきのアメリカの話っていうことですか。
木村:そう。つまり、今回の閣議決定については、閣議決定自体が憲法に反するとか、立憲主義に反するとかって批判する人がいるんですけども、私はそうではなくて、むしろ「この閣議決定を守れ、自分たちで決めたことぐらいきちんと守れ」って言っていくことがすごく大事になってくるというふうに私は見ています。
神保:つまりあてはめっていうのは、このような事例があってそれを当てはめると。それを、今の憲法解釈の範囲内だよっていうふうに当てはめるという意味での当てはめですか、この当てはめというのは。
木村:そうです。
神保:事例が当てはまるってことですね。
木村:つまり、これまでその、「我が国の存立が脅かされうんぬんが覆されるような場合については、武力行使ができる」って言ってきたんですね。じゃあそういう場合ってどういう場合ですかっていうと、我が国に対する武力攻撃が発生した場合ですっていうふうに言ってきたんですね。だから、「Aとは、武力攻撃が発生した場合です」というふうに言っていて、「じゃあ、他国に対する武力攻撃が発生することによってAが発生した場合は、どうなのか。それは当然、武力行使ができます」と答えてるわけですね。だから、この文章ってのは実はですね、要するに、我が国と他の国が同時に攻撃を受けている場合というふうにしか読めない文章になってるんですね
神保:トートロジーですね。
木村:まさにそうなんです。
神保:要するに、集団的自衛権とは何ですか、それは個別的自衛権のことですって答えたということでしょ。
木村個別的自衛権と集団的自衛権が重なってる部分については、それは集団的自衛権を行使してもよかろうっていうようなことを言っているふうに文章としては読めるんですよ。
神保:それは一応、じゃあ集団的自衛権の行使を容認したっていう表現自体は間違ってはないってことですね。重なってはいるんだから。
木村:ただこれまでもできなかったことかっていうと、じつは別に、これまでも、従来できたはずのことなんです。
神保:個別の範囲だからってことですね。
木村:個別の範囲だから。個別の範囲として説明できるものが……
宮台:ちょっと勇気が出てきたぞ。なるほど(笑)
神保つまり個別的自衛権と集団的自衛権が重なる部分を一所懸命見つけたってことですね。
木村:そういうことです。
神保:一生懸命探して。
木村:それをね、ずっとやってたんですよ。6月末ぐらいから、法制局と公明党はそのラインを探してました。で、このラインを一所懸命、自民党の政治家に気付かれないように文章上作ることを腐心して、それができてるんです。
神保:でも、政治家たちは、集団的自衛権ができるようになると思っちゃった。
木村:なったと思っちゃってるんですけれども、ああいうふうに勇気のある答弁をして、それでオーストラリアとかに行って「あんたの国も守りまっせ」って言ってるんだけれども、この閣議決定の文言どおりにやると、無理なんですよ。

メモ

 解釈とはなんぞやというのは難しく、「解釈は変更してないけど当てはめは変更した」ということの意味について深く考えるのはやめたほうがいいと思う。とりあえず大事なのは、木村氏の意見では、「できることは従来と変わっていない」という点だ。
 しかし木村氏が言ってることは本文とちょっと違う気もする。

こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った


 と書いてある。「従来の政府見解の基本的な論理」の枠内にあるので、憲法が何を目指しているかについての「解釈」は変更していないということだ。「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず……憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」というのは「当てはめ」だという話で、それはまあ良いのだが、文言上は一応、「自国が直接攻撃されていない場合」も含むんじゃないだろうか。
 まぁ木村氏は本文だけでなく答弁とか事例集を踏まえて政府見解を見ているということだと思うので、そっちも参照すると実質的に政府が想定しているのは、木村氏が言っているような内容になるということなんだろうか。


 いずれにしても、それが「画期的」かというと、そもそも集団的自衛権だって自衛権なのだから、自国の安全にとって明白な危険がある場合しか発動されないものであり(少なくとも、文言上は)、本質的には個別的自衛と分けることにそこまで意味はないんじゃないかと個人的には思っています。たしか国連憲章でもさり気なく併記してあるという感じでしたよね。

昨日、クルーグマンの講演を聴いてきました。日本に謝りたいそうです。

 ちょうど、クルーグマンのコラムを紹介した記事が出ていましたが、じつはクルーグマンは昨日東京の有楽町で講演していて、それを聴いてきました。だいたい、同じようなことを言ってましたね。
 日立製作所主催の「イノベーションフォーラム」というやつですが、後日オフィシャルサイトに抄訳が載ったりするのかな?


 少しメモを取っていたので、思い出せる範囲でメモしておきます。一生懸命全部メモしてたわけではないし、間違ってるとこもあるかもしれないです。

  • 90年代以降の日本経済の不調が続き、はっきりいって欧米は、日本への関心を失っていた。しかしこれは間違いであった。日本の状況は欧米とべつに大きく異なるわけではなく、むしろ現在の欧米経済は過去20年の日本がたどった道を追っているといえる。
  • かつて、スウェーデンのスベンソンという経済学者、ベン・バーナンキ、そして私は、拡張的な経済政策を主張して、日本のpolicy makerたち(たとえば日銀)を批判してきた。この批判は正しかったと思うが、謝らなければならないのは、今は欧米が日本と同じ失敗を犯しているというか、それよりはるかに悪いのだ(「We have done really really badly」とか「much much worse」とか言ってた)。
  • バーナンキも、学者時代は威勢よく日銀のデフレ対策の不足を批判してたのだが、自分がFRBの議長になってみると全然できてない。ヨーロッパはもっとまずいし、スベンソンのスウェーデンでも、日本並みのデフレになっている。
  • 世界中で、ハウジング・バブルの崩壊を引き金としたデフレ化が進行しており、90年代に日本がたどった道をたどるJapanificationが起きていると言っていい。
  • 経済成長がある程度進んで行き詰まると、貿易黒字などでGDPが成長する経済から、負債によってGDPが維持される経済に変わってくる。それがバブルになってそのうち崩壊し、デフレ不況に陥るのだが、日本に続いて欧米も、そして新興国もそういう道を辿ろうとしている。80年代の日本の負債は企業のもので、欧米で起きた負債の膨張は家計のものだという違いはあるけど。

 

  • 以前は中国が貿易黒字を貯めこんでて、不均衡を作り出していたのが問題だったのだが、今はその意味で不均衡の原因になってるのはたとえばドイツだ。中国は逆に、負債をためこんでいる。
  • 今の中国をみれば、80年代の日本と同じようなパターン(成長の維持が難しくなり、負債をためこむようになり、バブルとその崩壊へ……)をたどっているといえる。それよりはるかにやばいかもしれないが。7年前までは貿易で成長してたが、今は完全に、投資によって経済が膨らんでいるという感じ。

 

  • あらためて、日本は世界にとって「useful lesson」だと思う。
  • 日本に関してもうひとつ注目すべきは、人口動態だ。日本の少子化はものすごいが、ヨーロッパも日本と同じような少子化傾向にある。12年前の日本とだいたい同じくらい(?)。日本のほうが深刻なのだが、たどっている道は同じ。
  • 欧米の場合は、低い出生率と移民の増加という組み合わせになっているのだが、日本の場合はひたすら少子化だけが進んでいるという違いがある。まあ文化的な理由だろう。

 

  • ところでイノベーションフォーラムなのでイノベーションの話を一応すると、技術は進歩してると思うのだが、生産性の向上は鈍化している。また、テクノロジーそのものより、そのテクノロジーを使って何をするかのほうが大事だ。
  • 2000年代半ばぐらいまではすごくイノベーションがあったのだが、現在、停滞から抜け出すようなイノベーションは起きていない。ある人が「昔は、そのうち自動車が飛べるようになる未来を想像したものだが、実際におきたのは、Twitterみたいな140文字のメッセージを送る仕組みが普及しただけだった」と言ってた。
  • なお、技術の洗練度についていうと、世界どこへいってもそんなに差がなくなってきているという点も大事。アメリカ人は自分がとても進んでいると思ってるのだが、アメリカにあるものはヨーロッパにもたいていある。

 

  • 民間企業のイノベーション(private innovation)も大事だが、それよりポリシー・イノベーションが大事だろう。たとえば均衡財政なんかにこだわっている場合ではないのだが、これはなかなか、要人と話してもほとんどの人が理解してくれない。
  • 日本のアベノミクスはなかなかのもんだが、言わせてもらいたいのは、これらの政策はスベンソン、バーナンキ、そして私のような学者が15年ぐらい前から言っていたことを取り入れたものだということだ。直接教えたことはないが(笑)
  • 消費税がなんたらかんたら(あまり聴いてなかった)

 
 
あと、新興国ももうダメだとか、最近出たレポートではそこの地域でも所得に対する負債の割合が上がりまくっているとか、経済が長期的に停滞するときに金利政策だけでは(ゼロ金利の制約があるので)どうにもならないという話とか、そういえば80年代って金利はかなり高かったけど経済のboomingを止められなかったよねといったことを言ってたと思うが、いまいち正確に覚えてない。