The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

「古典」を読むことの意義について

読書会

 いま、都内で働いてる学生時代の友人たち数名と、様々な分野の「古典」を中心とする読書会を1~2ヵ月に1回ぐらいのペースで行っています。学生時代もやっていたのですが、最近また始めました。分野としては社会科学や歴史を中心としており、古典といっても岩波文庫に載るレベルのガチの古典だけではなく、比較的新しい本であっても論壇賞を受賞するなどして定評を得ている研究書であれば取り上げたりします。要は「権威」のある本を読むわけですw
 学生の頃はけっこう、古典みたいなものにずっと腰を据えて取り組んでいたような気がしますが、就職するとそんなもんなかなか読む気にならない。しかし冷静に振り返ってみると、自分が何度も思い出し、折に触れて言及したくなる書物というのは、だいたい「古典」みたいなものばかりだということに気づきまして、まぁ年に10冊程度ではあってもヘビーな古典にしっかり当たっておくのは、将来何かの役に立つだろうと思って集まっています。
 好きな本を読むというよりは、たとえば昔『必読書150』という、古典ダイジェストみたいな本がありましたが(過去エントリ)、こういうのをつぶしていく感じです。


経営書における古典と歴史

 で、そしたらたまたま昨日のやまもといちろう氏の有料メルマガの中に、次のような話が載っていました。

ビジネス書ぶった斬りナイト6
俺はまだ本気を出して経営者が書いた本を読んでいないだけ──ぶった斬りナイト流“社長本”徹底攻略
http://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/16890

 でもねえ、本当に良い経営本って本当に古典や定番が多いのも事実なんですよ。別に新しいから威厳がないとか駄目だという話ではなく、組織を率いるものが過去の知恵を得て何か改善していこうとすると、必然的に人間の叡智、すなわち歴史にいくつことになるわけでして…。

 そういう話をしたいでござる! たぶん実際イベントになると誹謗中傷しか言わないと思うけど。でも今回はいままで以上に実になる考察をお届けしたいです。


やまもといちろうメルマガ「人間迷路」vol.064より*1

 なるほど経営においても、けっこう歴史が大事、古典が大事なのであると。
 ここでいう「古典や定番」というのが、ドラッカーみたいな理論書のことを指しているのか、表題(とリンク先)にあるような経営者の自叙伝みたいなものを指しているのかは分かりませんが、後者については、ある論文にこんなことが書かれてたのを思い出しました。

とりわけ、ことリーダーシップ 研究にあっては、例えば名経営者ともてはやされたGEのWelchやヤマト運輸の故小倉、あるいは日産自動車のGhosnなど、方法論的に無秩序な経験的記述方式によって構成されることの多い経営実践家の自叙伝的書物から多くの感銘を受け、またこれらの著書が少なくても経営学書よりも市場普及率が高いという事実を、経営学者は謙虚に受け止める必要はないだろうか。


(福原康司:経営学とナラティブ—その研究パースペクティブとリーダーシップ研究への接近—, 専修経営学論集, 81, pp.53-101, 2005.)

 経営学者が書いた本にはあまり役に立つものがなく、むしろ過去の偉大な経営者の自伝や伝記みたいなものから得られる示唆のほうが役に立つという話ですね。


 ドラッカーとかコトラーとかポーターみたいな、経営学者が書いた古典というものもありますが、これらもよく考えてみると、書かれたのは30~40年前でけっこう古いですよね(といっても他の分野と比べればたかだか40年というのは新しいですが)。
 「昔書かれて、歴史の淘汰を経て今も残っているものなのだから、優れているのが当たり前」だと言えるのかもしれないですが、ビジネスみたいな、最も「今現在」に敏感でなければならない世界においても、歴史から学ぶことが多いというのは面白い事実です。


【2013/8/25 追記】
 増田に、10年間、大企業で人事の仕事していましたhttp://anond.hatelabo.jp/20110824143747)という記事が掲載されており、この“大企業の人事”の人は、人を採用する基準の一つとして、

[ビジネス書よりも古典を]
これも伸びしろと関係してきますが、古典は本当に好奇心がある人しか読みませんよね(一冊二冊の話じゃなくて百冊二百冊のレベルの話です)。ビジネス書しかよまないうすっぺらな人はビジネスの現場では長期にわたっては使い物になりません。

とおっしゃっています。
【追記ここまで】


 そういえばTEDでAmazonの創業者・CEOのジェフ・ベゾスが2003年に講演していて(動画リンク)、そのテーマは、インターネット業界がいま(もう10年前ですが)どういうステージにいて、我々は何を目の当たりにしているのかを理解しようという話でした。で、「インターネットの現状を理解したいのであれば、歴史の中にアナロジーを見出すのが得策なんだ」みたいなことを言って、彼が持ち出すアナロジーの1つが19世紀半ばのゴールド・ラッシュであり、そしてもう1つが20世紀初頭における黎明期の家電産業でした。
 Amazonみたいな破壊力を持ったグローバル企業が伝統的な商売を駆逐していくのは個人的には好きではないんすがw、それはともかく、そういうインターネット産業を率いる最もアドバンストな企業のトップが、100年以上前の歴史を語ることで自らの立ち位置を確かめているというのは、けっこう示唆的なものがあると思います。


人文・社会科学における古典

 さて、経営の話は措いておいて、人文科学・社会科学の古典を読むことにはどんな意義があるのか。ホッブズとかケインズみたいな古典を読んでいるというと、単なる物好き(マニア)扱いされるか、「毎朝30分の読書で人生を豊かに」的な意識高い系の読書がイメージされるような気もしますが、そうではなくもっと切実な意義があるような気はします。
 教養がどうのこうのという話ではないです。教養なら、幅広く知っていることのほうが大事だと思うので(教養の定義にもよりますが)、「教科書」とかをたくさん読めばいい気がします。そうではなく、実際に人間とか社会について考えるときに、「教科書」とか「概説書」とかとは違って古典がどういうふうに役に立つかという話です。


 もちろん、まず誰でも思いつくのは、「古典というものは物事の出発点になっているから、最も本質的な「問い」に立ち戻ってゼロベースで考えることを促してくれるのだ」という点でしょう。これはこれで、古典を読むことの重要な意義だと思います。
 しかし、古典にはもうちょっと面白い側面があって、以下2つの議論を取り上げたいと思います。


古典は案外忘れない

 じつは、これまたちょうど昨日の話ですが、古本屋に注文していた6年前の『論座*2が届きまして、その中に「『人文書』の復興を!」という特集が載っています。
 人文書が最近売れなくなってきており、これは人文系の学問の危機なのではないかという特集で、冒頭で柄谷行人が出てきてインタビューに答えています。
 私は、柄谷行人浅田彰が昔率いていたような、「現代思想」とか「ニューアカ」とか「ポストモダン」とか言われた類いの思想・言論はあまり好きではなく、むしろもっと素朴で伝統主義的な話が好きなのですが、しかし知識というものに対する態度に関して柄谷行人氏はいつもけっこう参考になることを言っていると思います*3

人文書が売れた時代がよかったかというと、僕はそうは思わない。それは大量の知識人=大衆が出現したということです。廣松渉は60年代、全共闘の時代によく読まれた哲学者ですが、僕に、あの連中は語学ができないので困ると、こぼしていたことがあります。外国語とか、基礎的な勉強をしていない。そんなものを飛び越えて、すぐに大問題に向かう。しかし、それは大体、不毛な結果に終わっています。だから、人文書が売れるということが、そのような速成知識人を増やすことだとすると、それは別に喜ばしいことではない。


柄谷行人:「可能なる人文学——逆転を待ちながら」, 『論座』, 2007年3月号.)

 と、いきなり「人文書はべつに売れなくても良い」と言い出すのですが、これはたしかにそうでしょう。カントとかニーチェとかをそこらじゅうの人が読んでいるという状況はそれこそヘンなので。
 ただ、そうはいっても日本における「知識人的大衆」の層の厚さは、それはそれで凄いことで、数百万~1千万部も売れる新聞にけっこう難しい学術書の書評が載っていたりするのは、外国ではちょっと考えられないことだというような話が続きます。
 そして柄谷は、勉強するならとにかく「古典」を読むことが大事なんだと言うのですが、ここで言われていることはけっこう面白いです。

 人文書を読みたいという人がいたら、ひとつだけ、忠告したいことがあります。それは、古典的な文献を原典(翻訳でもよい)で読め、ということです。入門書やそれに関する著作を読むと、忘れてしまうけど、原典を読んでいると案外忘れないものです、読み直さなくても、生きている間に、理解が深まったりする。しかし、要約で読んでしまったら、そのような成長はありえない
 たとえばマルクスに関して、マルクス主義入門とかその種の本を読むのはやめて、面倒であっても、よく分からなくても、『資本論』を読んでもらいたい。手っ取り早くものを知りたい人は、なんとなく入門書で済ましてしまうのですが、原典を読んでおくと、時間がたっても、わかってくることがあります。入門書などはすぐに忘れてしまいます
 聖書に関しても、論語に関しても同じです。文学でもそうですね。僕は『源氏物語』を与謝野晶子の現代語訳で読んだのですが、その話をしたら、ある人に「文芸批評家ともあろう者が原文で読まないとは何ごとか」と叱られました。それはその通りですが、翻訳であっても源氏物語を全巻読んだというのは、のちのち役立っています。たとえば本居宣長を読んでも、源氏物語の全体が頭に入っているのとそうでないのは違う。源氏物語についての論文は全部忘れても、源氏物語は今でも、何となく頭の中で生きているのです。古典を読むということに関していえば、岩波文庫がいいと思う。昔から僕は、問われると、いつもこういっていました。岩波書店から出る本は読まなくてもいいが、岩波文庫は読め、と(笑い)。

 古典を読んだときにはよく分かっていなくても、案外頭に残っているものであり、あとでその意味が突然理解できるという経験は、私にもあります。これはなんでなのかはよく分からないのですが。また、冒頭でも言ったように、何かに取り組んでいるときに突然記憶から蘇ってくる文章というのは、だいたい古典的な本のものが多いです。


古典は知識の「総合」のための接着剤となる

 で、なぜそんなことになるのかと考えたときにヒントになるのがもう一つの議論で、以下の引用は、西部邁先生が『経済倫理学序説』という本の冒頭に書かれている文章です。
 これは、学問が「専門主義」に侵されてどんどんタコツボ化していき、知識の全体像、ひいては人間社会の全体像を捉えるようなことが難しくなっているという文脈で書かれたものです。部分を切り取れば非常に精密な議論ができるのは確かだが、そればっかりやっていると、とくに人間とか社会について考える学問の場合は、全体像を見失っていろいろ判断を誤るという話です。それを防ぐために……

何を手がかりにして、分断された専門科学のあいだに橋をかけるのだろうか。私見によれば手がかりは二つある。ひとつは古典である。始祖たちの著作である。それらには、俗流化された教科書的な理解とはちがって、幅があり、脹らみがあり、そして深さがある。始祖たちは、その拡がりの中で、互いに協力の触手をのばしている。仮に表面では敵対する二本の大樹のような始祖たちであっても、論述の枝葉は互いにからみあっている。地下茎もつながっている。それら微妙な始祖たちの交話を切断するのが教科書的な範型なのである。そのひそかな語り合いに耳を傾けることから、諸科学の協同のきっかけがみつかるのではないか。特に、教科書的な理解では無視されがちな異端の始祖たちは、こうした類いの交話に敏感なものが多い。異端は、しばしば、正統の末端や背後にいて、他の正統との媒介者の役をつとめているからである。衒学の手段としての古典ならば、無益でないまでも、社会科学の解釈学には寄与しない。古典たちのかすかに奏でているシンフォニイを聞きとる努力と感受性が必要なのであろう。


西部邁『経済倫理学序説』, プロローグより)

 なるほど、つまり古典というものは、バラバラになっている知識をつなげようと思ったときに、重要なヒントになると言うことです。古典というのは基本的に「古い」議論だから、物事があまり明確に区別されておらず、曖昧さを留めていることが多い。しかしそれがじつは、高度に専門分化していってお互いのつながりが見えにくくなった諸々の専門知識を結び合わせるための、土台になるということです。


 たとえば、ちょっと表面的な理解かも知れませんが、ホッブズの『リヴァイアサン』は「万人の万人に対する闘争」という政治的パワーゲームの解決策として「社会契約説」が導入される古典的な本ですが、非常にメカニカルな議論である一方で、あの本(岩波文庫で4冊ぐらいにまたがってますが)の議論の大半はキリスト教の話です。世俗的な政治のメカニズムと、キリスト教の宗教思想が、分化されずに共存しているので、あとで「政治と宗教のつながり」を考えたくなったときに役に立つのかも知れません。
 アダム・スミスが経済学の始祖であると同時に道徳学者であったことも有名ですが、これもひょっとしたら、彼の頭のなかでその2つがどうつながっていたのかを解釈することで、「経済」という物質的な世界と「道徳」という精神的な世界のつながりを理解するための手がかりが見つかるのかもしれません。


 柄谷行人が、「古典は案外忘れないし、あとで急に理解できたりする」と言っていたのも、このことと関係があるような気がします。勉強してあれこれいろんなものを頭のなかにインプットしてみても、なかなかそのつながりが見えてこないことがある。それらを総合するためのパスを見つけようと思って考え始めたときに、急に古典的な議論が思い出されて、「そういうえばあの人もこんなこと言ってたな」みたいな気づきがあったりします。


 これは「古典」的な書物について言えると同時に、「昔の話」(歴史)を振り返るような作業一般に言えるような気もします。「歴史を学んでも、現在は状況が変わっているのだから役に立たない」なんていうのは嘘だし、「歴史は繰り返す」から学ばなければならないというのも嘘で、じつは歴史を学ぶことの意義というのは、「物事の全体像を見えやすくするため」という点にあるんじゃないかと思います(思いました)。


経済倫理学序説 (中公文庫)

経済倫理学序説 (中公文庫)


必読書150

必読書150

*1:私が購読してるのはプレミアム版

*2:もう廃刊されたが、昔朝日新聞社が出していた雑誌

*3:そもそも、たいていの場合、左翼やポストモダニストのほうが、右翼や保守派よりも「本格的」な勉強をしていることが多いような気がする