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The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(ハヤカワ文庫)

読書メモ 哲学

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)


 日本でサンデルブームが起きたのは2010年で、「なんかべつにベストセラー哲学書なんて読んでもなあ…」と思って内容も確認せずに敬遠してたのだが、ちょっと必要があって年末ぐらいに、今さらながらだけど『これからの「正義」の話をしよう』を読んでみたら、案外おもろかったです。文庫版も電子書籍版も出てるし、内容も簡単なので気軽に読める。
 サンデルの専門は政治哲学・道徳哲学で、要するに「正しい行い」「正しい制度」ってどんなものなのかについて哲学的に深堀りしていくわけである。哲学とは言っても、少なくとも本書には抽象的な概念をこねくり回すような議論はあまりなく、具体的なケースをたくさん挙げて「どのように振る舞うのが道徳的に正しいだろうか?」と問いかけるものなので、素人にも分かりやすく、ベストセラーになるのもうなずける。


 たとえば、2005年にアメリカの南東部をハリケーン「カトリーナ」が襲い、ニューオーリンズなどで甚大な被害が発生した際、物資が不足するのを良いことに生活物資の価格を吊り上げる「便乗値上げ」が横行したらしい。他人の不幸につけ込んだ便乗値上げを、我々は道徳的に許すべきなのかどうか。道徳的に正しくないとすれば、いかなる理由でこれを非難することができるのか。そうした具体例に基づいて、我々の道徳観を徹底的に掘り下げていくわけである。
 サンデルは最初のほうの章で、我々が道徳について考えるとき、(1)まず具体的なケースを想像する、(2)自分なりの道徳的判断が直観的に下される、(3)その直観に理屈を与えるために後付けで「原則」を探すという過程をとるものだと説明している。そして重要なのは、たとえば「5人を救うために1人を殺さねばならない」といった「ジレンマ」が生じるケースを検討することであり、そこに生じる道徳的な「混乱」の力を感じることこそが、哲学の第一歩であるという。だから本書は、全体としては道徳哲学をめぐる学説史のような体裁をとってもいるのだが、道徳的判断に迷うような具体的ケースをたくさんとりあげて議論を進めていく。


 道徳をめぐる3つの立場
 サンデルが持ち出すのは道徳的な価値観に関わるテーマなので、明快な答えを出すのが非常に難しいし、そもそも人によって意見が大きく異なるような問題ばかりだ。しかし、考えを深めるためのヒントならばいくつか存在する。サンデルは、政治哲学に関する論争の歴史を振り返ると、どんな問題についてもだいたい3つの道徳的立場が存在してきたと整理している。学生時代とかに政治思想や哲学の本をそれなりに読んだ人にとっては、おなじみすぎて退屈な話も正直多いんだけど、基本的な分類を復習することは案外大事だと改めて思った。


 1つ目が「功利主義」で、とにかく人々の快楽の最大化を追求すべきだというものだ。「最大多数の最大幸福」とよく言われるが、ようするに一人一人の「幸福」や「利益」を足し合わせた総量が最大になるように、そして「苦痛」の総量を最小限にするのが最も重要だというわけである。
 もう1つは「自由」を尊重する立場だ。最も極端なのが「リバタリアニズム」で、政府の役割なんてものは最小限でいいと主張する。一方、自由を尊重する立場の中でも「リベラリズム」は、全ての人々が対等な自由を享受できることを目指しているから、弱者を救済するために政府が積極的な役割を果たすべきであると考える。
 最後の1つは「美徳」を重視する立場である。我々の社会の目標は、快楽を最大化することでも自由を最大化することでもなく、より美しく、より善く生きることであると考えるわけだ。その代表としてアリストテレスを引いているから、功利主義自由主義みたいな近代的な理念とは毛色がかなり違うんだけど、サンデルも基本的にはこの立場に属していて、冒頭の章では、

正義をめぐる古代の理論は美徳から出発し、近現代の理論は自由から出発すると言えるかもしれない。
(略)
我々の議論の大半は、少なくとも表面上は経済的繁栄の促進と個人の自由の尊重に関するものだ。だが、そうした議論を支持したり、ときには批判したりしながら、われわれは別種の信念を垣間見ることが多い――つまり、どんな美徳が栄誉や報奨に値するか、善き社会ではどんな生き方が奨励されるべきかにかかわる信念を。経済的繁栄と自由を愛しながらも、われわれは正義の独善的要素をすっかり振り払ってしまうことはできない。


 と言っている。後のほうで出てくるが、「快楽」や「自由」といった、道徳的・宗教的価値観から中立的な理念を振り回しすぎたのが近代の正義論で、そのせいで我々の正義観、道徳観は貧弱になってしまったというのがサンデルの問題意識なわけである。


 功利主義
 「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義は、我々にとっても最もなじみのある考え方だとサンデルは言う。たしかに、政治や経済の仕組みが、人々の「幸福」や「利益」の総量を最大化するために存在するのだという考え方に反対するという人は、あまり多くはないだろう。居酒屋談義でもありがちなストーリーだし。功利主義の開祖であるジェレミーベンサムは、「道徳についてのあらゆる論争は、快楽の最大化と苦痛の最小化をめぐる対立である」、つまり、道徳的な論争に決着をつけるのは結局のところ「全体として快楽が増えるのかどうか」という基準のみであると言ったわけだ。


 しかしこうした素朴な功利主義にはいくつかの疑問が向けられる。一つは、快楽の総量を問題にしてしまうと、一部の人の権利が踏みにじられる可能性があるという問題だ。たとえば、かつてのローマで、キリスト教徒をライオンに食わせて殺すという見せ物があったらしいが、功利主義の立場からすれば、「殺される人間の苦痛」よりも「それを見て喜ぶ人間の快楽」の総量のほうが多いという場合には、この見せ物を残酷だと言って非難することはできなくなってしまう。
 もう一つは、「快楽」や「幸福」や「利益」というのは、単なる量として比較可能なものなのかという疑問だ。様々な種類の快楽、様々な種類の幸福が存在するはずなのに、それらを単純に量として足したり引いたり比べたりするのは難しいのではないかと。かつてタバコメーカーが、タバコを吸うことによって平均寿命が短くなる(つまり人々が早く死んでくれる)ので、政府は医療費の支出を削減することができるという計算結果を発表したことがあったらしい。しかし人が死ぬことの悲しみと、医療費の削減とを、同じ次元の問題として比べてよいのかは疑問だ。
 J・S・ミル功利主義の哲学者として有名だが、サンデルは、ミルは厳密に言えば功利主義の枠を超え出てしまっていたと言う。ミルの場合は、あらゆるものごとが「快楽」という一元的な基準で比べられるというわけではなく、高貴な快楽と低俗な快楽とは区別する必要があると言った。どんな欲望でも満たされればそれでよいというのではなく、「満足した愚か者であるよりは不満足なソクラテスであるほうがよい」と言ったわけである。


 自由主義
 「自由」を尊重する考え方ももちろん我々にはなじみ深い。政治的な意味でも経済的な意味でも、「自由」が近代社会の発展の条件の一つであったことに疑いの余地はない。
 リバタリアニズムというのはもっとも単純な政治思想の一つで、とにかく自由に勝る価値はないんだから、政府等が個人の生活になるべく介入しない方が良いと考える。政府というものは犯罪や戦争の防止など基本的な秩序維持の役割だけを担うべきであり、税金を徴収して再分配するとか、シートベルトの着用を義務づけて国民の命を守るといった政策も、リバタリアンからすれば「よけいなお世話」として批判されるわけである。
 これに対して「リベラリズム」は、個人の自由を尊重するという点ではリバタリアニズムと同じだが、すべての人々が実質的な自由を享受できるということを重視するので、弱者を支援するような制度づくりにも積極的だ。極端な経済格差が存在すると、貧しい人々からすれば、形式的には「自由」を与えられているとは言っても選択肢そのものが限られてしまっており、実質的には自由の意味がないからである。


 カントは、「自由にものを考える」という自由意志にこそ人間の尊厳があるのであり、その自由を侵害することは決して許されないと言った。他人が自由に考え、振る舞う権利を抑圧してはならないのはもちろんだが、自分自身の意思決定に関しても、それが「自律的」に行われたものであるかを徹底的に問わねばならないという。カントに言わせれば、内から涌き上がってくる欲求に支配されるというのも自分の自由意志に対する冒涜に当たるので、「何をしたいか」ではなく「何をすべきなのか」を徹底的に突き詰めなければならないらしい。


 現代の最も有名な政治哲学者の一人であるロールズは、「公正なルールってのはどんなものなんだろう」ということを徹底的に考え抜いた。有名な話だが、彼はもし人々が「無知のベール」というものをかぶっていて、自分が社会のなかでどのへんの位置にいるのかを知ることができないと仮定すれば、「最も弱い人々」に有利になるようなルールを定めることに全員が同意するはずだと言った。自分がひょっとしたら「最底辺」の位置にいるかもしれないからだ。(こういうヘンな仮定を置いたのは、現実の世界から話が出発してしまうと、すでに偶然の結果生じている様々な条件を前提にせざるをえず、公平な議論にならないからだ。)
 だからまず、全ての人に基本的な自由を与えるというルールが受け入れられるだろう。そして、経済格差が許されるのは、格差をつけることによって社会の最底辺の人にも得になるような場合だけ、というルールも受け入れられるだろう。つまりたとえば、ビル・ゲイツが莫大な儲けを手にしてMicrosoftが巨大な会社になるのも、それによって良質なパソコンが最底辺の人々にも行き渡るのであれば許されるというわけである。


 美徳をめぐる哲学
 功利主義者と自由主義者には共通点があって、これらの立場の人たちは、「美徳」や「善」などというものは個人の価値観の問題にすぎないので、政治制度や経済のシステムはそんなものとは無関係に、中立的な立場から組み立てられるべきであるということを前提にしている。しかしこれに対して、我々が共有すべき「美徳」や「善」ってものがやはり存在するのだと主張する人もいて、サンデルもその一人だ。


 サンデルはまずアリストテレスの政治哲学を紹介する。アリストテレスは、より「善く」生きることが人間の目標であって、美徳を涵養するためにこそ政治というものが存在すると説いていた。美徳を実際に身につけるためには、美徳について頭で考えるだけではダメで、「実践」や「習慣付け」が不可欠だから、そのための仕組みとして人間は必然的にポリス(都市国家)を形成せざるを得ないのだと言って、ポリスの政体を分析したのが『政治学』という書物である(『政治学』については以前のエントリを参照)。
 アリストテレスは、分配のルールを決める際には、分配されるものの「目的」を問う必要があると考えた。アリストテレスの場合、念頭にあったのは政治権力の分配(誰が政治的決定の権限を持つか)の問題だったようだが、おカネの分配や名誉の分配など他の問題についても同じことが言えるだろう。たとえば大学に入学する資格はどのように分配されるべきなのか。アメリカに「アファーマティブ・アクション」と呼ばれる政策があって、黒人などが大学に入りやすいように優遇措置をとることの是非が論争になったのは有名だ。これに決着をつけるには、けっきょく大学というものはどういう美徳を推進することを「目的」にしているのかという、価値観の問題を避けて通ることはできない。


 中立主義の原則が揺らいでくるという意味で分かりやすい例は、婚姻制度をめぐる議論、たとえば同性婚は認められるべきなのかどうかという議論だ。功利主義の立場からすれば、当人が幸せになるならOKとしか言えない。そして自由主義の立場からも、当然そんなものは個人の自由だから認めるべきという結論になる。実際、同性婚賛成論者は、個人の自由などの論拠に基づいて、政治制度が個人の性的嗜好からは「中立的」であるべきだという論拠を持ち出すのが普通だ。
 しかし、中立的であろうとするならば、たとえば一夫多妻制や一妻多夫制も認めるべきなんじゃないかという話になってしまう。実際にイスラム圏などでは一夫多妻が認められるとはいえ、少なくとも欧米や日本でそんなものを認めよと主張する人はほとんどいないだろう。ということは、婚姻制度の中にも、単なる「中立性」の原則には還元できないような特定の「美徳」「道徳観」が、暗黙のうちに埋め込まれていることは否定できないのだ。
 では、同性婚は何らかの「美徳」の観点から肯定したり否定したりできるのか。同性婚反対派は例えば、結婚は子供を産むために存在するのだと主張する場合があるだろう。しかし現実には、結婚が認められる要件として「生殖能力」は必須とはされていない(不妊症であっても、出産能力のない高年齢であっても、結婚は可能)。つまり「子供を作ること」は、結婚というものの本質的な「目的」であるとはされていないことが分かる。では結婚という制度は何のために存在するのか?
 マサチューセッツ州最高裁で同性婚の権利について争われた際、マーシャルという女性裁判長は、婚姻制度が讃えている美徳とは「独占的な愛情関係」そのものだと結論づけたそうだ。つまり、一人の相手を長期間にわたって深く愛するということそのものが、讃えるに値する美徳であるということ。その美徳に対する賞賛の意思を公的に表現したのが婚姻制度であるというわけで、結果、同性婚も認められることになったのである。


 「連帯」と「物語」
 サンデルは、功利主義にも自由主義リバタリアニズムリベラリズム)にも与せず、中立性の原則に変わる新しい原則を打ち立てようとしている。彼は「コミュニタリアン」と呼ばれる勢力に属しているわけだが、なぜコミュニタリアンと呼ばれるかというと、政治や経済の制度というものが個人の価値観に対して「中立的」であり得るとは限らず、時には「共通の善」「共通の美徳」といったものを掲げざるを得ないと考えるからだ。そして、我々が形作っているコミュニティや国家というものの「連帯」という価値観を強調するわけである。
 たとえば我々は、家族に対しては赤の他人に対するよりも大きな責任を負い、自国の同胞に対しては他国民に対するよりも大きな責任を負う。家族が家の外でみっともない振る舞いをしていれば責任を感じるし、同国民が海外旅行で外人に迷惑をかけていたらそれを恥に感じるということである。


 「連帯」の責務を強調すれば当然「ナショナリズム」の問題が浮上してくるから、アレルギー的にそうした議論を拒否する人も多い。しかし連帯の「責務」というとき、そこには「仲間を守りましょう」みたいな内向きの責任のみならず、たとえば自分の祖父や父の世代が犯した罪について責任を引き受けるという、外向きの責任も含まれているのである。オーストラリアにおける先住民抑圧の歴史や、アメリカにおける黒人差別の歴史について、現在世代のオーストラリア人やアメリカ人が責任を感じることは、決して悪いことではないだろう。自由主義者の立場からは、自分の意思と無関係に行われた先行世代の罪については、責任を感じる必要なんてないという結論になるし、実際にそう主張する人もいる。ホロコーストは70年前のドイツ人が勝手にやったことであって、現代のドイツ人が負い目を感じる必要は全くないのだと。しかしそうした極端な割り切りは、どこか我々の良心に引っかかってしまうはずだ。


 これは我々が「負荷なき自己」、つまりコミュニティや歴史とは無関係の、自律的な存在であり得るという近代の基本的な人間観ーーつまり功利主義自由主義に根ざした人間観ーーが間違っているのではないかと考えられる証拠の一つだ。サンデルが紹介しているマッキンタイアという哲学者は、人間の本質は「物語る動物」であるという点にあり、ある人生を生きるということは、ある一つの物語を生きるということに他ならないと言った。そして人生という物語を、自分の属するコミュニティや、自分の生まれた時代の歴史的文脈と無関係に語ることなどできるわけがない。我々は空白地帯に一人で生まれ落ちたのではないのである。この見方からすれば、我々がより良く生きるということはすなわち、コミュニティの歴史を背負って、よりよい物語を演じるべく努力をするということに他ならない。ここは哲学的には一番面白いところなのだが、一番説明が難しい論点でもあると思う(物語については、じつはいま、別途研究をまとめようとしているところなのだが、とりあえず本ブログ内で言えば浅野智彦の『自己への物語論的接近』という本が、ちょっとテーマはずれるけど参考になるかも知れない。)。


 近代的正義論からの脱却
 政治制度を考えるときに、道徳的価値に対する「中立性」に過度にこだわるべきではないということと、「連帯」という価値をもう少し重視した方がいいというのが、サンデルの主張の要点である。日本でもとくに戦後は、「美徳の奨励」なんてものは、経済の文脈ではヤボであるとされるし、政治の文脈ではタブーとされるのが普通だ。「経済には価値観の正しさなど関係なく、それぞれの欲望を満たすことが重要」とか「いろいろな価値観が認められるべき」というのは、ある程度までは正しい。それは自由経済と民主政治の基本原則だ。しかしそれを言い過ぎたせいで我々の「道徳観」や「正義観」が貧弱になってしまったという可能性はあるんじゃないのか。サンデルは、

本質的道徳問題に関与しない政治をすれば、市民生活は貧弱になってしまう。偏狭で不寛容な道徳主義を招くことにもなる。リベラル派が恐れて立ち入らないところに、原理主義者がずかずかと入り込んでくるからだ。


 と言っている。個人の自由にこだわって「共通の美徳」について議論することをやめてしまうと、美徳を巡る思考そのものが深みを失って、全体主義や原理主義などの過激な思想に付け入る隙を与えてしまうと警告しているわけだ。サンデルはオバマ大統領の演説から、政教分離という理念はじつは間違っていたのではないかという次のような議論を引用して、彼は正しいと讃えている。

オバマ:「政教分離主義者たちが信仰を持つ人に、公共の場に出るときは宗教から離れるよう求めるのは間違っています。フレデリック・ダグラス、エイブラハム・リンカーン、ウィリアム・ジェニングス・ブライアン、ドロシー・デイ、マーティン・ルーサー・キングをはじめ、アメリカ史上の偉大な改革者の大半は、信仰によって動機づけられただけでなく、宗教的な言葉を繰り返し用いてみずからの大義を説いたのです。したがって、「個人的道徳」を公的な政策論争に持ち込むべからずと言うのは、非現実的でばかげています。わが国の法律は、その定義からして、道徳を法典化したものであり、道徳の大部分はユダヤ教とキリスト教の伝統に基づいているのです」

 リベラル派であるはずの民主党のオバマが、「政教分離を振り回してキリスト教道徳を政治から遠ざけるのは間違っている」と主張しているのは、意外だが面白い。


 サンデルの教訓
 すごく単純に言ってしまえば、
 (1) 道徳的価値観をめぐる議論を避ける(リベラリズム
 (2) 道徳的価値とは何なのかがよくわからなくなる(ニヒリズム)
 (3) 気づいたら過激な道徳に心を支配されている(ファンダメンタリズム
 というパターンにハマるのを避けようとサンデルは主張している(それが本書の最重要ポイントだと言ってしまうと言い過ぎかもしれないし、本書に「ニヒリズム」という言葉は一回も出てこなかったと思うけど、少なくともそういう主張を明確に含んでいるとは言える)。実際、90年代のオウム真理教にしても、もっとさかのぼって連合赤軍の狂気を考えてみても、さらにさかのぼってヒトラーやスターリンの全体主義を振り返ってみても、その背景に「ニヒリズム」の問題があったことは明らかだと私には思える。何を信じてよいのか分からないという道徳的価値観の空白地帯に、単純で矯激な思想が入り込んでくるというのは人間社会にありがちなパターンなのだ。
 ところが、ここ数十年ぐらいの日本人が、ホロコースト連合赤軍オウム真理教事件から何を学んだ(学んだつもりになった)かといえば、「宗教ってヤバいよね」「政治思想ってヤバいよね」という全く正反対の結論だったわけである。そうじゃないのだ。宗教や政治思想は、徹底的に議論しておかないとヤバいのであって、ヤバいから議論しないという態度では悪循環にしかならない。


 サンデルの「白熱教室」をみて、「授業を盛り上げるテクニックがすごい」「やっぱりアメリカ人はディベートが得意」などと言ってても仕方がない。サンデルの議論から読み取るべきなのは、「我々はこれまで宗教的価値や政治的理念をめぐる議論を冷笑してきたわけだけど、それでいいんかい?」という疑問をそろそろ持った方がいいということである。
 まぁ実際、宗教とか政治を熱心に語るやつなんて、ちょっとイカれてるおばさんとか、痛々しい兄ちゃんばっかであることは確かではある。実際これは二重、三重に深刻な問題になっている。たとえば「戦後民主主義」とか「日教組教育」が個人の自由とか多様性を礼賛しすぎた結果として若者の道徳が乱れてしまったんだと保守派が騒いで、その流れで朝日新聞的な左派に対する批判が強まったわけだが、その結果として特にネット上の大衆世論に生まれたのは、「嫌韓」とか「ネトウヨ」みたいなクソイデオロギーでしかなかった。いや、イデオロギーですらなくて、単なるセンチメントにすぎない。要するに左派も右派もともにアホだったわけで、未だに、価値観をめぐる議論に「深み」なんてまったくないのだ。
 そしてこういう事態に陥った原因は、みんなアホでしたという単純な話ではなくて、政治思想の歴史に根っこがあるのであって、だからこそサンデルのように政治哲学の学説史をひもとく必要があったわけである。

正義にかなう社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。正義にかなう社会を達成するためには、善き生の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。


 というシンプルな結論は、功利主義自由主義といった思想の歴史を振り返った上で導き出されたものだ。我々庶民も、「お勉強」的な本を少しは読んでおくと、そういうことが理解できてちょっとは役に立つかもしれない。


 強靭な民主主義を築くことはできるのか
 サンデルはこういうふうにも言っている。

この数十年でわれわれは、同胞の道徳的・宗教的信念を尊重するということは、(少なくとも政治的目的に関係する場合)それらを無視し、それらを邪魔せず、それらに――可能なかぎり――かかわらずに公共の生を営むことだと思い込むようになった。だが、そうした回避の姿勢からは、偽りの敬意が生まれかねない。偽りの敬意は、現実には道徳的不一致の回避ではなく抑圧を意味することが多い。そこから反発と反感が生じかねないし、公共の言説の貧困化を招くおそれもある。言説の貧困化とは、一つのニュースから次のニュースへと渡り歩きながら、スキャンダラスでセンセーショナルで些細な事柄にもっぱら気を取られるようになることだ。


 そう、これだ。「他人の価値観を尊重しようぜ!」といって、実際には我々は、尊重したのでもなんでもなく単に争いを避けて来ただけだということ。正確にいうと、表では他人の価値観を「無視」し、裏では「嫌悪」してきた。それがネット上に現れると抑圧的、差別的な態度になるんじゃないかと思われる。
 とにかくそんな逃げの姿勢を続けてきた結果、我々はバカになってしまったとサンデルは嘆いているわけである。左派的なリベラリズムではダメかと思いきや、その後に出て来たネトウヨ的世論もダメすぎて話にならない。まさに、スキャンダラスでセンセーショナルで些細な事柄にもっぱら気をとられるようになってしまった……。
 ちょっと話がずれるが、NHK出版の『大震災特別講義』という本(討論番組を書籍化したもの)でサンデルは次のように言っている。

私から日本にお願いしたいことがあります。今後、原子力をめぐって議論が起こると思いますが、その時には、率直に意見を交わし、お互いに敬意を払った議論を重ねていただきたい。恐れることなく、避けることなく向き合ってほしいのです。
 今、世界中の民主主義が苦戦しています。それは、ある種の空虚さに打ち勝とうと、もがいているのです、ここ数十年、経済の問題が政治や民主主義的な議論を押しのける傾向がありました。ですから、そうした国家で不満が溜まっていることは驚きではありません。政治と政党、政治家に対する不満です。これは、日本だけではないのです。ヨーロッパでもアメリカでもイギリスでも、政治の進め方に深いフラストレーションが溜まっているのです。
 今回のことは民主主義に対する究極のテストだと思います。人々にとって最も重要な問題、最も熾烈に争われるような問題が、公然と敬意をもって議論できるかどうか。
 ですから、日本でこの議論が真剣に行われることを期待します。そして、もしそれができたのなら、その時世界が今回の震災から学ぶことは、教訓や復興に関することに留まらないでしょう。日本での率直で、思慮に富んだり議論のあり方が、世界のお手本となるでしょう。そして、日本にとっても、より強靭な民主主義を築く機会となるはずです。


 「お互いに敬意を払った議論」というのは日本人には難しくて、原発事故から2年以上経っても、お互いに馬鹿にし合い、罵倒し合っているのが現状ですな。


マイケル・サンデル 大震災特別講義 私たちはどう生きるのか

マイケル・サンデル 大震災特別講義 私たちはどう生きるのか