↓のエントリーへの補足。
鈴木謙介は、ワーキングプアやロストジェネレーションの利益を代弁する声が、いつの間にか「新自由主義」=「既得権批判」のロジックに転化していて、より一層の雇用流動化を促しているという逆説的な指摘から『サブカル・ニッポンの新自由主義』を書き始めてますよね。それぐらい深く、「新自由主義」の気分が現代人の思考に刷り込まれてるんですよと。
その例として、鈴木は城繁幸の『若者はなぜ3年で辞めるのか』が、団塊世代の終身雇用・年功序列を支えている「昭和的価値観」の解体と能力主義の徹底を主張していることを大きく取り上げてますが、もっと分かりやすい例があると思うのでメモしておきます*1。
- すでに↓のエントリーでも挙げているように、山田昌弘の『希望格差社会』、佐藤俊樹の『不平等社会日本』、三浦展の『下流社会』が、いずれも結局のところ「機会の平等をもっと確保せよ」という主張に収斂していたこと。みんな、理念としてはそれ以外に何も思いつかないようです(笑)。(ちなみにこの3冊を挙げているのは、単に、私が以前続けて読んだ覚えがあるからです。)
- J・ヤングの『排除型社会』も、個人の能力が適切に賃金に反映されていないことが剥奪感をもたらす要因のひとつだから、「能力主義」を徹底せよと主張していること。
- 去年の参院選で、民主党や社民党のマニフェストが、非正規雇用者への待遇改善のための理念として、「同一(価値)労働・同一賃金」を掲げていたこと。これも結局は「個人の能力を適切に評価せよ」と言っているのであって、一種の新自由主義ですよね。民主党のマニフェストはHPのどこにあるのかがもはや分からなかったけど、社民党の「同一価値労働・同一賃金」論はhttp://www5.sdp.or.jp/policy/policy/labor/labor0712.htmにまだ載ってる。
- 赤木智弘の『丸山真男をひっぱたきたい』も、戦争によるステータスのリセットというか、「流動化」を望むのだとはっきり言っていること。(←これは鈴木も挙げてたっけ?)
とりあえず思いつくのは、以上4つです。
こうやって例を挙げていくと、鈴木の指摘がいかに重要であるかが分かります。
やっぱり、「能力」を「個人に宿るもの」と思い込んでいることがそもそもの間違いであることに気付かないと、この泥沼からは抜け出せないんでしょう。で、抜け出せないから「能力主義的な市場競争」+「いざという時のセーフティネットとしての社会保障」というご都合主義的な議論になるんでしょうね(残念ながら、鈴木も結局これにハマってしまってると思う……)。
「自由競争+セーフティネット」論の危険性については、そのうち気が向いたらまとめます。