「もし生涯に『ウェルテル』が自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」(ゲーテ)
○ 私はよく知っている。われわれは平等ではない、またありえもしない。しかし、思うのだが、威厳を保たんがためにいわゆる賤民から遠ざかる必要があると信じている人間は、敗北をおそれて敵から身をかくす卑怯者と、同じ非難に値いする。(p.14)
○ 「あなた方のような人たちは」と私は叫んだ、「何か事があるとすぐに、それは馬鹿だ、これは悧巧だ、それはいい、これはわるい、といわないと気がすまない。それはいったいどういう事なのです? それをいうために、あなた方はその行為にはどんな事情がひそんでいたかを、しらべたことがありますか? なぜおこったか、おこらざるをえなかったか、その原因をはっきりと立証することができますか? もしできれば、そんな早まった判断はきっとしないに相違ない」(p.64)
○ おお、この体内にもうすこし軽い血さえ流れていれば、私は太陽の下でいちばん幸福な人間なのだがね。やれやれ! ほかの連中がわずかばかりの力量と才能をもって、いと快適に得々とわが面前を闊歩しているのに、この私が自分の力量と天分に絶望しているのか? それを私にみなお恵みくださった親切な神さま、あなたはなぜその半分をとっておいて、その代りに自信と自足をあたえてはくださいませんでした!(p.85)
○ まったく君のいうとおりだったよ。毎日世間の人間のあいだを追いまわされて、かれらがすること、またそのする仕方を見るようになって以来、私は前よりずっと自分と仲がよくなった。(p.85)
○ ……だから、孤独ほど危険なものはない。われわれの想像力は、もともと高きを求めるものであるのに、さらに文学の空想的な幻影に煽られて、しらずしらずに存在の一系列をつくりあげてしまう。そして、自分はその最下位にいるが、自分以外のものはもっとすぐれている、他人は誰でもずっと完全だ、と思いこむ。これは自然の傾向だ。われわれは、自分に多くのものが欠けていることをしきりに感ずるし、自分に欠けているものは他人が持っているような気がするものだ。そればかりではない、自分のもっているものを全部他人に贈物にして、おまけに一種のこころよい理想化までする。このようにして、幸福なる人間像ができあがるが、それはわれわれ自身が描きだした架空の幻にすぎない。(p.86)
○ 愚劣な奴らだ! 席次なんて大したものではないし、第一席を占めている人間が第一等の役割を演じていることはめったにないものだ、ということが分からないのだ。多くの王が大臣によって支配され、多くの大臣が秘書官によって左右されているではないか。こうした場合に、第一位の人間とは誰のことだろう? 思うに、それは、ほかのひとびとよりも先が見えて、自分の計画を遂行するために他人の力と情熱をふるいたたせるだけの、手腕ないしは機略をもっている人間のことだ。(p.91)
○ 空虚! 空虚! さながら覗き眼鏡の前に立って、その奥に小さな人間や馬が動きまわっているのを眺めながら、いま眼に映っているのは錯覚ではないのだろうかと、幾度も自問をしているかのようです。自分もその中にまじって一緒に芝居をします。というよりも、操り人形のように芝居をさせられているのです。そして、ときどき隣人の木製の手をつかんでは、ぞっとして後にしざります。(p.92)
○ 公爵は私の知性と才能とを、私の心情よりも高く評価している。しかし、この心情こそは私が誇る唯一のものであり、力も、浄福も、悲惨も、すべてはこの泉から湧く。ああ、私が知っていることは何人も知ることができる。――ただ、私の心は私だけのものだ。(p.105)
○ ときどき不可解な気がする。私がこれほどにもただあのひとだけを、これほどにも熱く、これほどにも胸いっぱいに愛して、あのひとのほかには何も知らず、何も解せず、何も持ってはいないのに、どうしてほかの男があのひとを愛することができるのだろう? 愛することがゆるされるのだろう?(p.109)
○ 人間、この半神とたたえられるものは、そも何なのだろう! もっとも力を必要とするそのときに、力を喪うではないか? 歓喜のあまり高翔しながら、また受苦の底に沈淪しながら、つねにつねに、いまこそ測りがたい無限者の中に融け入ろうとあくがれる、まさにそのときに、ひきとめられ、ふたたび鈍くひややかな意識へとつれもどされるではないか?(p.132)