The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

「土浦全国花火競技大会」を観覧する人のための攻略法

土浦花火大会の観覧は大変

今週土曜日(10/1)に、土浦全国花火競技大会がありますね。
今年は福島の会津若松市でも競技会があるようですが、伝統的に、花火師の競技会としては、秋田の大曲のものと、この茨城県土浦市のものが有名です。
競技会つっても、客からすれば要するに花火大会の観覧なのですが、職人が技術を競うものなので極めて多様かつ派手な作品が見られて面白いです。マンガのキャラクターの形に見える花火とかもたくさん上がります。


この花火大会の日はめちゃめちゃ混雑して、周辺の路上も椅子やシートで埋まりますので、いつ出かけてどこで観覧していつ撤収するのかという計画性が要求されます。間違っても「2時間前ぐらいに着けるように、クルマで出発して、駐車場は適当に探そう」なんて甘い考えで臨んではいけません。
なにしろ、市の人口が14万人しかいないのに、その日は駅周辺の花火会場に70~80万人もの観覧客が集まるわけです。普段から人の多いところではないので、色々なものがパンクするわけです。(といっても長年やっているイベントなので、周辺地域が一丸となって何とか回しており、感心します。)


私は学生時代、土浦市の隣のつくば市のファミレスでバイトしてましたが、20:30頃に花火大会が終わると21:00頃から混み始めて、一瞬たりとも休む暇がないぐらいの勢いで24時ぐらいまで回転しまくり、1年で最も売り上げの立つ日でした。飲食店で働いたことがある人は、「ランチ」のピークの最も強烈なやつが3時間ぐらい続く感じと思ってください。普段の2倍ぐらいのスタッフを配置し、かつ「土浦花火の日のシフト」経験者が必ず何名か入っていないと絶対に回らないオペレーションです。
しかもこれ、花火会場から10kmぐらい離れた場所の店での話ですからねw
そのぐらい混むイベントだということです。


結論から言うと、何回も行かないと勝手が分からないものなので、どこで見るか迷っているうちに始まってしまい、結局見づらい場所で見るハメになるという人も多発すると思います。
一応このエントリでは、隣のつくば市に13年間ぐらい住んでいる者として、最近何年かの参加経験から「私が今年も行くならこうする」っていう攻略法を書いておきます。
私自身はお祭り騒ぎが好きなわけではないので、最近は誰かに誘われるとか誰かを案内するとかじゃない限り行かないし、今年は当日用事がありそうなのですが・・・。


なお、私も自分の個人的な経験だけで書いており、これがベストな選択というわけではないと思います。おそらく、何十通りもある攻略パターンのうち1つを紹介しているという感じです。
なので他の情報もググるか、地元民に聞いてください。とにかく調べて、計画的に参加することです。私がググった感じだと、そんなに使える情報はなかったかなぁという印象ですが。

交通アクセスについて

土浦花火競技会の攻略法の9割は、交通手段です。とにかく混むし、みんな普段来ないところに来るから、勝手が分からないと思うんですよね。


まず、現地の状況に通じている人じゃない限り、クルマで会場付近まで行くのは諦めたほうがいいです。知り合いの駐車場が借りられるとかなら別ですが(それでも渋滞をどう抜けるかという問題はある)、停める場所がまず見つかりません。
だいたい当日の昼ぐらいから周辺地域の道路が混み始めて、開始直前になると近寄ることもできませんし、封鎖されている道路もあるのでナビもあてになりません。
根性で昼ぐらいに接近して、どこかに停めることができたとしても、帰りがまた猛烈に混むのでしばらく動けなくなります。もちろん地元の住民であればここの道は通れる等の知見があるのですが、外部の人にはリスクが大きすぎます。


基本は、電車で行くことです。常磐線の土浦駅を使う人が多いと思います。
常磐線は花火用の臨時便が何本も出ていますが、夕方以降はどれも超満員だと思ってください。パンパンなので、途中の駅でドアが開いても1人も乗れないみたいなことが多発するレベルです。
ちなみに私は、土浦から2駅隣のひたち野うしく駅にクルマを停めて、電車で向かうのがいつものパターンです。昔はひたち野うしく駅周辺に個人経営みたいな駐車場がたくさんあって、夕方に行っても普通に停めることができたのですが、近年再開発が進んでいて駐車場が減りました。
そのかわり、ひたち野うしく駅前の西友の駐車場に停めることができます。無断で止めるのではなく、花火客向けの料金がちゃんと設定されています(今年も駐車可能であることは、店に電話して確認しました)。けっこう余裕があり、去年は16:30ぐらいに行きましたが普通に停めれました。


で、ひたち野うしく駅から乗るんですが、来る電車が既に超満員なので、すぐに乗れるとは限らず、2~3本見送ることが多い感じですね。そして土浦駅で降りてからがまた大変で、ホームも2階の改札も人の海なのでなかなか動けず、電車を降りてから駅を出るまでに(測ったわけではありませんが)15分~20分ぐらいは人ごみに揉まれるんじゃないですかね。
子どもやお年寄がいる場合は、満員電車でただでさえ疲れているので、電車を降りたらホームの隅に観覧用の椅子を展開して一時休憩するのがお勧めですw(そんな人はあまりいませんが、ほんと疲れるので。)


なお、常磐線よりつくばエクスプレスで行きたいという人も多いと思われ、つくば駅から土浦までのバスも出てるはずですが、これはどうなのかな。花火当日に乗ったことが無いけど、当日の道路の混雑を考えたら、けっこう到達に時間がかかってるんじゃないですかね。

観覧場所の確保

駅から出たら、まともに観覧できるところまで10~20分ぐらい歩くと思ってください。駅前から観覧エリアの中心部までシャトルバスが出ていますが、待つのも面倒なので歩いていく人が多いんじゃないかと思います。
みんな移動しているので、迷うことはありませんが、どの地区で観覧するかによって行先は分かれますので、事前に計画したほうがいいですね。


ちなみに場所取りで何時間も待ちたくない人向けに私が個人的にお勧めな観覧場所は、下図のとおり川の南側の芝生です。歩いて移動します。


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多くの人は、打ち上げ場所の北~北西~東の道路及び川岸に集中しているイメージで、対岸側がわりと空いてる印象です。
まぁ、もっと近くで綺麗に見える場所もあるんですが、早く行かないと良い場所が取れないんですよね。私はせいぜい1時間とかしか待ちたくないので、この場所で十分です。ここだと人ごみにならないので、かなり直前に行っても椅子やシートを自由に広げることができますし、ちょっと遠いものの十分綺麗に見えます。簡易トイレもありますし。


逆にいうと、(桟敷席を除く)ベストポジションでどうしても見たいとかじゃない限り、昼から場所を取るような必要はないということです。開始1~2時間前が到着人数のピークだと思いますが、そのタイミングでもそこそこ観覧できるし、3時間前ぐらいに行けば少し余裕があります。


なお、私が川岸をお勧めするのは、市街地(たとえば打ち上げ場所のすぐ南のイオンなんかも観覧スポットと言われる)だと地図で見るよりも自由度が低いからです。すでに人がたくさんいるし、そもそも公道や店舗・住宅があるところで自由に椅子やシートを広げられるわけではありません。また、建物や電柱や橋が障害物になるので、ちゃんと見通せる場所をみつけるのは、地図からイメージするより難しいんです。観覧経験がないと、「どの角度なら見通せるか」も分からないわけなので、花火が始まるまで「ここからちゃんと見えるのかな?」と落ち着かない時間を過ごすことになります。
そういう意味でも、上図の川岸を目指しておけば、障害物はべつにないし場所取りも自由度が高いので、経験の浅い人でも安心できると思います。

観覧

見るだけです。綺麗です。

持ち物

まあこれは別にアドバイスも必要ない気はしますが、一応書いておきます。

  • 上着
  • ウェットティッシュ
  • 普通のティッシュ
  • ゴミを入れる袋
  • レジャー用の椅子(運ぶ体力に自信がなければシート)
  • 飲食物


まず季節的に10月1週目というのは微妙で、暑い年もあれば寒い年もあります。去年は寒かったです。天気予報を見て暑そうであれば問題ないですが、一応上着はあったほうがいいかもしれません。


ウェットティッシュとゴミ袋は、こういうレジャーの時は絶対あった方がいいのですが、もってこない人が多いので、一応書いておきます。手を洗えるところが近くになかったり、ゴミ箱が近くになかったりして、そんなものを探すのは面倒なので、自前で用意したほうが楽です。


ちなみに簡易トイレみたいなものが設置されますが、手洗い用の水道はありませんし、確かトイレットペーパーもほぼ無かったと思います。コンビニのトイレとかは混むのであまりあてにしないほうがいいと思います。
待機時間を入れても3時間程度のイベントなので、事前に用を足しておいて我慢するのが基本ですが、どうしてもという場合は下記のトイレを利用します。
http://www.tsuchiura-hanabi.jp/kantan/data/doc/275/CTwdBu8jcxCjgOEu.pdf


レジャー用の椅子について、観覧場所付近までクルマで近づくなら持ち運びは大変じゃないだろうと想像するかもしれませんが、すでに述べたように現実的にはクルマで近づくのは大変で、強いて言えば当日午前中ぐらいから行く必要があります。大半の人は電車で土浦駅に行って、歩きかバスで観覧場所に移動するわけで、しかもけっこう距離があって15分とかは歩くので、椅子を担いで移動するのはけっこう疲れます。体力がないならレジャーシートで妥協したほうがいいですね。
当然、椅子のほうが圧倒的に見やすいのですが。
また、電車はとても混むので、椅子もなるべくシンプルなものにすべきです。無理にパラソルとかテーブル付きのやつを持っていこうとすると電車に乗りにくくて大変だと思います。


飲食物ですが、土浦駅から観覧場所まで歩いていく路上では、いろんな店がいろんな食べ物を販売しています。野球場の外みたいな感じです。から揚げとか焼きそばとかおでんとか。
なので食べるものはそこで買えばいいとは言えますが、コンビニで売っているようなものを持っていきたいのであれば、土浦駅に着いてからではなく、なるべく電車に乗る前に買ってください。土浦駅周辺のコンビニはめちゃめちゃ混むし、売り切れも出ますので。

撤収

初めて参加する人は最後まで見たいと思うのですが(最後の方になんかデカいやつもあったと思う)、私は何回も見ているので、だいたい20時過ぎには撤収します。撤収タイミングを少し早めるだけで、土浦駅からの電車にある程度スムーズに乗れます
ただ、そうは言っても、電車は超満員で座れることはまずありません。2駅しかないので別にいいんですが。
 
 

おわりに

以上、土浦花火競技会観覧の攻略法でした。
私はとりあえずこの流れで安心して観覧できると思っていますが、冒頭でも述べたように、あくまで数ある攻略法の1つでしかないはずだし、今年は何か事情が変わっているかもしれないので、他にも色々調べて参加してください


ただ一つ言えることは、打ち上げられる花火は世界最高レベルの作品であり、数も2万発と多いので、仮に計画性が足りずあたふたしている間に中途半端な場所で観覧することになったとしても、かなり楽しめるということです。地元の住民だと、何も毎年行く必要もないので、10kmぐらい離れたところでベランダとか屋上から見たりもするぐらいですw

人文社会科学の必読古典文献リスト(知人向け)

必読書リストについて

 大学の教員をやってる友人から、人文社会科学の必読書の一覧はないかと言われて、このエントリを書いています。
 ニューアカというかポストモダン系の人たちがまとめた『必読書150』っていうブックガイドがあるんですが、私はポストモダン思想に共感はしないものの、文系の大学生・大学院生が読むべき古典の一覧表としては、今のところこれが一番なんじゃないかと思っています。
 「必読書リスト」みたいなものを掲げると、まぁみんな色々言いたいことが出てくるものです。「これは不要」「あれが入ってない」など好みに基づく各論もあれば、そもそも「古典偏重の教養主義は時代遅れ」とかいう批判もあります。でも私はやはり、「よく言及されているので、読んでるに越したことはない本」の一覧はあった方が良い思っています。
 過去のエントリで、必読書リストについて思うことや、古典を読むことの意義についても書いたことがあります。
 
 
 『必読書150』の一覧表はここに載っています。
 必読書150のリスト ついでに 東大教師が新入生にすすめる100冊:品川心療内科-日録-SMAPG-Panalion:So-netブログ

 
 
 また、Google Scholarの被引用数に基づく文献リストをまとめたブログ記事があって、かなり参考になります。
 何を読もうか迷った時のために→Googleが選ぶ世界の名著120冊(2013年版) 読書猿Classic: between / beyond readers

 
 基本的には、これらのリストを参考にするべきだと思います。(Googleのほうは人文社会科学という限定ではないですが。)
 以下に、これら(主に必読書150のほう)を参考にしながら出し入れした個人的な必読書リストを掲げますが、こういうのはリストを作っている人物に信用がないと意味がありませんので、本来は私のブログなんかに載せるようなものではないです。
 ただ、知人に伝えるにもブログエントリにしておいたほうが便利だし、ここに書いてある文献名をググってみて読む価値があるかどうか自分で判断して頂くこともできると思って、エントリを起こすことにしました。
 
 

必読書リスト

 以下の文献リストは、『必読書150』の「人文社会科学」カテゴリの必読書リストから、個人的に不要だと思ったものを削り、必読だと思うものを追加したものです。また、『必読書150』の「海外文学」「日本文学」カテゴリからも数偏拾っています。なお、自然科学に属するものも含まれています。
 内容が素晴らしいからとかではなくて、よく言及されるから知っておいたほうがいいという観点でリストアップしています。なので、私自身が読んでいなくて判断が付かないものでも、よく言及されているものは入れています。個人的に名著だと思う本が入っていなかったり、好きになれなかった本が入っていたりもします。ただ、個人的な関心や好みの偏りもある程度反映されていることは間違いないです。


 こういう古典文献は、それぞれを味わって自分の頭でよく考えながら読むことも大事ですが、ある程度は、理系の学生が数学の勉強をするような感じで、最低限のリテラシーとしてノルマ的に読んでいく必要もあると思っています。苦痛を覚えることもあります。なので、労力をイメージしながら読み進められるように、ページ数を付記しておきました(笑)。まぁ内容の難易度も異なるので、薄いから楽ということもないですが。
 専門知としてではなく教養として読むものなので、邦訳を読めばいいと思います。思想書のたぐいは、日本語訳だとややこしくて英語(英訳)版の方が分かりやすいみたいに言われる本もよくあるのですが、岩波文庫なら数百円で買えるものが洋書だと数千円するので、とりあえず邦訳版優先で読めばいいんじゃないでしょうか。
 なお、邦訳書でも買うと高いやつは値段を書いておきました。手元にあるものの値段をみたり、Amazonで調べたりとソースがマチマチなので、目安程度と思ってください。

  • プラトン『饗宴』(181p)岩波文庫
  • プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』(117p)岩波文庫
  • プラトン『国家』(456+493p)岩波文庫
  • アリストテレス『詩学』(356pの半分ぐらいかな?) 岩波文庫
  • アリストテレス『形而上学』(419+457p)岩波文庫
  • アリストテレス『ニコマコス倫理学』(294+306p)岩波文庫
  • アリストテレス『政治学』(494p)京都大学学術出版会,4410円
  • アウグスティヌス『告白』(329+302p)岩波文庫
  • パスカル『パンセ』(644p)中公文庫
  • スピノザ『エチカ』(295+180p)岩波文庫
  • カント『純粋理性批判』(371+357+431p)岩波文庫,他に平凡社ライブラリー,以文社(以文社のものが良いと言われている)
  • ヘーゲル『法の哲学』(404+460p)中公クラシックス
  • ヘーゲル『精神現象学』(491+455p)平凡社ライブラリー
  • ヘーゲル『歴史哲学講義』(363+381p)岩波文庫
  • ショウペンハウアー『意志と表象としての世界』(369+347+308p)中公クラシックス
  • キェルケゴール『死に至る病』(237p)岩波文庫
  • キェルケゴール『不安の概念』(299p)岩波文庫
  • ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』(275+365p)岩波文庫
  • ニーチェ『道徳の系譜』(216p)岩波文庫
  • ニーチェ『善悪の彼岸』(326p)岩波文庫
  • ニーチェ『この人を見よ』(222p)新潮文庫,岩波文庫
  • フロイト「快楽原則の彼岸」(『自我論集』所収)ちくま学芸文庫
  • フロイト『夢判断』(530p+527p)新潮文庫
  • ラカン『精神分析の四つの基本概念』(384p)岩波書店
  • ブルトン『シュルレアリスム宣言』(286p)岩波文庫
  • ハイデッガー『存在と時間』(524+490p)ちくま学芸文庫,岩波文庫,中公クラシックス
  • ハイデッガー『ヒューマニズムについて』(398pあるけど本文は100pもなかったと思う)ちくま学芸文庫
  • ウィトゲンシュタイン「哲学探求」(『ウィトゲンシュタイン全集8』所収,479p)大修館書店,4725円
  • ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(256p)岩波文庫
  • フッサール『論理学研究』(341+298+378+302p)みすず書房,計2万5000円ぐらい
  • フッサール『イデーン──純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』(434+484+227p)みすず書房,計3万円ぐらい
  • フッサール『デカルト的省察』(390p)岩波文庫
  • フーコー『言葉と物』(474p)新潮社
  • フーコー『監獄の誕生』(345p)新潮社,5565円
  • フーコー『知の考古学』(367p)河出書房新社,3045円
  • フーコー『狂気の歴史』(649p)新潮社,6300円
  • デリダ『根源の彼方に──グラマトロジーについて』(395+412p)現代思潮新社,計 7980円
  • ベイトソン『精神と自然―─生きた世界の認識論』(325p)新思策社

 

  • マキァベッリ『君主論』(390p)中公文庫BIBLO,岩波文庫
  • モア『ユートピア』(210p)岩波文庫
  • デカルト『方法序説』(137p)ワイド版岩波文庫
  • ホッブズ『リヴァイアサン』(398+471+522+355p)岩波文庫
  • ルソー『社会契約論』(246p)岩波文庫
  • ルソー『人間不平等起原論』(282p)岩波文庫
  • ロック『市民政府論』(253p)岩波文庫
  • マルクス『資本論』(307+536+433+522+285+529+457+329+207p)岩波文庫
  • マルクス,エンゲルス『共産党宣言』(116p)岩波文庫
  • ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(436p)岩波文庫
  • デュルケーム『自殺論』(568p)中公文庫
  • テンニエス『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(225+234p)岩波文庫
  • トクヴィル『アメリカの民主政治』(432+505+613p)講談社学術文庫
  • シュミット『政治的なものの概念』(128p)未来社,1365円
  • ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』(632p)東洋経済新報社,5184円
  • シュンペーター『経済発展の理論』(362p+275p)岩波文庫
  • シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』(689p)東洋経済新報社,4752円
  • ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』(482p)東洋経済新報社,3672円
  • マンデヴィル『蜂の寓話』(404p)法政大学出版局,4860円
  • ハート『法の概念』(553p)ちくま学芸文庫
  • アレント『全体主義の起原』(245+308+345p)みすず書房,計1万4805円
  • アレント『革命について』(478p)ちくま学芸文庫
  • アレント『人間の条件』(549p)ちくま学芸文庫
  • レヴィ=ストロース『野生の思考』(396p)みすず書房
  • レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』(339+449p)中公クラシックス
  • レヴィ=ストロース『親族の基本構造』(912p)青弓社,1万4700円
  • レヴィ=ストロース『構造人類学』(475p)みすず書房,6930円
  • マクルーハン『グーテンベルグの銀河系――活字人間の誕生』(504p)みすず書房,7875円
  • バトラー『ジェンダー・トラブル』(300p)青土社,3024円
  • ウォーラーステイン『近代世界システム』(296p+298p)岩波書店
  • サイード『オリエンタリズム』(456+474p)平凡社
  • アンダーソン『想像の共同体』(358p)NTT出版
  • モンテスキュー『法の精神』(463+433+533p)岩波文庫
  • ミル『自由論』(288p)岩波文庫
  • オークショット『市民状態とは何か』(238p)木鐸社,3150円
  • オークショット『政治における合理主義』(416p)勁草書房,4410円
  • ロールズ『正義論』(482p)紀伊国屋書店,6830円
  • パットナム『哲学する民主主義』(318p)NTT出版,4212円 ←古典とは言わないかな…
  • ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(477p)中公文庫
  • ベル『主本主義の文化的矛盾』(261+201+277p)講談社学術文庫
  • ハーバーマス『公共性の構造転換』(357p)未来社,3990円
  • ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論』(371+356+434p)未来社,5040円 ×3
  • パーソンズ『経済と社会』(293+239p)岩波書店
  • モース『贈与論』(305p)ちくま学芸文庫
  • ヴェブレン『有閑階級の理論』(391p)岩波文庫
  • ヴェブレン『企業の理論』(332p)勁草書房

 

  • ホメロス『オデュッセイア』(394+365p)岩波文庫
  • 旧約聖書『創世記』(272p)岩波文庫
  • シュペングラー『西洋の没落』(393+414p)五月書房,3990円×2
  • ガンジー『ガンジー自伝』(512p)中公文庫
  • ヒトラー『わが闘争』(506+418p)角川文庫
  • ル=ボン『群衆心理』(302p)講談社学術文庫
  • ソシュール『一般言語学講義』(523p)岩波書店
  • ピカート『神よりの逃走』(212p)みすず書房
  • ピカート『われわれ自身のなかのヒトラー』(294p)みすず書房
  • ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(325p)紀伊国屋書店
  • ボードリヤール『象徴交換と死』(565p)ちくま学芸文庫
  • サルトル『嘔吐』(338p)人文書院
  • ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』(187p)晶文社クラシックス

 

  • クーン『科学革命の構造』(293p)みすず書房3024円
  • ユクスキュル『生物から見た世界』(166p)岩波文庫
  • シュレーディンガー『生命とは何か』(215p)岩波文庫

  

  • 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』(285p)岩波文庫
  • 内村鑑三『代表的日本人』(208p)岩波文庫
  • 夏目漱石『漱石文明論集』(378p)岩波文庫
  • 坂口安吾「堕落論」「続堕落論」「日本文化私観」(『堕落論』というタイトルの評論集に入っており、それぞれ20〜30pぐらいかな)新潮文庫,角川文庫,岩波文庫
  • 岡倉天心『東洋の理想』(221p)講談社学術文庫
  • 岡倉天心『茶の本』(95p)岩波文庫
  • 西田幾多郎『善の研究』(254p)岩波文庫
  • 九鬼周造『「いき」の構造』(190p)岩波文庫
  • 和辻哲郎『風土』(299p)岩波文庫
  • 柳田國男『遠野物語』(144p)新潮文庫ほか
  • 福沢諭吉『学問のすすめ』(206p)岩波文庫
  • 福沢諭吉『文明論の概略』(391p)岩波文庫
  • 福沢諭吉『福翁自伝』(346p)岩波文庫
  • 新渡戸稲造『武士道』(159p)岩波文庫
  • 林房雄『大東亜戦争肯定論』(487p)夏目書房,3990円
  • 丸山眞男『日本の思想』(192p)岩波新書
  • 丸山眞男『現代政治の思想と行動』(585p)未来社,3675円
  • 丸山眞男『日本政治思想史研究』(420p)東京大学出版会,3570円
  • 『近代の超克』(341pのうち有名な座談会は半分ぐらいだったかな)冨山房百科文庫
  • 今西錦司『生物の世界』(208p)講談社文庫
  • 正岡子規『歌よみに与ふる書』(180p)岩波文庫
  • 石川啄木『時代閉塞の現状(他11編)』(206p)岩波文庫
  • 小林秀雄『小林秀雄全作品』シリーズ,新潮社(小林秀雄は短い評論文がメインなので、このシリーズの目次をみて気になったタイトルの文章を適当に読めばいいと思う)
  • 保田與重郎『日本の橋』(179p)新学社保田與重郎文庫
  • 吉本隆明『転向論(他12編)』(374p)新潮文庫
  • 江藤淳『成熟と喪失』(301p)講談社文芸文庫

 
 
 古典文献を挙げるとどうしても、思想系が多くなりますね。社会科学に関していうと、政治学にしても経済学にしても社会学にしても、「基礎」を勉強したいなら「教科書」を読んだほうがいいです。古典を読むことは「教養」として必要だと思いますが、その学問の「基礎」をマスターすることとは別の意味を持つ読書だと思っています。
 
 

『必読書150』の「人文社会科学」リストに載ってたけど外したもの

  • ケージ『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』(270p)青土社
  • レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(293+362p)岩波文 庫
  • アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』(422p)岩波書店
  • ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』(545p)河出書房新社
  • 柳田國男『木綿以前の事』(310p)岩波文庫
  • 時枝誠記『国語学原論』(260p)岩波書店,絶版
  • 宇野弘蔵『経済学方法論』(323p)東京大学出版会,絶版
  • 西田幾多郎『西田幾多郎哲学論集I・II・III』岩波文庫
  • ヴァレリー「精神の危機」(『ヴァレリー・セレクション(上)』所収,10編中の1 編)平凡社ライブラリー,1260円
  • シュミット『政治神学』(208p)未来社,1890円
  • 本居宣長『玉勝間』(396+330p)岩波文庫
  • 上田秋成『胆大小心録』(122p)岩波文庫

よく耳にするけど絶対ヘンだと思うビジネス用語

変なビジネス用語

 今日、朝日新聞のニュース記事で「ほぼほぼ」という表現が市民権を得てきたみたいな話があり、はてぶのホットエントリに上がっていた。
 
www.asahi.com
 
 これはべつにビジネス用語として紹介されているわけではないんだけど、ビジネスマンがよく使ってるというイメージがある。就職するまでこんな言葉聞いたことなかったし、テレビでも耳にしないので、私のなかでは「変なビジネス用語」の一つとして認識されている。


 ちなみに私自身は「ほぼほぼ」という表現は全く使わない。べつに意図的に避けているわけではないんだけど、自分の口から出てくることは絶対ないなという感じ。「ほぼほぼ」と言っている人に文句をいいたいわけではないものの、どうしても気持ち悪いという感覚があって、どんだけ耳にしても自分の口から出ることはないなと。
 

 こういう、「ビジネスマンが使うヘンな言葉」ネタはたびたび盛り上がっていて、たとえば以前はこんな記事↓を読んだ。ビジネスマンがムダに横文字を使おうとして変になっているという話だ。


http://matome.naver.jp/odai/2142173791626860501matome.naver.jp


 似たような記事はいくつか見たことがあって、例えばほぼ日に載っていたこの記事↓なんかは、とてもおもしろく、かつ「これらの表現はネタとして扱われるべき変な日本語である」という判断にとても共感できる。かなりオススメな連載です*1

ほぼ日刊イトイ新聞 - オトナ語の謎。


なるはやで、紙に落とし込んでいこうではありませんか。
いったんペンディングしたものを、
仮にフィックスして、うしろの時間を見ながら、
アバウトに丸投げしていこうではありませんか。


 さて、ほぼ日の記事に載ってるものが多いのだが、私自身が仕事上よく耳にするものの自分では絶対に使わないビジネス用語について、以下にメモしておく。


「チャリンチャリン」

 何か具体的なサービスや事業のビジネスモデルの話をしているときに、手数料・利用料などの収入のことを「チャリンチャリン」という人がけっこういる。賽銭箱にお金が放り込まれるようなイメージなんだろうか。


 不思議なことに、作業委託費の収入とか製品の販売収入とかは、チャリンチャリンとは言わない。
 なんというか、「いったん仕組みを作ってしまうと、ほっといても自然にお金が流れてくる」的なビジネスモデルの場合に*2、「チャリンチャリン」という言葉が使われるようだ。何かを1回利用するごとにお金の支払いが発生する様子が、「チャリン」という音で表現されているのだろう。


 たとえば、ECモール事業で出店者からモール運営者に入るシステム利用料みたいなのは、「チャリンチャリン」と呼ぶことが可能。そういう事業のことを「チャリンチャリンビジネス」と呼ぶ人もいる。


「お願いベース」

 「お願いベース」は、人や企業に何かを頼む時に、へりくだった感じを強める目的で用いられる。頼みごとの際の「申し訳なさ」や、「無理だったら別にいいです」感を強調する表現だと言えば分かりやすいだろうか。
 「本当はこんなことをお願いできる義理ではないのだが、ここは一つ、なんとかお願いしたい。しかしまぁ、本来無理なお願いであることは承知しているので、ダメならだめで諦めるつもりですが」というニュアンスを表現する際に、「お願いベース」が用いられる。


 「これはもうほんとに、お願いベースなんですけど、できれば来月までに◯◯をして頂けますと弊社としては大変助かるところでして・・・」みたいな。ベースって何なんだよ。
 ベースって何だよ感は「正直ベース」(頻出)にも言えることです。


「おいくら万円」

 「幾ら」の意味。だいぶ変な日本語だけど、ビジネスマンの間ではごくふつうに使われている。
 見積もり依頼するときに、「いったんこの部分の要件をこちらで決めてしまえば、開発費がだいたいおいくら万円というのはすぐに出していただけるんですかね?」みたいな。
 万単位ではなく億単位になりそうな場合でも、「おいくら億円」とは言わず「おいくら万円」が用いられる。


「いまいま(のところは)」

 これは「ほぼほぼ」と同じ繰り返し系ビジネス用語で、単に「今のところは」の「今」を繰り返したもの。
 「このオプションサービスは、いまいまのところは無償提供でも構わないが、いずれ利用料を取るようにして、チャリンチャリンビジネスとして育てていくべきだ」みたいな。


 「今のところは」という表現は、「将来は状況が変わるかもしれないけど、現在のことに限定していうと」というニュアンスを持っているわけだが、これが「いまいまのところは」になると、たぶんその「限定」感が強められるのだろう。つまり「ぶっちゃけ来月にはどうなってるかホントわからないんだけど、少なくとも今はそう言える。今はね」みたいな状況で、「いまいまのところは」が用いられるわけである。
 「のところは」に繋げず「いまいまの状況をお伝えしますと…」みたいな使い方もある。


「込み込み」

 これも繰り返し系のビジネス用語の一つ。たいていは、金額に何かが含まれていることを言う時に用いられる。
 「保守料と回線費用も込み込みで、月額◯万円になります」みたいな。「込み」でええやんと思うけど……。「全部含めて」感を強めたいのだろうか。


「共有」=「連携」=「展開」

 情報とか資料をあげる/もらうことを、ビジネスマンは「連携」と言ったり「共有」と言ったり「展開」と言ったりする。
 「共有」はまぁ自然だと思うけど、「連携」とか「展開」とか言いたがる人もけっこういて、変な日本語だなぁといつも違和感を覚える。


 「それでは貴社内の方針が固まりましたら、我々にも連携いただけますと・・・」
 「先日◯◯様よりご提示頂いた資料を、関係者の皆様に展開いたします」(と言ってメールに何か添付されてばらまかれる)


 みたいな。IT企業の人がよく使っているイメージがある。


「〜いただきたく。」

 ビジネス用語というわけではないかもしれないけど、メールとかで何かをお願いするときに語尾を「〜いただきたく。」で止める人いるよね。「◯月末までにはご決定いただきたく。」みたいな。


 かなり上から目線で強要してるように感じられるので、私は絶対そういう表現は使わないんだけど、人によってはメールで何かを依頼する時に常に「いただきたく」止めをしている。
 まぁ発注者が受注者に対して使う分にはいいかも知れないけど、逆の立場で使っちゃってる人もいるから驚く。しかもそういう人は、「いただきたく」止めを、デキるビジネスマンの表現だと勘違いしてる節があったりもする。


「仁義を切る」

 これは本当におかしい。ビジネスマン(役人の人もよく使うが)が「仁義を切る」という時、その意味は「隠し事になってしまわないように、事前に知らせておく」という意味だ。
 たとえば、あるプロジェクトをA社との間で進めていたところ、じつは並行してB社との間にも似たようなプロジェクトが生まれることになったとする。A社が「自分たちだけがやっている」と思い込んでいるまま、B社とのプロジェクトのほうが先に世に出てしまったりすると、A社としては浮気されたような気になってヘソを曲げてしまいかねない。だからそういう場合は、B社とのプロジェクトが本格化する前に、「A社に仁義を切っておく」のだ。


 しかし本来「仁義を切る」というのは、ヤクザの世界における「初対面の挨拶」のことだ。Wikipediaにも詳しく載っている(リンク)が、「お控えなすって」とかで始まる定型的な挨拶の仕方があるわけ。そういえば昔YouTubeで見たことがあるんだけど(今は消されてる。ここにテキストが載ってた。)、中国地方のヤクザに密着取材したテレビ番組があって、親分が「最近の若い者は、仁義の切り方も知らない」と嘆いて、子分に対して仁義の切り方を実演しながら指導していた。腰を低くして、片手を差し出して手のひらを見せるようにし、ドスのきいた声で「お控えなすってぇ!」とやっている姿は、けっこう迫力あってかっこよかったな。
 方言によって変わるみたいだが、


 ヤクザ1「お控えなすってぇ」
 ヤクザ2「お控えなすってぇ」
 ヤクザ1「お控えなすってぇ」
 ヤクザ2「お控えなすってぇ」
 ヤクザ1「それじゃぁご挨拶になりません、まずあんさんからお控えなすってぇ」
 ヤクザ2「……」
 ヤクザ1「早速のお控え、ありがとうござんす」


 みたいな感じで、相手に控えてもらった上で、自分から先に自己紹介を切り出すのだ。ググると色々なバージョンが出てくるけど、日本語としてもリズム感があって美しい。


 それが「仁義を切る」ということなのに、会社で部長とかが「A社には俺が仁義切っとくから安心して」とか「A社に仁義は切ったの?」とか言ってるのは本当に滑稽。



他にも何か思いついたら追記します。

*1:ヘンな言葉を集めた連載ではなく、就職したら耳にする言葉を集めたものなので、収録されている言葉は別におかしくはないものが大半だけどね。

*2:本当にほっといてもお金が流れてくるビジネスなんてあまりないけど。

日本衛生学会の「タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止について」がたいへん子供っぽい件

子供っぽい理事会提案

 日本衛生学会の「タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止について(理事会提案)」という提案文が、にわかにはてブのホットエントリに上がっていた。(もともとは去年の9月に公表されたものみたい。)


 タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止について(理事会提案)


 私は、利益相反の懸念を重視して「タバコ資金」の助成を受けた「タバコの健康への影響に関する研究」を受け付けないというのは、ある面では合理的な判断であり得ると思う(研究テーマ等と関係なく資金源を基準に排除するのは過激だと思うが)。だからこそ、どんな分野でも査読者の選定には注意が払われているわけだし。また、学会が特定の価値観へのコミットメントを宣言し、それと対立する価値観を学術的討議の場から排除することも、「まぁそういう所があってもおもしろいんじゃないの」ぐらいに思っている。
 しかしこの理事会提案は、文面が穏やかでないというか、子供っぽいのが気になった。明らかに冷静さを欠いていて、言わなくていいことを言い過ぎという感じだ。

タバコ会社は人の命を奪うタバコを販売することによって経営が成り立っています

JTが提供する研究資金はほとんどすべてタバコ売上の利益によるものであり、ヒトの命を奪って作られたものであると考えるべきです。

人の命と引き換えに生み出されたそのような資金


 とかいうのはあまりにも文学的だし、
 

最近JTは缶コーヒーや桃の天然水などの飲料とその自販機を含む飲料事業を売却し、利益率の高いタバコ事業に一層集中しています。そうした中で赤字の医薬品事業を抱え続けるのは、JTは健康を阻害するだけではないというカモフラージュが目的と考えるべきです。

現状の日本のタバコ会社による研究助成がタバコを売るための謀略であり違法なものである


 みたいな勘ぐりを、学術団体が理事会名義で公言するのは異常なのではないだろうか。

受動喫煙の健康影響の有無について1980年から1995年の間に発表された総説論文106編を解析したところ、うち39編(37%)が受動喫煙の健康影響を否定していましたが、そのうちの29編(74%)の著者はタバコ会社との関係がありました。多変量解析で受動喫煙は健康影響がないとする論文の様々な要素・特徴ごとのオッズ比を調べると、唯一有意に関係していたのは著者がタバコ会社と関係が有るか無いかで、そのオッズ比は88.4(95%信頼区間16.4-476.5)でした。従って客観的であるはずの科学研究においても著者のタバコ会社との関係性が大きな影響を与えており、タバコ会社から資金を得てなされた研究は、タバコの害を低く評価する方向にバイアスしている可能性があると考えられます。


 というような記述も悪質だ。週刊誌レベルの文章なら、「受動喫煙の健康影響を否定する結果が得られた研究は、タバコ会社関係者によって行われたものが多い」という事実から「これはタバコ会社の謀略だ!」と論じても許される気はする。しかし科学者の団体が、論文の内容を精査するわけでもなく、「タバコ会社の関係者だから、研究結果も捏造に違いない」という予断だけを振りまくというのは、尋常ではないと思う。
 上記のようなデータはたしかに興味深いものではあるが、そのことをもって個々の研究結果を否定できるわけではないはずだ。「バイアスしている可能性がある」としか言っていないが、印象を誘導しようとしているのは明らかな文面である。
 そもそも、「世間一般の風潮が『禁煙ファシズム』に支配されてバイアスを有しており、タバコ会社関係者だけが冷静な研究をできているという解釈もできる」とか言われたら水掛け論にしかならないので、こういう議論は不毛である。


 ある一つの理論的な仮説を実証するのにたくさんの研究の蓄積が必要な場合はけっこうある。「こんな実験をやってみたら、仮説を支持する結果が出た」「でもこういう実験だと、仮説は支持されなかった」みたいなのが、多数の研究者によって長年繰り返された上で、「少なくともこういう点については、過去の大方の研究で結果が一致している」みたいなことが言えるようになるわけだ。
 数学の研究とかなら論文1本で明快な真理を導き出せるのだろうが、研究の「蓄積」を踏まえて総合的に判断することでしか、何が真理であるのかを検討できないような研究領域は多いはずである。そういう領域では、実験や調査で対立する結果が得られることについてはある程度寛容であるべきで、文句があるなら研究内容を精査したり、メタ分析を実施したりすべきだろう。
 
 
 何も論文を読まずに勝手に想像で言うと、たとえば受動喫煙の悪影響を調べるにあたって、収集したデータに対し「受動喫煙の悪影響はない」という帰無仮説の検定を行って、悪影響ありとかなしとか論ずる場合が多いとすると、あるデータにおいてこの帰無仮説が棄却されなかったことを報告しているだけであれば、実験デザインに細かいツッコミを入れることで、色々反論は可能なはずだ。そんな研究は腐るほどあり、そういうものを含めて「研究の蓄積」が進み、論争を重ねることによって、学術的な真理に近づいていくものだと思う。


 今回の理事会提案は資金源のみを基準に研究発表を排除するというもので、それがタバコの健康への影響を扱うものかどうかは関係ないというふうに読める。利益相反を排除するのが目的であれば、研究テーマとの組み合わせでルールを設定するのが合理的である。それをしないということは、学術研究における利益相反を排除しようとしているのではなく、とにかく特定の団体と戦うことが目的だと言っているわけだ。それはそれで面白いので頑張ってくれたらいいと思うが、学術的に真理を探求する際の態度として合理的かというと、怪しいだろう。

この概算にもとづけば、JTの調整後国内営業利益2,387億円から支給される補助金は340万円ごとに、ひとりの日本人の命が奪われた結果であることになります。


 に至っては意味不明なので、誰か解説してほしい。
 
 

パブコメは反対意見のほうが冷静

 これに対して、既に寄せられているパブコメにもヤバイものがある。


 タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止についてのパブリックコメント


 どうでもいいが、上記リンク先のURL末尾が「tabacco-opinion」となっていて、英語での綴りは「tobacco」だと思うのだが、あえてイタリア語を混ぜてみたのだろうか?
 内容的には賛成意見が多いのだが、賛成意見と反対意見を比べると、賛成意見のほうが子供っぽいと感じる。

貴会の「タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止」について
うれしかったのでご連絡差し上げました。大賛成です!!!
趣旨につきましても大いに賛同いたします。どんどん広まっていくことを
期待しております。
応援しておりますのでぜひがんばってください。


 「大賛成です!!!」程度ならTwitterで言ってればいいのではないか。

タバコ試験で行われた研究の規制の件ですが、賛成です。
この時代、そして、これからも禁煙に向けて動いてくと思います。
したがって、規制するのは当然だと思います。


 漢字変換からしてミスっとるし・・・。

今回の提案に関して,全面的に賛意を表明します.
さらに,追加をしていただきたい点を列記いたします.
● 提案にも記載されている「JTが経営する医薬品事業」は「鳥居薬品」の事だと思われますが,わが国の学会の学会プログラム・抄録集への広告掲載例が見られます. その他,学会時の企業展示としてブースが出されている場合もあります.さらに冷凍食品メーカーであるテーブルマークも子会社化していますので,これらのグループ企業を含めて協賛の禁止を謳っていただきたい.
● 他の学会ではありますが「JT生命研究所」および「JT」の研究員が発表している事例があります.これに関しても内容にかかわらず所属を明記しての発表は禁止としていただきたい.


 ここまで来ると本格的にファシスト臭が漂ってきますね。

2. 「喫煙科学研究財団」は、喫煙と健康問題の科学的解明を進めるために研究事業をおこない,毎年採択課題は160もある。これらに基づいてJTは,まだまだ発展途上の研究が多いため「たばこの有害性は科学的に証明されていない。」と主張している。また研究費を採択された全ての研究者は、JTの言い訳に利用されている状況である。


 主張に反論すればいいのに、「研究費を採択された全ての研究者は、JTの言い訳に利用されている」ってそんな断定していいんだろうか。


 これに対し、反対意見は冷静なものが多い。

理事会(案)に反対です。


1. COIを明確に示していれば、民間からの助成を受けていても中立の立場からの研究と言えるので、タバコ業界からの助成を受けた論文投稿に限定してこれを排除する理由が明確でない。
2. タバコ関連業界から助成を受けた論文を一方的に受理しないことにより、色がついている可能性のある研究論文を予め排除することが可能ではあるが、色の識別は雑誌の査読者がしっかり内容を精査することで対応できるはずである。
3. タバコが健康を害する大きな要因であるのであれば、衛生学会会員の興味もタバコの影響に傾いているはずであり、今回の措置をとればむしろ喫煙の影響に関する論文投稿が少なくなる懸念がある。
4. たとえタバコ関連業界から助成を受けていたとしても、タバコの影響を論じた研究論文を審査しないことそのものが、「日本衛生学会タバコ対策宣言」あるいは、禁煙を推進することに繋がるとは思えない。
5. タバコ以外にも自動車工業界からの直接投稿された論文も受理されている。大気汚染の原因となっている業界からの論文だからといって拒否されてはいない。
6. 本趣意書に「最近JTは缶コーヒーや桃の天然水などの飲料とその自販機を含む飲料事業を売却し、利益率の高いタバコ事業に一層集中しています。そうした中で赤字の医薬品事業を抱え続けるのは、JTは健康を阻害するだけではないというカモフラージュが目的と考えるべきです。」と記載されている。この記述は禁煙運動を進める1団体としての意見としては問題がないであろうが、学会としての意見書としては如何なものであろうか。上記述が確証に基づくものでなければ、中立的立場にあるべき学会が想定でものをいう団体と見做される危険がある。

代替意見(案)
タバコ関連業界から助成を受けた論文に関しては、投稿時にCOIをさらに厳格化することとする。助成を受けた金額、期間、ならびに内容は業界の意見を反映していないことを正確に記載することを求める。

論文はフォーマルで公平な議論のためのツールであり、あらゆる研究に対して開かれたものであるべきだと考えます。そのため、今回のご提案については賛同しかねます。

まず第一に、研究成果の公表と議論を無用に抑圧してしまう可能性が懸念されるからです。COI管理のコンセプトからも、COIがあるからといってその論文が公表されるべきではないとは考えられません。あらゆる研究結果について、COIをしっかりと開示し、それを読者が加味して論文の内容を検討すできるようにすることが重要視されており、私もこの考えに賛成です。


タバコ等、大きな寄与的健康被害の原因となっているであろう製品やサービスの提供者からの資金援助についても、それを積極的に公表したものであれば、他の研究と同様に歓迎されるべきと思います。十分な情報開示を伴った形で論文を掲載し、議論の材料とすることで衛生学の発展に貢献できるのではないかと考えます。 


第二に、健康への脅威となるか否かという価値判断は相対的であり、時として困難なため、タバコ産業への特別措置をすることで、他の産業への対応も求められ、泥沼的な対応が迫られるのではないか、という懸念があるからです。タバコ産業を絶対的な脅威とすることは難しいと思います。たばこ産業によって経済的利益や社会的役割を得、生活している人もいます。ポテンシャルとして健康への脅威を与えうる産業は他にもたくさんあります。すべての産業といってもいいかもしれません。たとえば、軍事産業、ジャンクフードを販売する食品会社、アルコール飲料製造メーカー、自動車メーカー(交通事故の脅威)なども考えられます。

学術学会根本的な存在価値のひとつは、「自由な研究発表の場」であり、「レッテル貼り」や「特定の価値・立場の排除」というような原理主義的な立ち位置に、学術学会は陥ってはならないと考えます。科学的に明らかな誤りは、査読の過程や他研究者による検証の過程で正されるべきものであり、提案理由に記載されている3つの内容は理解できますが、それを盾に、最初から「ドアを閉じること」は妥当とは思いません。昨今ようやくCOIの考え方が理解されて広まり、タバコ資金に限らず研究資金の出所を明示することが一般的になっています。COIを明示するだけでは不十分でしょうか。

タバコ資金で行われた研究の論文投稿や学会発表の禁止についても同様に言論の自由を記した憲法21条との法的整合性との関係で、問題になるはずである。
(中略)
納税が免除されている公益社団法人である日本医師会に日本医学会が置かれ、その分科会の一つが日本衛生学会である。したがって、日本衛生学会は納税が免除されている公的組織であるから、私的な任意の組織とその性格が異なるはずである。公的機関の運営や内規などは、憲法との整合性が必須になるが、私的・任意組織ではその縛りがほとんどなくなるはずである。本件を本学会の制度とするならば、本学会を日本医学会の分科会から離脱させれば、憲法21条との法的整合性が問われなくなるはずである。ただし、一般法人の場合、納税義務が生じる。


 最後の憲法の話が、実際の法解釈として正しいかは知らないけど、論旨としては説得力がある。


[追記]
 ブコメで

自分が分かるところだけですが、憲法21条の下りは蛇足で説得力もありませんー。集会結社の自由に対する制約はごく限定的で、「強制加入の税理士会が政治団体に寄付をする」くらいまで行かないと制約されません。

というご指摘を頂きました。
[/追記]
 
 

個人的に思うところ

 私自身はタバコを吸わないので、喫煙を擁護したいというモチベーションはべつに無いのだが、他人のタバコの煙があまり気にならない人間なので、喫煙者を叩くモチベーションもない。
 また、「ヒトの命を奪っている」というが、太く短く生きる権利は認められるべきだし、タバコによってストレスが軽減されたりするヒトがいるのであれば、吸ってりゃいいじゃんと思う。こないだ同僚が使っているのを見たのだが、副流煙が出ないようにする装置も最近は売られているらしいので、「周りに迷惑をかける」みたいなのも今後はさほど重要ではなくなってくるのかもしれない。

 
 「禁煙ファシズム」というようなひどい状況なのかはよく知らないのだが、高校の世界史でも習うアメリカの「禁酒法」みたいな例もあることだし、一種の極端な潔癖症が公認の価値観とされる時代があること自体は、不思議なものではないと思っている。なので、全世界的に禁煙運動が支配的な潮流になったとしても、空気に合わせるのではなく、それが本当に合理的なものであるか常に疑い続ける必要はあると思う。
 さらに、個人的には、常に「叩かれている側」を応援したくなってしまうので、衛生学会に対するJTの反論や、世の中の空気に抗って「タバコは無害」説を主張する研究者に期待している。


 冒頭でも述べたように、利益相反の懸念排除を学術誌の論文投稿基準に加えるのは、考え方としてはあってもいいと思う。
 また、学術研究といえども特定の価値観から完全に自由ではあり得ないし、むしろ特定の価値観と結託することがある種のクリエイティビティを加速するかもしれないと思っているので、特定の価値観へのコミットメントを学会として宣言することがあってもべつにいいだろうと思う。


 しかし研究者というのは、「厳密には特定の価値観から自由ではあり得ない」のだとしても、相対的に、価値観によるバイアスを除去する努力を熱心に行うことが期待されている人種ではあるはずだ。だから、「利益相反の懸念を徹底的に排除したい」というだけならまだ理解できるものの、今回の理事会提案のように「人の命と引き換えに生み出された資金」だの「謀略」だの「カモフラージュ」だのといった誹謗中傷の類を並べ立てるのは異常だと思う。


 ただ、結論としては、そのような異常な学会があってもそれはそれで面白いと思います。

電車の線路に落ちたら、伏せても助からない

 先日、帰宅ラッシュの時間帯に、銀座線の電車から降りようとした5歳ぐらいの女の子の足が一瞬、電車とホームの間に挟まって、お母さんと周りのサラリーマンが引っ張って助けるという場面に遭遇した。
 最後尾車両だったので、車掌さんも余裕で事態に気付いており、落ち着いて対応していたのでさほど危険なことではなかったのだが、ふと、数年前に線路に落ちた子どもを助けようとしてサラリーマンが電車に轢かれて亡くなった事故があった(ような気がする)のを思い出した。


 それで、仮に線路に子どもが落ちているのを発見したとしたら、まず緊急停止ボタンを押し、駅員に通報するのが最優先だとは思うのだが、場合によっては飛び降りて救出を試みる必要があるだろうなどと考えていたら、「レールの間に伏せれば助かるんだっけ?」というのが気になった。ホームの下の空間もあるのは分かっているが、レールの間に伏せて電車をやり過ごす場面を、マンガ等でみたことがあるので。


 気になったので、とりあえずYahoo!知恵袋で質問してみた(笑)
 ベストアンサーにさせて頂いた回答者の方は、リアルに鉄道会社の人のようだ。


detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

かなり高確率で死亡事故になります。
たしかにレールには十数センチの高さがあり、マクラギにも中央部がくぼんでいる形状の物もありますから、幸い助かった例はありますが・・・

↓やむをず緊急避難する場所としては下の赤矢印で示した箇所です
http://ks.c.yimg.jp/res/chie-ans-382/382/095/502/i320

一般的な50Nレールと木の枕木の区間では、まず無理です。
50Nレールの高さは153mm。
車両に対する限界寸法は、レール上面から25mm。
レールを枕木に固定する金具の厚さが約10mm。
合計して、枕木上から188mmの範囲に体が収まれば助かる可能性があります。
ただ、この寸法は一般的な成人には無理でしょう。

これが、一部幹線で使用される60kgレール、かつコンクリート枕木の区間なら、レールの高さが174mmあり、かつ枕木の中央部が若干窪んでいるため、枕木上から220mm程度の範囲に体が収まれば助かる可能性があります。
これなら成人でも小柄な人なら何とかなりそうです。


 助かった稀な例について考えるより、そもそも「十数センチしか隙間がない」という点をしっかり認識しておくべきだな。


 結論としては、

  • 十数センチしか空間がないわけなので、レールの間に伏せてもまず助からない
  • 雪国だと前面に雪よけも付いているのでさらに厳しい
  • ホームの下に、一部退避場所が設けられている駅や、地下鉄の場合だと全体が退避場所になっているケースがあるが、古い駅だと退避場所がないというケースもある
  • 可能ならば、反対方向の線路との間に逃げればよい
  • 線路のわきに高圧の電線が走っている路線もあるので注意が必要
  • 線路に落ちている人をみたら、まず緊急停止ボタンを押し、駅員に通報する。自分が落ちた場合も、すぐ助けを求めるのがよい


 という感じか。
 最悪、落ちたのが小さな子どもであれば、線路に降りてから担いでホームに上げてやり、自分は轢かれて死ぬという選択肢もあるかもしれない。落ちたのが酔っぱらいだった場合は、そこまですべきか悩むところだ。


 レールの間に伏せて列車を回避するというのは、マンガではあり得ても、実際には無理なようだ。西部劇チックな実写映画でもそういうのを見た記憶があり、昔の機関車では可能だったのかもしれない。

日本人は「アイデンティティ」という概念を理解できない?

Identityについて語ってしまった

 昨日、仕事中に、なぜか業務のメールで「日本人はアイデンティティという概念をなかなか理解できないのではないか」というような話をくどくどと語ってしまった。これは昔から気になっている問題だったので、つい考えこんでしまったのだ。


 考え込んでしまったきっかけは、WebサービスのID連携に関する用語の整理をしていて、いくつか文書を読んだこと。
 たとえばこれ*1
 Provisioning and deprovisioning in an identity federation
 会員制のWebサービスどうしでIDを連携して、ユーザが1セットのID・PWで両方のサービスを使えるようにしてやることをSSO(Single Sign-on)というのだが、この文書はそのSSOを実現するためのSAMLという方式について書かれたものである。


 SAMLの具体的な方式については本エントリにおいてはどうでもいいのだが、上記資料のなかで"IdP"とあるのは"Identity Provider"の略で、簡単にいえばSSO連携するときに、実際にユーザが使うID・PWを管理している方のサービス、つまり親になる方のサービスをIdPと呼ぶ。
 問題は、ここで"Identity"を"provide"するというときの、Identityという言葉が指しているものは何なのか(あるいは指している範囲)を正確に理解できるかということだ。
 また、上記文書のタイトルの中に、"Identity Provisioning"という言葉が入っている。これは親になるサイトに既に登録してるユーザが、子になるサイトのアカウントは持ってないとして、新たに子サイトのアカウント開設をしつつ同時にSSOを実現するような場合に*2、Identity情報が親サービスから子サービスに供給(provision)されることを指している。ここでも"Identity"という言葉が指している物事の範囲を正確に理解するのはじつは簡単ではない。*3
 
 

Identityの定義

 たとえば、Wikipediaの「デジタルアイデンティティ」の項をみると、「ISO/IEC 24760-1は、アイデンティティを「実体に関する属性情報の集合(set of attributes related to an entity)」と定義している」という引用がある。この例に見られるように、「属性の集合」として理解する人はそれなりに多いだろう。名前、住所、メアド、年齢、性別といった、会員サービスのプロフィール欄に登録されているような情報の束のことを、「そのユーザのアイデンティティ」と呼ぶということだ。
 しかし、あとで述べるが、「具体的な属性の束」をアイデンティティと呼んでしまうと、アイデンティティという概念の意味合いを見失ってしまうと私は思っている。


 「Identityってどういう意味ですか?」と訊かれて、即答できる準備ができている人はそう多くないだろう。一応、翻訳としては「同一性」と訳されており、この訳で良いと私も思うのだが、「同一性」と言われてイメージされる物事にはけっこう幅がありそうだ。
 また、我々が日常的に「アイデンティティ」という言葉を目に(耳に)するのは、「日本人としてのアイデンティティを大事にし・・・」とか「それは彼のアイデンティティだから・・・」みたいなフレーズにおいてだが、これを「同一性」という日本語に置き換えるとよく分からない文章になる。ちなみにこれは、「同一性」という訳が悪いのではなく、文例の方がやや混乱していると私は思う。


 結論から言うと私自身は、Identityを、短く言うなら「あるものの、そのもの性」とか「それ性」というぐらいに理解するのがいいと思っている。
 もっとくどく言って良いなら、「あるものが、他のものから区別してそれと認識される際の、とりわけ繰り返しそう認識される際の、その『区別してそれとして特定されているという状態』(に関する認識)のこと」と言えばいいと思う。
 「同定」という言葉にある程度なじみがある人に対しては、「同定されてる感」とでも言えば伝わると思う。「被同定性」とかでもいいかもしれない。
 
 

いろんな用語法

 Wikipediaの「同一性」の項を見てもわかるように、Identity(同一性)の概念は哲学の領域でしつこく論じられてきている。私も系統立てて勉強したわけでは全くないので、イマイチ理解はできていないし、学説史的な経緯もよく分かってないのだが、同一性を上述のような「属性情報の束」と理解するだけ*4で議論終了というわけにはいかない、とは言って良いだろう。


 たとえば、個人主義者が「パーソナル・アイデンティティをたいせつにしましょう」みたいな綺麗事を述べ立てる際の「アイデンティティ」は、こういう抽象的な意味合いではなくなっている。いや、本質的には、上の哲学的な検討などを踏まえていわゆる「パーソナル・アイデンティティ」の概念を厳密に議論することも可能だと思うのだが、多くの場合、「同一性」という抽象的な概念の理解は放棄されていて、そこに色々な不純物を混ぜて具体化したある印象を、何となく「アイデンティティ」と呼んでいる感じだ。


 たとえば、このYahoo!知恵袋の回答などは、私はかなりヘンな用語法だと思うのだが、こういう感じで理解してる日本人はかなり多いだろう。
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

自分が自信をもっていること、自分自身のよりどころ、のようなことだと思います。
たとえば、勉強ができてそれが誇りだ、とか、サッカーが得意だ、ということを自認をもっている人は、それらで自分に自信をもつことができ、他のことで多少何かあってもへこたれないですみます。そういうものがアイデンティティだと思います。


 べつに、こういう説明が「間違っている」と言いたいのではない。そんなもん定義次第なので、「私はそういう意味でつかってるんです」と言われたら「そうですか」としか言いようがない。
 しかし、抽象的なレベルでアイデンティティという語の意味する範囲にこだわってよく考えた人ならば、「自分自身のよりどころ」のことをアイデンティティと呼ぶことはなく、そういうよりどころを通じて形成されている、自我の安定性のことをアイデンティティと呼ぶはずだ。


 実際、心理学では、エリクソンという人が「安定した自己イメージ」ぐらいの意味でアイデンティティという概念を用いたのが有名で、心理測定尺度*5にも、自己のアイデンティティの確立の度合いを測るものとして開発されているものはいくつかある。


 保守系の政治家や評論家が「日本人としてのアイデンティティ」とかいう場合は、たぶん、安定的な自己イメージの構成要素として「日本人である」という属性が明確に意識されているべきであるということが主題になっている。(東京都の教育研修資料の4ページの図がそれを意味している。)
 堀義人とかいう人が書いた記事(参考リンク)を読んだら「「武士道」という精神は、今の世界で日本と日本人が役割を果たすうえで改めて学び直す必要がある、日本人のアイデンティティを凝縮した道徳観念だろう」とか書いてあって、そもそも改めて学び直す必要があるならそれはもはや我々のアイデンティティの構成要素ではないじゃないかとも思うのだが、それはともかく、アイデンティティが凝縮されて武士道になっているのではなく、武士道精神を含む諸々の性質が、総体として自己の安定的なイメージを確立しているときに、そのイメージの明確性や安定性や(他者からの)識別性のことをアイデンティティを呼ぶのだと言いたい。
 
 

Identifier、Identified、Identity

 あるものが、他のものから区別してそのものと認識される(同定される)という場合に、


(1) Identifier(同定の材料となる情報)
(2) Identified(同定された実体)*6
(3) Identity(同一性。)


 を区別しておくと、理解がしやすくなるだろう。
 Identifierはたとえば人物の見た目であったり、名前であったり、住所や年齢であったり、Webサービスで使っているアカウント名だったりする。それを手がかりに、その人であることを繰り返し認識することが可能になるような情報のことだ。
 Identifiedは、同定された実体のことで、たとえばそのWebサービスを使っているその1人の人物とか。住所や氏名などは、この同定された実体の属性情報だと考える場合には、Identifiedの一部を構成しているとも言える。
 一方Identityというのは、そういう具体的なIdentifierがきっかけとなって、ある具体的な実体としてのIdentifiedが、それとしてIdentifyされた場合の、その「Identifyされてる感」のことだ。


 冒頭のドキュメントで"Identity Provisioning"と言われるとき、どういう出来事を指しているのかというと、IdPが「とある人物が存在するという事実認識」(及び、場合によってはその人物が何者であるかを示す各種の属性情報)を、「他の人物から区別してその人物を特定するための手段」とともにSPに伝え、それ以後SPが実際に、その人物を「他の人物からは区別される、その人」として認識できるようになるということだ。
 ここでIdPからSPへprovisionされたものがIdentityなのだが、より直接的な表現をむりやりこしらえるならば、とある人物についての"Identifiability"であると言っても良いだろう。具体的なIdentifierが供給されたことに着目するのではなく、その人物を特定できる能力ないし可能性が、IdPからSPへと供給されたという点に着目する。そういう見方をしておくと、Identityの概念も理解しやすくなる。 
 
 念のため言っておくと、Identityという言葉を常に純粋に抽象的な概念として用いる必要はなくて、ある具体的な文脈でidentityという言葉を使うときは、種々のIdentifierやIdentifiedを含んだ、雑多な印象を指すものとして用いられることも多いだろう。たとえば「彼のアイデンティティ」という言い方をする場合、「同一性」という抽象的な意味合いと、具体的な彼の「属性の束」が、同時にイメージされることが多いだろうし、それで構わないと思う。何らか(何者か)の"Identity"が実際に把握されるときというのは、手がかりとしての"Identifier"や中身としての"Identified"が必ず伴うので、IdentifierやIdentifiedを含めた意味でIdentityと言う用法があってもべつにいい。
 ただ、そうであるにしても、一応上記(1)(2)(3)のように区別するよう努めておいたほうが、概念が綺麗に整理され、ひいては物事を深掘りして考えやすくなるとは言えると私は思う。
 まぁ、このエントリの内容自体、十分勉強して書かれたものでは全くないので、哲学者に言わせれば「綺麗に整理されている」とは言えないだろうけど。
 
 

少なくとも日本では混乱がみられる

 じつは、べつに哲学書でなくとも(それこそ技術の解説であっても)、英語の文献の場合は、Identityという言葉を、具体的なIdentifierやIdentifiedの集合を超える抽象的な概念として用いているような節が、けっこうある。冒頭に挙げたPDFのドキュメントにしても、attributeをprovisionするとは決して言わず、わざわざIdentityをprovisionすると言っているわけで、具体的な属性情報そのものではない、抽象的なカテゴリとしてidentityという語を用いているように見受けられる。


 日本語の文献でももちろんそれはあるのだが、自分が読んだことのある狭い範囲だけで独断を下しておくと、割合としては少ないように感じる。
 まぁ、外国の実際の事情は知らないし、英語圏と日本語圏の比較をしてもべつに嬉しいことはないので、どっちがどうというような議論には私はあまりこだわりはないのだが、少なくとも日本において概念の混乱がけっこうみられるということは指摘したい。


 「日本人は抽象的な思考が苦手」とは全く思ってないし、漢語まで含めれば「日本語は抽象的、論理的な表現に向かない」とも全く思わない。私が言いたいのは、少なくともこのIdentityという概念に関しては、日本人の用語法は、具体的にイメージ可能なIdentifierやIdentifiedのほうに引っ張られ過ぎで、抽象概念としてそれを把握することに失敗している場合が多いように思う、ということである。



 ・・・というような話を昨日、同僚にメールで送りつけたので、忘れないうちにブログにメモっておこうと思いエントリを起こしました。自分の研究に戻ります。
 

*1:単にこれだけURLがすぐ分かったので貼り付けとく

*2:そういう場合だけとも限らないけど。

*3:リンク先PDFの筆者が明確にその定義を意識しているかどうかもよくわからないが。

*4:そういう立場もあるらしいのだが。

*5:心理的な傾向を測るための、アンケートみたいなやつ。テキトーにつくられるアンケートではなく、何度もテストを重ねて妥当な質問項目を作り上げていく。

*6:ソシュールの「シニフィアンとシニフィエ」が英語では"Signifier and Signified"と書かれるのにならってこう呼んでみた。

スプラトゥーンが子どもをキレやすくする?—ゲームの悪影響に関する最近の実証研究論文を読んでみた

 年末年始は風邪で寝込んでいたこともあり,時間がなくなったので年賀状を書くのもサボって論文を書く(ためのデータ解析のやり直し)作業をやってるのだが,息抜きにYahoo!知恵袋でスプラトゥーン関連の質問を検索してたらヘンなのがあった.
 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
 

 スプラトゥーンはプレイヤーを「イラッと」させるところがあり,子どもがキレやすくなってしまうと懸念しているらしい. 
 知恵袋上で回答も書き込んでおいたのだが,関連する内容を簡単にここにメモしておこう.


 なお,タイトルがミスリーディングだったかもしれない.本エントリではスプラトゥーンの影響を論じた論文を参照しているわけではなく(そんな論文まだ無いと思う.),テレビゲーム一般についての論文を参照しながらスプラトゥーンの悪影響について考えようと思ったものである.
 
 

「ゲーム脳」はトンデモ説?

 10年以上前に『ゲーム脳の恐怖』という新書が発売されて話題になっていたが,発売当初からボコボコに叩かれていたのを覚えている.
 覚えているところでいうと,評論家の宮崎哲弥氏が右派言論誌の『諸君!』で連載していた新刊新書のレビュー記事で,非科学的だと厳しく批判していたのを見て,結局この本は買うのをやめた気がする.その後も折にふれてこの本が叩かれているのを目にしてきた.たぶん,同時期ぐらいにベストセラーになった『ケータイを持ったサル』みたいな風情のトンデモ本なんだろうと,読んでもないのに決めつけることにした.*1
 

 べつにこの『ゲーム脳の恐怖』にかぎらず,ゲームの悪影響とかもっと広く言って「メディアの悪影響」論については,「世間で言われているような悪影響は,科学的には実証されていない」と言われることが多いように思う.暴力的コンテンツが凶悪犯罪を誘発するという説や,ポルノコンテンツが性犯罪を助長するという説が正しいかというと,科学的にはイマイチ怪しいというわけだ.
 
 「実証されていない」という言い方だとふつうの人には消極的に聞こえるというか,「悪影響は無い」のか「悪影響を検証する研究が行われてない」のかよく分からないかもしれないが,実証研究というのは「こういう効果があるはず」という仮説を立てて,その効果の検出を実験により試み,効果が明確に認められなければ「仮説は支持されなかった」と主張するというスタイルになっている.(念のため言っておくと,趣旨としてはそいう主張になっているということであって,統計的仮説検定の手続きはむしろその逆のロジックである.*2
 だから,効果が「ある」ということが判明するときはけっこう明快なのだが,効果が検出されていない段階でその結果をどう解釈するかは微妙な問題だ.
 「暴力的なゲームは暴力性を助長する」というのは,一つの仮説とは言えるが,こういう大雑把な命題は直接検証することができない.だから実験をやるときはこれをもっと細かく定義して,「こういう条件でこういう被験者にこういう刺激を与えると,こういう方法で計測されるこの数値にこういう効果が見られるはず」というような仮説に置き換えて検証することになる.そうすると,この仮説が実験により棄却されたところで,「いや,仮説の置き換えかたがちょっと変なんだよ」とかツッコミ始めればいくらでもいちゃもんを付けることはできる.
 これは血液型性格診断にも言えることで,心理学徒はだいたいしたり顔で「科学的に反証されている」とか言うのだが,反証されているのはあくまで上記のような「細かく定義した仮説」にすぎないので,血液型性格診断を信じる人は,「実験時に設定された仮説に問題があるかもしれない」と言い続ければ常に水掛け論に持ち込むことが可能である.
 実際,昔台湾人がアメリカで書いた血液型性格診断の論文を読んだら,「A型はやさしい,O型は外向的,B型は神経質,AB型は不誠実」*3という仮説を検証する形になっていたのだが,「え,それ仮説がちょっとおかしくね?」と日本人なら思ってしまうだろう.血液型によってビッグファイブ*4のスコアに偏りが無いことを示している論文などもあり,その論法に反論しようとすると研究蓄積の多いビッグファイブ仮説にケチをつけなければならないので,けっこう難しくなる気はする.
 
 

ゲーム脳に関する研究

 さてゲームの悪影響の話に戻ると,Google Scholarで10分ぐらい検索しただけなのだが,日本語で読める解説としてはイカのような2006年のお茶大の記事があった.
 ざっくり言えば「いろんな説があって難しいですね」みたいな話だ.


子どもたちの脳は今?(1)—ゲーム脳について—
子どもたちの脳は今?(2)—ゲーム脳について—
 
 

今までの研究では,視覚的知能がむしろ上昇するといわれています.空間表象能力,図像技能や視覚的注意も伸びる.テレビゲームはこれらの訓練になる.

一方では,確かにテレビゲームをしていると人と疎遠になるという影響はあるかもしれません.しかし,テレビゲームというのは,ソフトの貸し借りをするとか共通の話題をもつなど人間関係を円滑化する要素もあります.テレビゲームをやってうまくなると,みんなから尊敬される.向こうから寄ってくる.そうすると人間関係が下手な子どももうまくやれてしまう.両方の影響が,相殺されている.その証拠に,大学生以上になるとテレビゲームをやっていると不適応になるという研究データがあります.大学生くらいになるとテレビゲームができても尊敬されない.いい面の恩恵にあずかれないんですね.

学習説というのは,テレビの暴力シーンが暴力性を高めることを肯定する説でして,暴力が良いものであるとか,問題解決の手段として有効であるという価値観が学ばれてしまう.それが一番重要なことだといっています.これを実証している研究は多く見られます.(中略)今テレビの暴力シーンの悪影響があるかないかといえば,ある.ただ,それはあくまで要因の一つであって,暴力シーンを見ただけで犯罪が起きるとかいうことはまったくないわけです.


 など色々なことが言われている.大人がゲームやってるほうがヤバいようだwww
 

 少なくとも,「もともと暴力的だから暴力的なゲームを好んでやっている」のか「暴力的なゲームの影響で暴力的になったのか」が区別できないような研究も多いとか,ゲームには知能や社会的スキルの発達に肯定的な影響も存在するという説もあることなどは,知っておいて良いだろう.
 

最近の実証研究論文

 ところで,私は何となく今まで,よくしらないままに「ゲームの悪影響みたいな話は,科学的にはことごとく否定されている」みたいな印象を持っていたのだが,以下の論文をみてみたらそうでもなかったようだ.


Adachi, P. J., & Willoughby, T. (2011). The effect of video game competition and violence on aggressive behavior: Which characteristic has the greatest influence?


 2011年に出された比較的新しい論文である.冒頭あたりで先行研究に触れられているのだが,暴力的なゲームが子供の攻撃的な振舞いを助長するのかどうかについては色々研究があり,「そういう悪影響はみられなかった」という研究がいくつもある一方で,「やっぱり悪影響ある」ことを示す研究も存在するようだ.引用されてるのは比較的最近の,2000年代以降の論文が中心である.
 この論文の趣旨としては,ゲームの特性を「Violence」「Competitiveness」「Difficulty」「Pace of Action」の4側面に分けて評価し,特に「Violence」(暴力性)の効果と「Competitiveness」(競争性)の効果が先行研究においては分離されていないので,それぞれ独自の効果を改めて検証するという点に主眼が置かれている.
 
 
 どうでもいいっちゃどうでもいいが,ゲームの選定にあたっては,たとえばPilot Study 2のところで

After extensive testing by the first author, four games were selected that appeared to be matched on difficulty and pace of action. Two of the games appeared to be equally violent, and the other two games appeared to be equally nonviolent.

というような記述が出てくるように,筆者は相当なゲーマーであることが伺える.


 最初の実験について手続を一応書いておくと,まず被験者は「これから,ゲームに関する実験と,食べ物に関する実験の2つに参加してもらいます.両者は関係ありません」という教示を受ける.そして暴力的/非暴力的のいずれかのゲームをプレイさせられ,終了後にそのゲームの特徴を評価する質問に答える.
 次に,被験者の暴力性が測定されるのだが,その方法は,「別の人に飲ませるドリンクに入れるからし(hot source)の量を決めてください」という課題を与えるもので,要するにからしをたくさん入れようとする奴はサディスティックってわけだ.この"The hot source paradigm"(「からし法」とでも言えばいいのか?)という手法は別の研究から借りてきているもので,その妥当性を一応チェックするために,質問紙による攻撃性の測定もあわせて行っている.
 さらに,私は知らなかったのだが,suspiciousness questionnaireという質問紙に回答させて,実験の意図を見抜いている被験者を特定し,そういう被験者のデータは結果から除外している.


 結論としては,「暴力的な表現」それ自体は,少なくとも短期的にはプレイヤーの「攻撃的な振舞い」にさほど影響を及ぼしてはいないことを示している一方で,「競争性」は「攻撃的な振舞い」を助長しているという結果を示している.
 これは,冒頭の知恵袋の質問者の問題意識に近いと言えなくもないだろう.スプラトゥーンはまさに激しく「競争的」なゲームであり,これにハマっている廃人たちが,ローラーの待ち伏せに引っかかったり,同じチャージャーに何回も続けて狙撃されたり,ヤグラ上からの「カモン」が無視されたり,編成で事故って塗る係がいなくなったりするたびに,「イラっと」して攻撃性を高めていることは間違いない.


 なおこの論文では,被験者が大学生なので今後は他の年代でも実験しなければならないことや,短期の効果しか測定できていないので長期の影響は分からないといった限界が挙げられている.
 しかしその前に,「競争性が攻撃性を助長する」というのが正しいとして,それって「テレビゲーム」に限った話なのかという根本的な疑問があって,はたしてこの論文は「テレビゲームの悪影響」を論じているといえるのか否かも定かではないという気がしてくるな.そもそも論文1本斜め読みしたぐらいではよくわからないし.


 しかしまぁ,とりあえず,「ゲームの悪影響なんて科学的には否定されている」みたいなことを言う人がいたら,「いや,たしかに明確かつ系統だった証拠が得られているわけではないのですが,2011年にアメリカ心理学会のジャーナルに載ったカナダ人の論文をこないだ読んだら,ホットソースパラダイムという手法を用いた実験を行っていてですね…」とかしたり顔で語っておけば,「へぇ」等のリアクションを得ることぐらいはできると思われる.


 なお個人的には,テレビゲームの悪影響は,視力に関するもの以外はあまりないと思っている.子どもなんてどうせずっと遊んでるんだし.
 スプラトゥーンについていうと,競争性もあるだろうけど,その一方で仲間とともにがんばるみたいな,世間的には良いとされている感覚が刺激されているようにも思う.
 もはや研究とか関係ない単なる個人的な感覚論だけど.


 ・・・さて,タイトルで「考える」と謳った割にまだ大して考えてないわけですが,これ以上時間を使うわけにもイカなくなってきたので,自分の研究に戻ります.

*1:あとで考えたら,買ったような気もしてきた.きちんと読んでないことは間違いないが.

*2:「効果がない」という帰無仮説を立てて,統計的に,その帰無仮説を棄却することで,もとの仮説を支持するという段取りになる.

*3:台湾や香港における「血液型性格診断」はそういう内容になっていると書いてあったと思う.

*4:人間の性格を測定する尺度をいろいろ精査していくと結局5つの要因に収斂していくという,長年に渡り支持されている有名な学説がある.