The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。近い内容の記事を他のWeb媒体や雑誌で書いてる場合があります。このブログは単なるメモなので内容に責任は持ちません。

ハルマゲドンの話(ウクライナ問題など)

 チャンネル桜は3年に1度ぐらいしかみないんですが、たまたまYouTubeに上がってた動画がTwitterで流れてきたのでみました。(↓のリンクは3本続きの動画の2本目。全部はみてないです。)



2/3【討論!】安倍政権への進言・諫言・提言 - YouTube


 以下、馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)と西部邁氏(評論家)の会話。

馬渕 結局今のウクライナ危機といいますかね、ロシアをどうみるかというところが、今後の安倍外交のひとつの正念場のひとつだと思うんですけど。
 ちょっと申し上げましたように、アメリカの対ロシアの態度、プーチン大統領に対する態度というのは、「プーチンを失脚させる」というのが私はアメリカの隠されたね、表向きは言ってませんけどたぶん隠された狙いなんだろうと。
 なんで私がそう判断したかというと、このウクライナ危機が、まぁクリミア以降ですけど、起こって以来のアメリカの対応が、非常に従来とはちがうと。とにかく「プーチンとは話さない」と言うことですね。
 だからG8からも追い出して、とにかく経済制裁をまずやったわけです。普通は、アメリカはこういうことは本来やらないはずですね。その前に当然、プーチンと話し合う。それで妥協点を探るというのが今までのやり方。今回はそれを一切やってない。他の国にもやらせないということですよ。
 だからこれは、残念ながら、アメリカはもうこの際、プーチンを失脚させると。つまりロシアを、つまりなんていいますかね、プーチンが抵抗しているグローバル化を……ロシアをグローバル経済に取り込むという。アメリカはいよいよその最後の賭けに出たんだろうと私は思ってます。
 それは逆にいえば、アメリカがそれだけいま追い詰められているということですね。アメリカの、ハッキリいえば金融資本家が、やっぱりリーマンショック以来うまくいっていないと。だから、これでロシアを自分に取り込まないと、なかなか生き延びられないと。そういうやっぱり危機案があったんだと思います。これはべつに脅かしでもなんでもなくてですね、すでにアメリカのたとえばブレジンスキーなんかもそうなんですが、そういう事態が来ることを想定してるんですね。
 それは彼の本を読んでみればよく分かるんですけども、要するに「オバマが世界のグローバル化に失敗したら、もうチャンスは無い」って言ってるわけですね。つまりチャンスはないということはどういうことかっていうと、つまり平常なやりかたで、ソフトパワーで世界をグローバル市場化するのは、もうオバマの時までだと。で、オバマがもう失敗してるのはハッキリしてるわけですね。だからもうあとは、そういう意味では、私は時々使ってるんですが「ハルマゲドン以外にはない」と。つまりは、言ってみれば、第三次世界大戦級の大軍事紛争しかないということを、もうすでにブレジンスキーはもう今から数年前に予告してるんですね
 だからそういう事態が、どうもいま来てると。来てる可能性があると。ただストレートに、米ロが直接軍事対決するところまでは、まだ時間があると思いますけどね。ですからそこに、安倍さんが割って入る最後のチャンスがあるんだろうと。
 それで、今年の11月ですね、たしか10日前後に北京でAPECの首脳会議が行われて、たぶんプーチンは来るということになるんでしょうけど、おそらくその前後に訪日をするというのが一番自然な形でプーチンを迎えることになると思うんですね。だから、プーチンの訪日をめぐってこれからアメリカと日本との間で、水面下で相当の駆け引きがあるんでしょうけどね。これがやっぱり、日本が来年乗り切れるかどうかの、大きな分水嶺になるだろうと私は思っておりますし、その際、アメリカの対ロシアに対する意図っていうのを正確に見抜いてですね、なんて言いますかね、ロシアをグローバル市場に取り込むことのメリット……急いで取り込むことのメリット・デメリットをね、安倍さんはアメリカに、そこをいかにうまく説明できるかどうかというところにかかってると思いますね。
 だから今、プーチンはじめ、まぁプーチンがまさにそうなんですが、外資に対して、欧米の、とくにアメリカの外資に対して非常に懐疑的なんですね。それはロシアの過去のいわゆる民営化プロセス、市場化プロセスをみてれば分かるんで。非常に懐疑的で、つまり(アメリカ資本がロシア国営企業を)乗っ取ろうとかつてしたわですね。それをプーチンが押さえたっていう経緯があって、それが有名な2003年のホドロコフスキー事件(参考リンク)と言われるものですね。で、彼がいよいよ恩赦で、いまもう釈放されて来ますからね。それとまさに今起こってることとは、私は関連があるんじゃないかとすら思いたいんですね
 だからそういうところまで今、ロシアの関係が来てるんで。そこにその、安倍さんが「ロシアを追い詰めることがアメリカにとってもメリットではないんだ」ということをね、説得できるかどうかだと。ここにかかってるんだと思うんですね。ですから、安倍さんこそが、私は世界をね、ちょっと極論すれば、ハルマゲドンから救える人なんじゃないかとすら思えますよ。


西部 ここでちょっと質問なんですがね。休憩時間にちょっと言ったことなんですが。
 おっしゃる通りのようなイメージで僕も世界をみてるんですけども、でもイラクの失敗とかアフガン……アメリカ国民が、議員を通じてですけどもそこからの撤兵をね、結局のところ国民が要求せざるを得なくなって、それをオバマが代表してやったということを考えるとですね、ロシアとのハルマゲドン……もちろんそれを考えるのがCIAかペンタゴンかね、あるいはユダヤ系資本家でしょうけども、その彼らがそういう机上のプログラムを組むんでしょうが、国力の衰退がいろんな意味で甚だしいアメリカがですね、それを1年、2年はできてもですよ、たとえば3年後には自分でひっくり返る。でもそういうところまでは考えない、1つのハルマゲドン計画を作ってるに過ぎないんだと。
 もっと極論するとね、アメリカってのはもうある意味では国家の体をなしてなくてね。あそこを動かしてるのはほとんどマフィアというかヤクザというかね。表現はいろいろありますけども、ほんとに一握りの巨大な財産と巨大な権力をもった人間たちの、ほんと、つかの間のイリュージョンに近いようなそういうハルマゲドン計画。で、結局のところ、アメリカの政治家たちも一時それに乗っかる以外に自分の人気を集められないという。
 それはそれなりに世界を壊すんでしょうけども、一つだけその壊すことについて言えばね、キャピタリストというけど、グローバルキャピタルというけど実際に彼らはね、中国の例を見ようがインドの例を見ようが、ロシアにかつて典型をみたごとくね、結局のところ国民経済を破壊していくわけですよね。あっという間に。


真渕 おっしゃるとおりです。


西部 そういうことを考えたらですよ、いま必要なのは各国が、時間がかかるだろうけどもそれこそナショナルエコノミーとしてね、日本もそうですが、それを再建しなきゃいけないんだけども、それをぶっ壊していくのがアメリカだってことは、世界はだいたい薄々か強いかどうかは国によって温度差があるんだけども、だいたい世界で明らかになってるんですね
 というふうに僕は思うんですよ。もちろんね、日米関係は戦後70年近くも続いてますから、それに僕もね、そう簡単に反旗を掲げられるとは思ってないけども、それから自民党もそれはできない、役人もメディアもできないとしてもね、日本の言論の中に強力な一部として、強力な発言として、アメリカは所詮その程度の国に成り下がったんだってことをね、もっとね、明々白々に言う言論がなきゃですよ、その……


馬渕 いまおっしゃった通りだと私はおもうんです。まさに我々はアメリカの正体を見極めずに議論してて、アメリカを国家だと思って議論してきたんですが、そうじゃないと。アメリカっていうのは今おっしゃったように、私は、一番いまだに力をもってるのはウォールストリートの金融・財閥だと思いますけどね、それがいわゆる軍産複合体のようなかたちで。
 それで、重要なテーマは今おっしゃったように、アメリカは今はもう国民経済なんて考えてないんですよ。そこなんですよね。だからなぜアメリカが、アメリカの一般国民の利益を無視してまでああいう世界戦略をとってるか、そこをやっぱりね、ハッキリさせないといけない。
 日本のメディアは一切口をつぐんでるわけです。アメリカは国家として動いてると思ってるわけですね。そうすると、なぜ中国と仲良くしてるのかが全く分からないわけですね。あるいはなぜロシアをやっつけようとしてるのかが分からないわけですね。ですから、おっしゃったように今アメリカを動かしてるのは、そういう一握りのエリート集団であるということをね、もう少しわれわれは理解して、対米外交なり、対ロシア外交をやってく必要があるんだと。全く同感です。そう思います。


 先週「表現者塾」に久々に参加しましたが、最後のほうで西部先生が、
 
 
 「アメリカを支配してる連中は、完全なニヒリズムに陥っていて、カネと権力のために本気で戦争を仕掛けかねない。イラクの失敗でネオコンの連中が死んだと思ったら大間違いで、おおよそ帝国主義戦争というものはだいたいそうなんだけど、ああいうニヒリストどもは本気で『ハルマゲドン』のような馬鹿なことを考えかねないんだ」


 という話をされていたのは、この文脈だったんですね。


 なんというか、たいていの人は「けっきょくのところアメリカがそんな不合理な(国益にならない)判断をするはずがない。ハルマゲドンなんて有り得ない」と一蹴すると思うんですが(そうであれば良いと私も願いますが)、第一次・第二次世界大戦でもいいし、もっと昔の戦争でもいいけど、人類はぜんぜん合理的に行動してないからなぁ(笑)
 歴史を振り返れば、けっこう、予想もしない方向に一気に進んでいくことがあるわけです。
 イラク戦争だって、いまでこそみんな「大量破壊兵器なんてなかったのに〜」「アメリカの失態が〜」とかしたり顔で言ってるけど、当時ニュースをみてたときはあれがそれなりにアメリカにとって(邪悪だけど)合理的な行動だと思ってた人多かったと思うんですよね。
 イラク戦争に反対する人にとっても賛成する人にとっても、とにかくアメリカ最強というのが支配的なイメージだった。「平和主義」「戦争反対」の観点からアメリカを批判してた人はいたけど、それも結局「強いアメリカの横暴」を批判していただけであって、「馬鹿になって転落していくアメリカ」のイメージを読み取った人はあまりいないはず。
 「アメリカが衰退していて転落しつつあるなら、ロシアに戦争しかけるとかあり得ないのでは?」と思われるかも知れないし、そうだと良いのですが、じつは逆かもしれない。上の動画で言われているのは、転落しかかっているからこそ一種の暴発が起き得るという話ですね。
 私は不勉強なので、今回のケースについてどう見通すのが正しいのかまったく分かりませんが、一般論として言えば、会社とかでも経営危機になると、内部の意思決定手続きも形骸化して、過激なグループが主導してわけの分からない決定をし、一気に倒産に至るというケースはふつうにあるわけですよね。「もうチャンスがない」からこそ、変な一発逆転の賭けに出て、結局はご臨終に至るわけです。賭けによる害悪をまき散らしながら。
 とにかく、イラク戦争が始まったときに「大国が不合理な判断をすることもある」という歴史を振り返り、「ああ、これはアメリカ衰退の引き金の一つになるな」って予想した人はあまりいなかったという事実を思い出したほうがいいと思います。ちなみに西部先生はじめ『発言者』のグループはそういうことを言ってたんだけど*1。今回も我々の多数派のイメージとは無関係に、ヤバいこともあり得そうだなぐらいに思っといたほうがいいのかも知れません。

*1:ついでにいうと、「今回はイラク側に正義がある」と堂々と言った人もあまりいないと思う。

「集団的自衛権の行使容認」問題についてのメモ

変な議論

 間違いもあったので記事を2回ぐらい全体的に書き直しました。


 集団的自衛権の行使容認の問題がめちゃめちゃ盛り上がっていて、新聞テレビはほとんど見ていないのでよく分からないが、会社の近くでも連日デモが行われているし、知り合いのFacebookとかでもにわかに政治的な記事が流れまくっている。
 私はそもそもあまり勉強してないので国際法憲法について詳しく知らないのだが、個人的には、集団的自衛権の行使を認めるか否かというのは、それ自体は安全保障上の課題全体のなかでは些末な論点なんじゃないかと思えてしまい、今の騒ぎは色々ピントがずれてて気持ち悪いと感じる。


 今回の閣議決定で認められる(と解釈される)ことになったのは、

我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使する
閣議決定より)


 ことである。従来は憲法解釈上、集団的自衛権については「保有はしてるけど行使はできない」ということになっていたが、行使できるということにしたわけである。
 これを受けて反対派が大騒ぎしているのだが、その理由は大きく、


 ① 日本の自衛と関係のない海外の(アメリカの)戦争に巻き込まれるからダメ
 ② 意思決定のやり方が立憲主義に反しているからダメ
 ③ 集団的自衛権の行使は憲法違反だからダメ
 ④ とにかく現状より少しでも武力行使の可能性が広がるのはダメ


 という感じになっている。②と③は区別がつきにくいが、憲法改正の手続きを踏まずに閣議決定で解釈を変更して押し切るのは、やり方として強引だという論点(②)と、そもそもどう解釈したって違憲であるという論点(③)は、一応別物だと思われる。
 保守派(のうち、安倍晋三を称える人たち)が何を言っているのかはよく知らないし、関心もない。たぶん、さすが安倍さんとかいって喜んでるんだろう。彼らは、とにかく左翼が嫌がる政策は正しいという立場なので。


 さて上記の反対派の議論だが、いろいろ気持ち悪いところがある。
 ①については、あくまで今回認めることにしたのは日本の自存自衛に関わる場合の武力行使であって、自国の防衛上の必要性があるかどうかは、事案ごとに日本が主体的に判断すべきものだ。もちろん「恣意的な運用ガー」という危険性は当然あるのだが、それは議論の水準が異なるというべきだろう。
 ②については、確かに今回の手続きは強引である。とくに内閣法制局長官を外部から連れてきた賛成派にすげ替えて議論を避けるというやり方は、後々踏襲されたりするとヤバいと思われる。解釈変更の内容そのものは暴挙というほどのものではないと思うのだが、今回の決定は単に一内閣の解釈に過ぎず、政権が替わって別の解釈が示されたり、裁判所が別の解釈を示すこともあり得る。そんなあやふやなものに基づいて今後の法整備とかを進めようとしているのは危ないだろう。もう少し確実な根拠を得てからでないと、集団的自衛権なんて扱うべきではないのではないか
 ③については、集団的自衛権の行使が違憲であるかどうかの前に、そもそも戦力(自衛隊)を保持していることが9条2項に違反しているはずである。お前らどうせ反対派なんだからもっと根本から真面目に議論しろよって感じ。
 ④については、単なる感情的な反発なので、勝手に言ってろと。


 以下、とりとめのない内容だが、あれこれ思ったことをメモしておく。基本的に、現下の国際情勢を踏まえてとかではなく、あくまで理屈の問題として気になることをメモっておいた。
 で、考えれば考えるほど、集団的自衛権ごときでそんな大騒ぎすんなよって思ってしまうのだが、それは最後にまとめておく。

集団的自衛権って

 鈴木尊紘という人が書いた、集団的自衛権憲法9条の関係にかんする政府見解の変遷をレビューした論文(リンク)があって、集団的自衛権そのものに関する解説もいろいろ載っていて分かりやすい(歴史的経緯とかはWikipediaをみたほうが早い気もする)。


 まず集団的自衛権といっても概念としては幅があって、

集団的自衛権は、一国に対する武力攻撃が行われ ることによって、他の諸国も各自の個別的自衛権を共同して行使する、又は地域的安全保障に基づいて共通の危険に対処するための共同行動をとるか、いずれかの場合とする定義である(個 別的自衛権共同行使説)。

集団的自衛権は、自国と密接な関係にある他国に対する攻撃を、自国に対する攻撃とみなし、自国の実体的権利が侵されたとして、他国を守るために防衛行動をとる権利であるとする考え方である(個別的自衛権合理的拡大説)。

集団的自衛権とは、他国の武力攻撃に対して、自国の実体的権利が侵されていなくとも平和及び安全に関する一般的利益や被攻撃国の国際法上の権利(領土保全・独立等)を守るために被攻撃国の自衛行動を支援する権利であるとする考え方である(他国防衛説)


 と3通りが存在し、① < ② < ③ の順で権利が広い。
 日本政府の立場は② らしい。集団的自衛権という概念自体に幅があるということは、当然、集団的自衛権をひとくくりにするのではなく、日本国憲法上認められるものと認められないものに区別すべきだという議論があってもおかしくないな。


 ちなみにその前段で「集団(的)安全保障」に関する説明がなされているのだが、これは「集団的自衛権」とは別の話であることを理解する必要がある。集団安全保障というのは要するに、「みんなで仲良くしましょう。ただし掟を破るやつがいた場合は、みんなで協力してつぶしましょう」という約束のことだ。

集団的安全保障とは、「国際社会、または、一定の国家集団において、それに属する諸国が互いに他の国に向かって不可侵を約束し、この約束に反して武力を行使する国に対しては、それ以外の国は協力して被害国を助け、加害国に対して経済的圧迫あるいは軍事行動の強制措置を加え、諸国の結集した力による威圧により戦争を防止・抑圧する制度」を意味する。


 国連というのはこの「集団(的)安全保障」のための枠組の一つなのだが、この枠組が機能するためには安保理による意思決定が必要だったりして即応性に欠けるから、この枠組が機能しない場合であっても各国は固有の権利として「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も持っている、という話である。


 で、国連憲章で認められている「自衛権」に該当しないような武力行使は、集団安保措置の場合を除けば、「侵略」であると考えてよい。ただ、この「自衛権に該当するかどうか」というのは常にやっかいな問題で、国際的にも一致した見解があるわけではないようである。
 日本政府が掲げている自衛権発動の3要件(このブログを参照)も、日本政府が独自に考えたものというよりは、国際的な議論の最大公約数的なところを取っているようだ。「国際法と先制的自衛」という資料(リンク)によると、イギリスのウェブスター国務長官という人が提案した「目前に差し迫った重大な自衛の必要があり、手段の選択の余地がなく、 熟慮の時間もなかったことを示す必要があろう」という提案が先行例となっており、日本政府の見解もこれに似ている。で、その後の議論のなかで

  • 軍事的反撃が必要であるかどうか。 (必要性の原則)
  • その反撃は相手の攻撃とつりあっている かどうか。 (均衡性の原則)
  • その反撃が即座のものであるかどうか。 (即時性の原則)


 といった要件が国際法学者のあいだで提案されているらしい。ただこれも、広範な意見の一致をみているというよりは、まだまだ論争が必要という感じのようである。

「保有してるけど行使しない」というロジック自体はおかしくない

 ところで、日本政府の「集団的自衛権を保有はしているが行使できない」という解釈について、矛盾してるとかいう主張もあるみたいだが、べつに論理的におかしいわけではないと思う。
 単に、「国際法上の視点から見れば権利は有しているが、日本国憲法というローカルルールを定めることで、その権利は使わないことにしてる」というだけのことであって、論理的にはあり得る話だ。


 たとえば、たまたま仕事で関わった例を思い出したのだが、WTOの「政府調達に関する協定」というものがあって、各国の政府が物品やサービスを調達するときに、海外の業者であっても不利を受けることなく入札に参加できるよう、各国共通のルールを整備している。ところが、基本的にはWTOのルールに従ってればいいはずなのだが、日本政府は独自の「アクションプラン」を定めていて、WTOルールよりも厳しい基準で政府調達ルールを作っている。
 「権利」の話とは性質が違うが、条約が定めたルールよりもさらに厳しい基準でローカルルールを設けるということ自体は、普通に行われているということである。

外国の戦争に巻き込まれるのか

 ひとまず憲法論はわきにおいて、海外で武力行使することの是非について考えてみよう。
 日弁連のPDF資料(リンク)をみると、反対論のサマリーみたいになっているので分かりやすいのだが、大学教授や弁護士や元官僚の人たちが色々意味不明なことを言っている。
 まず最初のページからして、

集団的自衛権。それは、外国のために戦争をすること。


 と書いてあり、

集団的自衛権の行使は、日本の防衛とは関係なく自衛隊が海外で武力行使することです。
(略)
集団的自衛権行使容認の狙いは、海外の戦争に参加できる国に変えることにあります。海外における武力行使に道を開き、大国による戦争に日本が加担することになります。


 という人も出てくるのだが、スローガンとしても飛躍しすぎなんじゃないだろうか。
 たしかに集団的自衛権というのは、日本が攻撃されていなくても仲間の国が攻撃されているときには武力を行使するというものだが、「外国のために」「日本の防衛とは関係なく」ではなく、あくまで理屈としては「日本のため」のものである。


 反対派が「海外の戦争に巻き込まれる」と言っているのは、恐らく具体的にはアフガン攻撃やイラク戦争みたいなやつに日本が駆り出されることをイメージしているのだろう。日本周辺の公海で米艦が攻撃を受けた際の支援とか、アメリカに向かって飛んでいくミサイルを日本が代わりに撃ち落とすことに反対しているようには見えない。
 で、こういう批判はあまり意味がないというか、少なくとも安倍内閣が言っていることと議論が全くかみ合わないので、言っても無駄だろうと思えてしまう。
 今回の解釈変更で認めることにしたのは、さっきも触れたように、

我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使する


 ことである。つまり、理屈の上ではあくまで、日本の防衛に関係がある場合のみ集団的自衛権行使が可能という話なのだ。
 場所が海外だろうがアメリカの戦争だろうが、日本の防衛上必要なのだとすれば、戦った方が良いとしか言いようがない。もしそれが(イラク戦争のように)侵略戦争だったとすれば、それって憲法9条もクソもなく国際法違反なのだから、「それは侵略です」と反対すればよい。
 抽象的な「是非」の議論はそこで終了してしまうのであって、あとは個別の運用で判断を間違わないように仕組みをつくったりしなければならないというだけだ。


 もちろん、どんなに慎重にルールを整備したところで「恣意的な運用ガー」問題はあるのであって、日本の防衛にほぼ関係のない戦争に荷担するケースは出てくるかもしれない。しかしそれなら、そういう個別の事案について「それって日本の防衛と関係ないだろーが」と反対すればいいのであって、集団的自衛権の行使一般について反対するというのは理屈として無理がある。
 というか、安倍政権側に「いや、だから、日本の自衛に関係のない『外国の戦争』への参加は依然として認めないって言ってるでしょ」と言われてしまえば、もう抽象論(一般的なルール)の水準で反論することはできないのであって、ゴネても無意味である。あとは具体的な規則づくりや個別の判断で文句を言うしかない。


 なお、朝日新聞の記事(これとかこれ)では「集団安全保障措置への参加」も認められることになったと書いてあるが、その根拠はよく分からない。もしできるのだとすれば、集団的自衛権よりもさらに進んで、日本の防衛に直接関係なくても国際秩序を維持するためにということで、外国で武力行使ができるようになる。
 ただ、閣議決定の文面からすると、日本の自衛に直接関係がないようなケースであれば参加はできない気がするんだけど、できるわけ?
 まぁ仮にできるとして、集団安全保障措置についても抽象論としてはやはり、「意義があるなら参加すべき」としか言いようがない。武力をもって貢献すること一般を禁止したほうがいいかというと、そうではないだろう。


 ここで言っているのは、「実践上、武力行使できたほうが良いか、できないほうが良いか」の話であって、憲法上許されるかどうかとは別の話である。
 要は、合憲か違憲かという議論をとりあえず措いておいて、外国の戦争にまきこまれることの是非そのものについて考えるなら、一般論としては「無意味な戦争には巻き込まれないように注意すべき」としか言いようがなく、しかも今回の閣議決定でも、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」にしか武力行使はできないことになっているので、そこで議論は終了してしまうのである。
 だから、「外国の戦争に巻き込まれるようになるからダメ」というのは、反対論としてはあまり成り立たないと思う。

解釈変更の手続きは強引だが

 さて「立憲主義の否定だ〜」と騒いでいる人たちが何をしたいのか、イマイチよくわからないが、たしかに手続きはかなり強引である。とくに内閣法制局長官人事の件がヤバくて、外部から賛成派を連れてきて議論を避けるというやり方は、後々踏襲されると大変なことになりそうである。


 ところで解釈変更って、何がどう変わったのか。今回の閣議決定の全文と、それについてのQ&Aは↓にある。


 国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法 制の整備について
 「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答


 何がどう変更されたのかがよく分かるのは、以下の箇所だ。

(3)れまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容され るのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。
 我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。
 こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。


 論理としては、憲法解釈を変更するものではなく、「従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導」いたことになっている。これについては「一問一答」でも強調されていて、一応「解釈改憲ではない」というのが政府の立場である。*1


 先ほどの鈴木尊紘氏の論文に引用されているのだが、もともとの政府見解というのは、以下のようなものだ。

「政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場に立っている。(中略)我が憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」(第69回国会参議院決算委員会提出資料 昭和47年10月14 日)

国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、 自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」(第 94 回国会衆議院稲葉誠一議員提出の質問主意書に対 する答弁書[内閣衆質 94 第 32 号] 昭和 56 年 5 月 29 日)


 これの「基本的な論理」の下で、集団的自衛権の行使を“ナシ”から“アリ”に変更したというのはどういうことかというと、おそらく

  • 武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる
  • 憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものである

 というのを「基本的な論理」と考えて、集団的自衛権の行使の是非は「基本」ではないことにしたのだろう。つまり、「急迫、不正の侵害に対処する場合」「必要最小限度」の指す範囲が時代の変化とともに変わってきて、昔は集団的自衛権の行使は範囲外だったけど、今は範囲内になったと考えていいだろうということだ。


 これを「解釈改憲ではない」と言われても、無理矢理な感はある。いわば「解釈の解釈を変更しただけだ」ということなのだが、それって解釈変わってるよねと。「『解釈の解釈の変更』は、『解釈の変更』には当たらない」といわれて通じる人がいるのだろうか?


 ただ、じゃぁ「解釈の変更」が許されないのかというと、そういうわけでもないだろう。そもそも上記の鈴木論文のとおり、政府の憲法解釈は過去にも少し変わっているのだ。
 本来は違憲/合憲の判断を下せるのは裁判所なのだが、日本はアメリカと同様に「付随的違憲審査制」をとっているので、具体的な訴訟が起きない限り憲法判断が示されることはない。だからこれまでの歴史の中で、集団的自衛権については政府が解釈するしかない状況が続いていたわけで、しかもその解釈には変遷がある。
 反対派は、「解釈の変更は立憲主義に反する」というが、そもそも集団的自衛権の行使を禁じてきたのも過去の政府の解釈に過ぎない。反対派の人たちが明確に禁じたいと言うのであれば、そういう方向で憲法を改正するか、裁判所の判断が出るタイミングを待つしかない。
 ただ、単なる解釈とはいっても70年代以降は概ね変わっていないので、その積み重ねを尊重する態度は必要だろう。どの程度尊重すれば十分なのかは難しいが。


 また、「立憲主義」とやらに基づき、集団的自衛権の行使を認めるためには絶対に憲法改正が必要なのかというと、そうでもないのではないか。後述するように、憲法9条1項は「侵略はダメ」という当たり前のことを定めていて、ここから「武力行使は自衛のために必要最小限度の範囲に留めるべし」という原則が導かれ、集団的自衛権の行使がこの原則の範囲内に収まるのかどうかが問題となり、歴代内閣は「収まらない」と解釈してきたわけである。(「集団安保」については後述する)
 しかし理屈としては、「集団的自衛措置の中には、この原則の範囲内に収まるものも収まらないものもある」としか言いようがないのではないだろうか。であるならば、どんな場合であっても集団的自衛権の行使はとにかく認められないとしてきた過去の解釈が、多少先走った感があるのであって、「もっと細かく考えてみたら、認められるものもありました」となっても暴挙とまでは言えないと思う。


 一番の問題は、解釈を変更するというやり方が「立憲主義を否定する暴挙」だという点にあるのではない。どんな憲法・法律だって、「解釈」を経て現実に適用されるというのはごく普通のことである。それより、今回の決定はそもそも一内閣の解釈にすぎないもので、今後政権が変わって別の解釈が示されることだってあり得るし、裁判所が別の判断を示したらそっちが優先される、あやふやなものだという点がヤバいのだ。
 国論が概ね統一されていて、あまり反対論が巻き起こらないような環境が整備されているのであれば、憲法改正せずに「解釈」の変更を行ってもべつに良いと思われる。もともと集団的自衛権の行使を禁止しているのも政府の「解釈」なんだから。しかし「禁止だ」という解釈に40年の歴史があり、しかもこれだけ反対論が多いと、「あとでひっくり返る」恐れはけっこうある。閣議決定による解釈なんて、その程度の根拠しかないのだ。
 だから、解釈変更の閣議決定をしたことが暴挙だというのではなく、後でどうなるか分からないものに基づいて法整備その他を具体的に進めようとしていることが暴挙だと言うべきなのだろう。安全保障に関わる措置は、コロコロ方針が変わるとヤバいのだから、もっと確実な根拠や環境を得てから進めて欲しい*2

そもそも憲法9条って

 ところでそもそも憲法9条は何を禁じているのだろうか。


 前内閣法制局長官に聞く—集団的自衛権の行使はなぜ許されないのか


 ↑ここにも書かれてあるように、憲法9条が定めている戦争放棄というのは、「あらゆる戦争をしません」という意味ではなく、「侵略戦争をしません」という意味だ。
 少なくとも第1項の「国際紛争を解決する手段としての武力の行使」*3というのは、パリ不戦条約などに照らしても*4、これは侵略戦争を意味する表現であると解釈されていて、自衛戦争をしませんという意味ではない。

第1項の武力の放棄ですが、実は1928年のパリ条約、いわゆる不戦条約にも、戦争に限ってですが、似たような表現で書かれていて、その考え方を引き継いで国連憲章も第2条の第3項、第4項で武力行使を禁止しております。要するに、いまの国際法では武力の行使は個別的または集団的自衛権の行使として行なうもの、そらから湾岸戦争のような国連決議に基づいて行なう制裁戦争―集団安全保障措置と呼んでいますが―そういうもの以外は一切違法なものとして禁止されているわけです。したがって、日本国憲法も仮に9条1項だけであれば、国連憲章、あるいは世界の各国と同じように、いわゆる侵略戦争を中心とした違法な戦争を禁止している、そのことを入念的に規定したのだと読めないわけではない。


 ところが問題は、第2項が、「前項の目的を達するため」に「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」となっているという点だ。論理的には、「侵略戦争はしません」「そのために武力を放棄します」ということなり、「あれっ、自衛は……?」という疑問(グレーゾーン)が発生し得る、変な規定なのである。*5
 でもとにかくこの文言だと、結論としては「放棄します」と言ってる以上、放棄してないとおかしいはずである。
 上記のPDFでも、

ほとんどの憲法学者は、9条2項の戦力の不保持の規定に照らすと、現在の自衛隊が戦力に当たらないというのはおかしい、自衛隊違憲だという立場だろうと思います。政府の憲法解釈に、もしわかりにくい点があるとすれば、自衛隊は合憲であるというところから出発しているからでしょう。
(中略)
自衛権があっても、自衛のための措置を講じることができなければ、意味がないわけですから、自衛のために―国民の生命、財産を守るためにと言ったほうがいいのかもしれないですけれども―、必要最小限度の実力組織を有し、武力攻撃を受けた時にそれを排除するための必要最小限度の実力の行使ができる、この点が政府の憲法解釈がもっとも、大方の憲法学者と異なるところだろうと思います。


 と語られていて、つまり「憲法の文面をふつうに読んだ場合」(憲法学者)と、「実践上どう考えても必要なことができるように解釈を工夫して読んだ場合」(政府)との間にはズレがあるということだ。この第2項の問題の大きさからすれば、第1項に照らして集団的自衛権の行使が認められるかどうかというのは派生的なレベルの問題であって、些末な議論だという気もしてくる。


 昔、大学の授業で、「前項の目的を達するため」という文言がなぜ挿入されたのかについて、その経緯と意図を調べた研究が紹介されていたが、内容は詳しく覚えてない。いわゆる「芦田修正」というやつで、ネット上の解説(リンク)によると、この挿入によって「自衛のためにであれば戦力は持てる」という意味に変えたかったらしいのだが、どう読んだって日本語の文言としてはそうはならない。「前項の目的に反するような」とかなら分かるのだが。*6
 まぁ日本国憲法なんて、戦後のどさくさの中でアメリカ人が勢いで作って、日本人が勢いで訳した文書なのだから、「あまり内容は詰まってない」と理解して差し支えない。憲法前文が典型的だが、趣旨以前にそもそも日本語の文章として変だし。いわば「たたき台」(あるいは占領下で一時的に用いる「間に合わせ」の文書)みたいなレベルのものを、70年近く使い続けてるわけである。


 そこでじゃぁ、現実に合っていない文章に現実を合わせるのか、現実に合うように文章を書き換えるのかが問題になるのだが、常識的に考えて現実のほうが大事だし、占領下で米軍の指導によって制定された文章にこだわるという選択肢はないだろう。
 もちろん、その文章に従って半世紀以上にわたって国政を運営してきたという、現実の積み重ねが一応あるのだから、全てをチャラにする必要はない。というかチャラにするのもおかしい。
 ただ9条2項については、過去半世紀にわたって堂々と破られたままであり、常識的に考えてこんなもの破らないと生きていけないのだし、国民もべつに武力を完全放棄しようとは思ってない(9条2項を守る気がない)のだから、「憲法が既に死文と化している」のだと理解して文言のほうを変えることにしても、暴挙とはいえないだろう。べつに9条第2項を取っ払っても、

  • 侵略戦争はしてはいけない
  • 自衛のための武力を保持している


 という現状に何も変更はない。
 ただ、いまの安倍政権は大衆民主主義のなれの果てみたいな代物なので、べつに安倍政権憲法改正をがんばってほしいとは思わないが。


 ところで、日本国が武力行使をするのは「自衛のため」と「侵略のため」の2種類しかないかというと、そのどちらとも言いがたい国連の集団安全保障措置という問題があるのでややこしい。つまり、世界のどこかに侵略的な国が現れた時に、国連軍とかを組織して、「みんなで叩き潰しに行くから日本もついてこい」と言われた場合だ。これが、国際秩序の維持には必要な行為であったとしても、そして長期的には日本の国益になるのだとしても、たとえばものすごい遠い地域の出来事で、日本の防衛という観点から見て「急迫・不正の侵害」とは言えないような場合に、そこに参加して武力行使ができるのかという問題である。


 憲法上、「そんなことできるわけないだろ」と言う人が多いと思うのだが、安保法制懇の報告書(リンク)では、

軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加については、上記I.で述べたとおり、これまでの政府の憲法解釈では、正規の国連軍については研究中としながらも、いわゆる国連多国籍軍の場合は、武力の行使につながる可能性のある行為として、憲法第 9 条違反のおそれがあるとされてきた。しかしながら、上記 II.1.(1)で述べたとおり、憲法第 9 条が国連の集団安全保障措置への我が国の参加までも禁じていると解釈することは適当ではなく、国連の集団安全保障措置は、我が国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力の行使に当たらず、憲法上の制約はないと解釈すべきである。


 とされており、現行憲法でも武力行使OKという立場になっている。まぁたしかに、集団安保措置への参加は侵略ではないので、9条1項によって禁じられてないと言われればそんな気もする。ちなみに、2項について上記報告書は芦田修正の「侵略目的の武力は持たない」と理解する立場をとっている。
 しかし「国際紛争」の前に「我が国が当事国である」という限定を勝手につけてもいいのかという疑問はある。これは報告書を読むと、マッカーサー原案から取られているのであるが、憲法の条文からは読み取れないので、屁理屈感はある。


 なお、先ほども触れたように、朝日新聞の記事では今回の解釈変更で集団安保措置への参加もOKになったと書かれているが、ロジックはよく分からない。閣議決定の文面からすれば、日本の防衛上の必要性が薄い場合は、参加できないと思うけど。

そんなに騒ぐことなのか

 以上まとめると、集団的自衛権の行使そのものは、実践上の話としては認められたほうがいいだろう。だってあくまで自衛権なんだし、選択肢は多い方が良い。そもそも今回認められたのも、日本の防衛上どうしても必要な場合の行使だけなので、どうしても必要な場合はそりゃ必要だろうということで議論は終了してしまう。あとは具体的なルール作りとか個別の判断を間違わないように気をつけることだ。


 ただし、「解釈の解釈の変更は、解釈の変更には当たらない」というのは詭弁だから「解釈を変更します」と言うべきだし、内閣法制局長官のすげ替えというのはいかにも強引で、禍根を残しかねない。「戦後レジーム」に間違いが多かったとは言え、過去との連続性を重視して手続きを進めるという態度も大事であるはずだ。
 また、強引であるか否か以前に、高校の授業でもたしか習ったように憲法判断を下せるのは裁判所であって内閣法制局ではないのだから、閣議決定やら内閣法制局見解の変更をしとけばOKみたいなノリがそもそもおかしいとも言える。
 もちろん、日本の場合はいわゆる付随的違憲審査制を取っていて、具体的な訴訟が起きない限り裁判所が判断を下すことはないので、実践上は政府がいろいろ解釈しないといけないのは確かである。また、憲法9条で改正が必要だと思われるのはどちらかといえば第2項の方であり、集団的自衛権の問題はどちらかといえば第1項から導かれる「自衛のために必要な最小限度の措置」に含めていいかどうかという話だから、憲法を改正しなければ行使は容認できないという話になるかというと、そういうわけではない。もともと「行使できない」という判断も「解釈」なのだから。
 ただ、これだけ揉めるのだから、裁判所の判断が出るか、憲法から明示的に読めるようになるまでは、集団的自衛権の行使がOKかどうかはあまりハッキリしていないと考えるべきだ。内閣が替わって別の「解釈」を出すことも可能なわけだし、裁判所が別の解釈を示したらそっちが優先される。そんなあやふやなものに基づいて今後の法整備を進めようとしていることが、問題だといえるだろう。


 ところで私は、冒頭で言ったように、そもそも集団的自衛権ごときでそんなに大騒ぎする必要あんのかって思ってしまった。その理由は大きく分けて、以下の3つ。


 1つ目は憲法上の論点としてもっと重要なものがあるのではということ。
 上述のとおり、集団的自衛権を認めるかどうかというのは憲法9条1項の問題であり、「自衛」の範囲に含まれるかどうかという話に過ぎず、これは戦力の放棄を謳った2項の問題に比べれば大したことではないのではないだろうか。
 また、9条1項の問題としても、(日本の防衛上、喫緊の問題ではないような)集団安全保障措置への参加をどう読むかのほうが難しいと思われる。集団的自衛はあくまで自衛のための措置なので、論理としては正当化が比較的簡単だろうと思うのだ。ただもちろん、今回のようなたかだか閣議決定では後でひっくりかえる可能性もあるから、論理以前に環境整備をまず進めて欲しいけど。


 2つ目は、べつに集団的自衛権が認められていなくても、日本は危険なことをしでかし得るということだ。最も顕著な例がイラク戦争で、あれはアメリカの侵略戦争でありフランスやドイツも反対していたものだが、日本はホイホイ支持を表明して間接支援を行い、アメリカによる国際秩序の破壊行為に荷担したのである。
 こうなってしまう原因の一つとして、日本人が「憲法9条」の問題を(それを支持するにせよしないにせよ)過大評価しているというのがあると私は思っている。何が事が起きるたびに、我々は「憲法9条に照らしてOKか」の議論にばかりエネルギーを使っているのだが、その結果として、海外で起きている紛争について「この戦いは、国際法に照らして、どちらに理があるのか」を考える習慣が身についていないのだ
 今回のように集団的自衛権ごときで大騒ぎしているようでは、また当分「内向き」の文化が続いていくんだろう。べつに集団安保活動に参加できるようにして世界の平和に積極的に貢献すべしとかいうわけではないのだが、外国で事変が起きたときに「もし日本にも助けを求められた場合、憲法9条的にどうなのか」ばかり気にして、侵略と自衛の区別をつけて国際法上の「正義」について考えることができないというのは、相当ヤバい。そのせいで、イラク戦争や今回のウクライナ事変のようなことが起きたときに、判断を大きく誤り得るからだ。


 3つ目は、これも「内向き」の文化に関係する話なのだが、国際情勢がめちゃめちゃ複雑化・不確実化していて、戦後かつてないレベルで「自衛」そのもののが難しい課題となっているときに、集団的自衛権の是非ごときで大騒ぎしてていいのかということである。
 これは中野剛志さんがメルマガで書かれてた問題だ。(リンク)、今の世界の問題はアメリカのパワーが衰退して、世界を仕切れる国がなくなってしまったということだ。アメリカにはもはや、世界のあちこちで戦争を仕掛ける余裕も、日本を守る余裕もなくなっている。一方、中国やロシアは膨張を開始し、中東はまた不安定化している。それなのに、集団的自衛権反対派は「アメリカの戦争にまきこまれる〜」と騒ぎ、賛成派は「これで日米同盟が強化される〜」と喜んでいる。
 まぁ、戦争に巻き込まれる可能性も、日米同盟が強化される可能性も、それはそれであるからべつにいいのだが、騒ぐ前にもっと調べたり考えたり決めたりすべきことが山のようにあるんじゃないのか。我々がもし、憲法9条も何も無い「普通の国」であったとしても、これから自国の安全保障のためにどうしていったら良いかはよく分からないのだ。戦後の世界で「仕切り屋」がいなくなるという事態は初めてなんだから。ふつう、見通しがきかない霧の中でワーワー大騒ぎできる奴というのは、気が狂っているか、もしくは普段から1m先ぐらいしか見ていないかのどっちかだろう。

*1:というかそもそも、「解釈改憲」などという手続きは存在しないけど。

*2:結局その根拠としては、反対論が収まることはなかなかなさそうだから、憲法改正か、裁判所の判断ということになるのだろう。その限りでは「憲法を改正すべし」という主張には妥当性がある。

*3:ちなみに「国際紛争」というのは武力衝突のことを指しているのではなく、「もめごと全般」を指している。つまり、国家間で利害が対立したとき、その解決のためにいきなり武力を持ち出すのは「侵略」であり、それはやめましょうという意味だ。

*4:つまり、日本国憲法だけの独自の用語法なのではなく、定番の言い回しだということ。

*5:まぁ、アメリカに守ってもらうということなのだろうけど。

*6:Twitter経由で、憲法13条の幸福追求権が根拠となって、必要最小限の戦力の保持が認められているという指摘を頂いたが、その話は知っている。しかし憲法13条をどれだけ重視したところで、9条2項は明示的に戦力放棄を謳っているのだから、矛盾が生じているという事態に変わりはないと思う。

「教養の伝達」と「科学の研究」(ホセ・オルテガ著『大学の使命』レビュー)

大学の使命

大学の使命


 つい最近、安倍政権の大学改革を批判する記事をいくつか読んだこともあって(この記事とかこの記事*1、なんとなく、オルテガの『大学の使命』をパラパラと読み返してみたので、簡単にメモしておくこととする。
 大学一年生ぐらいの頃に読んだと思うが、まったく内容が記憶に残っていなかったので、あまり感慨を受けることもなく読み流したのだろう。大学に入る前に読んだ『大衆の反逆』の印象があまりにも強烈だったのも、本書の印象が薄かった原因だと思われる。
 しかし改めて読むと、さすがにオルテガはなかなか重みのあることを言っている。まぁ考えてみたら普通の内容だとも言えるのだが、1930年代という危機的な時代に少数派として言論戦を戦っていたことを想像するとなかなか凄みがある。本書はもともと学生向けの講演録で、マックス・ウェーバーが1919年に学生に向けて行った講演「職業としての学問」「職業としての政治」に似た緊張感があるような気がする。


 以下、内容を簡単にまとめておくが、あとで参考資料として使いやすいように、冗長になることを承知で引用を多めに並べておく。


オルテガの大学改革論

 本書の前半には、「大学の使命」というオルテガの大学(改革)論と、その序論にあたる「鍛えられた改革精神——学生諸君のために」、そしてたぶん1940年代に書かれたものだと思うが「『人文学研究所』設立趣意書」というのがあわせて収録されている。本書の後半は厖大な訳者解説となっているので、「設立趣意書」まで含めてもオルテガの論考自体は120ページ分程度である。
 ちなみに、翻訳はめちゃめちゃ読みやすくてすばらしい。


 オルテガがこの講演を行ったのは1930年で、これはちょうどスペイン王政の最後期に一時的に登場した軍事独裁政権がそろそろ崩壊し、共和制へ移行(1931)しようとする政変の時期だった。また、ヨーロッパというか世界全体が、恐慌にあえいでいた時期でもある。この危機的な時代にオルテガは、大学・学問の改革の必要を継続的に訴えており、(本書の講演よりも後の話だが)議員になって政治の改革にも携わっている。


 講演は、マドリード大学学生連盟から依頼されて行ったものらしい。内容的には、まず当時の大学制度や教授たちの学問のレベルの低さを罵倒しまくって、次にそもそも学問の専門分化が進みすぎたことがこの弊害をもたらしているのだと論じ、教養の復活や知識の総合の必要性を訴えるという感じである。
 たぶんスペインでは、19世紀以来政治的にも経済的にも不安定な状況が続いていたこともあって、イギリス、ドイツ、フランスといった国に比べると、全般的に大学という組織のレベルが低かったのだろう。加えてヨーロッパ全体が、民主主義の台頭によってオルテガが「大衆化」と呼ぶ堕落の兆候をみせており、(スペインに限らずヨーロッパ全体の)学問も同じように堕落に向かっているとオルテガは感じていたようである。


外国の制度の模倣は危険である

 それでオルテガは、愛国的な哲学者の一人としてスペインの大学の組織・制度の改革を志すのだが、まず最初に強調しているのは、「外国の模倣はしてはならない」ということである。
 ドイツの高等教育やイギリスの中等教育がきわめて先進的であることを認めつつも、オルテガは、

とにかく、他国人と同様の結論と形式に至ることが大切なのではない。大切なのは、自分で根本問題そのものに取り組み、われわれ自身の足で、結論へと至ることである。(p.14)


という。
 これとあわせて、一般に「国民が偉大であるのは、初等学校から大学に至るまで、その国の学校がすぐれているからである」というのは謬見であると強調している。現代日本でも、政治や経済問題を論じる中で、なんでもかんでも「結局、教育を変えるしかないんだよね」という結論に持ち込もうとする人は少なくないが、そういうのは間違っているということだ。

確かに、国民が偉大であるときは、その学校もまたよいし、学校がよくなければ、国民はけっして偉大ではありえないであろう。しかし、これと同様のことが、その国の宗教、政治、経済、その他万般の事柄に関してもいいうるはずである。つまり、国民の力は総合的に作り出されるのだ。もし一民族が政治的に低級なら、より完全な学校体制を望んでもそれはむなしいであろう。
 (略)*2
 教育に関して原理的に次のことが認められる。すなわち、学校は、それが真に一国の正常な機関であるときは、塀囲いの中で技巧的に作り出される教育学的環境によりも、むしろ、学校を完全に包含している公共的環境により多く依存している。そして、この内からと外からとの力関係が均衡を保っているときにのみ、学校は健全なのである、と。
 (略)
 学校は、その純粋に制度的なものと、学校が当然にもっている、たとえばイギリス人の生活、あるいはドイツ人の思考力との混合から成り立っている。しかしイギリス人の生活法やドイツ人の思考法は、こちらへ移植することができない。移植しうるのは、せいぜい、教育学上の諸制度だけである。(pp.15-16)


 オルテガは、教育制度だけでなく研究内容も含めてであろうが、スペインの大学では外国の模倣がはびこっているせいで、

われわれの最もすぐれた教授たちも、その学問の細部においては大いに今日の状況に即しているとしても、全体としては、十五年ないし二十年遅滞した精神で生きている。真正であろうとの努力、自分自身の確信を創造しようとの努力を省く人々における、悲劇的な遅滞性がここにみられる。(p.17)


 と批判している。だから、「外国を調査すべきだ、しかし模倣してはならない」(p.18)のであると説いている。


「教養(文化)」とは何なのか

 オルテガの大学論の要は「教養」論である。なお、教養と訳されている言葉は英語でいうとculture(原文はスペイン語だが)であり、本書では「教養(文化)」と訳されている箇所が多い。
 オルテガは、当時の大学で行われている主な活動が「専門職教育」と「科学研究」であることを確認しつつも、学生たちが歴史や哲学などの「一般教養」的性質をもった講義につねに関心を示していることをまず指摘する。一応、「教養」に該当する科目があって、古代や中世の古典を読んだりしていたわけだ。しかしオルテガは、当時の大学教育にわずかにみられる一般教養的なものは、中世までの高等教育の「あわれな生き残り」にすぎないという。
 教養というものはしばしば、「役には立たないけけど、精神を美しく豊かにしてくれる、装飾品のようなもの」として捉えられている。これに対してオルテガは、教養というのは本来そんなものではないと説いている。中世までの学問というのは「当時の人間が所有していたところの、世界と人類に関する諸理念の体系」(p.22)だったのであり、この点こそが「教養」というものの本質であると言うのである。


 生の全体は混沌とした密林であり、人間は常にそのなかで迷っている。しかし人間はいつでも、この密林の中の道しるべとなるような、「宇宙に関する明瞭にして確固たる理念」「事物と世界の本質に関する積極的な確信」を見出そうと努力してきたのであり、あらゆる時代・民族がそれぞれに特有の理念の体系を有している。こうした諸理念の体系が、完全に正しかったかどうかはともかくとして、混沌の中で前進を促す光明の役割を果たしてきたのである。
 この諸理念は、科学や職業などのあらゆる具体的活動の基礎をなす根本思想のようなものであって、オルテガは「教養とは、各時代における諸理念の生きた体系である」(p.24)と定義する。
 そして、この理念の体系というものは、特定の時代の特定の個人が独自に生み出し得るようなものなのではない。だから我々は、少なくとも人類の知的営為の蓄積としての古典的な学問や、歴史を学ぶことから始めなければならないのだ。


 この「教養(文化)=諸理念の生きた体系」という定義は本書の議論の根幹をなしているので、冗長ではあるが理解のために詳しく引用しておこう。

教養(クルトゥラ)(文化)とは、それぞれの時代が所有するところの生きた諸理念の体系である。より適切にはそれによって時代が生きているところの諸理念の体系である。人間は常に、その実存を支える地盤を構成している、ある明確な理念から生きる。この事実を回避しうる策は存しない。そしてこの理念——「生きた諸理念(ideas vivas)あるいは、それによって人が生きる諸理念」と私の呼んでいるこの理念は、世界および同胞の本質に関する、また、諸事物、諸行為のとる価値の位階——いずれがより高く、いずれがより低く評価されるかの位階に関する、われわれの現実的な確信のレパートリーをいうのであって、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。(p.52)


 これが「教養(文化)」の詳しい定義なわけだが、それがなぜ、我々の生に不可避的に必要とされるのかというと、

生が高貴であろうと卑俗であろうと、賢明であろうと愚鈍であろうと、プランによる行動をその本質としないような生は、まったく存在しないということなのである。絶望のあげく、おのれの生を放棄せんとするまさにそのときにおいてさえ、人はなお計画によって振る舞うであろう。あらゆる生は必然的に自分自身を「計画」する。あるいは同じことになるが、われわれがある行為を決意するのは、その行為が所与環境の中で最も有意義だと思われるがゆえにである。すなわち、生はすべて、いやでも応でも、自分自身を弁明しなければならないものである。
 (略)
ところでこの計画や弁明は、世界そのもの、世界における事物そのもの、また世界でのわれわれの可能な行動に関して、ある「理念」をすでに形成していることを前提としている。だからつまり、人間は、世界についての、また世界において可能な自己の行動についてのある知的解釈を用意して、環境ないし世界から直接受ける印象に反応するよう身構えずしては、生きてゆくことはできないのである。この解釈が、とりも直さず、さきに言及された、宇宙および自己自身に関する確信または理念のレパートリーなのである。(p.54)


 つまり、あらゆる人間の活動は計画に率いられるのであるが、現在の状況に関する何らかの解釈や未来に関する何らかの確信を抱くことなしには、計画を立てることはできない。つまりあらゆる活動が、我々のもつ理念、確信、思想によって方向づけられているのである。
 たとえば現代の人々は科学という活動の妥当性を強く信じているが、これは科学上の個々の事実を信じているのではなくて、我々の「生きた信仰」つまり「教養」の一部に、科学というものに対する確信が含まれているということなのだとオルテガは説明している。
 そして、科学がいかにそれ自身として発達を遂げようとも、それに先立つ理念のレパートリーとしての教養の役割は揺らぐことがないのだという。

科学の中にあるのは教養ではなくして、純粋に科学的技術に属する科学上の多くの断片である。反対に教養は、欲すると否とにかかわらず、どうしても、世界と人間についての一つの完全な理念を必要とする。科学はその絶対に厳密な理論的方法がたまたま終わるところで手間取っているが、教養はそういうふうに立ち止まっているわけにはいかない。生は、諸科学が全世界を科学的に解明し終えるまで待っていることができない。(pp.55-56)

科学的活動の内的統御は、文化のそれのように生命的ではない。それゆえに科学はわれわれの切迫した事態には無頓着に、それ自身のもつ必然性に従って進む。それゆえにまた科学は限りなく専門化し分岐する。だからして科学には完了ということがないのである。これに反し、文化は生命そのものによって統御される。したがってそのつどそのつど、完全に統一され、明瞭に組織づけられた体系でなければならない。文化(教養)は生のプランであり、生存の密林における道標である。(p.56)


 なお、あらゆる社会のあらゆる人々が「理念の体系」に方向づけられて活動しているのだが、オルテガはそうした理念のうち、学問の成果を取り入れて洗練された、上等なものを指して「教養」と呼んでいると理解したほうが良い。教養と呼ぶに価しないような理念の体系が社会を支配していることもあるのである。
 
 

大学の担うべき機能

 オルテガは自身の見解として、大学が担うべき基本的な機能・役割は、


 (1) 教養(文化)の伝達
 (2) 専門職教育
 (3) 科学研究(と若い科学者の養成)


 の3つであると言っている。しかし近代の大学は「専門職教育」と「科学研究」を拡大しすぎたせいで、自らのよって立つべき教養つまり「諸理念の生きた体系」を見失っており、また各専門分野がバラバラに発展してしまって収拾がつかなくなっていると嘆いている。だから、「教養(文化)」の伝達(学生に「諸理念の生きた体系」としての教養をなるべく洗練された形で身につけさせること)をいかにしてなすかというのが、大学改革の第一の課題であるとされる。


 ところで、どのような社会・時代であっても「誰かが支配し、指導する」のであるが、民主主義化した現代の社会を支配しているのは中産階級の職業人たちである。したがって、教養というものは中世のように一部の高貴な人々や知識人のためのものではなく、中産階級の人々こそが、現代にふさわしい「生きた理念の体系」を身につける必要がある。
 大学はそれを支援する役割を果たさねばならないのだが、そのためには、平均的な能力をもつ人々に対して無理なく習得させるように、カリキュラムが合理的・体系的に編成されていなければならない。ところが、学問の専門分化が進んだことと、大学という機関が歴史的に「研究」の方に軸足を置いてきて「教授」の技術を磨くことがなかったことのせいで、当時の大学ではカリキュラム上習得することになっているはずの知識を学生が消化し切れないという状態が慢性化していて、教育制度としてはすでに破綻しているとオルテガは嘆いている。学ぶべき(とされている)知識が、平均的に能力の人間にとっては多すぎて、しかも教え方も下手くそなのである。
 だからまず何よりも、知識の「統合」と「単純化」が必要であるとして、「経済的(効率的)な教授法」の議論に一章を当てている。


 オルテガは大学の使命について、次のようにまとめている。

(A) 大学は、まず第一に、平均人が受けるべき高等教育として存立する。
(B) この平均人を何よりもまず、教養ある人間にすること、すなわち、その時代の高さへと導くことが必要である。それゆえ、大学の第一の、かつ中心的な課題は、大きな教養学科の教授にある。その学科目は——
 (1) 物理学的世界像(物理学)
 (2) 有機的生命の根本問題(生物学)
 (3) 人類の歴史的過程(歴史学
 (4) 社会生活の構造と機能(社会学
 (5) 宇宙のプラン(哲学)
(C) 平均人をよき職業人にしなければならない。したがって、大学は、教養の伝達と同時に、知的工夫によって、最も無駄を省いた、最も直接的かつ有効な方法で、よき医師、よき裁判官、数学や歴史のよき教師等になるよう彼らを教育するであろう。(略)
(D) 平均人は科学者にならねばならぬとか、なるべきであるとかいいうる根拠は一つもない。したがってそこから、本来的意味での科学、すなわち科学的研究は、直接的・本質的に大学の第一の機能に属するものではない、また大学は無条件にそれを取り扱わねばならぬものでもないという、世人の憤りを招くでもあろう結論が出てくる。とはいえもちろん、大学は科学から引き離されてはならないのであるから、大学は、さらに加えて、科学研究をその機能としなければならない。(p.44)


 この最後の(D)のところを見ると、オルテガは少なくとも当時の状況判断として、科学研究の機関としてよりも、教育の機関としての大学の使命を重要視していたかにも見える。
 しかし、本書の後の方を読むとそうでもない。オルテガは、「研究」という営みと「教育」という営みの区別が付いていなかったことを批判していて、大半の大学生にとっては科学者を目指すことよりもよき職業人を目指すことが大事なのだから、そのために最適な教授法を工夫することは大学の使命であろうと言っているにすぎない。
 当時のスペインの教授たちは、「科学研究」のおまけみたいな感じで授業を行っていたので、べつに科学者を目指すわけでもない大半の学生に過大な負担がかかっていたらしい。科学者を目指す若者には「探求」の心得を教えこまねばならないが、職業人になろうとしている若者に対しては、科学の成果を分かりやすく知ってもらうことのほうが大事なのである。
 後述するように、オルテガは科学研究こそが「大学の魂」だと言っているのだが、それを「教養の伝達」や「専門職教育」と混同すると弊害が大きいので、一応区別して、「教養の伝達」や「専門職教育」に最適な教授方法をきちんと考えようぜということだ。


 また、(C)をみると、何かチャート式に整理されたお手軽な知識の伝達を推奨しているようにも見えて、読み方によっては軽薄に思えてくる。しかしそう単純でもない。
 まず、たぶん当時の(スペインの)大学では、たいていの学科において、現代のように体系化された教科書やカリキュラムが整備されていなかったのだろう。オルテガは、専門知識が発展しすぎた結果、学生が学ぶべきことの総量が、学びうる能力を大幅に超えてしまっているという現実を直視しろと強調している。少なくとも人文・社会科学の場合「古典を直接読むことに意義がある」というのは正しいし、どんな分野であれ「最先端の学術論文を読むことに意義がある」というのも正しいだろうが、さすがにまとまった「教科書」が全く存在しないというのも困るだろう。
 オルテガは、知識を「単純化」することが必要であると説くのと同時に、「総合」しなければならないとも言っている。あちこちに専門分化してしまった科学的知識を、一つの総体として提示するような知的作業が必要されているわけである。そして、これには独特の才能をもった人材が必要である。

現在の科学的活動の分散と複雑化は、それと反対の方向を目指す、すなわち知識の集中と単純化に努める科学的活動と、つり合いを保つことが絶対に必要である。そして、総合化のできる特殊の才能タイプを育成しなければならない。これは科学の運命に関わる問題である。(p.61)

教養「学部」の教授においては、知識の有効な総合と組織化・体系化の創造が必要であるからして、従来偶発的にしか出てこなかった一種の科学的才能、すなわち統合の才能(el talent integrador)が要望される。(p.63)


 オルテガは、探求活動・創造活動としての「科学」と、それを伝達し消化させることをめざす「教授」というものの区別を何度も強調している。そして、大学が「探求」に偏向しすぎたせいで「教授」の技術が遅滞したことと、あわせて「教養(文化)」が大学から押しのけられていったことを嘆いており、上記のような「統合の才能」を持つ科学者が、大学教育を再編成しなければならないのだという。
 繰り返しになるが、この大学教育においては平均的な学生を「教養人」ならびに「専門家」になるよう教育することが相対的に重要なのであり、決して彼らに「科学者」たることを求め、過大な目標を課してはならない。むしろ知識の全体像を分かりやすく、体系的・合理的に伝達する工夫が重要である。


それでも「科学」こそが「大学の魂」である

 しかしこのように言うからといって、オルテガが「科学研究」に重きを置いていないわけでは全くない。知性による探求は、オルテガに言わせればひとりヨーロッパ人だけが持ち得た希有な特質であり、またヨーロッパ人の生と歴史の本質でもある。「知性を制度化すること」の意欲も、知性によって生きることを決意した民族としてのヨーロッパ人だけが持ち得たものであり、したがって大学というものはもともとヨーロッパにしか存在しないのであると。


 またオルテガは、大学という機関が科学的探求とは本質的に関係がないと言っているわけでもない。オルテガは大学の役割を、第一に教養の伝達、第二に専門職の育成であると定めており、本書中でも箇所によってはこの2つのみを指して「大学」という言葉を使ってすらいる。
 しかし、教養と専門が「探求」の活動と接触することなく孤立した場合、まもなくそれは麻痺状態に陥って硬直したスコラ学になり果てるであろうとも言っている。だから、大学の中核機能が「教養」と「専門」であることは確かであるが、「探求」のための研究機関が、常にその周辺を取り囲んでいる必要がある。
 結局のところオルテガは、「教養・専門」と「探求」とは、厳格に区別された上で協働すべきものであると理解しているわけである。そしてこの両者の関係は微妙なものである。

大学*3と研究所とは、別個の機関でありながら、しかも完全体としての生理において相関関係をなすものなのである。しかし制度的性格をもちうるのは大学のみである。なぜなら科学は、あまりにも崇高な、あまりにも繊細な活動であるから、われわれはそれを制度に仕組むわけにはいかない。つまり科学は、強制されたり、規則で編成されたりするものではないのである。だからして、大学教育と研究とは、強度にではあるが自由な、不断にではあるが自発的な相互影響のもとに、両者相並んで存立させるべきものである。(p.68)

かくして次のように確認される——大学は科学とは別個のものであるが、しかし科学から引き離しえない、と。このことを私は、大学はそれに加えて科学である、というふうにいいたい。(p.69)


 つまり、オルテガが教育制度としての大学と探求活動としての科学を切り分けたのは、科学的探求の生命を「制度化」によって窒息させてはならないと考えたからでもあったのである。科学者の探求活動は、本質的に「制度」によって方向づけたり加速したりできるものではない。だから「制度」としての改革を議論すべきは「教養の伝達」「専門職教育」の機関としての大学の方であって、研究所の方ではない。そこを混同すると、両者にとって不幸が起きるというわけである。
 ただ、大学が科学と完全に切り離されてしまうことも、また避けなければならない。教育そのものも窒息してしまうからだ。

大学は、それが大学である以前に科学であらねばならない。科学的な情熱と努力でみなぎっている雰囲気こそ、大学存続の根本的前提である。制度としての大学そのものは科学ではない、すなわち、可能なあらゆる仕方で自由に、純粋な知識の創造を遂行するものではない、まさにそれゆえに、大学は科学によって生きなければならない。(p.69)

科学は大学の尊厳である。否、それ以上に——尊厳はなくとも生きることはできるのだから——科学は大学の魂である。大学に生命を吹き込み、凡俗なメカニズムに陥るのを防止するところの原理そのものである、これらすべてが、大学はなおそのうえに科学である、という主張の中に含まれているのである。(p.69)

 
 

現実社会と大学

 オルテガはさらに、大学は、自らを取り巻く現実の社会状況との接触も絶やしてはならないと論じている。

大学はまた、公共的生、歴史的現実、現在と接触を保つことが必要である。生の現実は、常に不可分の全体(un integrum)であり、そしてこの全体においてのみ取り扱われうるところのもの、つまり、けっして皇太子の御用のために(ad usum delphinis)*4切断が許されたりはしないところのものである。大学はそうした現在の全生活に向かって開かれていなければならない。いやそれどころか、現実生活のただ中にあって、その中に沈潜していなければならない。(p.69)


 こうして現実の社会に目を向けたときに、オルテガが嘆くのは、「新聞・雑誌より以上の『精神的権威』がなんら存していないという事実」(p.70)である。

教会は現在をなおざりにしているし(民衆の生活は、終始、今日ただいまのことであるのに)、国家といえば、民主主義が勝利を得て以来、公共的生活を指導せず、逆に、世論に支配されている。このような状況の中で、公共的生活は、職務上現下の生活面にかかわっている唯一の精神的勢力、すなわち新聞・雑誌におのれの身をゆだねてしまった。(p.70)


 このあたりになるとオルテガの「大衆社会批判」というテーマに近づいてくる。というか、それそのものだ。
 オルテガは書斎に籠もるタイプの知識人ではなく、政治・経済の現実的な状況に関して盛んに批評を行い、代議士にもなっていた。その中で、マスメディアに先導される世論というものがいかに国民の「公共的生活」を堕落させているかを実感しながらも、それに替わる「指導者」や「支配者」を見出せずに苛立っていたのである。

実は私は、自分はむしろジャーナリストにほかならないのだと、とりわけそう思っているくらいだから、ここでジャーナリストたちにあまり不愉快な思いをさせたくない。けれども、精神的諸実在には位階があるという明白な事実に目を閉じようとしてもそれはむなしいであろう。この位階において、ジャーナリズムは下級の位置を占めている。そして今日、公衆の良心がもっぱら、新聞・雑誌の諸欄に沈殿する、そのきわめて低い精神性によりかかり、他の力や支配はなんら受け入れていないという事態が生じているのである。しかもしばしば、その精神的水準が非常に低級なので、もはやそこに精神性があるとはいえなくなり、かえって、ある意味でその反対の勢力になっているほどである。(pp.70-71)

たしかに現実の生はまったく現在の生である。しかしジャーナリストは、現実的なものから瞬間的なもののみを、瞬間的なものからセンセーショナルなもののみを取り上げるからして、その自明の真理が歪曲されてゆくのである。(p.71)


 そして、ここまでくると当然予想されるように、オルテガは大学こそがこの大衆社会的状況への反撃の拠点になるべきであると説くのである。

この笑うべき状態を矯正することは、ヨーロッパの生死に関わる問題である。まさにそれゆえに、大学は大学として、現実生活に関与しなければならないのである。現下の大きな諸問題を、大学独自の見地から、すなわち教養(文化)、専門教育および科学の見地から論及すべきである。そうであるべきなら、大学は単に学生のためのみの制度、単に皇太子の御用のための囲い地ではないであろう。大学は、生活のただ中へ、生の緊急と情熱のただ中へ入り込んで、熱狂に対しては冷静を、軽薄と不遜な愚劣に対しては精神の真剣な鋭さをもって臨み、新聞・雑誌を凌駕する、より大きな「精神的権威」としてみずからを貫徹しなければならない。(p.72)

 
 

オルテガの大学論が示唆するもの

 冒頭で紹介した記事が批判しているところの、現下の大学改革については、私はよく知らない。まぁ、ろくでもない政権がやっていることなので、ろくでもない改革である可能性は高いんだろうなぐらいには思っているが。*5


 しかしどのような改革を考えるにしても、オルテガによる「教養(文化)」と「専門職教育」と「科学研究」の区別はけっこう役に立つのではないだろうか。*6
 とくに「教養」の定義から得られるものは多いと思う。教養というと、「たくさんの物事を知っていること」という意味や「洗練された知性」みたいな意味もあるし、またもう少し限定的に、歴史や哲学などの人文系の本をたくさん読んでいることを指す場合も多い。しかしオルテガは、ある時代のある社会において、知識の全体を方向づけている理念や思想の体系として「教養(文化)」という言葉を用いている。
 この理念の体系は、われわれ人間のあらゆる活動を根本において左右している。ケインズは『一般理論』の中で、「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。(中略)遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなくて思想である」と言ったが、われわれは自ら考えている以上に、「思想」や「理念」というものに動かされているということだ。


 すでに述べたように、オルテガはそういう思想や理念のうち、十分に洗練されたものを指して「教養」と呼んでいる。また、オルテガの意図を少し斟酌していうと、彼はそういう「理念の体系」というものに関して「自覚的であること」の重要性を言いたかったのではないかとも思う。
 学問からビジネスを経て家庭生活に至るまで、我々の活動の基底には、ある種の理念が埋め込まれている。しかしオルテガに言わせれば、「教養」に対する配慮が失われたせいで、現代社会においてはこの理念が「野蛮」なものに留まっているのだという。だから、彼の時代でいうところの物理学・生物学・歴史学社会学・哲学といった知識の世界に接触することで、この理念を現代に相応しいものへと高める必要がある。しかしそれ以前にまず、「あらゆる活動を方向づける理念」というものについて自覚的であろうとする態度が必要になるはずである。
 政治思想や経済思想はもちろんだが、もっと日常的なレベルで言っても、たとえば我々はなんとなく「科学」を信じて「宗教」を疑っているし、合理的な理由なく人を差別してはいけないと考えているし、人類学が言うような「ぐるぐる回る円環的な時間意識」ではなく過去から未来へ向かう直線的な時間意識のうちに生きていて、そういう理念の体系があらゆる活動の基礎になっている。こういうものにまず目を向けることが大事で、その上でその根拠とか、相互のつながりとか、改善の可能性とかについて考えるために、学問の成果の蓄積を参照するという態度を持たなくてはならない。


 そういう意味での「教養」を身につけなくてはならないのに、専門科学が高度に発展したために知識の全体像が見えづらくなっており困難であるというオルテガの指摘は、現代にも、というかたぶん現代のほうが強く当てはまるだろう。分量が増えすぎて、職業人を目指す学生が理解しきれないようなカリキュラムになっているという問題については、戦後の大学の大衆化の過程で分かりやすい教科書が次々に生まれてきて、多くの分野でほぼ解決しているような気がする。しかし、知識の「全体像」をどのように理解すべきかなんて、考えることすらなくなっているのが実情ではないだろうか。
 古代から近代の初期ぐらいまでは、学者というのは自然科学・社会科学・人文科学といった区別と関係なく、「知識」というひとつの全体に取り組んでいたわけである。もちろん、そんなスーパーマンというかアリストテレスみたいな教授に日本だけでも何百万人という大学生の教育を頼むことは不可能だ。しかし、べつにそこまで高等なものでなくても、「知識」「学問」の全体がどんな広がりをもっており、どんな歴史があって、相互にどんな関連をもっているのかを考えてみるような講義はあってもよさそうなものだ。少なくとも総合大学であれば、少しジェネラリスト寄りの(専門外のことにも関心を持つタイプの)先生が各学部から集まって協力しあえば、それなりのものができるのでは?


 最後に、科学の研究が本来は「制度化」にそぐわないものであるという点も、よく考えておく必要がある。まぁ、本当にあらゆる制度化が害悪であるかというとそんなこともないとは思うし、私は研究者ではないからよく分からないのだが、相対的にいって「教育は制度化しやすいけど、研究は制度化しにくい」という理解は大事だろう。安倍政権の大学改革について私は何も調べてないけど、オルテガが批判した「専門職教育と科学的探求の混同」に該当することをやっていないかどうかは、チェックしておく必要がある。


参考リンク

 ググったら『大学の使命』を紹介してるブログ記事がいくつかあったのでリンクをはっておく。
 大学の使命 : 愛比売研究記
 Deus ex machinaな日々: 大学について2


 後者のブログを書かれている先生は、「反・大学改革論」という記事を2012年に書かれていて、これはとても面白かった。ラーメン屋のたとえが秀逸です。
 反・大学改革論
 反・大学改革論2(学生からの評価アンケート)
 反・大学改革論3(学生はお客様じゃない)

*1:私は今、院生でもあるけど、本業はサラリーマンなので、大学の実態や大学改革の中身についてはよく知らない。

*2:略した箇所は、「そういう場合には、ただ、その国の人々から離れ、対立的に生きている特定の少数者の学校があって、いつの日か、この学校で教育された者たちが、その国の全生活に影響を及ぼし、その全体的影響によって、全学校組織の改善に(特殊の学校だけにででなく)寄与する、ということになるであろう。」と言ってて、これはこれで面白い。

*3:ここでは「大学」という言葉を、教養の伝達と専門職の養成の2つを指すものとして用いている。

*4:この言い回しは何度か出てくる。当時のスペインで、知識人の堕落を指弾する時の決まり文句みたいな感じだったんだろうか。

*5:冒頭の記事からすると「理工系の重視」や「グローバル化」がその方向性なのだろうか。まぁ重視するのは別にいいと思うけど、最近の日本の「改革」は極端に触れる傾向があるから、文系的なものや特殊日本的なものを圧殺するような方向には行かないようにしてほしい。ただ、そういえば昔、西部邁先生が東大教授を辞めた頃に書いた文章で、日本の大学はもう使い物にならず、改善しようにも内発的な改革では難しそうだから、外人教授をたくさん招き入れるなどして「外圧」をかけるしかないと言っていたのを思い出した。今はどうなんだろう。

*6:たとえば、一口に「グローバル化」と言っても、研究がグローバル志向であることと教育がグローバル志向であることは全然違うだろう。研究はまぁ、どんな分野であれ、もともとある程度グローバル化しているのが普通だろう。しかし教育に関しては、グローバル人材を育成するのも良いんだけど、そうなる必要がない大多数の人たちまでもグローバル化教育の枠に押し込めるのはよくないだろう。

史上最悪のネットセキュリティ危機と騒がれてる「Heartbleed」問題に関するメモ(よくわかっていない素人レベル)

 ※2014/4/15 すこし追記


 数日前から話題になりまくっているように、Heartbleedと呼ばれるインターネット史上最悪ともいわれるセキュリティ危機が起きているらしい。
 私はインターネットの技術をよく分かってないので、具体的に何がやばくて何をしたらいいのかがあまり理解できないのだが、放置するのもあれなので、関連する一般向けの記事だけは読んでみた。
 で、結局のところ、われわれにできることとしてはパスワードを変えるぐらいしか対策はなく、あとは将来に向けてセキュリティ意識を高めましょうぐらいのことしか言えないみたいなので、深く考えるのはやめたのだが、とりあえず読んだものについてはまとめておくことにした。
 このエントリの前半はリンクの羅列ですが、後半はド素人が自分の大まかな理解を確認するために書いてるような感じなので、内容は信用しないで、専門家の説明を読みにいってください。*1


 まず、とにかく大変なことがおきたんですよということを説明している記事としては、↓これを読めば十分な気がする。

ウェブを襲った最悪のセキュリティ災害「Heartbleed」から自分の身を守る方法 | ReadWrite Japan
http://readwrite.jp/archives/6706

OpenSSLの「Heartbleed」脆弱性、一般ユーザーの自衛は困難 対応は長期戦か
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1404/10/news114.html

 次に、具体的に何が起きたのか、素人にもある程度わかりやすく仕組み的なことを含めて解説している記事としては、↓のものがわかりやすかった。2個目と4個目は、少し専門的だけど、全くわからないということはない。

OpenSSLの脆弱性で想定されるリスク - めもおきば
http://d.hatena.ne.jp/nekoruri/20140410/heartbleedrisk

Kazuho's Weblog: Heartbleed脆弱性と、その背後にあるWebアプリケーションアーキテクチャの一般的欠陥について
http://blog.kazuhooku.com/2014/04/heartbleedweb.html

まさに血を吹く心臓。ネット業界震撼の「Heartbleed」ってどんなもの? - GIZMODO
http://www.gizmodo.jp/2014/04/heartbleed.html

CVE-2014-0160 OpenSSL Heartbleed 脆弱性まとめ - めもおきば
http://d.hatena.ne.jp/nekoruri/20140408/heartbleed


 どのぐらい危ないかという点について、シマンテックが調査報告というかたちで現時点の見解を出していた。わりと楽観的な論調だ。

Heartbleed - 調査報告
http://www.symantec.com/connect/blogs/heartbleed-0


 で結局、一般ユーザーとしてできることはなにかと言えば、

まだ直っていないウェブサイトもあれば、元々壊れていないウェブサイトもあるので、「直したからパスワード変更してね」って言ってきたら変更してください。あと、悪い人が偽メール送ってきているので、メールで連絡してきたとしても、ブラウザのブックマークから開きましょう。
http://d.hatena.ne.jp/nekoruri/20140410/heartbleedrisk


 これだけのようだ。
 PWを変更したほうが良いサイトの一覧としては、↓これをみてる。

The Heartbleed Hit List: The Passwords You Need to Change Right Now
http://mashable.com/2014/04/09/heartbleed-bug-websites-affected/

Heartbleed bug: Check which sites have been patched
http://www.cnet.com/how-to/which-sites-have-patched-the-heartbleed-bug/

 
 
 とりあえず間違ってるかも知れないというか、たぶん正確ではないんだけど、イメージとしてわかった(ような気がする)のは以下のような内容だ。

  • サイトにSSLを導入するために広く使われてるOpen SSLというオープンウェアに、簡単だが致命的なバグが見つかった(SSLは、通信相手が信用できるかどうかの確認と、通信内容の暗号化に使われる仕組み)
  • 大手も含めてインターネットのサイトの3分の2ぐらいで使われているソフトなのでとても波及範囲が広い
  • 問題は2年間ぐらい放置されていたので、その間にいろいろ悪用されている可能性もあるが、実態はよくわからない。専門家にもわからないし、過去に遡って検証することもできない
  • 仕組みとしては……ユーザ側のコンピュータからウェブサーバに接続するときに、そのやり取りの前段で相手のサーバが生きてるかどうかを確認する手順(Heartbeat)があるのだが、確認結果が返ってくるときに、サーバのメモリが過去に処理したデータの残骸みたいなものがなぜか一緒にくっついてくるみたいな感じのバグである
  • Heartbeatは、データの塊をサーバに対して投げて、その塊がまるごと返される仕組み。その塊のヘッダ部分には、この塊が全体で何バイトなのかという情報が入っているのだが、このヘッダの情報を偽って大きめにしておくというのが、今回の脆弱性を突く攻撃の仕組みである。つまり、ウェブサーバ側がHeartbeatへの応答を返す際に、ヘッダの情報をみて自分のメモリの「ここからここまでを返す」という処理をしているため、ヘッダに書かれた大きさよりも実際の塊が小さかった場合、メモリに残っている塊以外のデータも一緒に返されることになる
  • 攻撃者は、このバグを利用して、ウェブサーバからデータをちょっとずつ盗むことができる
  • ウェブサーバのメモリに残ってるデータがランダムかつ断片的に流出する感じなのだが、何回でも繰り返せてかつ流出の記録が残らないので、同一プロセス(この「プロセス」というものの範囲は私は理解してない)内のデータであれば全て取得されてしまう恐れがある
  • つまり、攻撃用のプログラムで何度も操作を繰り返して、取得したデータを組み合わせれば、ユーザのID・PWだったりサーバ証明書(暗号化の鍵の役割を担っている)の情報だったりが盗みだされる可能性があり、結局「何がおきてもおかしくない」状況となっている
  • 具体的に何が漏れ得るかは、サーバが何をどう実装しているか…言い換えるとHeartbeatの処理を行うメモリが他に何の処理を行うようになっているかによるが、同じメモリで暗号を解く作業もは普通にやっており、サーバ証明書秘密鍵(暗号を解くための鍵)が流出する恐れがある
  • 悪用のパターンとして大きなものとしては、(1) 証明書(秘密鍵)をゲットした上で、あわせてパケットを傍受する仕組みを設ければ、ユーザがウェブサーバに送信してくる情報を全部盗み見ることができる、(2) ゲットした証明書を使って本物と区別が付かない(証明書ベースではブラウザが真偽を判断できない)偽サイトをつくることもできるので、そこにユーザを誘導して情報を入力させるフィッシング詐欺ができてしまう。
  • 他にもいろいろ悪用のバリエーションがあるんだろうけど私にはよくわからない。だがとりあえずやばいのはサーバ証明書秘密鍵が漏れるケースである
  • この騒ぎが起きて以降、世界中のクラッカーたちが、脆弱性が修正されていないサイトを探索して攻撃をかけまくっているw(過去2年間にこのバグを見抜いていた少数のクラッカーたちや、NSAなどは、既にいろいろゲット済みと考えられる)
  • 特定のサイトが脆弱性を抱えているかチェックするツールが色々公開されていて、URLを入力すると調べた結果を教えてくれるものや、プラウザプラグインで自動的に判定してくれるツールもある(上記のまとめ記事の中で紹介されてる)
  • 脆弱性を調べた結果を公開しているサイトもたくさん出てきているが、注意喚起のために重要な情報であるとともに、脆弱なサイトがどれなのかがわかることで、攻撃の呼び水になっているかも知れない
  • 大手のサイトは、AppleAmazonMicrosoftのように全く影響を受けなかったことを発表してるところもあれば、影響があったけどもうバグの修正済みというサイトがほとんど(?)である
  • じつはサーバーだけならまだしも、ルーターやスイッチなどの機器もOpen SSLをつかってるらしく、こうした個別の機器となると、脆弱性の把握と対策を組織的かつ網羅的に行うのも難しいっぽい
  • とにかく、「影響の範囲がめちゃめちゃ広い」「どんな実害が起きているか/起き得るかが専門家にもわからない」「短期的には解決不可能で、ハッカーの攻撃と情報漏洩がしばらく続いていく」「ユーザが自衛する方法はない」という、壊滅的な状態になっている


 対策は以下のような感じだ。

  • 対策としては、一般ユーザとしてはバグが修正されたことが発表されたサイトでのみ、PWを新たに変更すること。修正される前にPW変更しても、そのPWがまた流出する恐れがあるし、もともと修正の必要がなかったサイトならPWを変更する必要もない
  • ただし、複数のサイトで同じPWを使っていた場合は、「もともと脆弱性がなく、修正の必要がなかった」ことが明らかになっているサイトについてもPWを変更したほうが良い。たとえば脆弱性があったYahoo!から漏れたID・PWで、もともと脆弱性のなかったAmazonにログインされたりするわけなので
  • サービスの運営元から「脆弱性を修正したので、下記URLからパスワードを変更してください」みたいなメールが届いても、URLをクリックしてはいけない。今回は、クラッカー側が完璧な偽サイトをつくることができるから。PWの変更は、従来から使ってたブックマークなどからアクセスして行うこと
  • サイト運営者は、Open SSLのバージョンを更新したり、サーバ証明書(既に盗み出されている可能性があるので)を更新したりしているらしい
  • 大手じゃないサイト(中小のネットショップやwebサービス)で、丁寧な運営をしていなかったら、影響があったのか、修正されたのかすらわからないケースが多いと思うけど、そういうのは利用者側が努力しても無駄なのでたぶん諦めた方がいい。クレカ情報とか登録してたら、それも漏れてるかもしれないが、諦めて月々の明細に不正利用が含まれていないかを丹念にチェックすることとする


 で、今後、インターネットを利用する上で気をつけることとしては、

  1. 複数のサイトで同じPWを使わない
  2. PWは定期的に変更する(複雑なPWにすることよりも定期的に変更することのほうが大事)
  3. GoogleEvernoteDropboxなどのように、二段階認証を導入しているサービスでは、必ず二段階認証を有効にしておく
  4. クレカ情報や個人情報をむやみに登録しない
  5. 大手以外のサービスはなるべく使わない(こういう危機が起きたときにちゃんと対応してくれるかわからないので。人とカネに余裕がないと無理でしょ)
  6. 情報を登録したサイトはすべて把握しておく
  7. 今回のような事態は専門家ですら把握できてなかったのだから、インターネットでは全ての情報は漏れる恐れがあると想定して、最悪漏れても構わない情報以外は手元で管理する(危険度:ネット上>>>>ローカルの端末>>紙)
  8. セキュリティ関係のニュースは見落とさないようにする。今回もそうだが、ニュースになるとその時点から世界中のクラッカーたちがより一層ハッスルし始めるわけなので、そのタイミングで迅速にPW変更などの対策を打たないと、とても危険だと思う
  9. 素人レベルでいいから、インターネットのインフラやセキュリティに関してはなるべく勉強しておく。「SSL」とか「オープンウェア」とか言われて何のことか全くわからない状態だと、ニュースが流れてきてもヤバさのイメージすらできないと思う*2
  10. 技術に詳しい友人をもつ


 ぐらいか。


 あと蛇足ですが、その他の関心としては、システムが複雑になりすぎて人間の(集団としての)管理能力を超えるという事態はよくあることで「またそのパターンか」という話と、被害を実際に「経験」しないと個人としても集団としても学習は進まないんじゃないかというような話ですかね。
 前者の関心としては、金融取引の仕組みが複雑になった結果として20世紀には大恐慌、21世紀にはサブプライム危機のようなものが起きたことや、政治や文化まで含めたグローバル化が進んだことで20世紀には世界大戦、21世紀には大規模テロが起きるようになったことに似ていて、情報処理と通信の世界が複雑化したことで、これから何か破滅的な危機が起きてもおかしくないと思って心の準備をしておいたほうがいいんでしょう。
 後者の関心としては、今回のような危機が起きても結局、対策をしない個人や、対策をしないサイトはたくさんあるだろうし、制度づくりも十分には追いついてはいかず、結局は実害を伴いながらちょっとずつ前進していく感じなんでしょう。
 大恐慌や世界大戦を経たことで人類は、一応、社会を大規模にコントロールする知恵を少しは蓄えることができたわけですが、情報の世界ではそのときがまた来ていないのかも知れない。単なる技術の問題だけではなく、スノーデンが提起したような倫理的な問題もあるので、安定するには時間がかかるんでしょう。


 さらなる蛇足として、ITの世界で優秀な人材が、「質」「量」ともに、インフラやセキュリティ方面よりもアプリ・サービスの方面に流れてしまっているという可能性はないのかが心配ですね。IT業界のことはまったくわかりませんが、素人からみると、「ネットワークとか暗号化の仕組みに詳しいです」というより、「こんなサービス開発しました」のほうが格好いいような気がするので、もし人材(とくに若い世代の)がそっちに偏っているとすれば長期的にはネット社会の強靱性を損ねることにもつながるのかも知れません。
 単なる素人としてのイメージですが、ITのインフラ方面の話をする人って、年代が高い人たちが多いような気がするんですよね。以前、「90年代ぐらいのインターネット黎明期については、優秀な技術者がむしろインフラ方面に多かったんじゃないかと勝手に想像してるんですが、2000年代以降になってアプリやサービスがめちゃめちゃ儲かるようになると、若い世代の優秀な人材がインフラ方面に入ってこなくなったりしないんですか?」とITベンダーの人何人かに質問したところ、「よくわからんけどそうかもね」的な反応でした。どうなんでしょう。

*1:だったらアップするなとw

*2:そういえば私も、「Heartbeat」というサーバの死活監視の仕組みの存在(内容は理解してない)については、たまたま先週の金曜日に仕事で、ITベンダーの人に教えてもらったばかりでしたw。しかしそのおかげでたとえば、今回の問題が、SSLの接続が確立される前の段階で起きているバグなので記録にも残らずヤバイという話などがちょっとイメージしやすかったです。

Research Blogging——学術研究の業績をブログで広めるためのプラットフォーム

 Research Blogging(以下「RB」)という、「査読付きの学術論文を参照して書かれたオリジナルな意見であること」をルールとして書かれたブログ記事をネットワーク化する試みがあって、とても面白いので毎日チェックしています。


Research Blogging(http://researchblogging.org/)


 これは一言で言えば、学術研究の成果を一般にも分かりやすく紹介するようなブログ記事をまとめるためのプラットフォームです。自分の研究について宣伝するための仕組みではなく、ジャーナルを読んで面白いと思った論文を紹介して広めるための仕組みですね。
 数千のブログがRBに登録していて、記事数は数万にのぼり、かつ毎日どんどん更新されています*1
 ググってみたところ、RBについて日本語で言及している記事は全く見つからなかったので、どのようなサービスなのかをまとめておきます。あわせて、RBについて研究した論文も紹介しておきます。

Research Bloggingとは?

 RBのサイトに行って、たとえば「Social Science」というカテゴリを選択してみると、社会科学の分野で何らかの学術論文に言及しながら書かれたブログ記事が新しい順に表示されます。


http://researchblogging.org/post-search/list/tag_id/15 
f:id:midnightseminar:20140212043213p:plain


 このページは、RBに参加しているブロガーの投稿した記事をまとめているだけなので、記事をクリックするとそれぞれのブログサイトに飛んでいきます。
 RBに参加しているブロガーたちは、常にRB向けの記事を書いているというわけではなく、学術論文に言及する記事を書いたときのみ、その記事をRBに登録するためのパーツをブログ記事中に貼ります。そうすると、その記事がRBのシステムに捕捉されて、RBのまとめページに表示されるというわけですね。


 RBの記事は、査読付きの学術論文を参照・引用しながら記事を書くという一線を守ることで、ブログ記事の客観性とかクオリティが良い感じに担保されており、はてなブックマークとかDiggの人気記事を読んでいるより面白いと感じることも多いです。
 RBにブログ記事を登録する基準というのも定められています(リンク)。要するに、単なる引用みたいなしょうもないブログ記事ではなく、意味のあるオリジナルな意見が書かれた記事こそがRBのネットワークに登録される価値があるとされていて、酷い内容だとRBのネットワークから削除されることもあるようです。


 RBの記事を見ていると、たぶん研究者や大学院生などの専門家が書いているブログが多いんだろうと思われますが、科学雑誌の公式ブログみたいなのもけっこうRBに参加してるみたいで、むしろそういうやつのほうが更新が盛んだったりするイメージです。
 さすがにブログ記事だから、学術とは言ってもあまりマニアックな感じではなく、一般の人間にも分かりやすいように書かれているものが多いように感じますね。

 文化人類学、天文学、生物学、化学、コンピュータサイエンス、工学、環境、地理、健康、数学、医療、神経科学、哲学、物理学、心理学、社会科学、学問論、その他

 というふうに分野がわかれていて、それぞれの分野ごとのRSSフィード(リンク)も用意されています。私は「全てのトピックス」「心理学」「社会科学」「文化人類学」のフィードをRSSリーダに登録して購読してます。「文化人類学」はほとんど更新がなく、「社会科学」も更新頻度は低いですが、「心理学」は毎日新しい記事が流れてきます。


 RBの記事は非常に面白いんですが、英語の記事ばっか読んでると疲れるのでw、日本でも同様の試みが広まってほしいな〜と思っています。
 たとえば、はてなブログとかはてなダイアリーのユーザーの中には、もともと、大学院生とか研究者の人とかも多いという印象があるので、はてなのサービスとして、アカデミック寄りのブログ記事を集めて質を担保するような試みが行われると、たぶん読者として非常にハマると思うんですよね。実際、私がふだん読ましていただいているブログにも、論文をたくさん紹介しているものはあります(たとえばこのブログ)。


 はてブのホットエントリは、ネタ的に面白い記事は多いですけど、読者の中には「信頼できる記事」を求めるニーズもあると思います。
 はてブやTwitterで流れてくる記事というのは、要するに「みんなが面白いと言っている」という基準で選別されたものです。それとは別の基準で「読むに値する記事」を選別したい場合、今の日本語ネット空間だと、たとえばBLOGOSアゴラYahoo!ニュースの署名コラムがありますよね。これらは基本的に「信頼できる書き手」「面白いことが言える書き手」を集めることで、記事のクオリティが保たれているものと理解できると思います。


 一方RBは、「査読付きの学術論文を参照する」という基準によって記事のクオリティを保つ仕組みになっています。査読(審査)という過程を経て公開されているということは、その論文には専門家のチェックが入って、「科学的業績として意味がある」と認められているわけです。つまり極端にいうと、RBのブログ記事の内容がさほど気の利いたものでなくても、そこで参照されている研究自体は「価値があるもの」として学者のコミュニティで認められたものなので、少なくとも「根拠のある記事」であることは間違いないわけです。
 ほんとに「確かな根拠がある情報」を読みたいんだったら論文やジャーナル(学術誌)そのものを読めってなるんですが、それはその分野の専門家以外の人にとってはけっこうダルいわけでして、読者を選んでしまいます。学術論文を参照しながら分かりやすく解説したブログ記事を読んで「へ〜!」って言いたい(そして気になったら参照されている原著論文に当たることもできると良い)というニーズは、それなりにあるはずです。
 「書評」というのはブログの世界ではよくあるネタですが、それとはべつに「論文評」というジャンルを開拓し、しかもそれをエントリ単位で分野ごとにネットワーク化するような取り組みがあれば、便利かつ面白い仕組みになること間違いなしだと思います。


 実は、RBには日本語のブログ記事を登録することもできるので、べつに日本版の新たな仕組みの登場を待つまでもなく、アカデミック寄りのブロガーがみんなでRBを使えばいいとも言えると思います。
 私はべつに「ブロガー」ではないし「専門家」を名乗るほど何かに詳しいわけでもないですが、一応いまは大学院生の身分になったので、何かの論文を参照してエントリを書くこともあるかもしれないと思い、試しに登録してみました。
 ただ現在のところ、言語設定のリストを見ても「Japanese」は選択肢になく、「other languages」を選択して「Japanese」と入れるしかないですね。でもふつうに使えることは使えるので、日本でもRBの知名度が上がって、みんなが日本語のブログポストをRBに登録するようになっていけば、面白いと思います。

Research Bloggingのつかいかた

 RBがどんな機能を持っているのかは、↓に説明されていますが、これだけ読んでもよく分かりません。
 http://researchblogging.org/static/index/page/about
 なので、私も自分で実際に登録してみたついでに、利用の流れを簡単にまとめておきます。


 RBに参加しようと思っているブロガーはまずRBの事前登録ページ(リンク)へ行って、自分のブログを登録します。このとき、氏名やブログのURLの他に、自分の専門分野とか言語も設定することになります。
 登録は、フォームに必要事項を記入して送信すれば終わりなのではなく、RBの事務局側の登録作業を待たなければなりません。私が申し込んでみたら返事がくるのに2日ぐらいかかりましたが、ブログを一応事務局がチェックして、SPAMじゃないかどうかの審査ぐらいはされてるんですかね?
 日本語のブログを見て審査できるスタッフがいるのかどうか不明ですが。


 とにかく、登録が完了すると、RBのサイトにマイページができて、ログインができるようになります。
 ここからは、実際にブログ記事を書いて登録する手順です。


 RBのネットワークに登録してるブロガーは、面白くてぜひ他の人にもシェアしたくなるような論文をみつけたら、まずそれについて自分で考えたことなどをブログ記事に書きます。
 で、RBのサイトへ行って、↓の画面のような論文参照ツールを開きます(これは事前登録が完了すると使えるようになる)。


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 この論文参照ツールに論文タイトルなどの一部や、DOIなどの論文識別子を入れると、↓のように検索結果が表示されます。


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 検索結果から該当するもの(自分が言及しようと思っている論文のもの)を「Use Citation」で選択すると、↓のように、参照内容を編集する画面が表示されます。
 この編集画面の挙動をまだよく理解していないのですが、選択したものによって、自動で必要項目が入力されている場合もあれば、著者名から自分で入力しないといけない場合もあるようです。同じ論文で複数の検索結果が存在するのは、論文識別子の体系(DIO、PMIDなど)ごとに参照情報が生成されているからだと思います。
 なお、RBの検索システムが見つけてこられなかった論文に言及したい場合は、ふつうに著者名から打ち込めば良いようです。日本語の論文は今のところ、RBのほうから検索してもヒットしないので、日本語でイチから記入するしかないんでしょう。


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 必要事項を一通り入力して、「Generate Citation Code」というボタンを押すと、その参照情報をブログに表示するためのソースコードが与えられます。


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 このコードを、自分のブログ記事の中にコピペして、ブログを公開します。すると、そのブログ記事が書かれたことがRBのシステムに把握されて、RBのインデックスにブログ記事が登録され、RBのフロントページにも最新記事として表示されます。
 その記事がもしSocial Scienceのカテゴリにひもづけられたものであれば、そのカテゴリのRSSフィードを購読している人のRSSリーダにも、もちろんその記事が流れていきます。


 さて、ちょうどRBの意義について論じた論文があったので、今回はこれについて言及してみようと思います。Fausto, S.らの“Research Blogging: Indexing and Registering the Change in Science 2.0”という論文で、RBの仕組みを解説するとともに、各種データをまとめている、2012年の論文です。
 上記ツールを使うと、↓のような埋め込みようパーツ(コード)が生成されました。左の画像は単なるRBの宣伝用ですが。論文のPDFが読めるページ(リンク)のURLも入力したのですが、反映されませんでした。やはりまだ挙動がイマイチつかめません。


ResearchBlogging.org

Fausto S, Machado FA, Bento LF, Iamarino A, Nahas TR, & Munger DS (2012). Research blogging: indexing and registering the change in science 2.0. PloS one, 7 (12) PMID: 23251358


 さて、この論文によると、RBに登録されている記事の分野としては生物学が一番多く、医療、心理学、神経科学が続いています。ブログ言語は圧倒的に英語が多く、登録ブログ数も1000を越えていますが、他の言語はブログ数が数十程度しかなく、ぜんぜん盛り上がってない模様です*2
 参照されている論文のうち、オープンアクセス(ネット上でタダでPDFをみれる)の論文の割合はWikipediaよりも高いらしく、ブログ記事からのリンクを辿ることで原著論文を容易に当たることができるものが多いのがRBの特徴だと言っています。
 また、学術誌における引用数などをもとに論文の影響力を算出している例としてJCR(Journal Citation Reports)というのが取り上げられており、その影響力指標を、RBにおける引用数や閲覧数と比較しているのですが、両者の間にはあまり強い相関がないというデータが紹介されています。これはつまり、RBで人気のある論文と伝統的な学術誌の世界で人気のある論文の傾向は異なっているということで、ブログ空間では伝統的な学問のコミュニティとは別の観点から研究業績が評価され得ることを示していると著者たちは言っています。


 ググったり論文検索をしてみると、RBとは関係なく、「科学の業績をブログという媒体をつかっていかに広めていくか」「ブログを、研究の質の向上にどう生かしていくか」みたいなことは、けっこう議論されているようですね。私が知らないだけで(というか調べてすらいないですが)、RBに似たプラットフォームが他にもあるのかもしれません。


 いずれにしても、こんな感じで機能するRBのような仕組みが、日本でも流行ったらいいな〜と思います。私は何かを書くというより、読者として非常に期待しますw
 誰か影響力のある人がRBを紹介して、誰かがRB公式サイトの日本語化対応を行えば、一気に広まりますよねたぶん。内容的にはぜったい面白くなると思うので。


 【投稿後追記1】
 上記のように、RBのコードを挿入したエントリを公開すれば速やかにRBのシステムに把握されてはいるようですが、試しにこのエントリの登録を試みてステータスをチェックしてみたところ、「インポートはされてますが、スキャン中です」という状態が丸2日続き、その後に無事RBのフロントページに掲載されました。この「scan」が何を意味するのかはイマイチ不明ですが、もし内容のチェックまで行っているとすれば、日本語だから時間がかかっているのかも知れません。


 【投稿後追記2】
 ↓のように、「古いブログ記事をインポートする」という機能があります。


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 たぶん、RBのシステムはRSSフィードで更新情報をチェックしているので、自動で読み込んでくれるのは新規に起こしたエントリだけであり、昔書いたエントリでRBに載せたいものがある場合は、この機能を使えということでしょう。
 ちなみに私は、このエントリがなかなかRBのフロントページに反映されなかったので、インポート画面にこのエントリの情報を入力してみました。すると「そのエントリはすでにインポートされてます。いま、そのエントリをスキャンしてる最中なので、もうちょっと待って下さい」というエラーメッセージが出ました。


 【投稿後追記3】
 ↓のとおり、無事、掲載されています。


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 数行で記事のサマリが表示されていますが、これは上記のとおり私が「古い記事のインポート」画面で入力した概要情報です。日時設定も、「古い記事のインポート」画面で入力した情報が反映されています。
 私が「古い記事のインポート」画面を使ったのは、上記のとおりイレギュラーな動きであり、通常はサマリを設定はしないので、このフロントページには単純に記事の最初の数行が表示されるようです。


《2016年6月19日追記》
RBから日本語のカテゴリが消えたようです。
なので日本語の記事はポストしても反映されない気がします。


《2018年6月2日追記》
RBの最終ポストが2017年6月で、それ以降新規ポストがないですね。ご臨終か。

*1:新着記事は全体で1〜2時間に1本ぐらい

*2:でも、その言語で書かれたブログのうち質の高いものが参加しているのであれば、十分面白いのかもしれない。

“競馬の神様”・大川慶次郎氏の偉大さについて考える——90年代の競馬を振り返って

 
※ひと昔前の競馬について書きますが、当時はまだ馬齢を満年齢ではなく数え年で数えていた時代で、私のなかでは未だに「クラシック」と言えば「4歳」なので、このエントリも当時の表記に合わせて書いています。


競馬を全然みなくなった

 今日、たまたまYouTubeでみつけた↓の動画に見入っていました。やはり実況はフジテレビ*1のやつがいいですね。YouTubeだと、フジテレビに削除されるからなのか、あまり見つからないんですけど。



名馬たちの圧勝劇 - YouTube


 上の動画は、過去20年ぐらいのスターホースたちが「最大着差」をつけて勝ったレースを集めているので、G Iの前哨戦となっているG IIレース等が多いんですが、ちょうど私が競馬を見ていた時期のレースがたくさん収録されていてとても懐かしかったです。
 私は最近まったく競馬を観ないのですが、観ていた当時は普通の人よりは熱心で、競馬場に通っていただけでなく少なくとも重賞レースについてはすべてビデオに録画していたし、『週刊競馬ブック』と『ギャロップ』を買って巻末に載っているラップタイムや展開などのデータを分析したりしていたので、G II等でも割と鮮明に覚えています。
 ちなみにギャンブルとしての競馬が好きだったわけではなくスポーツとして観戦していたので、勝ったとか負けたというのはあまり記憶に残っていません。そもそも、競馬をみていた時期の半分以上は未成年だったし。私の周囲では叔父が熱心な競馬ファンでしたが、彼も馬券は買ってなかったですね。


 ナリタブライアンがクラシックに出ていた94年ぐらいから競馬の記憶がありますが、初めて競馬場に行ったのは96年の桜花賞だったと思います。花見を兼ねて、うちの家族と、近所の知り合いの家族で行ったような気がします。*2
 その後、たぶん2003年ぐらいまではある程度競馬を観ていた記憶があるんですが、2000年以降はさほど熱心でもなくなり、2004年とか2005年頃になるとほとんど競馬を見なくなってしまって、今は全く観ません。なので、ディープインパクトとかウォッカとかオルフェーブルは、名前しか知らないです。


 さて、あんなに熱中していたのに、なぜ全く観なくなったのか? 私個人の話なんてどうでもいいんですが、その理由を思い出してみることで、逆に競馬の面白さについて考えることもできそうです。
 実際のところ、なんとなく観るのをやめていったという感じではあるので、理由というほどの理由は思い出せないですし、単に飽きただけと言った方が適切かも知れません。ただ2007年頃に、当時まだ熱心に競馬をみていた友人と、

私 「スペシャルウィークのあたりを境に、なんか好きになれる馬がいなくなったんだよなぁ」
友 「たしかにあの後、スターホースっていなくなったよね」


 というような会話を交わした記憶はあって、これは確かに理由としてはあると思います。
 競馬における「時代」を思い出すには、有馬記念の人気投票とか、年度代表馬の一覧表をみるのが分かりやすいですね。↓のとおり表にしました。ちなみに赤字は、私が好きだった馬です(笑)。この表の作り方だと、サイレンススズカが入ってこないのが不満ですが。(98年の有馬記念の人気投票に、「サイレンススズカ」って書いた人たくさんいただろうなぁ・・・)


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 私はじつはスペシャルウィークはあまり好きではなかったし、その後のテイエムオペラオーもイマイチ好きになれなかったので*3、結局1998年あたりをピークに、私が「スター」と思える馬はいなくなったことになります。
 ちなみに1998年というのはけっこうすごい年で(1998年の日本競馬 - Wikipedia)、

  • サイレンススズカの快進撃と故障・死亡(未だに最も好きな馬)
  • エルコンドルパサーが4歳でジャパンカップを制する(個人的には、歴代最強馬の1頭だと思っている)
  • タイキシャトル強すぎww
  • 1年前には「怪物」と呼ばれていたものの、長期休養と復活後の不調から忘れられていたグラスワンダーが、有馬記念を制する

 と、私の好きな馬たちが活躍していたので、とても印象に残っています。


 この頃話題になっていた馬たちには強烈な個性がありました。
 エアグルーヴは牝馬のくせに強すぎて笑ってしまったし、サイレンススズカほど美しい馬は結局ほかに見ることがなかったし*4、タイキシャトルは短距離馬で初の年度代表馬となったし、グラスワンダーは左回りのコースでは全く勝てないのに右回りだとスペシャルウィークやエアグルーヴにも負けないという不思議な馬だったし、エルコンドルパサーはクラシック2冠馬のセイウンスカイを差し置いて最優秀4歳牡馬に選ばれて、翌年には日本で1走もせずにスペシャルウィークを差し置いて年度代表馬に選ばれるという異例の存在でした。*5


 こういう個性のあるスター馬が、2000年頃から(一時的に?)少なくなってしまって、勝負が全体的に面白くなくなってしまったのは確かなんですよね。私は2003年以降は競馬をほとんどみていないので、その後のことは何も知りません。けっこう面白くなっていったのかも知れないので、2000年代以降の競馬の全てをつまらないと言えるわけではないし、今熱心に競馬を観戦しているファンの人に異論を唱えたいわけは全くありません。


 98年か99年頃を境に、少なくとも一時的に魅力的な「スター馬」がいなくなったのは、もちろん単なる偶然かも知れません。ただ、もしかすると、サンデーサイレンス産駒があまりにも強すぎて毎年似たような馬が勝っているという感じになったのが原因かも知れないし、社台ファームの馬ばかり勝つようになって面白くなくなったってのもあるかも知れません。
 あと、伝統的にはクラシックや長距離戦で勝てる馬が「名馬」とされてきて、そういうレースの「格」が高かったわけですが、エルコンドルパサーのような外国産馬やタイキシャトルのような短距離馬も「やっぱすげーじゃん」みたいな感じになってきたのが当時の流れでした。そうなると、「馬の凄さ」と「レースの格」が合わなくなってしまって、日本の競馬が矛盾を抱え始めた時期だったのかも知れないですね。
 エアグルーヴなんて普通に牡馬より強くてびびりましたが、そういうふうに、既成概念が崩れていろいろカオスになり始めていたのが当時ですね。「クラシック重視」「中長距離重視」「牡馬重視」の伝統的な価値観からすると脇役であったはずの馬たちが、競馬を盛り上げるようになってきた時代だったわけです。

競馬をみなくなった、もう一つの理由

 で、今日ふと冒頭の動画をみていて思い出したのですが、当時私は競馬雑誌とか競馬新聞を見るときに、競馬評論家の大川慶次郎さんの解説をとても熱心に読んでいました(冒頭の動画に大川さんは出てこないので関係ないんですが、なぜか思い出した)。10年以上前に亡くなっているので、最近競馬を始めた人はご存じないと思いますが。
 大川さんは、1日の全てのレースの予想を的中させる「パーフェクト予想」を何回か成し遂げて、「競馬の神様」と呼ばれるようになった人です。1960年代から競馬解説をやっていたので、競馬界の生き字引のような人でもありました。没後何年も経っても、「大川さんならどう予想したか?」が話題になるような、希有な人です(参考記事1参考記事2)。
 たしか、日刊スポーツには必ず大川さんの予想と解説が載っていたし、ダイヤルQ2みたいなやつで競馬の予想をしている番組があってそれも聴いていたしw、大川が出版した本も何冊か読んでいました。


 大川さんはフジテレビの「スーパー競馬」のコメンテーターをやっていたので、関東の人は毎週大川さんの解説を聴いてたんでしょうけど、私は関西に住んでいました。関西テレビ(フジテレビ系)の「ドリーム競馬」は基本的に関西のレースをメインで放送するもので、コメンテーターも違うので、私はテレビではあまり大川さんのコメントを聴くことができませんでした。関東側のメインレースのパドックとレースの中継時だけ、東京側のスタジオに切り替わるので、そのときだけ大川さんがテレビに出てくるという感じ。


 その大川さんが死んだのが1999年の有馬記念の少し前なんですが、ちょうどその頃を境に競馬が面白くなくなったっていう実感があることに、今日気づいたわけです。
 大川さんの論評は、どの馬が勝つとか負けるとかいう単純なものではなくて、とても人間味がありました。というか、馬を人間みたいに見立てて、好きだの嫌いだの、感謝するだの申し訳ないだのと言っていたのが面白かった。後述しますが、馬を擬人化したような大川さんの物言いが、競馬を「物語」に仕立ててくれていたんです。


 ウィキペディア(大川慶次郎 - Wikipedia)を見るとエピソードがいくつか載ってます。

大川は自身の見解が違った場合、見解が誤っていたことを認める性格であった。オグリキャップのラストラン有馬記念ではオグリキャップは限界などと話していたが、レース後、スーパー競馬の解説席からオグリが勝利したことについて「私などはいの一番にオグリへ謝らなければならない」と自身の見解が誤っていたことを認めた。

晩年はエアグルーヴが好きで、エアグルーヴが牝馬ながら秋の天皇賞を制した際には「この馬は普通の牝馬じゃないですよ。和田アキ子さんですよ」と絶賛した。エアグルーヴの引退レースとなった有馬記念ではオグリキャップのときのような後悔はしないと、ピークの過ぎたエアグルーヴを絶賛し、敗北後も後悔はしていなかった。


 とかね。(後述の動画に、まさにこの「オグリに謝罪」の場面が出てきます。)
 この、オグリキャップの有馬記念は、大川さんのエピソードの中でも一番有名なものです。多くのファンに愛されていたオグリキャップが、「奇跡の復活」を遂げて日本中が涙したレースでしたが、大川さんはもともとオグリをあまり高くは評価しておらず、このときもメジロライアンを本命に推していた。そして最後の直線でオグリが抜け出してきて、いよいよ盛り上がってきたところで、大川さんが実況のアナウンサーの声を遮って「ライアン!ライアン!」と叫んでいるのがテレビで流れたというエピソードですね。私はそのころ小学生だったので、生では見ていませんが。


 今でも思い出すのは1999年、スペシャルウィークが大活躍していたときの評論です。大川さんはスペシャルウィークが好きではないと言っていて、私もそうだった。理由も同じで、あの馬は大きい方ではあったけど細く見えることが多く、特に前からみると馬体がすごく薄くて、なんか貧弱だったんですよね。大川さんは割とガッチリした馬が好きだったと思います。私も、強い馬のイメージと言えば、エルコンドルパサーみたいなパワフルな馬でした。
 ところがスペシャルウィークは、春の天皇賞で勝ち、宝塚記念ではグラスワンダーに負けたものの秋にはまた天皇賞を勝って、さらにジャパンカップも制しました。大川さんは、秋の天皇賞もジャパンカップも、スペシャルウィークは無印。外すにしてもこれはあまりにも極端で(春・秋の天皇賞を連覇した馬をジャパンカップで無印にするとかw)、なんかこだわりのようなものが前面に出ていたんでしょうね。


 そして迎えた暮れの有馬記念。この有馬記念の直前に大川さんは倒れて帰らぬ人となったので、最終的な予想は分かりません。しかし2週前の時点で大川さんはグラスワンダーを推していて、これが「生前最後の予想」とされ、しかも的中したことが有名になっています(大川慶次郎 - Wikipediaにも書いてある)。
 ただ、どの時点での発言だったか記憶が定かではないのですが、「私はスペシャルウィークは好きではないし、良い馬だとは思っていない。だけどさすがに、結果的にここまで勝っている馬には、敬意を表さなければならない」みたいなことを言っていたことのほうが印象に残っています。本命はグラスワンダーで、たぶん生きていたらスペシャルウィークに△ぐらい打つことにしたんじゃないかという記事が、スポーツ紙に載っていたと思います。*6


 探したら、その有馬記念の2週前に放送された「スーパー競馬」の動画がニコ動にありました。

 
 大川慶次郎、最後の予想。 ‐ ニコニコ動画:GINZA


 この中でも、結論としてグラスワンダーを推していますが、天皇賞(秋)とジャパンカップでスペシャルウィークに印を付けなかったのは自分の「思い違い」だったと認めてますね。

競馬に「物語」を与てくれた人

 Wikipediaを見ていても、大川さんは理性より感情に従って競馬に取り組んでいた(と言うと言いすぎだろうけど)感じがよく出ている(笑)。彼は、優等生的に勝ち負けを予想をするだけの記者ではなく、競馬というスポーツに「物語」を与える評論家だったんです。
 その大川さんが死んでから、私にとって競馬というスポーツが、物語としての面白みを失ってしまったような気がします。大げさなようですが、というか実際少し大げさに言ってはいるんですが、私にとって競馬はやはり、大川さんという「監督」を通してはじめて意味のある「物語」として結実する、ドキュメンタリー作品のようなものだったわけです


 たった1人のコメンテーターにそんなに依存するのもおかしいとは思うのですが、その理由について考えておくことは逆に、「○○評論家」と言われる何かと中途半端な立ち位置の人たちが生み出している価値を理解するための、一つのヒントになるような気もします。
 大川さんの場合は、というかさらに限定して言うと「私にとっての大川さんの評論」の場合は、それが競馬に「物語」を与えてくれるというところに価値がありました。たまたまですが、私はいま大学院で「物語」型の情報というものが人間の心理に与える影響の研究をしています。物語とはなんぞやという定義みたいなものについても、割と細かく先行研究を調べた上で自分なりの見解もありますが(そもそもそんな先行研究がたくさんあるということを初めて知ったときは驚きましたが)、ここではそんなややこしい話をしたいのではなく、もっと単純である意味では馬鹿馬鹿しい話です。


 先にも言ったように、大川さんの物言いには、馬を「擬人化」するようなところがありました。馬があたかも人物のように扱われるところがあって、私の頭の中では、そんな大川さんによる擬人化を経ることで、競馬という世界が物語的に構成され易くなっていたような気がするのです。これについては、暇ができたら大川さんの過去の著作を漁って、きちんとまとめたいような気もしますが。


 いま手元にある『大川慶次郎 殿堂馬を語る』という本をパラパラめくってみると、たとえばトウカイテイオーについて、

 この2回目の有馬記念のレース前、私はフジテレビのアナウンサーの横にいて、
 「今日のトウカイテイオーは違いますね。『ああやっと芝の上を走れる』という感じがします。喜びに満ちた良い返し馬をしていますよ」
 と言いました。
 (中略)
 あとで「あの言葉はよかったね」と多くの方に言ってもらったけど、実際あの返し馬は、本当にすばらしかった。トウカイテイオーがサラブレッドとしてレースに走れることの無上の喜びに浸っているようで、実に印象的でした

 という話が載っていたり、ナリタブライアンについて、

 6歳の阪神大賞典は勝つことは勝ちました。マヤノトップガンと鎬を削るマッチレースになって、平成の名勝負だと言われているけれど、私は「平成の名勝負は?」と聞かれたときに、あのレースを挙げるつもりはありません。というのも、並んでゴールしたレースを挙げるのは、ナリタブライアンに気の毒すぎると思っているからです。先述したとおり、ナリタブライアンは、後続を何馬身も離してゴールするのが本来の姿であって、集中力を欠いて。体にどこか悪いところがあるから、ああいった競馬をするんです。あれを平成の名勝負だという人は競馬を、といって悪ければ、ナリタブライアンを知らない人だと私は思いますね。

 と語っていたりします。


 YouTubeに「スーパー競馬」の中での追悼映像も上がっていました。(上述の、「ライアン!ライアン!」「私などは、いの一番にオグリに謝らなければいけませんねぇ」も出てきます。)
 

  「スーパー競馬」さようなら大川慶次郎 - YouTube


 この動画に出てくる大川さんへのメッセージの中で、すでに他界した名馬を挙げて、

もう、ライスシャワーには会われましたか?
ナリタブライアンは、相変わらずですか?
サイレンススズカは、どうですか?

きっと今頃、天国でみんなに迎えられて、あなたは思い出話に花を咲かせていることでしょうね


 と言っている箇所があるんですが、たしかに大川さんは馬を人間の友達みたいに評する人だったので、死んだ後に「天国でみんなに迎えられて」という表現がとても似合います。
 そういえば昔、『みどりのマキバオー』というとても感動的な競馬マンガがありました。


みどりのマキバオー (1) (集英社文庫―コミック版)

みどりのマキバオー (1) (集英社文庫―コミック版)


 このマンガでは、馬がみんなしゃべるんですよね。だから全然リアルじゃないんですが、やはり馬がしゃべった方が、競馬は面白い物語になる。
 で、これはマンガだけではなく実際の競馬にも言えることで(なんかヘンな話ですが)、大川さんの競馬評論というのは、マキバオー的世界観で競馬を味わうことを可能にしてくれる面があったわけです。大川さんの頭の中で馬がしゃべっていたのかというとさすがにそんな空想家じゃないことは分かっていますし、大川さんもいつも明示的に擬人化していたわけでもなく、言葉の端々にそういう感じがうかがえたという程度なんですが、喩えていうとそういうことです。


 他のスポーツであればプレイしているのは人間であって、彼らが自分でしゃべりますから、スポーツを物語的に捉える*7のもそんなに難しくないような気がします。しかし馬はしゃべらないですからね。騎手や調教師はしゃべりますが、やはり主役は馬ですから、主役がしゃべらないというところにエンターテインメントとしての競馬の弱みがあるとも言える。


 私の場合は、大川さんの評論を通じることで、競馬のレースを「人間」が演じる物語のように味わうことができていた面がある気がします。大川さんが積極的に競馬を物語化して解説していたかというと、そんなこともなく、繰り返しになりますが「言葉の端々にうかがえる」程度のものでした。明示的に、競馬を物語風に喩えるライターならむしろ他に一杯いたと思います。JRAの「優駿」という雑誌には、そういうエッセイとかドキュメンタリー的な記事が色々載ってましたし。
 しかし大川さんの言葉というのは、明示的に「物語化」をしていないのに、絶妙に馬を身近に感じさせてくれるところがありました。馬が、「知り合いの知り合い」みたいに思えてくるんですよねー。私はべつに大川さんの友達でも何でもありませんが、喩えて言うと、「そういえば俺の知り合いで面白い奴がいて……」としゃべる友人の話を聞いているような感じだったのです。
 その大川さんが死んでしまって、競馬が何か無機質な、単なるゲームのように思えてきた面があったような気がします。あくまで私の場合はということですし、ちょっと誇張が混じった話でもあるのですが。


 ゲームで思い出しましたが、私が本格的に競馬を見始めたのは、スーパーファミコンの「ウィニングポスト 2」というゲームをやってからでした。「ダービースタリオン」もやりましたが、私はウィニングポスト派です。
 ダビスタは、ひたすら「最強馬」を作り上げるために血統や調教を工夫していく、終わりなき戦いです(少なくとも当時はそうだった。今は知らん)。ウィニングポストはそれとは対照的で、二十代で馬主になって、50年間の馬主生活を歩んでいくという、ストーリー性に重きを置いたゲームでした。私はやっぱり、ストーリー性があって、終わりのあるゲームのほうが面白く楽しめましたし、競馬というものに感情移入するきっかけを与えられたと思っています。


 ウィニングポスト的ストーリー性に惹かれて競馬を始めて、大川慶次郎さんの評論から「マキバー的世界観」を得て競馬を楽しんでいたというのは、あくまで私個人の場合です。しかし多くの競馬ファンがそれぞれに、競馬の「物語化」の方法を持っていると思います。そしてその物語化が何かの拍子に途絶えてしまったときに競馬から離れていくというのは、私以外でもあり得るパターンなんじゃないでしょうかね。そして、物語化を可能にしてくれていたものの偉大さに、後から気づくんだと思います。

メモ:大川さんの競馬評

 最後に、大川さんの競馬評で今でも印象に残っているものを箇条書きで挙げておきます。引用ではなく、あくまで私が記憶している「趣旨」ですが。

  • ミホノブルボンは、結局短距離馬であったことと、無理な調教で引退が早まってしまったために歴史の上ではあまり目立たないが、史上最強馬の1頭である。
  • ナリタブライアンは、皐月賞3馬身半、ダービー5馬身、菊花賞7馬身という凄まじい勝ち方から、歴史的な名馬だと言われているが、10年先輩のシンボリルドルフの完成度には達していない。そりゃ同世代の馬よりは強いんだけど、ナリタブライアンは馬体もさほど美しくないし走り方も綺麗ではない。ただ、気力がものすごいから、いつも全力で走っていて、だからああいう圧勝劇になる。
  • ナリタブライアンとマヤノトップガンの阪神大賞典は、たしかに見かけ上は4コーナーからゴールまで馬体を接してのデッドヒートで、歴史的な名勝負だと言われているが、あれはブライアンが本調子ではなかったからああいうレースになっただけであって、本来であればブライアンが圧勝しているはず。
  • ナリタブライアンが股関節を故障したあと、復帰しても今ひとつ活躍できなかったのには理由がある。ブライアンの強さの本質は気力であって、他の馬ならありえないぐらい全力で走るというところにあったのだが、股関節を故障した結果、身体を全力で使うことにおびえるようになってしまった。だから怪我が一応治っていても、ブライアンは本気で走っていない。全力で走っても大丈夫なのだということを教えてやるために、プール調教をやった方がいいと調教師に言ってやったのだが、ぜんぜん言うことを聴かない。*8
  • マヤノトップガンをあまり評価しておらず、サクラローレルよりも遙かに格が落ちるとみていた。G Iをいくつも勝っているが「運」だと言っていた。
  • バブルガムフェローはルドルフ級*9
  • (5歳時のタイキシャトルについて)タイキシャトルは確かに短距離馬だ。しかしこれだけの圧倒的な勝ち方をしていて、どこに限界があるのか想像もつかない馬だから、最後はスプリンターズステークスではなく有馬記念に出走すべきなのではないのか。この馬がマイル以上の距離を走るところをみてみたいし、ファンも大いに盛り上がるはずだし、なによりこの馬であれば2500mでも良い勝負ができるはずだ。*10


 ついでに。

 f:id:midnightseminar:20140126041100j:plain

 他にも色々読んだと思いますが、とりあえず今手元に残ってたのはこの3冊だった。

*1:今は知らんけど、私が見てた頃は、関西では「ドリーム競馬」、関東では「スーパー競馬」という番組名。

*2:たしかエアグルーヴが熱発かなんかで出られなくて、ファイトガリバーが勝った桜花賞ですね。ちょうど、翌週の皐月賞も、たしかバブルガムフェローとダンスインザダークが出られなくて、イシノサンデーが勝ったんでした。その前の月には、ナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎打ちとなった有名な阪神大賞典がありました。

*3:スペシャルウィークみたいな細身の馬は好みではなかったです。私の中での「強い馬」のイメージに合わなかった(笑)。その後のテイエムオペラオーも、あれだけ勝ちまくったのは同世代に強敵がいなかったからと思えてしまって、私の中では「スター」というイメージはないのが正直なところです。

*4:4歳の時の神戸新聞杯で初めてサイレンススズカを生で見た。明らかに太めで出てきていて、結局勝てなかったのだが、レース前にパドックを歩いている様子をみて涙が出るほど感動してしまった。馬体も美しいんですが、なんというか身のこなしがあまりにもしなやかでバランスが取れているから、波紋を一つも残さずに水面を歩いているような感じで、地面に脚が着いているということを全く感じさせない、不思議な馬だった。エアホッケーのパックみたいに、摩擦ゼロで滑っていく感じ。

*5:ちなみに、YouTubeに動画が上がっている「時代を彩った名馬たち」という番組(http://www.youtube.com/watch?v=Q10UNDoXGlY)に「競馬関係者100人が選ぶ名馬ランキングというのが出てくるが、それによると1位ディープインパクト、2位オグリキャップ、3位サイレンススズカ、4位エルコンドルパサー、5位シンボリルドルフ、6位ミホノブルボン、6位ダイワスカーレット、8位ウォッカ、8位テンポイント、10位ナリタブライアン、となっていた。サイレンススズカとエルコンドルパサーがシンボリルドルフより上にくるとは……。ちなみに、「ファン100人が選ぶ名馬ランキング」は、1位ディープインパクト、2位トウカイテイオー、3位オグリキャップ、4位ブエナビスタ、5位シンボリルドルフ。

*6:当時の日刊スポーツでは、大川さんが推す馬を4頭挙げて、その4頭のボックス買いをしましょうという連載記事があって、基本的に大川さんの予想は毎回◎○▲△の4頭だけだった。

*7:人間は多くの物事を「物語」風のフォーマットに当てはめて理解しています。心理学で「スキーマ」と呼ばれる概念がありますが、あれは一般的すぎてべつに「物語」に限られない。しかしもっと限定した意味で「物語」フォーマットってもんがあるんだという議論をしてる人たちもいるんですよね。

*8:よく分からないけど、プールは股関節も大きく使うので、プール調教すると馬が「思いっきり動いても大丈夫なんだ」ということに気づくのだと大川さんは言っていた。

*9:最終的な評価はそんなに高くないと思う。天皇賞かジャパンカップの時に、仕上がりが良くてパドック解説で「ルドルフ級」と言っていたが、負けた。

*10:当然シャトルは、マイルCSのあと、1200mのスプリンターズステークスに出走。圧勝するはずが原因不明の3着。

Rの指数表示はどこまで回避できるのか【結果的に意味がなかったエントリ】

【追記】本文は読まず、コメント欄から読んで下さい。

 私は統計も数学もあまり知らないしプログラミングはまったくの素人ですが*1、統計ソフトの「R」というやつがちょっと面白いので使っています。

 で、Rで桁数の大きい数値を表示しようとすると、指数表示になってしまうのがウザいと思いました。

> 1000000000 #10億
[1] 1e+09


 みたいな感じです。まぁこれはExcelでもよくあることで、べつに指数表示になっていても単に数字を見るだけなら構わない場合もあるんですが、計算の結果出てきた数値を1の位までコピペしてどっかに貼りたい時とかもあるわけです。


 で、ネットで調べるとこれは一応回避する方法があって、options()関数にscipen=数値という引数を指定すればいいらしいということが分かりました。つまり、

> options(scipen=10)
> 1000000000 #10億
[1] 1000000000


 というふうに固定表示ができるわけです。ちなみにscipenのデフォルト値はゼロだそうです。
 他に、桁数の表示的なもので困ることがあるのは、小数の有効桁数ぐらいですかね。

> pi #円周率
[1] 3.141593


 みたいな感じになるんですが、有効数字についてはdigitsという引数(デフォルトは7らしい)があるので、

> options(digits=22) #22が上限
> pi
[1] 3.141592653589793115998


 というふうにすることができます。


 ところで、"digits"は、指定した値がそのまま有効桁数になるので分かりやすいです。しかし、さっきの"scipen"のほうは、どのぐらいの値に設定すれば、どのぐらいの値まで指数表示を回避できるのかというのが、よく分からない。
 各種解説サイトをみても、「scipenの値を大きくしておけば、指数表示されにくくなる」みたいに、曖昧に解説されているだけです。

scipenに正の整数を指定し、その値が大きいほど桁数の大きな数値でも指数表記を回避しやすくなる。一方、負の整数を指定すると指数表記になりやすくなる。


http://rstudio-pubs-static.s3.amazonaws.com/724_9a4767462a12489ba2d0fe07351f62c5.html
http://stat.ethz.ch/R-manual/R-patched/library/base/html/options.html

scipen を変更することで指数部分に表現しなおされる基準の桁数を変えることが出来る.デフォルトの値は 0 で,値を増やせば基準の桁数が増える.


http://cse.naro.affrc.go.jp/takezawa/r-tips/r/11.html


R1.8.0のリリースノートの粗訳というページをみてみると、

options("scipen")は,数値を固定小数点表示するか指数表示するかを,ある程度ユーザが制御できるようにする(David Brahmの貢献による)。(中澤注:R-Announceに流れたメールではoption("scipen")となっていたが,明らかにtypoである。helpによると,scipenは整数値で指定し,数値を固定小数点表示か指数表示かを決めるときのペナルティとして使われる。正方向だと固定小数点表示されやすくなり,負方向だと指数表示されやすくなる)


http://minato.sip21c.org/swtips/R180.html


 と解説されてました。「ある程度」て。
 ちなみに実際には、後述するようにscipenに小数の値を入れても機能します。


 で、Yahoo!知恵袋の力によって、10の累乗を計算していく分には、たとえば

 options(scipen=x)

 とした場合に

 10^(x+4) ・・・固定表示
 10^(x+5) ・・・指数表示

 となる単純な関係があることがわかり、

> options(scipen=18)
> 10^22
[1] 10000000000000000000000


 まではこのとおりに動いてくれます。
 桁をこれより1つ大きくしようとすると、

> options(scipen=19)
> 10^23
[1] 99999999999999991611392


 となってしまって、そもそも数値の表示そのものが崩れてしまうようです。Rの、ソフトとしての限界なんでしょう。
 また、よく分からないのが、たとえばscipen=10なら16桁の数字はすべて指数表示になってしまうのかというとそうでもなくて、

> options(scipen=10)
> 10^15 #16桁
[1] 1e+15
> 5555555555555555 #16桁
[1] 5555555555555555


 みたいなことも起きるので、「桁」という概念はあまり関係ないのかも知れません。
 さきほど引用した解説サイトの一つは、

細かいことは考えずに options(scipen=100) にしている。


http://rstudio-pubs-static.s3.amazonaws.com/724_9a4767462a12489ba2d0fe07351f62c5.html


 と言っており、たぶん、細かいことは考えないほうがいいようです。


 ところで、大学院時代にプログラミングを研究していた後輩にきいてみたところ、「コンピュータの世界だから、10の累乗ではなく2の累乗と関係してるんじゃないですか?」とのこと。
 私にはよく分かりませんが、コンピュータにとっては2の累乗という数字が扱いやすいらしいので、2の累乗を基準になんかの処理が行われて扱える数値の範囲がきまってるのかもしれない。


 また、ひょっとしたら、2の累乗だったらもっと大きな数字でもきちんと表示できるのかもしれない。
 実際、2の累乗で試してみると、

> options(scipen=50)
> 2^205
[1] 51422017416287688817342786954917203280710495801049370729644032


 みたいなことができました(scipen=50の場合、2の206乗だと指数表示になる)。
 さっき、10の累乗を表示しようとすると23桁(10の22乗)が限界だったのに、2の累乗だと62桁というデカい数字でもちゃんと表示できるわけです。
 いや、"ちゃんと表示"されてるのかというと、↑の数字がほんとに2の205乗なのか確認しないといけないんですが、コピペして対数を計算すると、

> x <- 51422017416287688817342786954917203280710495801049370729644032
> log(x, 2)
[1] 205


 というふうにはなったので、正しそうな気がするということにしておきます。
 ちなみに、どうやら固定表示できる数値の範囲は、scipenが増えれば大きくなるというだけではなく、有効数字が増えると大きくなるという関係もあるみたいです。
 なのて、有効数字をdigits=22と最大値に設定して、2の累乗がどこまで耐えられるのかを試してみました(ついでに「2のマイナス○乗」も試しておきました)。
 たとえばscipen=200というところまでいくと、

> options(digits=22, scipen=200)
> 2^757
[1] 758065474756205534740712640850831325809026375545262017157740252942407691741394964028749223060862538061761587254458531838950966818415436714572405896016201728127175281260180617944465471499803928137335448825056869507271897877839872
> 2^758
[1] 1.516130949512411069481e+228
> 2^-680
[1] 0.0000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000001993438990219513507102
> 2^-681
[1] 9.967194951097567535511e-206
>


 となります。つまり、2の757乗やマイナス680乗までは固定表示できて、758乗やマイナス681乗は指数表示になるわけです。
 で、どんどん大きいscipenを試していくと、scipen=280のときに限界が来ました。

> options(digits=22, scipen=280)
> 2^1023
[1] 89884656743115795386465259539451236680898848947115328636715040578866337902750481566354238661203768010560056939935696678829394884407208311246423715319737062188883946712432742638151109800623047059726541476042502884419075341171231440736956555270413618581675255342293149119973622969239858152417678164812112068608
> 2^1024
[1] Inf


 2の1024乗は、R的にはInf、つまり「無限大」らしいです。
 これはscipenの値を1万とかの大きな値にしても、変わりませんでした。無限なんですね。
 ちなみにscipen=280のときの、マイナス●乗のほうはどうなるかというと、

> options(digits=22, scipen=280)
> 2^-946
[1] 0.000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000001681218273811814911728
> 2^-947
[1] 8.40609136905907455864e-286


 となり、マイナス946乗までは固定表示できて、マイナス947乗は指数表示になります。
 このマイナスのほうを突き詰めていくと、マイナス1075乗のときに限界が来ることが分かります。

> #めんどうなので、scipenを1万と大きくしておいて試す
> options(digits=22, scipen=10000)
> 2^-1074
[1] 0.000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000004940656458412465441766
> 2^-1075
[1] 0


 2のマイナス1075乗は「ゼロ」になりました。
 ちなみに、2のマイナス1074乗を固定表示できるのは、あとで試してみるとscipen=319からでした。


 つまりRの内部では、2の1024乗みたいな巨大な値や、2のマイナス1075乗みたいな桁数の多い少数は、扱わないことにしてるんでしょう。
 ちなみに、この「Rそのものの限界」がどこらへんにあるか(1023乗と1024乗の間のどこかと、マイナス1074乗とマイナス1075乗の間のどこか)というのをためしてみると、たとえばかけ算で確認すると、

options(digits=22, scipen=100000000) #ノリでscipenは1億にしてみた

2^1023*1.99999999999999988897 #固定表示される
2^1023*1.99999999999999988898 #無限大になる

2^-1074*0.50000000000000006 #固定表示される
2^-1074*0.50000000000000005 #ゼロになる


 という感じになりました。(みづらいので出力結果は載せていません。)
 ただ、コンピュータの世界なので、単なる数字の大小によって限界が決まっているわけではないのかも知れません。さっきの2の累乗の話みたいな感じで、数字の大きさと言うよりはコンピュータにとっての情報量の大きさみたいなやつで決まってるんでしょうかね。


 結局、Rそのものの限界によって、だいたい2の1023乗〜2の-1074乗ぐらいまでしか扱えないのであれば、scipenの値も1万とか1億に設定しても仕方ないということなんでしょう。
 2の1023乗を固定表示可能にするのはscipen=280からであり、2のマイナス1073乗を固定表示可能にするのはscipen=319からですから、まあ300ちょっとよりも大きな値を設定しても意味ないんでしょう。


 ちなみにどうでもいいことですが、たとえば2のマイナス1073乗はscipen=319から固定表示可能だと書いたものの、じつはscipenには小数の値を入れることもできまして、試してみると

 scipen = 318.99999999999997
 scipen = 318.99999999999998

 の間に、2のマイナス1073乗が固定表示可能になるかどうかの境目があることが分かりました。
 ていうか、もっと細かく確かめると、scipenの閾値は、


318.9999999999999715799999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000001


 という値と、最後の「01」を「1」に変えた値の間のどこかにあることが分かりましたが、ほんとにどうでもいいことです。
 しかも、何度も言ってるように、「単純に数字の大小が問題なのではない」かもしれないので、私みたいな素人がこれ以上考えても意味はないでしょう。


 というか、そもそも何十桁という数字を実際に分析することはあり得ないので、「細かいことは考えずに options(scipen=100) にしている。」でいいと思うし、上記の結果から言ってもscipen=400ぐらいにしておけば気分的にも問題ないと思います。

*1:統計は、心理学の実験でよく使う分散分析、回帰分析、因子分析などの基本レベルまでは勉強しました。最近、大学生&大学院生向けの教科書を買ってきてさらに勉強中です……