○ 私の実践している社会学的方法は一に帰して、社会的事実はものと同じように、いいかえれば、個人の外部にある実在と同じように研究されなければならない、という基本的原則の上に立てられている。(p.13)
○ 自殺とは本質的に男性的なものの表現である。女子の自殺一に対し、男子の自殺は四にのぼる。(p.57)
○ 精神病は、他のどの宗教よりもユダヤ教徒にはるかに多発していることがわかる。それゆえ、神経系統の他の疾患についても、同様だと考えるのは大いに根拠があろう。ところが、自殺傾向のほうは、正反対に、ユダヤ教徒のばあいきわめて小さい。(p.58)
○ イタリアは、すみずみまでカトリックの国である。そして、ここでは民衆の教育と自殺の分布は正確に一致している。(p.189)
○ 女子は、本質的に伝統に固執しがちな存在であり、既成の信仰によってみずからの行為を律するので、強い知的欲求をもつことがない。(p.191)
○ 現代人の知性をすべてそなえながら、その絶望を共有していないのがユダヤ教徒である。(p.194)
○ 人びとが知識を得たことが宗教を崩壊にみちびくのではなく、むしろ宗教の崩壊が人びとの知識への要求をめざめさせる。その要求は、既存の通念を破壊するための手段として追求されたのではなく、その破壊が始まったからこそ追求されたのだ。……思弁的な証明によって信仰をくつがえすことはできないのであり、信仰がさまざまな論議のおよぼす衝撃に屈するようになるのは、その信仰が他の原因によってすでに根底から動揺をきたしているばあいにかぎられる。(p.195)
○ 宗教が人びとを自己破壊の欲求から守ってくれるのは、宗教が一種独特の論理で人格尊重を説くからではなく、宗教がひとつの社会だからなのである。(pp.196-197)
○ 自殺は、宗教社会の統合の強さに反比例して増減する。
自殺は、家族社会の統合の強さに反比例して増減する。
自殺は、政治社会の統合の強さに反比例して増減する。(p.247)
○ 生というものは、それになんらかの存在理由がみとめられるときに、あるいは労苦にあたいする目標があるときに、はじめて耐えていけるものだといわれる。ところが、個人は、個人自身だけでは自分の活動の十分な目標となることができない。個人はあまりにもとるにたらぬ存在であり、その存在は空間的にのみか、時間的にもまったく限定されている。したがって、自分以外に志向すべき対象をもたないときには、われわれの努力もけっきょくは無に帰してしまうにちがいない、という観念からのがれられなくなる。……要するに、自己本位的状態は、人間の本性と矛盾するものであり、したがってあまりに不安定で、それだけで持続することはできないであろう。(p.250)
○ 人びとが社会から切り離されていると感じれば感じるほどそれだけ、その社会を根拠にも目的にもしている生からも切り離されていくことになる。(pp.252-253)
○ (カルト的に自殺を奨励する新興宗教的なものについて)こうした道徳が生まれてくるときには、そのすべてが当の主唱者によって一から創造されたかのように感じられるもので、人びとは、かれらの説きすすめる絶望を、しばしばかれら個人の責めに帰する。だがじつは、それらの道徳は、ひとつの結果であって、原因ではない。それは、社会という肉体の生理的苦痛を、抽象的な言葉をもちいて体系的に表現しているにすぎないのである。(p.256)
○ 生の世界においては、過度におよぶものはすべてよくない。生物の能力にしても、一定限界をこえないという条件のもとで、はじめて決められた目的を果たすことができる。社会現象についても同じことである。いまみてきたように、過度に個人化がすすめば自殺がひき起こされるが、個人化が十分でないと、これまた同じ結果が生まれる。人は社会から切り離されるとき自殺をしやすくなるが、あまりに強く社会のなかに統合されていると、おなじく自殺をはかるものである。(p.260)
○ イタリアでは、1871‐75年には、将校の百万あたりの自殺は、年平均565であったが、これにたいして兵卒の自殺は230にすぎなかった。(p.280)
○ 志願兵や再役者においては、当然自殺傾向も少なくなっていなければなるまい。ところがまったく逆で、そこでは自殺傾向が法外に強くなっている。(p.281)
○ 産業上あるいは金融上の危機が自殺を増加させるといっても、それらが、生活の窮迫をうながすためではない。なぜなら、繁栄という危機も、それと変わらない結果をもたらすからである。真の理由は、それらの危機が危機であるから、つまり集合的秩序を揺るがすものであるからなのだ。なんであれ、均衡が破壊されると、たとえそこから大いに豊かな生活が生まれ、また一般の活動力が高められるときでも、自殺は促進される。(p.300)
○ ……これにたいして、行為そのものに快があるのだ、という人がいるかもしれない。しかし、それにはまず、人が自分の行為のむなしさを感じることができないほど盲目的になっていなければならない。(p.303)
○ 人間の生のほとんどとそのもっともすぐれた部分は肉体を超越しているので、人はその部分において、肉体のくびきから自由になるが、かわりに社会の拘束を受けるのである。(p.309)
○ 貧困が自殺を抑止する――じつは、それは、貧困がそれ自体で自殺の一つの歯止めをなしているからなのだ。(p.312)
○ ……しかし、現実にアノミーが慢性的状態にあるような社会生活の一領域がある。商工業の世界がそれだ。
じっさい、19世紀の初頭以来、経済の発展は主として、産業上の諸関係をあらゆる規制から解き放つことをつうじてすすめられてきた。(p.313)
○ こうして産業によってあおりたてられた欲望は、それを規制してきたあらゆる権威から身を解き放つことになった。この物質的幸福の神格化は、いわば欲望を神聖化し、欲望を人間のあらゆる法の上位におくようなものである。(p.315)
○ ともかく進歩を、それも可能なかぎり急速な進歩を強調する説が、一つの信仰箇条となってしまった。(p.317)
○ じっさい、女子は、一般的にいって、精神生活がそれほど発達していないので、その性的欲求も、あまり精神的な性格をおびていない。彼女たちの性的欲求は、肉体の要求とごく直接に結びついていて、その要求に先んじるよりは、むしろそれに追従しているので、けっきょく、肉体の要求のうちに有効な歯止めをもっている。いいかえれば、女子は男子よりも本能に支配されやすいため、心の平安をみいだすには、ただ本能にしたがうだけでよいのである。(p.339)
○ (一夫一婦制について)だが実は、この制度をみずからに課するようにさせた歴史的原因がなんであろうと、それによってより大きな利益を受けるのは男子のほうである。このようにして男子の放棄した自由とは、じつにかれにとっては苦悩の源泉でしかありえなかったものなのだ。女子には、それを放棄すべき同じような理由がなかったために、この点については、女子は、男子と同じ規律に服することによって、かえって犠牲をはらうことになったといってよい。(p.344)
○ 苦しみにもっとも苛まれている者がもっとも自殺しやすいものであるとはかぎらないことを、筆者はすでに明らかにした。むしろ、すぎたる安逸こそが、人をしてみずからに武器を向けさせる。人がもっとも容易に生を放棄するのは、生活のもっとも楽な時期、および生活にもっとも余裕のある階級においてである。(p.374)
○ それぞれの時点において自殺率を規定しているものは、その社会の道徳的構造である。それゆえ、各民族には、人びとを自殺に駆りたてる、一定の効果をもったある集合的な力が存在していることになる。自殺者のとるその行動は、一見したところ、あたかもかれの個人的気質の反映にすぎないようにみえるが、じつはそれは、ある社会的状態の結果であり、またその延長であって、当の社会的状態を外部的に表現しているのである。(p.375)
○ 集合的傾向は、固有の存在であり、性質こそちがえ、宇宙的な諸力と同じように現に実在する力なのだ。……それはまさに一種独特のもの(ショーズ)であって、言葉のうえだけの実在ではない。
○ 純粋な歓喜が感性の正常な状態であると考えるのは、じつは誤りである。人が、かりに悲哀にまったく心動かされることがなければ、生きていくことはできないだろう。人は、多くの苦悩にたいして、それを愛することによってはじめて耐えていくことができるし、また苦悩のただなかに人びとの感じる快さは、かならずやいくぶんか憂鬱なものをふくんでいる。したがって、この憂鬱は、生活のなかに過大な位置を占めているときにかぎって、病的なものとなるにすぎない。ただし、それが生活のなかからまったく排除されてしまっているときは、これまた病的である。……あまりの陽気さをたたえた精神は弛緩した精神であって、もっぱら衰微をたどる民族にふさわしく、またそのような民族だけにみいだされる。(p.466)
○ 教育とは、社会を映す像であり、またその反映にすぎない。教育は、社会を模倣し、それを縮図的に再現しているのであって、社会を創造するものではない。国民自身が健全な状態にあるとき、はじめて教育も健全なものとなるが、それはまた国民とともに腐敗もするのであって、自力で変化することはできないのである。(p.476)
○ 社会じたいが改革されないかぎり、教育の改革も行われえないのである。そして、そのためには、社会を悩ましている当の病弊の原因にまで手をのばさなければならない。(p.477)
○ ……以上の激動のなかを生きのびた唯一の集合的な力、すなわち、それが国家である。だから、ことのなりゆき上、国家は、およそ社会的性格をおびることのできる活動形態をすべてそのなかに吸収しようとつとめることになった。そして、国家に相対する存在としては、無数のちりぢりの不安定な個人だけがのこされたのである。(p.500)