The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。このブログの裏で始めた統計&プログラミングのブログのほうがアクセスが伸びてしまい、こっちが裏みたいになってます。

憲法とは何なのか

ある雑誌の原稿で憲法とはそもそも何なのかについて思うところを書いたのだが、いつもの如く締切が迫ってから(むしろ締切を過ぎてから)本格的に書き始めたので、趣旨がイマイチ不鮮明になってしまった。簡単にいうと、言いたかったのは以下のようなことだ。私は憲法の専門家でもなんでもないので、素人としては素朴にこう思いますと言ってるだけで、もっとマジメな議論はどっかで誰かがやってくれてれば良いと思う。


立憲主義の限界
「憲法は権力を縛るためのもの」という意味での立憲主義は、思想としては重要で、かつ歴史的意味は大きいと私も思う。
しかし、第一に憲法は制限規範であると同時に授権規範でもあること、第二に憲法には社会権の規定があって「権力による自由」の保障を行うのが現代憲法であること、第三に憲法には国民の義務規定もあること(米国憲法に義務規定がないという例がよく挙げられるが、ほかの主要国を見てみれば兵役なども含めて義務の規定があるのは珍しくない)を考えると、我々が服しているところの現代憲法を理解するための枠組みとしては不十分なのではないか。「権力を縛るための規範」だと考えると余計だと思えて仕方ない部分がいっぱいあるのだ。
憲法学の教科書にも載っている分類でいうと、「立憲的意味の憲法」のほうではなくて、「固有の意味の憲法」つまり「国家統治の基本原則」という意味での広義の憲法観を念頭において憲法を語ったほうがいいんじゃないかと私は思う。


改正限界説の解釈
「憲法とは」という問いについて考えておくことが重要なのは、それにどう答えるかによって、「憲法に書いておくべきこと」と「法律で規定すればいいこと」の線引きが変わってくるからだ。こないだある本を読んでいたら、憲法9条の改正案と称するめちゃめちゃ長い条文案を見たのだが、「そんなに細かいことまで憲法で書く必要ある?」というツッコミがあり得て、このツッコミに答えるためには「憲法とは何なのか」という議論がどうしても必要になる。
では「固有の意味の憲法」について考えるのだとして、そこには何が書いてあるべきなのか。
ヒントになるのは憲法の「改正限界説」というやつで、日本の憲法学会ではこれが主流らしいのだが、要するに憲法に書いてあることのうちその趣旨の根幹部分については、96条の改正手続きをもってしても不可能であるとされている。
限界説の根拠については、たとえば憲法制定権力自身が憲法的規範へのアクセスを放棄するような改正は、背理であって論理的に無理だというような説明がされることもあるようだが、もっと素朴に解釈すれば、憲法の規定のうちいくつかの事項については「憲法制定権者の意志が変わらないはずだ」ということだろう。
つまり憲法のコアには、普遍かつ不変の、つまり国民の「全員一致でしかも時代とともに変わったりもしないような規範意識」が据えられているということになる。


一般意志
もちろん、全員が賛成できてしかもその合意が変わらないようなルールなんて、実際には制定不可能なのだが、理念的な整理としてはそういうものだと理解しようという意味だ。
これは要するにルソーの「一般意志」のようなものを、憲法の規定範囲だとみなすということである。ちなみに西部邁の『ソシオエコノミックス』という本を読んでいたら、規範には「多数決」で決めておけばよいものと「全員一致」でなければならないものがあるはずだというふうに概念整理しておくべきで、後者を規定するのが憲法だと理解するのがよいと提案されていた。
そもそも多数決で何かを決めることができるのは、多数決で決めるということについては全員が予め賛成しているからだ。そういう、「全員一致的」とか「全員一致性が高い」とでも言うべき規範ってのが、何かしらあると考えておくほうが物事がよく理解できる。
しかし一般意志の何たるかはよく分からないわけだから、そういう真の意味での憲法というのは、じつは制定されることがない。じゃあ我々が服しているあの憲法は一体、どういうものとして理解しておくのがいいのか。


英米法と大陸法
憲法に限らないが、英米法においては慣習法や判例法が重んじられていて、その積み重ねを通じて「コモン・ロー」(やエクイティ)の何たるかが明らかにされるということになっている。日本は大陸法の系譜にあって、要するに成文法主義なのだが、成文法主義おいても法の「制定」や「改廃」という作業を行う際には慣習やら社会通念やらが意識されているはずで、何も考えずテキトーにつくった法律に「俺たち成文法主義だから」と言って黙々と従っているわけではない。
成文法主義は革命によって生まれたような国において採られやすいのだけど、革命ですら、たぶん革命家自身はその路線に歴史的正統性があるという建前でやってるはずだ。
だからこの点では、英米法と大陸法には意外と根本的な違いはないとも言える(もちろん違いはたくさんあるけど)。大陸法を英米法風に理解する、というアプローチで割と色々なことがすっきりして来る予感がする。


憲法の実際
で、成文法主義の国における憲法というのは、要するに「一般意志」の中身がどんなものであるかについて、各時代の国民が最大限頑張って作文してみた記録である、というふうに理解しておけばよいのではないか。特定の時代の特定の国民の能力は限られているから、普遍かつ不変の規範など書くことはできないのだが、そういうものを書こうと思って慎重かつ真剣に、めっちゃ頑張って書いた「憲法」は、そうでもない単なる「法律」よりは一般意志に近いはず……と期待することにするのだ。
だから憲法は当然、ちょっとずつ改正されていくのが自然だということになる。ただし気軽に改正していいわけではなく、最大限の慎重さが求められるのだが。そしてその慎重な改正作業の歴史的積み重ねを通じて、我々の根本的な規範意識がどのようなものであるかが、少しずつ浮かび上がってくる(と期待する)わけである。
憲法のコア部分は改正が不可能だとする「改正限界説」は、私は理念的には正しい思想だと思っているのだが、現実の国民には「どこからどこまでが憲法のコアなのか」を完璧に判断することはできないわけなので、改正の限界それ自体も結局は理念的なものだという理解になる。ちなみにこう考えておけば、「じゃあコア以外は憲法から削っていいんじゃないの?」というツッコミに答える必要がなくなって憲法学者も助かるはずだ。全部が「コア候補」だと思っておけばよいので。


日本国憲法はどうなのか
日本国憲法は全文からしてめちゃくちゃな文書だと私は思っている(しかし全体の骨格は大きく変える必要もない気がしているが)し、そもそも占領軍が殆ど書いたもので「歴史的正統性」という点では怪しいわけだが、占領軍の指示に寄り添っておきたいという気分を敗戦後の日本人が抱いたのは確かなのだろうし、そもそも国民が精神的に混乱していたことを想像すると、その混乱模様がよく反映されているという意味でも、これこそ憲法らしい憲法だという気もしてくる。
戦後日本人はずっと、これが我々の一般意志であると思っておきたいという気分だったんだろう。さほど慎重な努力の上で書かれたものではないから憲法失格だとも言えるのだが、70年間も改正していないのだから、結果的に「いろいろ考えたところ、だいたいこれで良い」ということになってしまってるのだ。
たとえば日本国憲法は国際協調主義をしつこく謳い過ぎで、自主独立ということの重要性を謳っていないのが私は不満だが(全文の「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国」という文言を、国家とはそういうものなのだと言っていると理解することもできるかもしれないが)、大戦争が終わった直後の国民が国際協調主義や平和主義を強調しまくった憲法を書きたくなる気持ちは理解できる。
だから、もうこれはこれでよかったのだととりあえず思うことにして、もっと大事なことがあると我々が気づいたのだとすれば、それを書き加えていけばいい。
憲法とは一般意志についての仮説のようなもので、仮説をちょっとずつ修正していって現時点では最も正しそうだと思える状態に保っておくというプロセスが大事なので、肩ひじ張らずに、変えるべきところは変えればいいし、日本国憲法は酷いと血眼になって怒る必要もないのではないか。

西部論

 とある雑誌の特集で、1月に亡くなった西部邁氏の思想や人柄を回顧する文章を書いた。あと、西部氏の略歴と書誌を(他の人にも手伝ってもらいながら)改めてまとめた。


 西部邁論の原稿のほうについては、恐らく多くの寄稿者が西部氏の「凄みのある人柄」みたいなものについて書くだろう、そして次に多いのが氏が評論家時代に掲げていた「保守思想」の紹介だろうと思ったので、私はどちらかといえば「社会科学者としての西部邁」に強めの関心を払う形で書こうと最初から決めていて、そういう偏りをもった原稿になった。


 書く前には、比較的古い『ソシオ・エコノミックス』や『知性の構造』などの著書に加えて、70年代、80年代の学術誌に掲載された論文やインタビューなど(恐らく単行本に収録されていないものも多い)を読み直しておいた。
 この読み直しからいくつかの発見があったが、引用したりしていちいちなぞっていくような文章にすると、一般読者向けの雑誌に書くものではなくなってしまうので、ごく簡潔にだけ触れることにした。結果、著作名への言及も、著作からの引用も、全くせずに終わった。


 なお、やはり自分では考察力・文章力に不足があって、あまり厳密に書くことができなかったし、論旨に何箇所か飛躍ができてしまった。あと、やたらと「や」で単語を連結する表現の多い、気持ち悪い文章になった感もある(笑)
 なので、そんなに、わざわざ人に読んでもらいたいと思えるようなクオリティにはなっていない。ただ、正直に書くことはできたと思う。


 略歴と書誌には、西部邁論の原稿の何倍かの時間がかかってしまった。略歴については、過去の著作に載っている略歴をベースに自伝や昔の雑誌原稿のプロフィールを参考に整理したのだが、著作にも明らかな間違いや不整合がけっこうあって、ご家族への確認も含めて事実の確認に手間取った。書誌については、1970年代、80年代に学術誌に書いていたような、雑誌原稿はすべて除くことにした。本当は雑誌分も網羅したいと思ったが、時間的に全然無理なので。
 ちなみに略歴にも書誌にも、私のケアレスミスが少し残ってしまって、申し訳なく思っている。

90年代に独特のサウンドや良質なヴォーカル・グループを生み出した「テクノロジーの変化」(森大輔氏の解説)

 たまたまクルマを運転することが多い時間帯に放送していることもあり、ミュージシャンの森大輔さんが大阪のFM COCOLOでやってる「NIGHT AQUARIUM」という番組をたまに聴くのだが、今日とてもおもしろい話をされていた。(radikoで聴く


 Boyz II Menというアメリカのヴォーカル・グループの"I'll Make Love to You"という曲に触れて、「曲の作りは70年代のR&Bに近いので、70年代回帰うんぬんという話をしようかと思ったのだが、この曲を改めて聴くと典型的な『90年代の音』だなと強く感じだ」と言って、その「90年代の音」がどのように生み出されたのかについて解説している。


 80年代の後半にCDがレコードに取って代わったのだが、この2つのメディアには音の上で大きな違いがあると言う。
 レコードは、高音になればなるほど、そして低音になればなるほど、音量が小さくなるという性質があり、中間ぐらいの周波数に寄ってくるので、こもったような音になる。レコード時代に作られた曲に「温かみがある」とか言われるのは、そのため。


 一方、CDにはそういう制約がなく、低音域も高音域も、均等な音量で再生することが可能であり、そのためにシャキッとした音を作ることができる。べつにCDでこもった音を再生することももちろん可能なのだが、「シャキッとした音が出せる」というメディアの変化が作り手の意識にも影響を与えて、シャキッとした音を作るミュージシャンが増えた。


 もうひとつ、配布メディアがデジタル化したのに先駆けて、スタジオではシンセサイザーがデジタル化していたこともあり、80年代から電子音を鳴らす曲が増えていく。ところでこの時代のデジタル楽器というのは、今ほど高性能ではなかったので、確かに「シャキッとした」音は出せるのであるが、どこかチープな音質であることは否めない。
 そして、楽器の音が比較的チープであったことが、逆にヴォーカルを際立たせる方向に作用して、90年代に著名なヴォーカル・グループがたくさん誕生したのではないか、とのことだ。


 さらにもう一つ、80年代後半から90年代にかけて、ウォークマンが普及し、スピーカーではなくイヤフォンで音楽を聴くのが普通になった。すると、ステレオで左右の音を別々に耳に入れることができることを利用した楽曲作りが可能になる。
 たとえば、ヴォーカルの重ね撮りといって、同じ人が同じパートを別々に2回歌い、それを左右別々に流してイヤフォンで聴くと、とても広がりのある声に聴こえるという効果があって、そういう手法が90年代に多用されるようになった。


 このように、テクノロジーの変化が幾つかの点で楽曲作りに影響を与え、「90年代の独特のサウンド」を生み出すに至ったのである、という解説であった。
 ちなみに私は音楽に疎いので、90年代の音と言われてもよくは分からないのだが、興味深い話だなと思った。

韓国でオンラインゲーム産業が伸びた理由

 e-sportsでは韓国がやたらと強く、私がやってるOverwatchというゲームでも韓国のチームがワールドカップで優勝したりしています。
 なんで強いのかと言えば、そもそもハンゲとか有名だしオンラインゲーム産業が活発だからだろう、ぐらいのことは思いつきます。では、なぜ韓国でオンラインゲーム(産業)が盛んなのか、と思ってググったら15年ぐらい前に日本人で調べてる人がいました。
http://www.computer-services.e.u-tokyo.ac.jp/p/itme/dp/dp102.pdf
http://www.gbrc.jp/journal/amr/free/AMR1-5-5.pdf


 私なりに重要だと思った点に絞ってその背景をまとめると、

  1. 下記のように幾つかの理由で、韓国では「ゲーム専用機」の市場が成長せず、結果的にPCベースのオンラインゲームの延びる余地が生まれた。
    • 国内に、ソフト開発能力のある会社が十分になかった。
    • 日本のソフトは輸入禁止だった。
    • 個人輸入の日本製ゲーム機が闇で流通しており、それと競争するのも辛かった。
  2. ネカフェ(韓国では「PC房」というらしい)業界が、ゲーム業界と協力する形でうまく成長した。
  3. 韓国は集合住宅が多いため、ADSLのような高速回線が引きやすかった。
  4. 国民IDを本人確認に利用することなどによって、オンライン・モバイル決済が普及させやすかった。
  5. 開発フレームワークから自分で構想していったエンジニアのソン・ジェギョン氏、アバターを取り入れたコミュニティ・ゲームを流行らせたJOYCITY、ブラウザで遊べる軽いカードゲーム・ボードゲームに目を付けたHanゲームなどのパイオニアたちが頑張った。

ビットコインは決済手段としても投資対象としても駄目?

 ブログのエントリを起こす程の内容ではないですが、Twitterだと文字数がはみ出すのでここにメモしておきます。


落合陽一氏がビットコインについて語っている動画がありました。
「さらば、ビットコイン」 落合陽一 - YouTube


 昨日、Splatoonのフェスをやりながら流して聞いていた*1だけなので記憶が曖昧ですが、落合氏は、ビットコインが便利な決済手段として実社会に定着するのでなければ、こんなもの世の中に存在する意味がないと言っています。しかもそれは、「サトシ的に正しい」、つまり中央で全てを管理する特権的な主体が存在しない決済手段でなければならない。
 そうなれないのであれば、決済手段としては元々ある他の通貨で良いわけだし、投資の対象としても株とか債権とか色々あるわけなので、ビットコインである必要がない。つまり、ビットコインが便利で理想的な決済手段として社会的に定着しない限り、ビットコインを通じたエコシステムは確立しない(決済手段として駄目)し、単に価格が上がった下がったという「ゲーム」を一時的に人々が楽しむだけで、要するに球根バブルとして終わる(投資対象としても駄目)だろう。


 で、じゃあ便利な決済手段として定着しそうな見込みがあるのかというと、いま主力になっているビットコインはまず決済に時間がかかりすぎて、イマイチ便利ではない。一方、ビットコインから分派して生まれた他の有力な仮想通貨(ビットコインキャッシュとかいうやつ?)は、開発者のコントロールが強くて、全然サトシ的に正しくない。
 ちなみに放送の途中で紹介されるマクロミルの調査によると、ビットコインを保有している人のうち「決済目的」なのは3割ぐらいで、要するに投資・投機目的で保有している人のほうが多数派であると。


 というわけで、このままではビットコイン界はヤバイだろう・・・みたいな感じのことを言っていて、なるほどと思いました。


 彼が不可解だと言っていたいくつかのことについては、とくに不可解だとは思いませんでしたが。
 また、ビットコインを金に喩えて、「決済手段としては不便過ぎるけど、価値の保蔵手段としてはそれなりに使える」ようなものになるのか否かみたいな話がありましたが、金の機能も結局のところ、人間の多くが「金には価値があり、またあり続けるだろう」という信念をどういうわけか持っていることによって成り立っているわけで、ビットコインが金並みの「これ持ってれば安心」感を獲得している/できるとは現時点では到底思えないですね。
 ドルや円が、決済手段としても価値の保蔵手段としても割と使えるのは、要するに、アメリカ合衆国や日本国というシステムが簡単には崩壊しないだろうという期待があることと、それらの通貨がすでに制度的・技術的にも社会の色々なところに埋め込まれているということに拠っているのだと思います。(経済学者がどう説明するのかは知りません)

*1:もともとはプレイ中の通話環境として、ゲーム音声とスマホからの音声をミキサーで合成してヘッドフォンに流し込めるようにしてます

「文系の大学院生」が就活で苦戦する理由

 「『頭のいい』女子はいらないのか——ある女子国立大院生の就活リアル」という記事(リンク)が話題になっていて、Twitterではなぜか「女だからというより、『文系の院生は使えない』からだろ。とくに社会学はダメだ」みたいな話になっていて、以下のようなまとめまで出ていた。
togetter.com


 文系の院卒の就職率が相対的に悪いこと自体は、調査からも明らかになっている。しかし個人的な経験や見聞きした範囲からいうと、事務職・総合職の採用面接*1では最低限のコミュニケーション能力があるか、頭の回転はどうか、常識的に求められる準備をしてきた感じがするか、人柄はどうかなどをみていることがほとんどで、「文系の院生である」という書面上のスペックで評価が下げられるという印象はないし、社会学が何であるかについてほとんどのビジネスマンは知らないし興味もないだろう。
 逆に、「文系の院生に、準備不足なやつが多い」という可能性はあるかもしれないと思ったけど。
 私自身は今年から、企業で働くのをやめて大学にきてしまったので、採用する側の感覚がどんどんわからなくなっていくだろう(逆に学生を企業に送り込む側になる)から、今のうちに、民間企業への就活についての個人的な認識をメモしておこう。

学歴フィルターは存在する

 企業の採用担当は、リクナビとかマイナビを通じて、登録している学生にセミナーの案内を送ったりするのだが、1件1件いちいちリクナビ等に課金されるので、採用担当が確保している予算の範囲内で、必要最小限に抑えるための絞り込みを行いたいと考えるのは当然だ。とくに大手企業の場合、毎年の応募者が数千人になるのだが、この規模になると初期段階でいかに効率的に絞り込むかはけっこう重要だ。説明会で全国行脚するとして、1つ1つの会場で500人くるのか100人くるのかで、かかる費用も動員する社員の数も変わってくる。
 そう考えたら、ひとまず大学のランクで案内先を絞ってみようと思うのは、良いか悪いかは別にして、自然な行動とは言える。専門職の場合はもちろん他に絞込要素があるだろうし、職種によっては性別も絞り込み要素かもしれない。とにかく分母の受験者数が多いので,セミナー案内以外の面でも絞り込みは行われるはずである.
 もちろん、大学のランクみたいな大雑把な指標で人物を評価しきれるわけがないから、逸材を取りこぼすことも、危険人物を釣ってしまうこともあるだろう。しかし危険人物はその後のプロセスで弾けばいいし、逸材の取りこぼしも、毎年100人とか採用する企業にとっては、この100人が全体として有能であることのほうが大事だし、100人も採れば結構な逸材が混じっていることもそれなりにある。また、仕事の能力なんて、働き始めないと分からんことも多い。


 この「人数が多すぎるからフィルターする」段階で「文系大学院在席者」を弾いている企業って、あるのだろうか?
 あるのかもしれないが、私がいた会社では文系大学院在籍者がふつうに面接まで受けていたし、採用もされている。その他の例でも面接までは進んでいる話をよく聴くから、事前に切られているという印象はない。切られるケースも無くは無いのかもしれないが。
 なお、学歴フィルターと言っても、偏差値の高い大学から順に選択されるかは分からない。就職人気度がある程度に達しない会社は、あえて一線級の大学を外したほうが、自社で長く働いてくれる人材を見つけやすい可能性がある。

面接まで行けば書面上のスペックはあまり関係ない

 上記のとおりセミナー案内などの段階で学歴フィルターが働くことは珍しくないと思うが、面接までいくとあまり関係ないと思われる。有名大学に在籍していることは多少の下駄になる(最低限の賢さを持っていると安心してもられる)と思うが、大企業の面接だと既にそこそこ名の知れた大学名ばかりになっていることも多いだろう。
 「文系の大学院(修士課程)」に在席していることが不利になるのかどうかというと、全くならないと個人的には思う。というのも、専門職は別として、大学での勉強やサークル活動やアルバイトの話なんて、一応それぐらいしか話題のない学生も多いから面接で聞きはするものの、企業で長年働いている人間からすればはっきりいって「全く興味ない」からだ。
 サラリーマンが周りを見渡してみれば、20歳そこそこの一時期に何をやってたかなんて全く関係なく様々な仕事をして、様々な評価を得ている人がほとんどだから、「大学で何を専攻してるか」とか「大学院に行ってるかどうか」がその後の職業能力に大きく響くと思っている面接官なんてほとんどいないだろう。ちなみに私自身はどちらかといえば、2年間であっても「研究」のサイクルを回したことがある経験は貴重だと思っていて、文系であっても院生・院卒に対しては好印象を持つのだが、そういう認識を形成して以降、面接官を経験することはなかった。


 就活に成功した学生の話を色々聴くと分かるが、「その会社を受けにきた経緯」として相手が理解しやすい手短なストーリーをでっち上げるスキルを、だいたいみんな持っている。そして、履歴書やESに書いた事柄はいずれも面接で話題になる可能性があるから、とにかくどこを突かれても「ああ、なるほどね」ととりあえず理解させる程度のストーリーをちゃんと考えている。
 「志望動機」というのも、単に「御社の◯◯のビジネスに興味がありまして」みたいな話をすればいいのではなくて、履歴書やESに書いた他のこととストーリーがつながるように説明できないといけない。もちろん、「大学では◯◯を専攻してますが、実は結果的にそれにはあまり興味を持てませんでして(笑)、いまは個人的にこういうことを調べてて関心を持ったんです」みたいに、「関係ない」ということを積極的に説明するストーリーだってあり得ると思う。学部だろうが院だろうが、専攻が何だろうが、なんか尤もらしいストーリーを考えればいいだけの話なのだ。
 それに、「学問の内容」について述べる必要も必ずしもなくて、たとえば「大学院では、研究テーマを考えたり論文を書く際に、先行研究とか公的な統計情報とかを徹夜しながら死ぬほど調べました。そういう、調べて何かを明らかにするという作業が自分は好きなんだと分かりまして〜」みたいな言及の仕方だってあるだろう。実際に調べ物をろくにしてない人でも言えるし、会社の仕事に調べ物はつきものなので、どこを受けるにしても関係がなくはなさそうだ。

失敗する原因はたぶん「準備不足」

 理系に比べて文系の場合は大学院に進学する割合は低いから、目立つとは言えるだろう。つまり「納得のいく説明を求めるポイント」が増えるとは言える。
 しかし、たとえば面接官に「あなたは大学院で◯◯を専攻してて、うちの会社の仕事と関係なさそうな気がするけど、いいの?」と聞かれて、相手に「なるほど」と言わせる回答が即座にできないのは、単にでっち上げ練度が低いか、準備不足ということだろう。
 もともと学生時代にやっていた活動の延長上にある企業を受ける場合は、理由を「でっち上げる」必要はないだろうけど、たいていの人は何十社か幅広く受けるので、そういう工夫が必要になる。その工夫は大して高度なものではないのだが、意外とできない人、やらない人がいる。何か強いこだわりを持っていて、相手にあわせてストーリーをでっち上げるなんてことには抵抗があるという人もいるだろうけど、それよりは単純に「いいストーリーを思いつかない」人と「そういうストーリーの準備が必要だと分かってない」人が多い気がする。


 たとえば、ものすごくローカルな企業(や市役所)を受けるのに、「あえてその地域で就職したいと思った理由」を全く考えてなかったらダメだろう。とくにその地域の出身者でないのであれば、「なんてわざわざこんなところで就職するの?」と聞かれるのは当然で、事前に回答を考えとかないといけない。でも、その程度の準備もしてない就活生は、一定割合でいると思う。
 そもそも履歴書やESというのは、面接官にどういう質問をさせたいか、面接官とどういう話がしたいかを考えて誘導するように書くべきものだと学生時代に教わったのだが、たぶんそのとおりだ。もちろん嘘を書くわけにはいかないが、それでも書きながら、どういう会話をするか想像することは必要だろう。これは、会社に入ってから営業提案とか社内稟議の書類を作る場合だって同じ話である。
 文系の院生は、少数派=外れ者ではあるから、学部3〜4年生の時にみんなと一緒にそういう「最低限の準備」をする経験をしておらず、そのせいで「準備の必要性」を認識していないといったことはあるのかもしれないと想像したが、どうだろうか。

就活はたいていの人が思うより多様

 私にも言えることなのだが、就活や採用というものについて1人の人間が知っている側面は非常に限られているので、ほとんどの話は話半分に聴くべきだ。
 どういう人材が求められるかは、業種によっても、職種によっても、会社の規模によっても、会社の文化によっても、その時会社が抱えている課題によっても、さらには会社内の部署によっても、その部署にいる社員のパーソナリティによっても、異なってくる。私も含めて大抵の人は、自分が知っている狭い範囲の経験に基づいて語っているのだが、だいたい人間は自分の視野の広さを過信しがちで、自分の考えが一般的に当てはまると勘違いするものなので、注意が必要だ。
 就活には、結局「やってみないとわからん」面が結構ある(スキルが絶望的に低かったり、神レベルで高かったりすると別だろうけど)。上記のような「準備」を全くしてなかったら落ちるということは分かるが、それなりの準備をしているのであれば、あとは運だと思って数をこなすしかないんじゃないだろうか。

*1:「専門性を生かしたい」とか思ってる人は自分で間口を狭めてるだけだから、考察の対象外とし、ここでは「学部卒の奴らと同等に就職したい」と思っている文系院生のみを想定してるので、主に事務職・総合職の採用について考える。

うちの大学における保険営業

 追加で個人年金に入ろうかと思っていたところへ、たまたま保険会社の人が営業にきていたので、年金の資料をもらいつつ、保険営業について(単なる興味から)いくつか質問をした。以下は教えてもらったことのメモ。

  • うちの大学における保険営業は、日本生命とジブラルタ生命の二強となっている。
  • 二強のそれぞれの強み:ジブラルタ生命の強みは、日本教育公務員弘済会(日教弘)の保険商品の代理店をやっていること。日生の強みは、早期にうちの大学の加入者を囲い込んでいたので、団体割引が効かせられること。
  • 日教弘の保険は、小中学校の先生は半数ぐらいが加入しており、大学の教員もけっこう入っている(加入者全部で60万人ぐらい)。
  • 日教弘は、研究助成や奨学金などの事業もやってるのでコストが余分にかかっている面もあるにはあるが、対象が教職員だけなのでリスクが低く評価されている面があり、また広告宣伝も殆どやらないため、差し引きでみると保険料は割安になっている。
  • 日生は個人年金商品を推していて、年金控除のメリット(「一般保険料の枠以外に、年金の枠も使いましょう」)を唱える営業をしている。
  • 一方、ジブラルタ生命は、日教弘の商品も売っているが、自社のドル建て運用の(年金に似た)保険を推していて、金利が高いことのメリットを唱えている。
  • 最近は、保険料の割安感だけでみればやはりネット生保には勝てないのだが、何だかんだで、担当者が付いていないと安心して保険に入れないという人も多く、ネットに制圧される感じはない。
  • 新興の生保会社が破綻したりしても政府が9割ぐらい保証するから、大して心配はないのだが、昔からある大きい会社のほうが安心という人もやっぱり多い。
  • 外貨建て運用の保険商品は、一般には嫌がる人もけっこういるのだが、大学の教員は為替や金利に関する理解がある程度あるので、売りやすい。