The Midnight Seminar

読書感想や雑記です。某雑誌・某メルマガに近い内容の記事が載ることがありますが盗用ではありません…

7年ごとに気づいたこと

人に言うようなことではない個人的な話なのだが、メモしておかないと忘れてしまいそうなので、とりあえずここに書いておくことにしよう。(最近、手元で日記をつけるのをやめてしまったので。)


32歳の時に、「どういうわけかこれまで7年置きで、自分のパーソナリティの本質のようなものを新たに突き止めるというのを繰り返してきたなぁ」とふと思ったことがあった。18歳、25歳、32歳のときに「よく考えたら俺はこういう人間だった」と大きな気付きがあったのだ。しかし何歳の時に何に気づいたのかは忘れてしまっていたw
で、学生時代は日記をこまめにつけていて、就職してからしばらくは年に何回かだけ書いていたのだが、探してみたら2014年4月1日の日記にそのことが書いてあって思い出すことができた。


まず18歳の時に、自分は「コミュニティの中に入って、しかし協調せずに人と違うことをやることによって、そのコミュニティに貢献したい」と思うタイプなのだなということに気づいた。当時、自分は協調性があるのかないのかよく分からないなと思っていた。一般の常識にはあまり従わずに生きているような気がしたものの、友達は多い方というか、キチガイ扱いされて孤独になるということは全くなかったので、協調してると言えばいいのかしてないと言えばいいのか、分からないのだ。
要するに、ある程度仲間と一緒にいたいとは思っている方なのだが、仲間と同じことをするわけではないし、仲間から「共感」されることも欲していなくて、「お前なんでそんなことしてんの??」と疑問に思われるような状態が心地よかったのである。で、これは一体どういうことなのかというと、要するに他の人がみんな右へ行っているなら、俺は左がどうなっているかを確かめることによって、仲間に貢献するのだ、みたいなメンタリティだということに気づいたわけだ。人と意見が一致すると、「共感が得られてうれしい」という人が多いと思うのだが、自分の場合「かぶってるやん」となって気持ち悪いと思ってしまうこともけっこうある。


次に25歳の時に、自分は「何かを専門的に極めるというより、中途半端に、分野横断的なことをやっていくことになるだろう」ということに気がついた。それまでは何となく、何かの道を1本究めるというのがかっこいいと思っていたのだが、どうもそれができない。そのかわり、分野のことなる物事のあいだのつながりを捉えたりするのは、少し得意かもしれないと思い始めた。
高校生の頃は理系クラスにいたのだが、大学は文系だった。学生時代にとある評論家の先生のところに出入りしていて、学者とか評論家のような「物書き」の世界に憧れを持ったものの、知識の世界を突き詰めるというのはモチベーションがもたないような気がして、就職した。就職先は「半官半民」のような中途半端な組織だった。その後、理系の大学院の博士課程をでて、いまは工学部・工学研究科で研究・教育をしてるのだが、その道の専門教育を受けていないので、非常に場違いな感じがする。でもまあ、どこに行っても場違いになるようなポジションを取るのが、自分だということなんだろう。


32歳の時には、自分は「幸福になりたい」という感覚を持っていないのだということに気づいた。で、32歳の時の日記によると、「こういう状態に至りたいというような、静態的なゴールを抱くことそのもの」を俺は嫌悪しているということのようだ。「自分は『ゴール』をハッキリさせることに対する嫌悪感を持っている」とも書いてあった。まあ、そんな気はする。今の時点で付け足すとすると、たしか2016年ぐらいに「人間の幸福度の50%は遺伝で決まっている」という研究結果が発表されていたと思うのだが、ようするに生まれつき、幸福というか、不幸の感覚が薄い人間というのがいて、自分はおそらくそのタイプなのだ。だからまあ、腹の立つことやストレスの種はいくらでもあるのだが、疲れることはあっても、幸福でないという感覚に襲われることはない。


そして、39歳になる今年になって、また新たに気づいたことがある。いま、大学で研究をしていたり、言論誌に社会評論を書いたりしているのだが、「何かすごいことを明らかにしたい」とか「正しいオピニオンを発したい」という願望が強いわけではない(もちろんそれらが出来れば素晴らしいのだが)。それよりも、まあ基本的には文章を通じてなのだが、自分として表現したい「センス」のようなものがあるのだ。どんなセンスかと言われると説明が難しく、また「立派なセンス」とか「センスいい」みたいなのを目指してるわけでもないのだが。たとえば、いま雑誌でやっている連載の中では、心理学や社会科学の実証研究の論文を読みながら社会思想を語るということをやってるのだが、これは元の論文から言える範囲を意図的にちょっと逸脱して、拡大解釈になるようなことを書いている。そこで表現したいのは、学術論文を正確に読解するとかではなく、それを読んで何かを学んで、そこからべつのことを考えてみるときの、気の持ち方みたいなものを伝えたいと思っている。それは特段「優れたセンス」ではないにしても、「自分なりのセンス」ではあって、それを確立しつつ表現もできるようにしたいというのが、これからしばらくの目標になった。
西部邁が晩年に、中江兆民論の中で、死ぬ間際の兆民は自分の「ファンダメンタルなセンス」をなんとか表現しようといろいろな工夫をしていた、というようなことを言っていた。西部邁はもともと「スタイル(文体)」を築き上げることの重要性を問いていたのだが、ほぼ同じ意味だろう。この「ファンダメンタルなセンス」っていう、けったいなカタカナ英語が、わりと自分にはしっくりくる。