The Midnight Seminar

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佐々木俊尚『キュレーションの時代――「つながり」の情報革命がはじまる』

※操作をまちがって、ブログを5本ぐらい削除してしまいましたので、再掲載します。Evernoteに保存してあったので復旧できました。


 今さらって感じですが、今日( 2012/6/30 )読みました。というか、去年買って、 Foursquareについて書かれたところなど一部だけを読んで、放置していたもの。


キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)


 「キュレーター」というのは博物館とか美術館で作品を収集してくる学芸員みたいな人たちのことを(も)指すらしいが、インターネットの世界でも、そうした「有用な情報を集めてくる人」抜きには、これからの時代の「情報の流れ」を理解できないだろうという話である。この本が出た直後に東日本大震災があって、著者はその直後から「震災キュレーション」と名付けてTwitterFacebookで震災関係のニュースを選抜して毎朝まとめて流していたのを、私も読んでいた。


 一般に情報というものが、それを求めている人のところへどうやって到達し、どのように人を動かしていくのか。面白いコンテンツとか有用な情報が、どういうルートで集められていくのか。そういう「情報の流れ」が、ここ数年のネット社会の中で激変しているという話なわけだが、本書の全体的な雰囲気をいうと、要するに「マス」な感じのするあらゆるもの(マスコミはもちろん、大量消費を前提としてきた従来の映画や音楽などのコンテンツ産業)によって動かされる「情報の流れ」を、心の底からdisっているという感じの本である。


 全体の趣旨をおおざっぱに4点にまとめてしまうと、

  1. 一つのコンテンツを多数の国民に一斉に消費させるという、「マス消費」のアプローチはもう成り立たない。消費者の興味関心は細分化されてしまったし、ネット社会ではコンテンツの供給源が異常な規模に膨らんで供給過剰になっているので、有力なコンテンツを市場に投げ込めば「おもしろいコンテンツ」に飢えている人々がすぐ群がってくる……というようなことはもうあり得ない。
  2. じゃあこれからはどういう流れでコンテンツを売っていけば良いのか。一つの考え方として、興味関心が細分化されたのであれば、個人の行動や生活の記録(ライフログ)をデータベース化してその人の嗜好を分析し、それに合わせてコンテンツや商品を提案していくという方法が考えられる。しかし今に至っても、ライフログの解析というのは技術的に全然十分ではなく、世の中の人が想像するほど簡単にはいかない。それに、プライバシーの問題があって、自分に関する情報が知らないところで解析されているということに対する消費者の抵抗感は強く、ライフログの解析」に基づくマーケティングは少なくとも2010年代にはモノにならないだろう
  3. そこで、有力な方向性としてまず「明示性」というキーワードが挙げられる。暗黙のうちに自分のライフログが勝手に解析されるというのではなくFoursquareの「チェックイン」のように、消費者の主体性・能動性に基づいてネットの世界に投げ込まれる情報をベースに、マーケティングを動かしていくということだ。4sqは、「ここにいます」という情報をユーザーが自分で発信しているわけで、それに連動してお店の特典がもらえたりする。こうやって、明示的で透明性のある関係のなかで、消費が動いていくってのがいいだろうと。
  4. もう一つが、この本のタイトルにもなっているように、これからは「キュレーション」の時代ですよということ。たとえば私が何かおもしろい情報を得たいと思っているとして、マスメディアに頼るというのは論外で、もはや全国民向けに画一的に提供されている情報に大した価値はない。そこで「検索」というのが出てくるが、検索に頼っていると自分の想定の範囲内でしか情報にアクセスしないので、視野が狭まり、タコツボ化を招く恐れがある。そこで、自分が信頼をおける人の「視座(パースペクティブ)」に乗っかって情報を集めていくという方法が出てくるわけで、その視座を提供する役割を担う人が「キュレーター」と呼ばれる。


 という話である。
 「視座」に乗っかって情報を集めるというのは、具体的には、信頼できるレビュアーのレビューを参考にするとか、面白いと思えるブロガーの記事をRSSで購読しておくとか、興味が近い人のTwitterアカウントをフォローしておくというようなことである。
 ここで、「ソーシャルネットワーク大事です」みたいな表面的なメッセージで趣旨がまとめられているわけではないところが重要だと思われる。本書にもソーシャルメディアという言葉は頻繁に出てくるのだが、著者はべつに「人と人のつながりが大事なんです!」みたいな(当たり前の)ことが言いたいわけではなさそうで、もっと客観的に「情報の流れの変化」を分析するのが本書の主題だ。だから、「キュレーション」という機能を切り口にして語っているのは、妥当というか分かりやすい。
 それに、「ソーシャル」というキーワードでまとめられてしまうと、真っ先に浮かぶのはFacebookとかmixiなどの典型的なSNSなのだが、これらは「面白いコンテンツ」「有用な情報」を集めるためのツールというより、もはや単に知り合いとつながってるだけの日常の連絡手段と化しているので、本書の主題とは外れる感じだ。


 で、キュレーションの時代がきたんですという話も大事ではあるのだが、本書では「これからの時代に、マス消費というものがいかに成り立たないか」という議論にけっこうな紙幅が割かれていて、消費者としてではなくビジネスマンとして本書を読む場合には、そっちの論点のほうがむしろ大事だとも思われる。

「大衆」と呼ばれるような膨大な数の人々に対してまとめてドカーンと情報を投げ込み、みんなそれに釣られてモノを買ったり映画を観たり音楽を聴いたり、というような消費行動は2000年代以降、もう成り立たなくなってきています。
(略)
「大きなビジネスにならない」
と広告業界人やマスメディア業界人が不満を持つのは勝手ですが、もう大きなビジネスなど存在しないのが、21世紀の情報流通の真実なのです
(p.58)


 「大きなビジネスなど存在しない」ということを断言しておくというのは、けっこう重要なことなんじゃないだろうか。私はべつに広告ともマスメディアとも何の関係もないんだが……。
 これに関連して、80年代から90年代にかけての「コンテンツバブル」について解説されていて面白かった。ビデオ(VHS)というものが登場して、映画というコンテンツに猛烈なバブルが発生した。で、DVDが家庭用にも実用化され出した頃に、業界全体がバブルの再来を期待したのだが、結果的に、思ったほどのバブルが起きなかったのである。
 その理由はいくつか挙げられている。
 まず「映画館に行く」→「家でビデオを見る」という変化はとてつもなくデカかったのに対して、VHSからDVDというのは単なる記録媒体の違いでしかないのだから、80~90年代のようなコンテンツバブルを夢見てはならなかったということ。そして、80~90年代のコンテンツバブルはレンタルショップによって率いられたのだが、レンタルショップがソフトを“買い取る”方式がなくなってしまってリース制になり、貸出実績に応じてカネが払われる方式に移行したこと。
 そしてもう一つ、重要なのはもちろんインターネットの普及である。

マスメディアの時代には情報が絞られていたから、映画でもテレビでもとりあえず垂れ流せば見てもらえる、という時代が長く続いていました。たとえばテレビの映画劇場なんて、大作の放送が決まるともう何週間も前からその話題で持ちきりになったりしていたものです。
しかしネットの時代は情報に洪水をもたらしました。マスメディア時代のコンテンツに対する飢餓感は消滅し、さらにポッドキャストやユーチューブ、ユーストリームなど音声と動画でもコンテンツの数は増えて、そうした新たなコンテンツとも競争しなくてはならなくなりました。そこで、人々の持っている時間は有限で、その有限の時間をいただくためにどう注意を惹きつけるのかという「アテンションエコノミー」という考え方が注目を集めるようになります。
このような状況にいたって、
「どんなコンテンツでもドーンと放り込めば、消費者が先を争って食いついてくれる」
というような牧歌的なメディア主導文化は解体されてしまいました。
(p.77)


 著者いわく、たとえば映画に関して言うと、業界全体がDVDバブルに期待していたところがあって、配給会社が、「作品を高く買い付けて、映画は赤字であってもその後のDVD販売で回収する」というモデルを作ってしまった。それで作品の買い付け価格が全体的に高騰した結果、「中小配給会社がマイナーだけど質の高い作品を安く買い付けて、映画好きに売れる範囲で売る」というモデルが崩壊してしまったのだが、結果的にDVDバブルは来なかったのだから、これは完全に業界全体としての戦略の誤りであると。
 そういう戦略ミスの結果として、コンテンツ産業がビジネス的にうまくいっていないだけでなく、良い作品が流通しなくなってしまったじゃないかと著者は怒っている。
 本来であれば面白い映画というのはたくさんあって、とにかく「マス幻想」にさえ取り憑かれなければ一定の需要は見つかるのに、業界の戦略判断ミスのせいで、「マスなインパクトはないけどそこそこ面白い作品」を流通させる回路が失われてしまったのだ。
 たとえば、『ハングオーバー!』という映画が世界中で評判になっていたのに、当初日本では上映される予定すらなかった。その理由は、「有名な俳優が出ていないから大手配給会社がどこも手を出さない」というものだったらしく、その文化的なセンスの貧しさを著者はdisりまくってるわけである。


 音楽業界においても、CDラジカセとカラオケによって牽引された80〜90年代のコンテンツバブルが華々しすぎて、業界全体がそのマス幻想から抜け出せなくなってしまったらしい。
 たとえば1998年にはCDの「ミリオンセラー」が48本もあったのが、2002年に16本、2007年にはわずか3本にまで減ってしまっている。「マス消費」という文化そのものが明らかに退潮しているわけで、早く幻想を捨てて身の丈にあったコンテンツ流通の仕組みを作らなければならなかったのに、

しかしコンテンツ業界は、自身の広告宣伝戦略の不在を棚に上げ、市場が収縮している原因を「インターネットの違法配信が原因」「ネットに食われた」と妄言のように繰り返しています。(p.87)


 と。業界のことは何も知らんけど、なんか想像できる気がするなぁw


 「アテンションエコノミー」について個人的にポイントだと思うのは、↑に出てくる、「もう大きなビジネスなど存在しない」という悲観論である。webサービスの世界はめちゃくちゃ便利になっていて、誰だって毎日使いまくってるから、当然そこは時代の最先端を行くイケてるマーケットなんだろうと(消費者として、素人として)想像してしまうわけだけど、実際にはごく少数のプラットフォーム提供者以外にとっては、かなりレッドオーシャン化してると考えればいいってことか?
 私はwebサービスとかコンテンツとかの仕事をしてるわけじゃないので、べつに関係ないといえば関係ないのだが、webからおもろいコンテンツが流れてくる仕組みを担っている業界の華々しいイメージが、幻想なんじゃないかという話なら、面白いと思う。私自身は、良いコンテンツにはカネを払うべきだと思ってるので、いろんな有料サービス(それこそ佐々木氏の有料メルマガを含めて)に入っているが、ふつうはみんな無料のサービスや記事だけで十分楽しんでしまってるし……。
 著者の言うとおり、マス幻想さえ捨てれば、持続可能なビジネスはたくさんあるのだろうけど。


 あと、たとえば通販にしても同じようなことが起きていて、世の中が便利になって情報の流動性が上がれば上がるほど、価格はどんどん下がらざるを得ないわけで(探せばそういう実証研究とかどっかにありそうだけど)、消費者としてはうれしいとは言え、サラリーマンとしてモノを売ったりサービスを売ったりする立場に立ってみれば、ネットで世の中が便利になっていくことはべつに明るい話ではないとも言えるよなと。そんなことを言っていても仕方がなく、商売人は適応するしかないのではあるが。


 この辺りの論点に関連して、梅田望夫を思い出してしまった。
 6年前に梅田望夫の『ウェブ進化論』という本を読んだときは、正直「インターネットすばらしい!!!」みたいな楽観論が鬱陶しいと思って気に入らなかったのだが、『キュレーションの時代』とあわせて今日また最初から読み直してみたら、けっこう大事なことが書いてあるわけです。というか、その大事なとこだけはめちゃくちゃよく覚えていた。要するに、「面白い人は100人に1人はいる」のだと。
 これはシンプルだけどめちゃくちゃ本質を突いた話なんじゃないだろうか。
 梅田は当時、ブログの流行を「総表現社会」といってもてはやしていて、これは表面的に受け取ると「みんなが表現者になれるすばらしい時代がやってきました~」みたいなしょうもない話になるのだが、1万人に1人ぐらいのプロのコンテンツではなく、100人に1人程度の素人のコンテンツが十分に面白いという事実は、コンテンツの需給バランスを決定的に変えてしまうわけであって、これはやはり恐ろしいことだなと。
 無料のブログだけ読んでれば十分面白くて、幸せに今日1日を終えることができるのに、わざわざ1000円も出して本なんか買わないよなと。普通の人は。そしてその原因が、新たなテクノロジー云々の前に、そもそも「100人に1人(学年に3人ぐらい)ぐらいはかなり面白い奴がいるもんだ」という点に集約されるというのは、面白い話だなと思います。