ぜんぜん、「一人一票」の実現を主張する人たちに反対する気はないんだけど、やはりどうしても、そのことをめちゃくちゃ重要な課題であるかのように言われると私は違和感を覚えるので、どういう違和感なのかはメモっておきたい。
基本的には1月のエントリ「一票の格差なんてどーでもいいのでは?」にも書いてある通りなんだけど、結論としては、
- 「これからは、田舎のじじばばの意思よりも都会の若者の意思を生かさなければ国が滅びるので、票の重みを是正すべき」という話なら、それが正しいかどうかは知らないけど理屈としては分かる。
- 納得できないのは「清き一票」原理主義で、「一票を投じる権利」をまるで神からの授かりもののように、物凄く「清い」ものとして有り難がる精神は理解不能。
ということだ。
この国を確実によくするために次の総選挙でできること(http://agora-web.jp/archives/1294052.html?ignore_lite)
↑のリンクは、09年夏の衆院選における一票の格差についてつい先日、3月23日に最高裁が違憲状態であるとの判断を下したことについて、判決理由が不十分であり、「最高裁は民主主義のシステムが正常に機能しているかどうかをチェックする『憲法の番人』たる使命を果たす意思を持っているとは到底思えない」から次の総選挙で×をつけて判事を罷免しようという記事だ。
反対する気はないし、法の下の平等にこだわるのも結構なことだけど*1、「この国を確実によくする」とまでは私は思わないし、「民主主義のシステムが正常に機能している」かどうかみたいな大げさな話でもないという気がしてしまう。
さてこういう記事もある。
最優先課題は選挙制度改革の争点化(http://agora-web.jp/archives/1166232.html)
では「抜本的な構造改革を求める勢力」の力だけで、政権をとらせることは不可能なのでしょうか?
この実現には2つの克服すべき障害があります。ひとつは一票の価値の格差です。抜本的な構造改革を求める勢力は都市部に多く、その票の価値は司法の場で違憲判決がでるほどに低いものです。
私はここで言われる「抜本的な構造改革」が何を意味するのかよく知らないし、望ましい改革なのかどうかも当然わからんし、どちらかと言えば気分的には何事も急進的に変化させるのはよろしくないと思うタチなのだが(笑)、都市部の票が今よりも重みを増すことで何かある有益な改革が実現するのだという主張は、理屈としては分かりやすい。
つまり、
「田舎もんと老人はしばらく黙ってろ!」
「お前らが黙ってた方がこの国は栄えるんだ!」
と言っているわけで、そういう実践的な主張なら理解はできるのだ。しかしそれが、「一人一票の実現」こそが「民主主義の根幹」に関わるんですみたいな、麗しげな平等主義の理念をまとって主張されると、とたんにピンとこなくなる。
一人一票の実現(http://agora-web.jp/archives/1186767.html)
しかし、そもそも「一人一人が平等に一票を持つ」という権利は、憲法上要請される重要な権利である。「2倍」「5倍」と表現すると、「まぁ自分は一票あるからいいか」と感じてしまうが、これは言い方を変えれば、「あの人は一票ですが、あなたは0.5票、0.2票しかありません」ということと同じである。
例えば、「男性は1票、女性は0.8票」ということだったら、大問題であろう。「現役世代は1票、老人は0.5票」でも。現状の一票の格差というのは、これと本質は変わらない。先の例が性別や年齢による差別であったならば、現在の一票の格差は住所による差別、なのである。
これこそまさに、「清き一票信仰」「清き一票原理主義」の発想である。多くの人が、何の違和感も無しにこの「重要な権利」という言葉を受け入れられるんだろうと思うけど、私としては、もともと「1票」なんて政治的影響力の絶対量で言えばゴミというかチリみたいな重みしか持っていないので、それを並べて2倍だ5倍だといっても意味をなさないと思うのである。
繰り返すが、平等性の主張、平等化の主張そのものに反対したいのではない。平等に近づくのはそれはそれで結構なことなのだが、そもそも「一票」にあんまりフォーカスしすぎた物言いは、民主政治の本質を見誤らせると思うのだ。
1月のエントリにも書いたとおり、民主政治で大事なのは「徒党を組む」という活動であり、あるいは「いざとなったら徒党を組んで政権を倒してやる」という活力であって、決して「一票を投じる」ことではない。
これらはきちんと区別されるべきだ。一票を投じただけで何か有効な政治的影響力を発揮できたと思うのは大いなる勘違いである。
民主的権利の意味ある行使というのは、説得によって人に影響を与え、たくさんの票を集めるという活動と、あるいは候補者や議員に働きかけて意見を変えさせるという活動の二つであって、自分自身の「投票」それ自体はほぼ無意味である。だから、組合や業界団体などの「組織票」というのは結構重要な仕組みだ。
投票者が100人ぐらいしかいない選挙なら一票の価値も大きいが、大規模投票ではその価値はほぼゼロだと認めなければならない。
普通選挙が施行された後は、「徒党を組む権利」こそが民主主義の根幹なので、私は「一人一票」なんかより「言論の自由」のほうがはるかに大事だと思っている。そして今は言論に関してはメチャクチャ自由な時代だと思うので、憲法が定める法の下の平等がどうのこうのとか、民主主義の根幹がどうのこうのといった議論をことさら重要だとは感じない。
また、「清き一票」にフォーカスしすぎるのには危ない面もある。それは、誰にも相談せずに一人で考えて、黙って一人で投票することが許されるということだ*2。A.トックヴィルを引用してもH.アーレントを引用しても良いんだが、中間組織が衰弱して個人が「アトム」としてバラバラに活動し、根無し草のように浮動し始めるところにじつは「全体主義」の可能性が生れるというのが、人類の歴史が示す教訓だ。これは政治学や政治思想における常識の一つである。極悪な独裁者が登場して全体主義が生まれるのではない。人々が、周りの人たちと一緒に何かをするというパワーを失うことで、逆に1人に権力が集中してしまうのだ。
炎上と同じで、もともと何のつながりもなかった群衆がふとしたきっかけで暴走することがあって、それが一番ヤバいのである。その意味では、民主政治を維持することが大事だとすれば、徒党を組むことや、きちんと徒党が組めるように訓練をしておくことは、権利であると同時に義務でもあるかも知れないのである。
徒党といえば、インターネットは使い方によっては人と人がつながりまくることを可能にする。
ソーシャルネットワークを始めとするウェブ上での意見交換のプラットフォームが、トックヴィルが大事だと言ったところの「中間組織」の役割を果たしつつあるのかもしれず、もしそうだとすれば日本の民主政治は良い方向に向かっているとも言える。しかし逆に、ネットで得られる程度の知識で小利口になって勘違いするよりも、目の前の候補者の人格を、その身振り話し振りから直観的に、庶民感覚で評価することのほうが本当は大事かも知れない。このへんは、まだよくわからない。
しかしいずれにしても、インターネットみたいな「人とつながりまくる道具」を手にしてしまった我々の世代が、「徒党を組む」ということについて「一人一票」なんかよりももっと良く考える必要はあると思う。