The Midnight Seminar

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セルバンテス『ドン・キホーテ』

 

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)


 学生時代に読んだ本が久しぶりに目にとまった。岩波文庫だと前篇(正編)が3冊、後編が3冊あり、私はなぜか前篇を永田寛定という人の旧訳、後編を牛島信明という人の新訳で読んでた。本文もだけど、挿絵も超おもしろかったな(笑)
 400年前のスペインの小説……だけど今だって読むに値する作品で、出てくるエピソードがいちいち面白い。人間は大して進歩してないってことだな。

 作品の解説はウィキペディアの「ドン・キホーテ」を参照。

○ かの郷士は騎士物語を、夜は暮れぬうちから明けきるまで、朝は白み渡らぬ頃から暗くなるまでも、見つづけた。それで、眠りが少なすぎ、読書が多すぎた結果、脳味噌をぱさぱさに乾かせて、ものごとの弁別を失うに至った。物語に出てくるあらゆるもの、幻術をはじめとして、鞘当、合戦、果し合、すごい深手、口舌、恋慕、難儀のいろいろ、荒唐無稽のかずかずによって空想がふくれあがり、頭のはたらきを占めつくしたから、読んでいるおそろしい夢そらごとの一切合切を、ほんとうにあったことと思いこんでしまった。(正編1、P.113)


○ 「それが女というものの本性じゃ」と、ドン・キホーテ。「慕いよる者をさげすみ、いやがる者を慕うのがな。それから、どうした、サンチョ?」(正編2、P.82)


 ⇒ そういえば昔、テレビである政治家が「ド・ゴールは、『権力とは女みたいなものだ。追えば逃げる、逃げれば追いかけてくる』と言った」と発言して、福島瑞穂から「ちょっとそれはひどいんじゃないですか」と突っ込まれていたが(笑)、出典は知らない。


○ カミーラは降伏した。とうとう降伏してしまった。しかし、ロターリオの友情ですら泥にまみれたのだから、当然なことではなかろうか。これこそ、恋の情熱に勝つのは逃げの一手だ、なんぴともかかる強敵と取っ組んではならない、人間の情熱の力をねじふせるには神の力がいるのだから、ということをわれわれに教える明々白々の実例だ。(正編3、P.51)


 ⇒ 青年ロターリオが、親友アンセルモの妻であるカミーラを口説き落とす場面。


○ 「恋に望みをとげさせる一ばんの家来が《機会》ですもの。恋は何をするにも《機会》を使いますけど、とりわけ、最初の手がかりを作らせますわ。」(正編3、P.59)


 ⇒ カミーラの使用人、レオネーラのセリフ。


○ 「文字の主張するところは、もし文字がなければ、武器は存在の意義を失うであろう、なんとなれば、戦争もまたその法規をもち、法規に服するものだからで、法規は文字及び学者なるもののつかさどりではないかというのじゃ。これに対して、武器は、法規こそ、武器がなければ、存在の意義を失うであろう、なんとなれば、武器あってはじめて、国家は防がれ、王土は保たれ、都市は守られ、街道は安全に、海路は海賊の難をのがれる、つまり、武器がなかったら、国家も王土もいかなる君主国も、都市も、海陸の交通路も、戦争がつづいてその権利と実力が行使を許されるあいだ、かならず巻きおこされる残酷と混乱におちいらざるをえぬからというのじゃ。」(正編3、P.127)


 ⇒ 文事と武事、文字と武器はいずれが尊いかについての、ドンキホーテの演説。(ドンキホーテは、武事の優位を主張。)


○ 「親方、わしは水の神ネプトゥースではないし、また自分が賢人でもないのに、人にそう思われようと努めるものでもない。わしはただ、遍歴の騎士道が栄華を誇っていた、あの幸福な時代を再興しようとせぬ今の世の錯誤を世の人に悟らせたいと腐心しておるだけでござるよ」(後編1、P.36)


 ⇒ドンキホーテが床屋と議論している場面。


○ 「だけど、まあ、なんでも書きたいことを勝手に書けばいいさ。《おいらは裸一貫で生まれて、今でも裸一貫、だから損もしなけりゃ得もしねぇ。》今じゃ本に書かれて、世間の人の手から手へと渡り歩いているみたいだけど、人になんと言われようとおいらは痛くもかゆくもありゃしねぇ」(後編1、P.135)


 ⇒ サンチョ・パンサのセリフ。ドン・キホーテ後編の作中では、前篇が、世間に出まわっている物語として言及されている。「裸一貫」の決めゼリフは他の個所でも出てくる。


○ ところで、そなたは御子息がスペイン語の詩をあまり評価なさらんと言われたが、だとすれば、御子息はいささか的外れというべきですな。その理由は以下のとおりでござる。かの偉大なホメロスはラテン語で書かなかったが、それは彼がギリシャ人だったからで、同様に、ウェルギリウスがギリシャ語で書かなかったのは、彼がローマ人だったからじゃ。つまり、古代の卓越した詩人たちはみな、母親の乳といっしょに吸収した言葉を使って書いたのであり、自分の高邁な思想を表現するのに、わざわざ外国の言葉を借りに出かけるようなことはしなかった。」(後編1、P.262)


 ⇒ドンキホーテの演説。


○ 「なぜなら拙者は、本当の勇気というものが、臆病と無鉄砲といった二つの極点をなす悪徳のあいだに位置する美徳であるということをよく心得ておるからでござる。しかし、勇敢な者が度を越して無鉄砲の領域に達するほうが、臆病の領域に落ちこんでしまうよりはましでござろう。ちょうど放蕩者が寛大な人間になるのは、守銭奴がそうなるより容易であるように、無鉄砲な男が真の勇者になるのは、臆病者が真の勇気にたどりつくよりはるかに容易ですからの。」


 ⇒ドンキホーテの演説。


○ 「静まりなされい、おのおの方、静まりなされい。恋愛によってもたらされた恥辱に対して復讐せんとするは道理に合いませぬぞ。恋愛と戦争は同じであることを考えなされ。つまり、戦いにおいて敵を打倒するためにさまざまな策を弄し計略を練るのは、広く行われておる正当なことであるのと同様、恋愛沙汰の葛藤においても、望むものを手に入れるために相手を欺くような奇計や策略を用いることは、それが愛する者の名誉をそこねるようなものでない限り、よしとして認められておるということでござる。」(後編1、P.363)


⇒ 恋愛を戦争にたとえる格言は、他にもよくありますね。(参考:〜恋の格言〜
  

○ 「よろしいかな、賢明なバシリオ、その名前は覚えておらぬが、ある賢人が、この世に心正しき女はただひとりしかいないと説いておりましたぞ。つまり、夫たる者は自分の妻こそ唯一の心正しき女だと見なし、信じるべきである、そうすれば満足して日々をおくれようからと忠告しているのじゃ。」(後編1、P.369)


○ 「お前のところのテレサはそんなに悪い女なのか、サンチョ?」と、ドン・キホーテが訊いた。
 「ひどく悪いってわけじゃねぇけど」と、サンチョが答えた、「それほど善くもねえ。少なくともおいらが望むほどじゃねえな。」
 「だがな、サンチョ」と、ドン・キホーテがひきとった、「自分の女房を悪く言うのは、あまり褒められたことではないぞ。なんと言っても、お前の子供たちの母親なのだからな。」
 「なあに、貸し借りなしのおあいこですよ」と、サンチョが答えた、「あいつだって、その気になると平気でおいらの悪口を言うんだから。とくにひどいのは焼餅をやいたときのやつで、あれを聞いた日にゃ魔王だって逃げ出すね。」(後編1、P.371)


○ 「たしかにおいらは豚番をしてました」と、サンチョがひきとった、「だけんど、それはおいらがまだ餓鬼の時分のことで、ちょっと大人になってから番をしたのは鵞鳥(がちょう)で豚じゃねえですよ。もっとも、おいらの考えじゃ、そんなこたあこのさい関係ありゃしねえ。だって、領主になる者がそろいもそろって王様の血おひいてるってわけでもねえんだから。」
 「それはそうじゃ」と、ドン・キホーテが応じた、「しかし、だからこそ、高貴な出自でない者は、おのれが占めている地位の厳(いかめ)しさに柔軟なやさしさを添えねばならぬ。しかも深い思慮に導かれたこのやさしさは、通常、いかなる地位にあってもまぬかれることのできぬ、悪意に満ちた陰口から人を救ってくれるものじゃ。そしてサンチョよ、おのれの卑しい家柄にも誇りをもつように。決して百姓の子であることを卑屈に思ってはならぬぞ。なぜかといえば、お前がそのことを恥に思っていないと分かれば、誰もお前に恥をかかせようとはしないからじゃ。……よいかサンチョ、お前が徳をおのれの行動の指針となし、徳義にそむかぬ行為を誇りとするならば、王侯貴族の血をひく者たちを羨む必要がどこにあろうか。血は代々受け継がれるものだが、徳は個人がみずから獲得するものであってみれば、徳はそれ自体において、血統のもちえない価値を秘めているのじゃ。」(後編2、P.290)


○ 「つねに厳格であっても、またつねに温和であってもならず、その両者のあいだの中道を選ばれたし。中道にこそ、英知があるからにて候。」(後編3、P.40)

 ⇒ ドン・キホーテからサンチョ・パンサへの手紙。