The Midnight Seminar

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スティーブン・ピンカー『人間の本性を考える 〜心は「空白の石版」か』

人間の本性を考える  ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)


 とりあえず上巻だけ読んだ。
 心理言語学者のスティーブン・ピンカーといえば、「言語生得説」の主張を論争的かつユーモラスな文体で軽快につづった、『言語を生みだす本能』がNHKブックスから出版されていて有名だ(生成文法理論のサワリに触れるぐらいなら、チョムスキーを読むよりは絶対おもしろいw)。
 人間が「文法」の規則をあやつる能力をいかにして獲得するのかについて、「後天的」に獲得する(つまり赤ちゃんが、たとえば両親の会話を聞いているうちに帰納的に規則を発見す)と考える立場と、「先天的」にその能力を持っている(つまり遺伝子によって規定される脳の構造のなかに、すでに文法の基本原理は組み込まれてい)と考える立場がある。
 後者は、言語学界の革命児ノーム・チョムスキーが創始した「生成文法理論」が採っている言語研究のアプローチで、ピンカーの研究も基本的には同じ流れに属している。「進化論」の扱い等をめぐって、ピンカーとチョムスキーは鋭く対立してもいるわけだけど。
 ちなみに、『言語を生み出す本能』もこの『人間の本性を考える』もともに、アメリカではベストセラー入りしている。


 さて、本書『人間の本性を考える』のテーマは、言語にかぎらず、人間の性格や能力がいかに広範囲にわたって遺伝的に、つまり先天的に決定されているかである。要するに本書におけるピンカーの戦いの舞台は、「『心』をつくるのは生まれか? 育ちか?」の論争だ。もちろんピンカー自身は、少なくとも論争上は、「生まれ」の重要性を強調する立場にいると言っていい。


 この上巻では、「生まれか? 育ちか?」論争の科学的な内容にも触れられているが、より強い力点が置かれているのは、その論争がしばしば「政治的」な動機によって、非科学的で不公正なものへと歪められてきたという事実の指摘である。


 人間の性格は、「遺伝(生まれ)」と「環境(育ち)」の両者の相互作用によって形作られる。常識的にはそう考えるべきであり、ピンカー自身もそう主張する。したがって論点は、「生まれ」と「育ち」の双方がどの程度の割合で作用してくるのか、またどのような作用の仕方をするのか、に絞られてくるはずだ。
 ところがアメリカの知識界では、「平等主義」的なイデオロギーが幅を利かせているせいで、この常識的見解が否定され続けてきたそうだ。「生まれながらの不平等」を認めたくないわけだ。


 「遺伝」によって決まる人間の性質を、ピンカーは「人間本性」と呼ぶ。そして「人間本性」の存在を認めない立場の代表例が、「ブランク・スレート(空白の石版)」仮説、つまり人間の心はがんらい「空白」で、生まれた時点では個体間に何の差異もないという考え方である。(そのほか、「人間本性」を否定する立場には、「高貴な野蛮人」、「機械の中の幽霊」といったバリエーションがあるらしい。)
 遺伝子の研究や、認知科学、脳神経科学の発達によって、人間の心が「ブランク・スレート」の状態で生まれてくるのではないということは、すでに当たり前の認識となってきた。何らかのかたちで「人間本性」が存在することは認めざるを得ないのだ。
 しかしながらアメリカでは、つい最近まで、科学者が「人間本性」の存在を少しでも認める主張をすると、たとえば「人種差別主義者」といったレッテルを貼られて、社会的に断罪されるという事態が頻発していたという。
 ピンカーは膨大な量の文献を引用して、「人間本性」説を攻撃する「ブランク・スレート」論者たちが、いかにアンフェアなやり方で、心ある科学者たちに不当な攻撃を仕掛けてきたかを明らかにしている。


 本書(上巻)からは、アメリカのアカデミズムやジャーナリズムが、少なくとも特定の分野では、「自由」でも「公正」でもないのだということがよくつたわってくるw。アカデミックな実証研究が社会的・政治的なイデオロギーによって歪曲されるという事態は、「自由の国」アメリカにおいてすら日常茶飯事ということか。
 もちろん「自由」であればいいというわけではないし、科学哲学者のT.クーンが「パラダイム」という言葉で説明したように、自然科学の研究とて、その基本的な前提や枠組みは、ある種の「社会心理」によって規定されているのが普通ではある。
 しかし本書のなかでピンカーが告発しているのは、そんな生易しい社会心理の支配などではなく、ほとんど暴力的というべき卑劣な研究妨害活動だ。
 興味がある人は、この上巻の6・7章に事例がたくさん挙げられているので、読んでみるといい。